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2005年01月31日
冬の家
夢をみていたのだが肝心の部分がなかなか思い出せない。
ある晩。
それは冬の夜であった。
家に帰るといまの家の前の家である。
小山の山頂にその部屋はあった。
PCを使った仕事が残っていたので仕事を続けなければ。そう思って布団に横になる。枕元に「グレースドーナツ」の箱があった。 こんなものを買った覚えはない。不審に思いながらも日付をチェックすると賞味期限は「0526」と書かれている。
ミスタードーナツのマークが描かれた箱はひしゃげており、中には10個くらいのドーナツがはいっている。 ビニールの包装につつまれている。
どうしたものか。
母の帰宅を知らせるビーコンが点滅した。
母は数時間前に一度帰宅していたようだ。
僕は気づかずに作業を続けていたと妹がいう。
TV画面にドラマが映し出されていた。
観る義理もないだろう。
チャンネルを変えようとダイヤルを回すと感触が軽い。
どうやらUHFにあわせてある場合は一度おくに押しながらチャンネルを回す必要があるようだった。
「変えないでよ」
と妹がブツブツいっている。
と、このあたりの情景はじつはどうでもいい。
問題は僕がやっていた作業だ。
言葉に関係ある探索をしていたようなのだがどうしても思い出せない。
夢について記憶を辿っていくとこういうことがしばしば起こる。
何かをしていたのだがそれが何だったのかが思い出せないのだ。
夢の中の現象や行動にはそれとは異なる意味がリンクされていることが多い。
それが記憶を巻き戻すのを困難にしている原因ではないかと思う。
感情に強く結びついた事柄については容易に思い出せるのだが理性的な思考のリコールはどうも苦手だ。
投稿者 TKM : 10:00 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月29日
今宵は危険なサッカー
「いやー、昨夜は飲りすぎた…。今日よろしく」
と本日一発目のSkypeコール。
というわけで本日、夕方はモロイキャプテン率いるサッカー軍に参加である。
相手は20代前半の衆議院警備隊サッカー部とのこと。
モロイチームはキャプテンの号令でもとJリーガーの方が数名投入予定であるがなにせ他がオレらなので大丈夫なのだろうか?
自らに二日酔いのハンデを課してまで試合を盛り上げようとするモロイキャプテンのやる気をくみとらねばなるまい。さて、いってくるか。
投稿者 TKM : 14:25 | コメント (0) | トラックバック
アソブ研@ガンダムミュージアム
とうとう公開です。
ガンダムファンならばぜひとも一度はいくべき場所ですね。
ここではフルCGの新作ガンダムが公開されてるのですがこれをみると宇宙での戦闘のイメージがかわります。 アニメだとのったりと動いてますが戦艦の動きはこのくらい速いと思うのですよ実際は。
映像はMr.インクレディブルなどとは違ってゲームのCGの発展系のイメージでリアルです。
ファイナルファンタジー・ムービーはゲームにおいつかれてしまった感があって痛いできでしたがこれは結構みせます。
キャラ設定も定番系だけれどなかなかだし、何せ戦闘のスピード感が全然違うんですよね。
というわけでアソブラボの本編の方が前半部分だけなのでこちらの解説もこのあたりで。
本編をお楽しみください。
投稿者 TKM : 10:21 | コメント (2) | トラックバック
桜と難解なアイスクリーム
実家に戻ると小学校時代の同級生が待っていた。
「やあ。憲諌の放棄が正式に決まったらしいよ。いま戻ると鹿児島ではあれを歌うんだ」
「諌言?それどういう意味。歌うって同期の桜?」
「いや違う。正確には法律がそういう方向に向かっているということでこれからは子供の発言が制限されていくみたいだ。軍艦マーチだよ」
彼は子供の頃から早熟であったのだが大人になってもいまだ早熟な話し方が抜けない。難しい言葉を使うのが好きだ。 典型的な擬態性難解症である。
家の向かいにある小山から男性が二人でてきてうちの門の所で談笑している。手には缶コーヒーを持っている。 それを塀の上において二人は立ち話をしている。男性は何かをあけた。ビニールが宙に舞った。
街を歩いているとビニールを足下に捨てる人々をよく目にする。
一時もはやくビニールを手放さなければというあせりなのだろうか。
むしり取るようにビニールの包装をほどき手早く宙に放る。
そうしないと何か不都合があるのだろうか。
タバコでもパンでも包装してあるビニールはなんのためらいもなく地面に放られる。
自動的に気化する包装を開発することが急務だ。
よくみれば町中にはうち捨てられた空き缶とビニールが散乱している。
どんなに綺麗に整えられた区画でも少し影にはいるとそうした風景は珍しくない。 六本木ヒルズは掃除係の人々がいるから表向きは綺麗に整えられている。しかし、かげにある自転車置き場は様子が違う。 その雰囲気は人の内面を語っているかのようで情景はまるで「呪怨」にでてくる荒れ果てた民家である。
家の前にいる二人もそうした振る舞いをするのであろうか。
空き缶を捨て置いて歩み去っては欲しくないのだが。
二人を見つめていると彼らもその視線に気づいたのだろう。
何事かを話している。
「自由が禁じられていく傾向が一般化してくるのは嬉しくないものだね。そういえば君はそういう方向の話が得意だ。 論文を書いたらいいじゃないか」
友人に話しかける。
「そうだね。これから少しやってみるよ」
駅まで歩いていくことにした。
振り返ると門のところにたむろしていた二人は缶を持って立ち去る所だった。
路面には先週降った雪が固まっていた。
郵便局の前を通る当たりで彼が歌の話をした。
「長崎ではさ。明治が生きているからいつもこの歌を歌わせられるんだ」
そういって彼は歌を口ずさんだ。
「そうか。慶應とは少し違うんだね」
大学の違いにかかわらず九州との関わりにおいてはある歌を歌うことが一般的であった。 だから僕は別な歌をイメージしていたのだが彼が歌ったのは違う歌であった。
彼の家は駅前にあった。別れの挨拶をして駅に向かった。駅前には店が三軒ならんでいる。ひとつは果物、もうひとつは魚と果物、 もうひとつが魚と果物と蕎麦。蕎麦でも食べようかな。棚にあった蕎麦とカップ麺と油揚げを買った。
「電車がそろそろきますよ」
駅からアナウンスがきこえた。駅につくと向こう側のホームにいくように言われた。 15分の電車に乗ればいいのだけれど走らなければならないようなので19分の電車に乗ることにした。そうだ指定席を買ってあるのだ。
「15分の電車にのらなきゃ」
そういっておばさんたちが走っていった。
陸橋をわたって17分頃に向こう側のホームについた。
こちら側のホームには巨大なスーパーマーケットが併設されている。
いつもはここでアイスクリームを買っていくのだが今日は間に合いそうにない。
売り子のおじさんが
「アイスあるよ」
とシュガーコーンに盛られたアイスクリームを売っていた。ヨーロピアンスタイルなのはこの地方の特色であろう。 電車がホームにはいってきた。今日は4号車だ。二両編成の小さな特急である。車体はグリーン。側面にベージュのラインが入っている。
室内に入ると一列に10席ほどの座席がならんでいる。僕の席は
「K-1」
であった。後ろにジャージにパンチパーマの人たちが並んでいる。
彼らはP列だ。
電車が動きだした。
友人は論文を書き始めただろうか。
彼がいっていた難解な名称ではじまる法案の名前と歌の名前がどうしても思い出せなかった。
投稿者 TKM : 09:16 | コメント (0) | トラックバック
最近
勘違いされることが多い。
人当たりがよくなってきたせいか「いい人」にみられがちだ。
しかしそれは間違いだ。
「気持ち」がベースにない人間に対しては極めて不愉快な人間である。
露骨に態度が変わるからである。
誰に対しても同じ態度で接するというのはいまの自分には不可能なことだ。
攻撃的な相手には攻撃的にならざるえないし、つまらない相手にはつまらない態度をとってしまう。
適当にあしらわれればムカつくこともある。
それでも順々にいろいろなことがまきおこるのでその場その場の感情が一瞬で別なものに変わっていくから何にも気にしていないように見えるだけだ。
悪い癖だが懐柔やら上手くあしらうみたいなのはあまり得意じゃない。
なのでなかなか楽しい展開になってきた。
ようやくという感じだ。
投稿者 TKM : 04:04 | コメント (2) | トラックバック
2005年01月28日
プレゼンな映画と意味を隠す映画 ~帰りの電車での雑感より~
久しぶりに代々木界隈を歩く。
紀伊国屋などいってみた。
代々木のフレッシュネスバーガーでメモをしていたら警備員のおじさんが二人こちらをみつめていた。 植え込みになにやらあるらしいがここからはわからない。帰りの電車で思索していると電話が鳴った。
共時性か。
さっきのメモを思い出す。
時間についてのメモであった。
「いまという過ぎていくこの時間は誰にとっても同じ時間なんだよな」
あたりまえのこと、であるわけだが、その意味はよくわかっていない。
心臓の鼓動のスピードが子供と老人とでは随分違うらしく、それによって体感時間が違うのだ、という話をどこかで読んだ。
でもさっき浮かんだのはそれとはちょっと違っていて時間は流れているわけじゃなくココという一点にあるみたいなイメージだった。 うまく言えないのだが。
外を歩いている人たちも自分も同じ時間の点を共有していて、「あの人はこうだ」とか「この人はこんなで」 という違いはあれど同じ時間にいるという共通点の方がそんなものよりも遙かに大きいように思えてきたのであった。
この時間にいる人たちってパラレルな自分ではないのか。
あなたが感じてる時間と僕が感じてる時間は違うんだろうけれど、それでも我々は同じ時にいる。それってどういうことなのかな。
電車は大門を抜け、月島に向かってゴーっという音に包まれて疾走していく。
ひとつの音もそこから何を感じるかは人によって全然違う。
それは文脈によるものなのだろう。
文脈超えってあるのだろうか。
あるのかなやっぱり。
そういうのを言葉で表すには本来の使い方では難しい。
言葉の連なりの裏にできていくパターンを使うのだろう。
いい映画はプレゼンの対極にあるように思う。(何がいい映画かは人によってちがうのだけれど、
より深く自己に入り込んでくるようなものとしておく)
伝えないことで伝えるというやり方でしか伝わらない質感。
それを伝えるには逆説的だけれど意味は隠される必要がある。
そういうカタチでプレゼンをおこなったら笑えるだろうな。
「???」
が並ぶんだろうけれどわかる人にはわかるだろうし、伝わるのだろう。
こういうのは恋愛と似ているのかもしれない。
愛情表現の言葉って具体的じゃないし、そもそも、あんまり言葉がない。
理路整然と演説して惚れ合う男女が描かれてるのはハリウッド映画くらいだろう。
投稿者 TKM : 21:41 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月27日
ドラえもん最終回

最近ネットで話題の「ドラえもん最終回」 を昨夜とうとう読了した。
読了と言うよりは「見た」といった方が正確だが。
作品はFLASHをつかったプリミティブな表現によるものだが十分に読ませる。
こうした表現をみているとデザインデザインしたFLASHの使われ方は受注生産によって対価を稼ぐといった用途においては有効だがユーザが
「楽しむ」ためのコンテンツとして考えるとアクションスクリプトなどによる仕掛けはそれほど重要ではないのだろうな、と思う。
(効果的に使うならばコンテンツをより面白くするために役立つのだろうけれど最近のFLASHコンテンツの傾向としてテクニックにはしりがちでおおもとであるストーリーのつくりがおろそかになっているケースが多い)
上記の「ドラえもん最終回」などその好例ではないだろうか。
一般的なFLASHサイトで用いられるようなテクニックは全くつかわれていない。
単にタイムラインにそって音とキャストをならべただけのごくごく簡単なつくりになっている。
にもかかわらずこのコンテンツは文句なしに「面白い」。
ストーリーとして読んでも面白いし、映像とのリンクのされ方も悪くない。
これだけシンプルでも十分に面白いのだからパワーポイントだって使い方によっては素晴らしい作品をつくることができるではないかと思えてくる。
こうした作品を体験した後は小説は圧倒的に不利な立場にいるなあ、と毎度ながら思う。
紙の上に固定されたテキストを読むときと画面の上の文字を読む時では脳が違う動きをしている。
全く同じ内容のテキストでもそこにモーションがつけば脳は別な印象として受け取る。
そう、そういう遊び方があってもいいのだ。
青空文庫をラボで作品化していくというのも面白いかもしれないな。
補足:実際の最終回は下記
http://www17.big.or.jp/~yonenet/fujiko2/saisyu/dora1.html
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投稿者 TKM : 07:07 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月26日
地球の声と感情漂流
今日はメモ代わりの雑記です。
■ある外国人の笑顔とある打ち合わせについて
数日前、近くのレンタルビデオ店にいった。
その店はバイク屋の二階にあるのだが階段を登って店の自動ドアをくぐり抜けるとロシアっぽい帽子をかぶった外国人の男性が店をでてくるところだった。40歳くらい。「レナードの朝」に出てくる先生(右側)に似ていた。
黒いレザーのコートをきた彼は優しそうに微笑んで先に通してくれた。
その表情は自然だった。
考えてつくられたものではなく彼のもつ素地がそうさせたのだと思う。
何かこの世界のものすごくたくさんの情報をいっかしょに集められ折りたたまれたような印象をうけた。
いまどきこんないい表情ができる人にはそうそうお会いできない。
他に僕が知っているのはダライ・ラマのナイススマイリングくらいだ。
なのでその日はそれだけでうれしくなった。
これはまた別の日のこと。
ある外国人と話をした。
雰囲気の問題なのだろうけれど裁判で尋問されているかのような印象をうけた。
自分にとってリラックスとはほど遠い雰囲気であった。
今日で一日が終わるとしたらこの人と過ごしたいだろうか?
迷わずNOだ。
しかしその人が本当はどんな人なのかを僕が知らないだけでその場の印象からそう感じているに過ぎない、のかもしれない。いまはフレンドリーでなくとも何年かしたら世界的な慈善家になる人なのかもしれないし、さっき食べた昼食があわなかったとか、親知らずが痛いとかそういうことなのかもしれない。あるいはトイレにいきたいだけだとか。
人と人の間というのは無限に近い相互作用の結果でできていて
「あの人はこんな人」
みたいな思考は正しくないのかもしれない。が、人に接した時に自分が感じる何かは確かに何かしらの方向性を示していて、それは人の行動や意思決定、コミュニケーション、モチベーション、気持ちに大きな影響を与えている。(それが人の限界をつくっているように思うこともしばしばあるが)
これはどういうことなのだろう。
おきてからしばし考えた。
■仕事にとって大切なこと、自分の場合
仕事について「自分の好きなことをしろ」であるとか「わくわくすることをやれ」というような言い方が一般的だし、そう思われがちだが僕の場合、それは大して重要ではないようだ。
人によって異なるのだろうけれど僕の場合、仕事において一番重要なのは
「誰とやるか」
である。
■「綺麗事」とその周辺について
「それは綺麗事だよ」
という意見がある。
けれど
「綺麗事でいいじゃない、何でダメなの?」
と自分は思う。
綺麗事の方がベターであり、人にとってプラスであるならば綺麗事を一般化させていくことはこの世界にとってもプラスではないのだろうか。
そもそも「それは綺麗事だよ」という発言はどんな意味があるのだろう。
「そうはいうけれど現実は違う」
というのであれば何故現実が違っているのか。
何処が違っていてそれは何故なのだろう。
また、それを受け入れているのは何故なのか。
「こうした方がいい」あるいは「こうだったらいいのに」という想いがあるならそちらが本来あるべき姿だと僕は思う。
綺麗事という便利な言葉で問題を簡略化し、存在自体をぼやけさせてしまうことが問題なのだ。
解決不可能という封印をしてほったらかしにするよりは少しでも整理をはじめた方がいい。
問題というのは「出来ること」ではなく「出来ないこと」で問題化する。
ならばそれができない理由をつきつめ、整理していくことは無駄ではない。
そういうことを怠ってきたからいろんな問題が潜伏・反復増幅し、本来問題が属していたレイヤーから別なレイヤーに影響を及ぼすまでに巨大化してしまうのだ。
■不幸はつくりやすい?
幸福と不幸についてもちょろっと考えた。
生活していると「うまくいく」「うまくいかない」「幸せである」「幸せではない」「気分が良い」「気分が悪い」などといろいろな場面で感じたり思ったり、いったりしたりされたりするわけだが大まかにいって
「不幸」の方が「幸福」よりもつくりやすい傾向にある、のだろうか。ほとんどのケースで人は幸福を志向し、不幸に悩んでいるように見える。これは法則といってもいいくらい一般的でさえある。
また、調和よりも対立の方がつくりやすいようにも思う。
でも何故だろう?
アソブよりもケンカの方が楽なのだろうか。
しばらく目に手をあてて考えた。
30秒が経過して…。
「わかった!
人は不幸が好きなんだ!」
と唐突に閃いたのだが案外あたっているのではないか。
人の特性として閑には耐えられないようにできていて、幸福というのは案外「閑」な現象なのだ。地と図の理論だ。反対側がないと絵が浮かび上がってこない。
アポトーシスな現象として幸福を捉えなおすとそれが表現行為と類似しているようにみえる。表現というのは基本的に付加することではなく「削る」ことで表現として成立している。
不分節は虚無である。
芳醇や豊かさを生じさせるのは逆説的に地としての無が不可欠だ。
幸福や不幸というのもこれと同じ関係にあって双方は地と図の関係にあるのだ。幸福がそれとして認識されるためには不幸が必要となる。
無によって有は生じる。
そこに「ある」ならばどんなものにでもあてはまる。
音にしても無音があることでその差異が音と認識される、といえるだろうし。
しかし、
「じゃあ、自分が感じた幸福ってどんなんだっけ?」
と考えてみるとこうした話も根本が違っているような気がしてきた。
感覚は地と図という単純な構造によって生じるのではなく、ある関係性が常時そこには存在し振動している。それらは普段は個別に振る舞っているが時折パターンを描く。そこにあらわれる関係性パターンが感覚なのかな、と思ったのだが。
そうだ時間の要素が絡んでくるので地と図というスタティックなイメージだと捉えられないのだ。それ自体も常に変動しており、量子レベルでの確実な再現性がない、ということが理屈ではなく感覚的に入り込んできている。
記憶はスタティックではなくダイナミックな存在だ。
時間の影響をうけ薄れる、あるいは変動、振動している。
それを基盤に今の感覚やら気持ちが形成される。
系は互いに影響しあう。
分離されていない。
不幸があるから比較して幸福がある、というわけではなく、多分、そうした平面な紙のイメージはズレていて。
常時、波打っている空間みたいなのが感情でそれはパターンを描くときもあるし、丸まって振動してる時もある。感情とは超スローモーションで展開している線香花火をプロットして、突然浮かび上がった、文字を記録していったら物語ができた、みたいなものだ。
(そういえば「センソリウム」の「ブリージングアース」という作品もそんなだったっけ。センソリウムといえばあれのプランニングとかプロデュースをしてた竹村先生って竹村健一さんの息子さんだったことを最近知った。余談ついでに敬愛する石井先生を初めて知ったのも日曜の朝にやってた「竹村健一世相を斬る」だった。まさかその先生とアソブ研を通じて個人講義受けたりお話をするようになるとは学生時代も昨年くらいも全然予想できなかった。こういうのをビジュアライズしたらどんなカタチになるのだろう。ストレンジアトラクターのような形状なのかなと思うけれどそれにしたって固定的ではないだろう)
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投稿者 TKM : 13:33 | コメント (2) | トラックバック
2005年01月24日
スナック大人買い
仕事をしていたら急にバリバリと囓りたくなってスナックを買いに外に出た。
なつかしの品がコンビニでいろいろとならんでいる。
とりあえず「カットよっちゃん」と「うまい棒」と「ビスコ」あたりを攻めてみた。
最近はスティックタイプの「よっちゃん」も販売されているようでちょっと驚いた。
よっちゃん食品のサイトでラインナップを確認するといつのまにかこんなに商品が増えている。 基本的には美味しいというよりも脳の別の部分を刺激されている感のある微妙な味覚の商品群なのだが幼少の頃に刷り込まれた味の記憶は強固で口にすると過去が蘇ってくるから不思議だ。
この手のお菓子は小学校4年生くらいまではよく帰りに買って帰った。
5年生になる頃からは他の味を覚え始めたのでチロルに代表されるチープ路線に戻ることはなかったがそれでも嫌いではなかった。
よっちゃん食品と双璧をなすかのように必ずどの店にもおいてあったのが「うまい棒」である。これにもお世話になった。「うまい棒」 の大量買いは大人買いの醍醐味を味わうには最適といってよいだろう。 100本買っても1000円というリーズナブルな価格はお値段据え置きである。
この商品を開発した人はスゴイ。こんな商品が成立するのは何故なのだろう。
「うまい棒の秘密を探る」というような本があったら僕らの世代の結構な数の人が買うのではないだろうか。
企画するか。
「うまい棒」ついでに年末にNYのスナハラさんと話した時、カールのつくりかたの話になった。
「未来館にいったら、カールのつくり方の映像があったんですよ。他にもいろんなお菓子のつくりかたあったんですよ。 途中までしかみてないけど全部みたかったなー」
といっていた。カールのつくり方の解説などをきいていると自分もみてみたいと思った。 二人の共通見解としてできたてのカールはどんな味がするのだろう?という疑問があった。 果たして我々が食するカールとできたてほやほやのカールは異なる味覚なのであろうか。
パンだって焼きたてはかなりおいしいわけだからカールにもそれはあてはまるかもしれない。 パティシエがつくるお菓子とは全く異なる方向性で発展してきたチープ系のジャパニーズスナックにはメディアアートな空気さえ感じる。
それぞれのお菓子の製作工程には驚くべきテクノロジーやら叡智が集結されていたりする。
食品というよりもコンセプトは工業製品に近いのだろう。
一本1000円の「プレミアム・うまい棒」というものが販売されなならば1万本くらいは売れそうな気がするのは僕だけだろうか。 味だけでなく製作工程において情報的な価値が付加されるならばその程度のプレミアは十分ありだと思うのだがどうだろう。
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郷愁そのもの投稿者 TKM : 22:47 | コメント (3) | トラックバック
これはデスクトップ版パワーズオブテンだ! ~衛星からみた我が家~
なんとも強烈なソフトを発見した。これはPCの上で動くリアルタイムなパワーズオブテンである。
KEYHOLEというソフトである。
(一週間利用可能な試用版があるので是非ためして欲しい)
左記はこのソフトを使って我が家を表示させたスクリーンショットだ。
地球儀の画面からズームインしてこのくらいの解像度までアップさせていく過程はアニメーション処理されており驚くほどなめらかである。
このソフトを日常生活で何かに役立てたり、楽しく使うのはこれ単体では成り立たないだろう。 ポイントはやはりこうしたインターフェイスと情報のリンクである。
正直なところマップメタファーというのはカーナビ的な移動とリンクさせて使わない限り情報ナビゲーションシステムとしてはつまらないものだと思っていた。 しかし、これだけ高性能なインタラクティブ性を有するリアルな地図が使えるならば話はかわってくる。 動画情報とのリンクや各種リッチメディアとのリンクが可能になれば「旅」の要素がはいりこんでくる。
そうなのだリアルな世界をつかったRPG感覚の覚醒に期待が向かってしまうのである。 デスクトップトラベルの誕生の予感さえしてしまう。このソフトは結構、ショックな体験だ。 近年体験したソフトの中ではNo.1にインパクトを持っている。 これがネットワークとのインターフェイスとして機能したならばどうなるのだろう。
VRMLのように3D空間をリアルに向かわせる方向で用いるのではなく、 リアルな画像をプリミティブな3Dオブジェクトに反映させインターフェイスの滑らかさと単純さ、スピード感で利用者の「リアル」 を刺激していくというこの手法には恐れ入った。
世界には面白い人たちがいるものだとあらためて思った。
追伸:このKEYHOLEというソフトは昨年Google社に買収されました。参考記事は下記
http://pcweb.mycom.co.jp/news/2004/10/28/100.html
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投稿者 TKM : 18:52 | コメント (4) | トラックバック
由美かおるに似た先生と釣りにいく
ハゼ釣りの夢をみた。
衝撃的な釣りであった。
由美かおるばりに外観と実年齢があっていない女の先生と一緒に10人くらいで海にでかけた。 その車になぜそれだけの人数が乗れるのか不思議だったがジムニーと形状の似たくらすのジープである。色は紺色だ。
海に近づき、ポイントを探すようにたのまれた。
時刻は午後4時。
この時間からだと1時間~2時間くらいしかできないだろう。海岸には人が集っている。山手線状態で釣り糸が垂れている。
この様子ではここに10人からの人間が割り込むのは難しそうだ。
河口の方をみるとそちらのポイントはまだ空いているようだった。真田広之が忍者役をやっていた「戦国自衛隊」 のロケ地にもなった河口である。当時は対岸に松の木が垂れていたのだが現在は整備されその頃の面影は薄れている。 橋もできていてその下で数人が生き餌をつかった釣りをしているようだ。
手前の陣笠をかぶったおじさんにあたりがあった。
サダキチに
「なんだと思う?」
ときくと
「スズキじゃないかな」
という。みているとおじさんはタモ網を取り出して魚を取り込んでいる。みれば50cmくらいのスズキである。いい釣りだ。
「ではこのあたりでやりましょう」
先生にそう伝えて車に乗り込んだ。川沿いに車で進んでいくと途中でテトラポットのバリケードがあった。 そこで車をおりて仕掛けをセッティングすることにした。ヤマダが竿を2本セットしている。とりあえず一本だけやってみることにした。
黒のレザーケースからカーボンファイバーの竿を取り出した。竿にはリールがセットされており、よくみると仕掛けもついている。 中通しウキが7連になっている。22年前につかったハゼの仕掛けだ。その仕掛けは取り外し、既製品の3連のT字天秤に切り替える。 テグスを結びなおし、餌のゴカイをつけて投入する。
後ろを振り返るとトシの仕掛けに絡みそうだったので注意する。
投入しようとしたその瞬間に何故かリキんでしまい手前におちる。こんなことは滅多にないのだが頭上に橋があるため低くなげようとしたためだ。
巻き戻してもう一度こころみる。
竿はカーボンファイバーの為、やけに細い。けれど強靱である。手に仕掛けの重さが伝わってくる。
再投入すると丁度川の4分の1あたりに着水した。あとはアタリを待つ。
竿先には鈴がついている。魚がヒットすればこれが鳴る仕組みだ。
竿を下におこうとするが斜めになっているのでうまくおくことができない。そうこうしているうちに潮が満ちてきた。
「なんか満潮みたいだなちょっとあげておこうか」
そういって1mほど上の方に移動した。満ちてきた潮に引きづられ仕掛けが水底を転がっていく。それが竿先をゆらす。 魚の引きとはことなる竿先の動きである。
時間が近づいてきたのでちょっとあせりを感じる。
あと何分こうしていられるのだろう。
しばらくして水が段々と引いていった。
水も透明になっていく。魚はどこにいるのだろう。
見えた!
水底をハゼが泳いでいる。3匹、5匹、ハゼはその数を増やしていく。トシに声をかけた頃には水底がハゼでいっぱいだった。 餌のついた仕掛けをその集団に投入すると食いつくのが見えた。
それにあわあせて竿をあげる。引きがあってハゼが釣れた。案の定、針を飲み込んでいる。外す時に妙な生々しさがあってゾっとした。 現実よりも質感が強調されている。その後、4匹ほど釣ったところで異常に気づいた。水が少なくなってきているのだ。
それで魚が一カ所に集まってきている。餌をつけなおそうとすると
「ごめん、さっき房がけやちゃった」
とトシがいう。 房がけというのは餌のゴカイの頭部のみを針に通すつけかたで通常は一匹のゴカイを分けて3~5本の針で使うのだが房がけの場合は一本の針にやろうと思えば5引きくらいがつけられる。 そんな餌を好む魚がいるとも思えないし餌の消費が異常にはげしくなるので(5~10倍のペースで減っていく) やらないのだがそうした手法もあるにはある。で、トシは禁断の房がけをやってしまったらしいのだ。
「餌がないってじゃあどうする?」
というと
「これを使おう」
と先ほど釣った別の魚を指さす。これを短冊状に切って餌にしようというのだ。 確かに数度そうした試みはやったことがあったがなんだかその時はいやな感じがした。
「わかったじゃあ、そうしよう」
二人でワカシのような魚を三枚におろして短冊状に刻んだ。それを針につけて川に向かうともう水がなくなっていた。 水底には石畳が広がっている。
川ではなく干上がった池のようだ。水はどこにいったのだろう。下におりて水を探した。中州近くに石の屋根がみえる。
その手前に水が集まっていた。そこに魚がいるのだろうか。投入すると20cm位のハゼが釣れた。水の重みでみょうな質感がある。
おぞましいものを釣り上げてしまったのではないかという懸念がよぎった。本来、魚とはもっと美しいものなのだ。
それが集まった水の影響で別な性質をもった物体に変換されているようだ。
それでも釣り人の習性で魚をつりあげ針を外そうとしてしまう。ヤツは針を二本飲み込んでいた。全身に悪寒が走った。
体色が僕の知っているハゼとは異なる。これは黄色い泥である。ヤツの魚体は泥水に覆われていた。触ることを拒む自分の本能を感じた。
これには触れてはいけない。
このままでは。
川についていたシャワーを借りて表面についた水を洗い落とす。どうにか現実がかえってきた。
それでも妙なリアルさがあって触りたくなかった。我慢して針をはずす。感覚が曖昧でそれが相手なのか自分なのかがわからない。
感覚が入り交じってが入り組んでいる。
内部が壊れていくようだった。
トシに声をかけると
「そろそろ帰ろうか」
というので先生の所に帰った。
10匹くらいは釣れただろうか。
堤防に魚が並んでいた。
投稿者 TKM : 12:01 | コメント (0) | トラックバック
建築について ~新日曜美術館を見て~
久しぶりに新日曜美術館をみた。森美術館でやっている建築系の展覧会をベースにした現代建築についての特集であった。
まわりに建築関係の仕事をしている人が多いのに僕自身は建築についてはまったく知識がない。 好きか嫌いかは言えるだろうけれどそれがどんな文脈にあるからこうだ、みたいなことはわからない。
いつも新橋にいく途中で目にする奇妙な建物がカプセルマンションであることは知っていたが黒川紀章の作品だとは知らなかった。 内部の映像をはじめてみたが意外に普通であった。「あれ、これなら住めるじゃん」と言うのが素直な感想である。 毎日そこで暮らしたいとは思わないけれど一晩二晩泊まってみたいなとは思った。
感覚としては押し入れに秘密基地をつくりたがる子供の心理と似ている。穴蔵というのはなにかしら人を惹きつける要素を持っているのだ。
坂茂という建築家も初めて知った。紙を使った建築で有名な方のようだ。
検索してみたらSFCの先生であることがわかった。驚いたこんな人が教えているのか。
阪神淡路大震災発生時に紙をベースにした仮設住宅をつくった事例が紹介されていた。
が、僕が一番ショックをうけたのは「オープンなんとか」という模型である。 脱構築をコンセプトにつくられたものとのことだが創作プロセスが凄まじかった。目をつぶってデッサンを描き、 それをベースデザインにして実際の建築物して仕上げるというものだった。
「そんなのでいいのかよ?!」
と思ったができあがった模型はそれなりに興味深い造形にしあがっているのが不思議だった。 意識的にはつくることが難しそうな独自な形状をしており、美しいとは思わないが興味深いカタチだった。
アムステルダムだったかの建築家の設計プロセスも面白かった。 建築家が考えたものをデジタル化し設計図やCGにするときにコンピュータが使われるというのが建築における一般的なコンピュータの利用のされかたらしいのだが彼の場合は設計の段階からプログラム・ アルゴリズム的な要素を取り入れて建築物をプランニングしていく。
おそらくこうした手法には批判がついてまわるのだろう。
「手がきからやらなきゃダメなんだよ」
という建築家もいるし、実際にそういう修練をさせるケースも多いと思う。でも、 コンピュータの世界で考えてみると例えばネットワークのコア技術とかコンピュータの仕組みをどんなによく知っていてもネットビジネスで成功することとはあまり関係がない。 鉛筆でかくことへのこだわりや意味論というのはなんかそういうことと似てるように思った。
正しいとか正しくない、ということではなく、やり方というものは場合場合で違ってよいのだと思う。
建築というと建物をつくることとの関係性でしかみていなかったけれどネットワークサービスや組織のつくりかた、 仕事の組み立てなど構造と関連する物事や事象は建築の手法を用いることが有効そうにみえた。
それにビジネスだけれどあれもビジネスだからビジネスらしくというのはあまりにも四角い考え方で何も異化の手法を持ち込んでもいいわけだし、 生命システムを応用してもいいはずだ。またエンタングルメントを基盤にしたシステムというのもあっても面白い。
そういうことをパラパラと考えていたら意外になんでも自由なんだなとあたりまえのことに気がついてハっとした。
投稿者 TKM : 02:49 | コメント (5) | トラックバック
2005年01月23日
眠りのエネルギー
気が張っているとあまり眠らなくても眠くない。
逆にたくさん眠っても眠くて仕方ない時もある。
どうやら何時間眠ったから眠くないということではないらしい。
目覚めると外が静かである。
日曜日の空気だ。
この空気は好きだ。
何度も書いているが天候のすぐれない日曜日は明かに平日とは空気が異なる。
異様に静かで外国にでもきた気分になる。
こういう日が好きだ。
普段はこの国では人が動きすぎているのだ。
沖縄の友人と先日電話で話した。
結婚式の出し物の練習を連日遅くまでやっているといっていた。
彼と出会った日、
「何でそれほどまでに情熱を傾けて練習をするの?沖縄の人はもとからお祭好きだからそうするの?」
ときくと、
「違う。そうじゃない。気持ちだよ。相手に気持ちをおくりたいんだよ」
といった。
ホテルの近くの海で3人でオリオンビールを飲みながら夕食までの時間を過ごした。
沖縄Days1日目はそうやってはじまったのだった。
投稿者 TKM : 12:15 | コメント (0) | トラックバック
チューニング
感覚が鈍っている。理由はないがなんとなくそんな感じだ。
いや、理由はあるのだが明確ではない。
先週からガンダム(ファースト)を見直している。
四半世紀ぶりにみてみるとアニメというよりもテキストを読んでいるような気分になった。セリフがいちいち心情の吐露になっており、
それが映像の印象を薄くしている。
映像が言葉とリンクしているのだ。
と書いてみるがどうもモードが「オン」にならない。
自分にもこういう日があるのだ。
書くという作業はどこかこのあたりとかそのあたりにエネルギーがあってそれを取り込んでカタチにする、 みたいなことをやっているだけなのではないかと思うことがある。
クリエイティブな事象は創るというよりも 「やらなくて済むならばやらないでいたかったけれどどうしてもやらなければ生きていけないからやった」とか 「やらなきゃおかしくなりそうだからやった」という場合が多いように思う。悦びよりも苦々しさの方が理由としては妥当である場合もある。
うまくいえないがこの時空には「フロー(流れ)」があってそれを変換する作業が全般的にクリエイティブと呼ばれており、 その回路をひらく方法はたくさんあってどちら側からはいっても変換行為であることに変わりはない。 けれど僕らはそのプロセスに対して意味づけをおこなってしまう。アウトプットをプラスとマイナスに単純化していくことで理解しようとする。 結果、本質からは遠ざかっていく。
パワーというものは自分がその分野の素人であろうとプロでろうとそんなこととは無関係に相手に伝わってしまう特性を持もっていてどうごまかしても否応なしに伝わってしまう。 環境が感覚を鈍化させていてもどこかで分節化できない「ん?」という記号がはしっているはずだ。
経過する時間が記憶をぼやかすので感覚や意識は次の事象にチューニングされてしまう。
深部からくみ出された表現がもつエネルギーに触れると蘇ってくる感覚がある。
その感覚に触れることは僕にとって最も大切な時間であり、その時、 対峙する忘我的自己は自分の探しているあるモノへの入り口であろうと思う。
投稿者 TKM : 03:07 | コメント (2) | トラックバック
梅図かずおのバルタン星人
先日、松戸のバンダイミュージアムにいってきた。
メインは1/1サイズのガンダムの模型である。
シャアやアムロのコスプレなどもやってみたのだがこれはかなり面白かった。アソブ研の方で後日レポートがアップされる予定である。
左記はご存じバルタン星人だ。ガンダムミュージアムとは別にキャラ系のミュージアムも別の階に併設されており、 ウルトラマンや仮面ライダーなどの製作に使われた実物が展示されている。
さきほどデジカメの画像をみていたらなかなか綺麗に撮れていたのでアップすることにした。
バルタン星人をみると子供の頃に読んだ楳図かずおの「ウルトラマン」を思い出す。 20年以上たったいまでもはっきり覚えているくらいだから相当インパクトが強かったのだろう。 マンガの中ではバルタン星人がかなり重要な役割をになっておりウルトラマンの舞台を借りたホラー作品になっている。
これがべらぼうに面白い。主人公はどちらかというとウルトラマンではない。 敵の宇宙怪獣や生物が楳図テイストでまとめられており抜群の存在感なのだ。 バルタン星人の登場で印象的だったのは廃屋のような小学校のトイレに入ると隣でバルタン星人が用をたしている、みたいなシーンがあって、 妙なリアル感があって最高であった。 あとは何故だか隊員のひとりがヘルメットではなく風呂敷みたいなほっかぶりをしていてその絵もなかなかすごい。
確か誕生日に父がコマ(回すヤツ)のセットを買ってきてくれて。 それはそれで嬉しかったのだけれど子供の頃から本とかコンテンツ系が好きだったもので「本も欲しい!」 と交渉したら本屋につれていってくれて「ウルトラマン」(楳図かずお)を買ってくれたのであった。
ウルトラマン、しかも楳図かずお版。
よくもまあ選んだものだ。
調べてみたら楳図版ウルトラマンは現在1万円くらいのプレミア価格になっているらしい。 実家のどこかに眠っているとは思うのだが発見は難しいであろう。最近コンビニで廉価版が復刻されたようなのでもし見つけたら迷わず「買い」 である。コンテンツ選びのプロとして自信をもってお薦めする。決して時間の無駄にはさせない。
投稿者 TKM : 01:10 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月22日
24時間マラソンとしんのすけのセグウェイ
大広間には外国人を含む100人強が座っている。
「使えないヤツは国籍に関係なく使えない」
左斜め前に座っている坊主の白人がいちゃもんをつけてきたのでそれへの返答である。 スタート時間が迫っているからみんな気が立っているのだろう。これから24時間マラソンエベレスト杯である。
しんのすけの家は掃除がすすめられている。業者からは二人が掃除要員として派遣されている。 小学生を含む10人の子供達が臨時に集結を義務づけられていた。当初、 この競技は午後5時にスタートされる予定であったのだが掃除の進み具合とエントロピーの第二法則がぶつかってしまい拡散していく散らかり具合の方が掃除人のスピードよりもはやい。
「みんな、これから少しお話をします。いいですかきいてください」
としんのすけが話をはじめた。みんな話に集中している。
そもそもことの発端はこうだった。
銀座の中央通りを歩いていると正面から木の箱に乗った男が歩道を壁側に向かって進んでいた。
「なんだアイツ!」
思わず叫んでしまった。
みると目をつぶって眠った状態でしんのすけが箱にのってふらふらと壁に向かって歩を進めているのだった。
この絵がすさまじく面白く。
「しんのすけ寝てるよ!」
というと「ハッ」と我にかえったようで
「え、寝てないねてない。これからやるよ」
「やるって何を?」
「だからマラソン。これから市場にかい出しにいってそこでやるから。駐車場のところにアイスクリーム屋があるのでそこで集合。 よろしく」
そういって日本式のセグウェイに乗って彼は去っていった。
素晴らしい映像だったので撮影しなかったことを悔やんだ。彼が乗っていた木製の箱形の乗物には動力はなかった。
足で漕ぐにしても足が地面に接するポイントもない。不可思議な乗物だった。
駐車場に向かう途中で電気自動車の話になった。
「そんなものこんなところ走ってないだろう」
と言ったら後方から。
「今日、時間ある?」
とモロイさんが登場した。
「あ、大丈夫ですよ」
というと。
「あ、っそ。じゃあとりあえずいくか」
といって国会の周りの公園を走る専用のガソリン式電気自動車を借りてきてくれた。
「運転してみる?」
「え、いいんですか。では」
二人乗りの三輪車のような乗物で公園の歩道を走り始めた。ステアリングが激アマで。ちょっとハンドルを切るとふらふらする。
「替わる。オレやるわ」
そういってモロイさんと運転をかわった。後部座席に座ってモロイさんが運転をかわった理由がわかった。 後席は自転車の二人乗り状態になっておりやたらと狭いのである。190cmを越す長身のモロイさんではこれはきつそうだ。
「あのさ。歩道に溝があるじゃない。あれにはめると自動的に走るんだよ。やってみるか」
石畳の歩道には幅5cmくらいの溝がある。 どうやらこれが古代より続く誘導ラインになっているらしく操縦を代行してくれる仕組みである。
「よし、じゃあここでラインインしよう」
そういって直角のカーブのところでハンドルを溝にあわせようとするがスルーしてしまう。
「あれ、なんで入らないんですか?」
「いやー、あぶなく猫をやるところだったよ。寝てるだろうそこ」
ほんとだ直角に曲がった溝の中で黒猫が眠っている。ここではいっていたら後々ヤバイことになっていた。
途中、水をまいているおじさんがいたのであいさつをした。
「やあどうも。今日はひまわりが綺麗だねえ」
おじさんはそういってホースで水をまいていた。
そろそろ出発時間だろうか。アイスクリームを買って集合場所に向かわなければ。
投稿者 TKM : 13:50 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月21日
Googleの秘密
昨日、打ち合わせの後で本屋をのぞくとGoogleについて書かれた本が出ていた。
パラパラ読み進めるとGoogle社のサークルノリなスタイルが強調されていた。
(おやつが山積みで食べ放題のスナックルームとか社専属のマッサージサービス、毎週行われる映画ナイトの話など、
それらはもちろん会社のイベントである)こうなるとほとんどPR本であるが読んでしまうと好感を持ってしまう。
アマゾンの書評では評価は散々であったが新手の会社案内と思って読めば結構面白い。
そういえばGoogleを使わない日はないわけだがGoogle社がどんな会社なのかはほとんど知らない。 この本にもGoogleスタイルの経営の詳細についてはほとのど書かれていない。経営に関してはだいたいが推測である。 そうだGoogleの強みというのが「GFS」と呼ばれる独自のファイルシステムにあることを初めて知った。しかし、面白そうな会社である。
「最高の頭脳に最高の創造的環境」
というコンセプトらしいがこうした遊びなノリは自分たちも取り入れたい。
でも、素直にGoogleのようなオフィスの環境が日常化して欲しいものだと強く思う。学生の頃、 はじめて会社というものでアルバイトをした時は楽しくてしかたがなかった。というのは当時、 僕の上司であった新井さんが破天荒な人でほとんど遊びにいっているようなもので毎日がただただ新鮮だった。 その自分もいまは当時の新井さんと同じ年齢になっているというのがびっくり仰天ではあるが。
iモードの黎明期について書かれた「iモード事件」(松永真理)
でもiモード開発にあたってまずは「サロン」というか「たまり場」
をつくるところが肝であったと書かれていたが黎明期のノリは結構どこでもそんな感じなのだと思う。
Googleはあのノリを維持したままで世界企業になっているのだとしたらスゴイなあ。 近くにはGoogleで働いている人がいないのだがどんな様子なのか教えてもらいたい。
投稿者 TKM : 11:39 | コメント (1) | トラックバック
靴をひろう
ようやく集計の仕事が終わった。
なかなか長い戦いであったが今回は新しいやり方をマスターしたので得るところも大きい。
さて明日は石井先生と六本木ヒルズクラブで会合である。
ドコモモバイル社会研究所の方をご紹介いただくことになっている。
先日、東京海上研究所でのミーティングででた宿題もカネコが良い感じでまとめてくれたのでこちらの評価も楽しみだ。 スカイプ絡みで開発したカネコのデモはスカイプ社でもかなり好評なようで、ニコラス社長にも喜んでもらえたようだ。
このように開発のウケがいい時は素直に嬉しい。
ということは制作者のカネコも嬉しいはず、こうした「楽しい」
の連鎖でスパイラル状に開発が進んでいくと意図せずして様々なことがらがつながりあい、自己組織化されていくようでとても面白い。
さて昨日、自転車で東京駅に向かう途中、家の前の小学校の前を通ると道ばたにシューズが落ちていた。
「はて?」
と思いつつ近くまでいってみると格子戸状のフェンスの下から手が伸びてきた。 小学生が蹴飛ばしたシューズがフェンスを越えて外に飛び出してしまったらしい。3年生くらいの少年が必至に手をのばしている。
しかし、シューズまでは30cmくらい足りない。届かずに手をひっこめては「グゥー」っと手を伸ばしてという動作を続けている。
「おい、大丈夫だよ。取ってやるよ、ホラ」
とシューズを拾って柵の向こうに立つ少年に手渡すと集まっていた5人くらいの少年達から歓声がわき上がった。
「どうもありがとうございます!」
と少年の元気な声が続いた。
素直さがにじみでているような声であった。
言葉とはこういうふうに使われるべきものだ、と思った。
投稿者 TKM : 02:35 | コメント (1) | トラックバック
2005年01月19日
スカイプ社のビンセントさんを訪問 ~フットワークとリズム~
アソブログにも書いたが昨日、
スカイプ社のビンセントさんにお会いしてきた。
詳しくはアソブログにゆずるとしてビンセントさんは仕事のフットワークとリズム感が素晴らしくあっというまに世界中と話が進んでいく。ワールドワイドに様々な業界のスカイパーの方たちをご紹介していただくことになった。
カネコと二人で「この感覚は盗みたいねー」と話がはずむ。
オフィスの壁がホワイトボードになっていたのでカネコがさらさらっとビンセントさんの似顔絵を描いてきたのだが消してくるのを忘れた。 あそこにずっと残ったままだろうか。
今日はこれからアソブ研の取材で松戸へ。
その後、豊洲に移動して「対中・対北朝鮮外交・蹴球問題小委員会」である。
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投稿者 TKM : 11:57 | コメント (2) | トラックバック
2005年01月17日
ビルの中でからみあう世界と心のカタチは愛の嵐
ビルの螺旋階段を登っていく。
吹き抜け構造のビルである。
といってもフロア毎の床面積はそれほど大きくはない60㎡くらいだ。
上階への移動を確認してから振り返る。
外では車がまっている。
これからカネコと釣りにいく約束になっている。
路地が京都になっており、視界にひびがはいっていく。
地震が視覚的にみえているのである。
車で待機してくれるように父に頼んでビルへと移動する。
ビルの入り口で女性と待ち合わせをしていたのを思いだした。
屋上近くにある模型屋の入り口に腰掛け話をする。
別な世界のルールが人のカタチになったのが自分なのだ、と彼女はいう。
なるほどそうかもしれない。
二人の間に会話はない。
そういうスタイルの話し方なのだ。
沈黙が気まずいかどうかは二人の関係性による。
知らない同士のが沈黙を維持すれば気まずい沈黙となる場合もある。
この場合は別な種類の沈黙であった。
心地よさに身をゆだねていたら時間が来た。
海にでかける時間だ。
波はまだ高い。
彼女とのエンタングルペアを維持したまま外にでて車を呼ぶ。
川向こうの道に止まっているのが見える。
方向転換してこちらに向かってくれるようにもみえるし、待ちくたびれて出発しようとしているようにも見える。
おそらくその両方の可能性が同時に視覚化されているのだろう。
車は曖昧な意味を表現している。
海沿いの教室に移動するとゲンとキタというおじさん二人が議論していた。
トイレの構造についての議論であった。
曰く、オープンであることの意味はあるがそれは水の存在が前提になっているはずだ。とのことであった。
議論は白熱しており外野である自分が介入するには専門的すぎた。
ビルであった女性の事を思い出していた。
彼女の隣には自分もいる。
ここにいる自分と彼女と一緒にいる自分は同じ自分なのだろうか。
同じらしいということがなんとなくわかった。
というのも彼女もゲンさんもそこにいるようだったし、二人の間には会話があった。
会話の重要性を感じた。
会話は何も言葉のみをつかっておこなわれるわけではないのだ。
模型屋のドアの前に立ち、炎に包まれた箱・アタッシュケースを階下へ投げ捨てた。
階下では他の誰かがそれを目撃するだろうか。
上階へと向かう僕たちを人々はフィルターごしにみているはずだ。
彼らの視点もまた同時にその場に存在したし、僕には彼らがつくりだす拘束された意味の存在が感じられた。
これが世界の一部なのだろう。
彼女と階段を登っていくと螺旋階段に橋がかかっていた。
橋をわたるとビルは沈黙に包まれた。
橋の向こうは地上につながっていた。
ドアをあけ、空を見上げた。
ビルの脇の路地に僕たちは座っていた。
父の車で釣りに出かけなければ。
彼女を連れて車の方に歩き出した。
投稿者 TKM : 13:09 | コメント (0) | トラックバック
プリンの思い出
幼稚園に行っていた頃、カゼで幼稚園を休んだ日があって、おばあちゃんの家で寝ていた。
昼ご飯を食べたくなくて
「甘いモノが食べたい。プリンがいい」
といったら
「タマゴはいいけれどカラメルだめなんじゃないかい?」
と民間療法的に断言をされ、カラメル部分を排除したプリンを食べさせられた。 いま考えれば丸ごと食べてもカラメルを除いても違いなんてなかったのだろうけれど、その時はわからないから
「へー、そういうものなんだ。勉強になるなあ」
と納得し、薬でも飲むかのように真剣にプリンを食べた。
さっき
グリコの新商品のプリンを食べたらそんなことを思い出した。
++++++
友人でプリンの専門家がいます。
山野上君といってプリンの総合サイトをやってます。
人あたりの優しいナイスガイです。
オレも彼の紹介でTVチャンピオンのシュークリーム対決の審査員をやりました。
■いいなプリンワールド「1日1プリン」
http://iina.com/
投稿者 TKM : 00:45 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月16日
ねんどで天狗
昨日は日経新聞で記者をしている同級生の家に遊びにいった。
2歳の娘さんとの対話が面白くてずっと遊んでいたら彼女が「みどりー、あかー、ねんどー」と粘土を取り出してきた。
カップに入った粘土を手渡され、無意識に天狗をつくってしまった。
粘土に触れるのは、6年前に陶芸をやっていらいである。
やってみるといまの粘土はなかなかよくできていて、べっとり感が少ない。
またカラーが鮮やかで面白い。
彼女とは昨年に会ってから数ヶ月しかたっていない。
それなのにしっかり成長が認識できるのがすごく不思議だった。
特に言葉の習得スピードが驚異的で子供の脳はどんな風に世界をみているんだろうと興味はつきなかった。
総じてそうだけれどいい母親と父親に育てられている子供は感情が豊かで一緒にいるとひきこまれるね。
投稿者 TKM : 19:09 | コメント (0) | トラックバック
国会潜入
モロイさんの案内で国会にいってきた。
写真は参院の会議場である。
国会内部に足を踏み入れたのは今回が初めてである。
新築される前の交詢社とそっくりな雰囲気であった。
交詢社は福沢諭吉によって日本で最初につくられた倶楽部だ。
当時は議論の場であったのだろうか。
いまは老人の社交場である。
衆院の会議場と違って参院の会議場には天皇が座る「お席」というものが上段に存在する。議長席かれみて最後方、 僕が立っている場所の左手にも皇族用の観覧席がある。しかしこの席が使われたことはない。
国会議事堂の地下では参院・衆院が長大な地下道でつながっている。衆院に入るパスと参院に入るパスは別口になっており、 両方を訪問するには二つの種類のパスが必要になる。システム的な問題なのだろうか。
議事堂の地下には「加治隆介の議」に出てくる寿司屋やそば屋がはいっている食堂街がある。 その近くには地方の土産物屋をさらにレトロにした雰囲気の売店が並んでいる。 国会グッズや背広などが販売されているのだがどの店も雑然としている。
国会界隈を歩いていると独特の雰囲気があることに気づく。
丸の内とも違うし日比谷とも異なる。
官庁系の箱なイメージとも違う。
感覚的な言い方になってしまうがあそこは
「昭和を引きずっている場所」
だと思った。何もかもが昭和のテイストでまとめあげられている。
そのため時間が固定されているような印象をうけるのだろう。
国会議事堂や会議場も映像として知っているのと実際に足を運んで空気を感じるのとでは随分、印象が違う。
ニュースやテキストをもとに政治を論じるのもいいが、その前に一度、政治の現場である議事堂や会議場を訪問してみてはどうだろうか。
印象がだいぶ変わるはずだ。
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投稿者 TKM : 12:08 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月14日
感動とか
どういう時に感動するのか時々かんがえる。
時間や宇宙や自然をリアルに感じる時、例えば、みたことがない色の空をみたときであるとか。
海であるとか。
そういうものに接した時にそれを誰かとわかちたいと強く思う。
どうしてもそれをひとりで体験していたくなくて、誰かに伝えたいと感じる。
その時にパっと思い浮かぶ人。
その人を大切にしなければならない。
人の優しさに触れた時にも同じように涙することがある。
同じ風景や日常が突然、それがとてつもなく幸せな時間であると「気づく」
瞬間があってそういう時間も感動する。
時々、起こるのだけれどあれはなんなのだろう。
仮にの話だがあれと同じ感覚が毎日起きるならばその人の人生はこの上なく幸せである。
おそらく幸せというのは外的な要因に左右されるものではない。
自分との関係性によって生じる感覚なのだ。
投稿者 TKM : 07:09 | コメント (2) | トラックバック
杉田かおるさん@月島で飲み
何年か前にバシ師匠と僕とアラサンダーと杉田さん姉妹とで月島に飲みにいった。
確かクリスマスの晩だったと思う。
随分盛り上がっていろいろな話をした。
髪が濡れているように見えたので
「どうしたの?」
ときくと
「なんか久しぶりにきたので楽しくなってさっき、月島の銭湯いっちゃったのよ」
「へー、銭湯ってあの月島温泉?」
「そうそうあそこ」
月島温泉というのは西仲商店街の真ん中あたりにあった瓦屋根の「ザ・銭湯」という感じの雰囲気のある銭湯である
(いまは改築されビルになっている)。
杉田さんが子役で出演していたTV番組のロケ地が月島だったそうで彼女は月島に詳しかった。
佃の三角公園のあたりで撮影をしていたそうだ。
その杉田さんが結婚とのニュースが昨日ながれていた。
そうか、あの人も結婚か。
よかったなあ、と素直に思った。
そういえば杉田さんの妹さんも面白い人であった。
杉田さんに「すっごい好みなんです」と言われて調子にのったナガエ氏(PR会社社長をしている友人)は
「オレは断然、妹の方が好みだ」
などとトークが爆発してご満悦であったのを思い出した。
バシ師匠と連名でメールでも送っておこう。
投稿者 TKM : 04:32 | コメント (1) | トラックバック
岸壁からダイブ ~久々に面白い夢をみた~
昨日はモロイさんの案内で国会にいってきた。
その詳細は後ほど。
まずは夢日記から。
釈由美子と車に乗っていた。
我々はプロジェクトの罰ゲームに参加しているようで港の岸壁の30m後方にいた。罰ゲームの要領はこうだ。
まず車で岸壁まで全速で加速する。
岸壁を飛び越えて海にダイブし、沈むまでに脱出する。
岸壁には黒と黄色のボーダーのコンクリのブロックがおいてある。
その隙間から車で飛び込むことになる。
とりあえず距離を確認したかったのでバックして方向をかえ、岸壁の近くまで車を走らせる。
岸壁近くに寄せて、運転席から外海をのぞくと下にはテトラポットがある。
高さは5mくらいであろう。
正直な感想としては「ヤバイ」と思った。
洒落なっていない。



懐かしい・・?



航空写真IIとW3の導入
