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2005年01月31日
冬の家
夢をみていたのだが肝心の部分がなかなか思い出せない。
ある晩。
それは冬の夜であった。
家に帰るといまの家の前の家である。
小山の山頂にその部屋はあった。
PCを使った仕事が残っていたので仕事を続けなければ。そう思って布団に横になる。枕元に「グレースドーナツ」の箱があった。 こんなものを買った覚えはない。不審に思いながらも日付をチェックすると賞味期限は「0526」と書かれている。
ミスタードーナツのマークが描かれた箱はひしゃげており、中には10個くらいのドーナツがはいっている。 ビニールの包装につつまれている。
どうしたものか。
母の帰宅を知らせるビーコンが点滅した。
母は数時間前に一度帰宅していたようだ。
僕は気づかずに作業を続けていたと妹がいう。
TV画面にドラマが映し出されていた。
観る義理もないだろう。
チャンネルを変えようとダイヤルを回すと感触が軽い。
どうやらUHFにあわせてある場合は一度おくに押しながらチャンネルを回す必要があるようだった。
「変えないでよ」
と妹がブツブツいっている。
と、このあたりの情景はじつはどうでもいい。
問題は僕がやっていた作業だ。
言葉に関係ある探索をしていたようなのだがどうしても思い出せない。
夢について記憶を辿っていくとこういうことがしばしば起こる。
何かをしていたのだがそれが何だったのかが思い出せないのだ。
夢の中の現象や行動にはそれとは異なる意味がリンクされていることが多い。
それが記憶を巻き戻すのを困難にしている原因ではないかと思う。
感情に強く結びついた事柄については容易に思い出せるのだが理性的な思考のリコールはどうも苦手だ。
投稿者 TKM : 10:00 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月29日
今宵は危険なサッカー
「いやー、昨夜は飲りすぎた…。今日よろしく」
と本日一発目のSkypeコール。
というわけで本日、夕方はモロイキャプテン率いるサッカー軍に参加である。
相手は20代前半の衆議院警備隊サッカー部とのこと。
モロイチームはキャプテンの号令でもとJリーガーの方が数名投入予定であるがなにせ他がオレらなので大丈夫なのだろうか?
自らに二日酔いのハンデを課してまで試合を盛り上げようとするモロイキャプテンのやる気をくみとらねばなるまい。さて、いってくるか。
投稿者 TKM : 14:25 | コメント (0) | トラックバック
アソブ研@ガンダムミュージアム
とうとう公開です。
ガンダムファンならばぜひとも一度はいくべき場所ですね。
ここではフルCGの新作ガンダムが公開されてるのですがこれをみると宇宙での戦闘のイメージがかわります。 アニメだとのったりと動いてますが戦艦の動きはこのくらい速いと思うのですよ実際は。
映像はMr.インクレディブルなどとは違ってゲームのCGの発展系のイメージでリアルです。
ファイナルファンタジー・ムービーはゲームにおいつかれてしまった感があって痛いできでしたがこれは結構みせます。
キャラ設定も定番系だけれどなかなかだし、何せ戦闘のスピード感が全然違うんですよね。
というわけでアソブラボの本編の方が前半部分だけなのでこちらの解説もこのあたりで。
本編をお楽しみください。
投稿者 TKM : 10:21 | コメント (2) | トラックバック
桜と難解なアイスクリーム
実家に戻ると小学校時代の同級生が待っていた。
「やあ。憲諌の放棄が正式に決まったらしいよ。いま戻ると鹿児島ではあれを歌うんだ」
「諌言?それどういう意味。歌うって同期の桜?」
「いや違う。正確には法律がそういう方向に向かっているということでこれからは子供の発言が制限されていくみたいだ。軍艦マーチだよ」
彼は子供の頃から早熟であったのだが大人になってもいまだ早熟な話し方が抜けない。難しい言葉を使うのが好きだ。 典型的な擬態性難解症である。
家の向かいにある小山から男性が二人でてきてうちの門の所で談笑している。手には缶コーヒーを持っている。 それを塀の上において二人は立ち話をしている。男性は何かをあけた。ビニールが宙に舞った。
街を歩いているとビニールを足下に捨てる人々をよく目にする。
一時もはやくビニールを手放さなければというあせりなのだろうか。
むしり取るようにビニールの包装をほどき手早く宙に放る。
そうしないと何か不都合があるのだろうか。
タバコでもパンでも包装してあるビニールはなんのためらいもなく地面に放られる。
自動的に気化する包装を開発することが急務だ。
よくみれば町中にはうち捨てられた空き缶とビニールが散乱している。
どんなに綺麗に整えられた区画でも少し影にはいるとそうした風景は珍しくない。 六本木ヒルズは掃除係の人々がいるから表向きは綺麗に整えられている。しかし、かげにある自転車置き場は様子が違う。 その雰囲気は人の内面を語っているかのようで情景はまるで「呪怨」にでてくる荒れ果てた民家である。
家の前にいる二人もそうした振る舞いをするのであろうか。
空き缶を捨て置いて歩み去っては欲しくないのだが。
二人を見つめていると彼らもその視線に気づいたのだろう。
何事かを話している。
「自由が禁じられていく傾向が一般化してくるのは嬉しくないものだね。そういえば君はそういう方向の話が得意だ。 論文を書いたらいいじゃないか」
友人に話しかける。
「そうだね。これから少しやってみるよ」
駅まで歩いていくことにした。
振り返ると門のところにたむろしていた二人は缶を持って立ち去る所だった。
路面には先週降った雪が固まっていた。
郵便局の前を通る当たりで彼が歌の話をした。
「長崎ではさ。明治が生きているからいつもこの歌を歌わせられるんだ」
そういって彼は歌を口ずさんだ。
「そうか。慶應とは少し違うんだね」
大学の違いにかかわらず九州との関わりにおいてはある歌を歌うことが一般的であった。 だから僕は別な歌をイメージしていたのだが彼が歌ったのは違う歌であった。
彼の家は駅前にあった。別れの挨拶をして駅に向かった。駅前には店が三軒ならんでいる。ひとつは果物、もうひとつは魚と果物、 もうひとつが魚と果物と蕎麦。蕎麦でも食べようかな。棚にあった蕎麦とカップ麺と油揚げを買った。
「電車がそろそろきますよ」
駅からアナウンスがきこえた。駅につくと向こう側のホームにいくように言われた。 15分の電車に乗ればいいのだけれど走らなければならないようなので19分の電車に乗ることにした。そうだ指定席を買ってあるのだ。
「15分の電車にのらなきゃ」
そういっておばさんたちが走っていった。
陸橋をわたって17分頃に向こう側のホームについた。
こちら側のホームには巨大なスーパーマーケットが併設されている。
いつもはここでアイスクリームを買っていくのだが今日は間に合いそうにない。
売り子のおじさんが
「アイスあるよ」
とシュガーコーンに盛られたアイスクリームを売っていた。ヨーロピアンスタイルなのはこの地方の特色であろう。 電車がホームにはいってきた。今日は4号車だ。二両編成の小さな特急である。車体はグリーン。側面にベージュのラインが入っている。
室内に入ると一列に10席ほどの座席がならんでいる。僕の席は
「K-1」
であった。後ろにジャージにパンチパーマの人たちが並んでいる。
彼らはP列だ。
電車が動きだした。
友人は論文を書き始めただろうか。
彼がいっていた難解な名称ではじまる法案の名前と歌の名前がどうしても思い出せなかった。
投稿者 TKM : 09:16 | コメント (0) | トラックバック
最近
勘違いされることが多い。
人当たりがよくなってきたせいか「いい人」にみられがちだ。
しかしそれは間違いだ。
「気持ち」がベースにない人間に対しては極めて不愉快な人間である。
露骨に態度が変わるからである。
誰に対しても同じ態度で接するというのはいまの自分には不可能なことだ。
攻撃的な相手には攻撃的にならざるえないし、つまらない相手にはつまらない態度をとってしまう。
適当にあしらわれればムカつくこともある。
それでも順々にいろいろなことがまきおこるのでその場その場の感情が一瞬で別なものに変わっていくから何にも気にしていないように見えるだけだ。
悪い癖だが懐柔やら上手くあしらうみたいなのはあまり得意じゃない。
なのでなかなか楽しい展開になってきた。
ようやくという感じだ。
投稿者 TKM : 04:04 | コメント (2) | トラックバック
2005年01月28日
プレゼンな映画と意味を隠す映画 ~帰りの電車での雑感より~
久しぶりに代々木界隈を歩く。
紀伊国屋などいってみた。
代々木のフレッシュネスバーガーでメモをしていたら警備員のおじさんが二人こちらをみつめていた。 植え込みになにやらあるらしいがここからはわからない。帰りの電車で思索していると電話が鳴った。
共時性か。
さっきのメモを思い出す。
時間についてのメモであった。
「いまという過ぎていくこの時間は誰にとっても同じ時間なんだよな」
あたりまえのこと、であるわけだが、その意味はよくわかっていない。
心臓の鼓動のスピードが子供と老人とでは随分違うらしく、それによって体感時間が違うのだ、という話をどこかで読んだ。
でもさっき浮かんだのはそれとはちょっと違っていて時間は流れているわけじゃなくココという一点にあるみたいなイメージだった。 うまく言えないのだが。
外を歩いている人たちも自分も同じ時間の点を共有していて、「あの人はこうだ」とか「この人はこんなで」 という違いはあれど同じ時間にいるという共通点の方がそんなものよりも遙かに大きいように思えてきたのであった。
この時間にいる人たちってパラレルな自分ではないのか。
あなたが感じてる時間と僕が感じてる時間は違うんだろうけれど、それでも我々は同じ時にいる。それってどういうことなのかな。
電車は大門を抜け、月島に向かってゴーっという音に包まれて疾走していく。
ひとつの音もそこから何を感じるかは人によって全然違う。
それは文脈によるものなのだろう。
文脈超えってあるのだろうか。
あるのかなやっぱり。
そういうのを言葉で表すには本来の使い方では難しい。
言葉の連なりの裏にできていくパターンを使うのだろう。
いい映画はプレゼンの対極にあるように思う。(何がいい映画かは人によってちがうのだけれど、
より深く自己に入り込んでくるようなものとしておく)
伝えないことで伝えるというやり方でしか伝わらない質感。
それを伝えるには逆説的だけれど意味は隠される必要がある。
そういうカタチでプレゼンをおこなったら笑えるだろうな。
「???」
が並ぶんだろうけれどわかる人にはわかるだろうし、伝わるのだろう。
こういうのは恋愛と似ているのかもしれない。
愛情表現の言葉って具体的じゃないし、そもそも、あんまり言葉がない。
理路整然と演説して惚れ合う男女が描かれてるのはハリウッド映画くらいだろう。
投稿者 TKM : 21:41 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月27日
ドラえもん最終回

最近ネットで話題の「ドラえもん最終回」 を昨夜とうとう読了した。
読了と言うよりは「見た」といった方が正確だが。
作品はFLASHをつかったプリミティブな表現によるものだが十分に読ませる。
こうした表現をみているとデザインデザインしたFLASHの使われ方は受注生産によって対価を稼ぐといった用途においては有効だがユーザが
「楽しむ」ためのコンテンツとして考えるとアクションスクリプトなどによる仕掛けはそれほど重要ではないのだろうな、と思う。
(効果的に使うならばコンテンツをより面白くするために役立つのだろうけれど最近のFLASHコンテンツの傾向としてテクニックにはしりがちでおおもとであるストーリーのつくりがおろそかになっているケースが多い)
上記の「ドラえもん最終回」などその好例ではないだろうか。
一般的なFLASHサイトで用いられるようなテクニックは全くつかわれていない。
単にタイムラインにそって音とキャストをならべただけのごくごく簡単なつくりになっている。
にもかかわらずこのコンテンツは文句なしに「面白い」。
ストーリーとして読んでも面白いし、映像とのリンクのされ方も悪くない。
これだけシンプルでも十分に面白いのだからパワーポイントだって使い方によっては素晴らしい作品をつくることができるではないかと思えてくる。
こうした作品を体験した後は小説は圧倒的に不利な立場にいるなあ、と毎度ながら思う。
紙の上に固定されたテキストを読むときと画面の上の文字を読む時では脳が違う動きをしている。
全く同じ内容のテキストでもそこにモーションがつけば脳は別な印象として受け取る。
そう、そういう遊び方があってもいいのだ。
青空文庫をラボで作品化していくというのも面白いかもしれないな。
補足:実際の最終回は下記
http://www17.big.or.jp/~yonenet/fujiko2/saisyu/dora1.html
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投稿者 TKM : 07:07 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月26日
地球の声と感情漂流
今日はメモ代わりの雑記です。
■ある外国人の笑顔とある打ち合わせについて
数日前、近くのレンタルビデオ店にいった。
その店はバイク屋の二階にあるのだが階段を登って店の自動ドアをくぐり抜けるとロシアっぽい帽子をかぶった外国人の男性が店をでてくるところだった。40歳くらい。「レナードの朝」に出てくる先生(右側)に似ていた。
黒いレザーのコートをきた彼は優しそうに微笑んで先に通してくれた。
その表情は自然だった。
考えてつくられたものではなく彼のもつ素地がそうさせたのだと思う。
何かこの世界のものすごくたくさんの情報をいっかしょに集められ折りたたまれたような印象をうけた。
いまどきこんないい表情ができる人にはそうそうお会いできない。
他に僕が知っているのはダライ・ラマのナイススマイリングくらいだ。
なのでその日はそれだけでうれしくなった。
これはまた別の日のこと。
ある外国人と話をした。
雰囲気の問題なのだろうけれど裁判で尋問されているかのような印象をうけた。
自分にとってリラックスとはほど遠い雰囲気であった。
今日で一日が終わるとしたらこの人と過ごしたいだろうか?
迷わずNOだ。
しかしその人が本当はどんな人なのかを僕が知らないだけでその場の印象からそう感じているに過ぎない、のかもしれない。いまはフレンドリーでなくとも何年かしたら世界的な慈善家になる人なのかもしれないし、さっき食べた昼食があわなかったとか、親知らずが痛いとかそういうことなのかもしれない。あるいはトイレにいきたいだけだとか。
人と人の間というのは無限に近い相互作用の結果でできていて
「あの人はこんな人」
みたいな思考は正しくないのかもしれない。が、人に接した時に自分が感じる何かは確かに何かしらの方向性を示していて、それは人の行動や意思決定、コミュニケーション、モチベーション、気持ちに大きな影響を与えている。(それが人の限界をつくっているように思うこともしばしばあるが)
これはどういうことなのだろう。
おきてからしばし考えた。
■仕事にとって大切なこと、自分の場合
仕事について「自分の好きなことをしろ」であるとか「わくわくすることをやれ」というような言い方が一般的だし、そう思われがちだが僕の場合、それは大して重要ではないようだ。
人によって異なるのだろうけれど僕の場合、仕事において一番重要なのは
「誰とやるか」
である。
■「綺麗事」とその周辺について
「それは綺麗事だよ」
という意見がある。
けれど
「綺麗事でいいじゃない、何でダメなの?」
と自分は思う。
綺麗事の方がベターであり、人にとってプラスであるならば綺麗事を一般化させていくことはこの世界にとってもプラスではないのだろうか。
そもそも「それは綺麗事だよ」という発言はどんな意味があるのだろう。
「そうはいうけれど現実は違う」
というのであれば何故現実が違っているのか。
何処が違っていてそれは何故なのだろう。
また、それを受け入れているのは何故なのか。
「こうした方がいい」あるいは「こうだったらいいのに」という想いがあるならそちらが本来あるべき姿だと僕は思う。
綺麗事という便利な言葉で問題を簡略化し、存在自体をぼやけさせてしまうことが問題なのだ。
解決不可能という封印をしてほったらかしにするよりは少しでも整理をはじめた方がいい。
問題というのは「出来ること」ではなく「出来ないこと」で問題化する。
ならばそれができない理由をつきつめ、整理していくことは無駄ではない。
そういうことを怠ってきたからいろんな問題が潜伏・反復増幅し、本来問題が属していたレイヤーから別なレイヤーに影響を及ぼすまでに巨大化してしまうのだ。
■不幸はつくりやすい?
幸福と不幸についてもちょろっと考えた。
生活していると「うまくいく」「うまくいかない」「幸せである」「幸せではない」「気分が良い」「気分が悪い」などといろいろな場面で感じたり思ったり、いったりしたりされたりするわけだが大まかにいって
「不幸」の方が「幸福」よりもつくりやすい傾向にある、のだろうか。ほとんどのケースで人は幸福を志向し、不幸に悩んでいるように見える。これは法則といってもいいくらい一般的でさえある。
また、調和よりも対立の方がつくりやすいようにも思う。
でも何故だろう?
アソブよりもケンカの方が楽なのだろうか。
しばらく目に手をあてて考えた。
30秒が経過して…。
「わかった!
人は不幸が好きなんだ!」
と唐突に閃いたのだが案外あたっているのではないか。
人の特性として閑には耐えられないようにできていて、幸福というのは案外「閑」な現象なのだ。地と図の理論だ。反対側がないと絵が浮かび上がってこない。
アポトーシスな現象として幸福を捉えなおすとそれが表現行為と類似しているようにみえる。表現というのは基本的に付加することではなく「削る」ことで表現として成立している。
不分節は虚無である。
芳醇や豊かさを生じさせるのは逆説的に地としての無が不可欠だ。
幸福や不幸というのもこれと同じ関係にあって双方は地と図の関係にあるのだ。幸福がそれとして認識されるためには不幸が必要となる。
無によって有は生じる。
そこに「ある」ならばどんなものにでもあてはまる。
音にしても無音があることでその差異が音と認識される、といえるだろうし。
しかし、
「じゃあ、自分が感じた幸福ってどんなんだっけ?」
と考えてみるとこうした話も根本が違っているような気がしてきた。
感覚は地と図という単純な構造によって生じるのではなく、ある関係性が常時そこには存在し振動している。それらは普段は個別に振る舞っているが時折パターンを描く。そこにあらわれる関係性パターンが感覚なのかな、と思ったのだが。
そうだ時間の要素が絡んでくるので地と図というスタティックなイメージだと捉えられないのだ。それ自体も常に変動しており、量子レベルでの確実な再現性がない、ということが理屈ではなく感覚的に入り込んできている。
記憶はスタティックではなくダイナミックな存在だ。
時間の影響をうけ薄れる、あるいは変動、振動している。
それを基盤に今の感覚やら気持ちが形成される。
系は互いに影響しあう。
分離されていない。
不幸があるから比較して幸福がある、というわけではなく、多分、そうした平面な紙のイメージはズレていて。
常時、波打っている空間みたいなのが感情でそれはパターンを描くときもあるし、丸まって振動してる時もある。感情とは超スローモーションで展開している線香花火をプロットして、突然浮かび上がった、文字を記録していったら物語ができた、みたいなものだ。
(そういえば「センソリウム」の「ブリージングアース」という作品もそんなだったっけ。センソリウムといえばあれのプランニングとかプロデュースをしてた竹村先生って竹村健一さんの息子さんだったことを最近知った。余談ついでに敬愛する石井先生を初めて知ったのも日曜の朝にやってた「竹村健一世相を斬る」だった。まさかその先生とアソブ研を通じて個人講義受けたりお話をするようになるとは学生時代も昨年くらいも全然予想できなかった。こういうのをビジュアライズしたらどんなカタチになるのだろう。ストレンジアトラクターのような形状なのかなと思うけれどそれにしたって固定的ではないだろう)
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投稿者 TKM : 13:33 | コメント (2) | トラックバック
2005年01月24日
スナック大人買い
仕事をしていたら急にバリバリと囓りたくなってスナックを買いに外に出た。
なつかしの品がコンビニでいろいろとならんでいる。
とりあえず「カットよっちゃん」と「うまい棒」と「ビスコ」あたりを攻めてみた。
最近はスティックタイプの「よっちゃん」も販売されているようでちょっと驚いた。
よっちゃん食品のサイトでラインナップを確認するといつのまにかこんなに商品が増えている。 基本的には美味しいというよりも脳の別の部分を刺激されている感のある微妙な味覚の商品群なのだが幼少の頃に刷り込まれた味の記憶は強固で口にすると過去が蘇ってくるから不思議だ。
この手のお菓子は小学校4年生くらいまではよく帰りに買って帰った。
5年生になる頃からは他の味を覚え始めたのでチロルに代表されるチープ路線に戻ることはなかったがそれでも嫌いではなかった。
よっちゃん食品と双璧をなすかのように必ずどの店にもおいてあったのが「うまい棒」である。これにもお世話になった。「うまい棒」 の大量買いは大人買いの醍醐味を味わうには最適といってよいだろう。 100本買っても1000円というリーズナブルな価格はお値段据え置きである。
この商品を開発した人はスゴイ。こんな商品が成立するのは何故なのだろう。
「うまい棒の秘密を探る」というような本があったら僕らの世代の結構な数の人が買うのではないだろうか。
企画するか。
「うまい棒」ついでに年末にNYのスナハラさんと話した時、カールのつくりかたの話になった。
「未来館にいったら、カールのつくり方の映像があったんですよ。他にもいろんなお菓子のつくりかたあったんですよ。 途中までしかみてないけど全部みたかったなー」
といっていた。カールのつくり方の解説などをきいていると自分もみてみたいと思った。 二人の共通見解としてできたてのカールはどんな味がするのだろう?という疑問があった。 果たして我々が食するカールとできたてほやほやのカールは異なる味覚なのであろうか。
パンだって焼きたてはかなりおいしいわけだからカールにもそれはあてはまるかもしれない。 パティシエがつくるお菓子とは全く異なる方向性で発展してきたチープ系のジャパニーズスナックにはメディアアートな空気さえ感じる。
それぞれのお菓子の製作工程には驚くべきテクノロジーやら叡智が集結されていたりする。
食品というよりもコンセプトは工業製品に近いのだろう。
一本1000円の「プレミアム・うまい棒」というものが販売されなならば1万本くらいは売れそうな気がするのは僕だけだろうか。 味だけでなく製作工程において情報的な価値が付加されるならばその程度のプレミアは十分ありだと思うのだがどうだろう。
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郷愁そのもの投稿者 TKM : 22:47 | コメント (3) | トラックバック
これはデスクトップ版パワーズオブテンだ! ~衛星からみた我が家~
なんとも強烈なソフトを発見した。これはPCの上で動くリアルタイムなパワーズオブテンである。
KEYHOLEというソフトである。
(一週間利用可能な試用版があるので是非ためして欲しい)
左記はこのソフトを使って我が家を表示させたスクリーンショットだ。
地球儀の画面からズームインしてこのくらいの解像度までアップさせていく過程はアニメーション処理されており驚くほどなめらかである。
このソフトを日常生活で何かに役立てたり、楽しく使うのはこれ単体では成り立たないだろう。 ポイントはやはりこうしたインターフェイスと情報のリンクである。
正直なところマップメタファーというのはカーナビ的な移動とリンクさせて使わない限り情報ナビゲーションシステムとしてはつまらないものだと思っていた。 しかし、これだけ高性能なインタラクティブ性を有するリアルな地図が使えるならば話はかわってくる。 動画情報とのリンクや各種リッチメディアとのリンクが可能になれば「旅」の要素がはいりこんでくる。
そうなのだリアルな世界をつかったRPG感覚の覚醒に期待が向かってしまうのである。 デスクトップトラベルの誕生の予感さえしてしまう。このソフトは結構、ショックな体験だ。 近年体験したソフトの中ではNo.1にインパクトを持っている。 これがネットワークとのインターフェイスとして機能したならばどうなるのだろう。
VRMLのように3D空間をリアルに向かわせる方向で用いるのではなく、 リアルな画像をプリミティブな3Dオブジェクトに反映させインターフェイスの滑らかさと単純さ、スピード感で利用者の「リアル」 を刺激していくというこの手法には恐れ入った。
世界には面白い人たちがいるものだとあらためて思った。
追伸:このKEYHOLEというソフトは昨年Google社に買収されました。参考記事は下記
http://pcweb.mycom.co.jp/news/2004/10/28/100.html
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投稿者 TKM : 18:52 | コメント (4) | トラックバック
由美かおるに似た先生と釣りにいく
ハゼ釣りの夢をみた。
衝撃的な釣りであった。
由美かおるばりに外観と実年齢があっていない女の先生と一緒に10人くらいで海にでかけた。 その車になぜそれだけの人数が乗れるのか不思議だったがジムニーと形状の似たくらすのジープである。色は紺色だ。
海に近づき、ポイントを探すようにたのまれた。
時刻は午後4時。
この時間からだと1時間~2時間くらいしかできないだろう。海岸には人が集っている。山手線状態で釣り糸が垂れている。
この様子ではここに10人からの人間が割り込むのは難しそうだ。
河口の方をみるとそちらのポイントはまだ空いているようだった。真田広之が忍者役をやっていた「戦国自衛隊」 のロケ地にもなった河口である。当時は対岸に松の木が垂れていたのだが現在は整備されその頃の面影は薄れている。 橋もできていてその下で数人が生き餌をつかった釣りをしているようだ。
手前の陣笠をかぶったおじさんにあたりがあった。
サダキチに
「なんだと思う?」
ときくと
「スズキじゃないかな」
という。みているとおじさんはタモ網を取り出して魚を取り込んでいる。みれば50cmくらいのスズキである。いい釣りだ。
「ではこのあたりでやりましょう」
先生にそう伝えて車に乗り込んだ。川沿いに車で進んでいくと途中でテトラポットのバリケードがあった。 そこで車をおりて仕掛けをセッティングすることにした。ヤマダが竿を2本セットしている。とりあえず一本だけやってみることにした。
黒のレザーケースからカーボンファイバーの竿を取り出した。竿にはリールがセットされており、よくみると仕掛けもついている。 中通しウキが7連になっている。22年前につかったハゼの仕掛けだ。その仕掛けは取り外し、既製品の3連のT字天秤に切り替える。 テグスを結びなおし、餌のゴカイをつけて投入する。
後ろを振り返るとトシの仕掛けに絡みそうだったので注意する。
投入しようとしたその瞬間に何故かリキんでしまい手前におちる。こんなことは滅多にないのだが頭上に橋があるため低くなげようとしたためだ。
巻き戻してもう一度こころみる。
竿はカーボンファイバーの為、やけに細い。けれど強靱である。手に仕掛けの重さが伝わってくる。
再投入すると丁度川の4分の1あたりに着水した。あとはアタリを待つ。
竿先には鈴がついている。魚がヒットすればこれが鳴る仕組みだ。
竿を下におこうとするが斜めになっているのでうまくおくことができない。そうこうしているうちに潮が満ちてきた。
「なんか満潮みたいだなちょっとあげておこうか」
そういって1mほど上の方に移動した。満ちてきた潮に引きづられ仕掛けが水底を転がっていく。それが竿先をゆらす。 魚の引きとはことなる竿先の動きである。
時間が近づいてきたのでちょっとあせりを感じる。
あと何分こうしていられるのだろう。
しばらくして水が段々と引いていった。
水も透明になっていく。魚はどこにいるのだろう。
見えた!
水底をハゼが泳いでいる。3匹、5匹、ハゼはその数を増やしていく。トシに声をかけた頃には水底がハゼでいっぱいだった。 餌のついた仕掛けをその集団に投入すると食いつくのが見えた。
それにあわあせて竿をあげる。引きがあってハゼが釣れた。案の定、針を飲み込んでいる。外す時に妙な生々しさがあってゾっとした。 現実よりも質感が強調されている。その後、4匹ほど釣ったところで異常に気づいた。水が少なくなってきているのだ。
それで魚が一カ所に集まってきている。餌をつけなおそうとすると
「ごめん、さっき房がけやちゃった」
とトシがいう。 房がけというのは餌のゴカイの頭部のみを針に通すつけかたで通常は一匹のゴカイを分けて3~5本の針で使うのだが房がけの場合は一本の針にやろうと思えば5引きくらいがつけられる。 そんな餌を好む魚がいるとも思えないし餌の消費が異常にはげしくなるので(5~10倍のペースで減っていく) やらないのだがそうした手法もあるにはある。で、トシは禁断の房がけをやってしまったらしいのだ。
「餌がないってじゃあどうする?」
というと
「これを使おう」
と先ほど釣った別の魚を指さす。これを短冊状に切って餌にしようというのだ。 確かに数度そうした試みはやったことがあったがなんだかその時はいやな感じがした。
「わかったじゃあ、そうしよう」
二人でワカシのような魚を三枚におろして短冊状に刻んだ。それを針につけて川に向かうともう水がなくなっていた。 水底には石畳が広がっている。
川ではなく干上がった池のようだ。水はどこにいったのだろう。下におりて水を探した。中州近くに石の屋根がみえる。
その手前に水が集まっていた。そこに魚がいるのだろうか。投入すると20cm位のハゼが釣れた。水の重みでみょうな質感がある。
おぞましいものを釣り上げてしまったのではないかという懸念がよぎった。本来、魚とはもっと美しいものなのだ。
それが集まった水の影響で別な性質をもった物体に変換されているようだ。
それでも釣り人の習性で魚をつりあげ針を外そうとしてしまう。ヤツは針を二本飲み込んでいた。全身に悪寒が走った。
体色が僕の知っているハゼとは異なる。これは黄色い泥である。ヤツの魚体は泥水に覆われていた。触ることを拒む自分の本能を感じた。
これには触れてはいけない。
このままでは。
川についていたシャワーを借りて表面についた水を洗い落とす。どうにか現実がかえってきた。
それでも妙なリアルさがあって触りたくなかった。我慢して針をはずす。感覚が曖昧でそれが相手なのか自分なのかがわからない。
感覚が入り交じってが入り組んでいる。
内部が壊れていくようだった。
トシに声をかけると
「そろそろ帰ろうか」
というので先生の所に帰った。
10匹くらいは釣れただろうか。
堤防に魚が並んでいた。
投稿者 TKM : 12:01 | コメント (0) | トラックバック
建築について ~新日曜美術館を見て~
久しぶりに新日曜美術館をみた。森美術館でやっている建築系の展覧会をベースにした現代建築についての特集であった。
まわりに建築関係の仕事をしている人が多いのに僕自身は建築についてはまったく知識がない。 好きか嫌いかは言えるだろうけれどそれがどんな文脈にあるからこうだ、みたいなことはわからない。
いつも新橋にいく途中で目にする奇妙な建物がカプセルマンションであることは知っていたが黒川紀章の作品だとは知らなかった。 内部の映像をはじめてみたが意外に普通であった。「あれ、これなら住めるじゃん」と言うのが素直な感想である。 毎日そこで暮らしたいとは思わないけれど一晩二晩泊まってみたいなとは思った。
感覚としては押し入れに秘密基地をつくりたがる子供の心理と似ている。穴蔵というのはなにかしら人を惹きつける要素を持っているのだ。
坂茂という建築家も初めて知った。紙を使った建築で有名な方のようだ。
検索してみたらSFCの先生であることがわかった。驚いたこんな人が教えているのか。
阪神淡路大震災発生時に紙をベースにした仮設住宅をつくった事例が紹介されていた。
が、僕が一番ショックをうけたのは「オープンなんとか」という模型である。 脱構築をコンセプトにつくられたものとのことだが創作プロセスが凄まじかった。目をつぶってデッサンを描き、 それをベースデザインにして実際の建築物して仕上げるというものだった。
「そんなのでいいのかよ?!」
と思ったができあがった模型はそれなりに興味深い造形にしあがっているのが不思議だった。 意識的にはつくることが難しそうな独自な形状をしており、美しいとは思わないが興味深いカタチだった。
アムステルダムだったかの建築家の設計プロセスも面白かった。 建築家が考えたものをデジタル化し設計図やCGにするときにコンピュータが使われるというのが建築における一般的なコンピュータの利用のされかたらしいのだが彼の場合は設計の段階からプログラム・ アルゴリズム的な要素を取り入れて建築物をプランニングしていく。
おそらくこうした手法には批判がついてまわるのだろう。
「手がきからやらなきゃダメなんだよ」
という建築家もいるし、実際にそういう修練をさせるケースも多いと思う。でも、 コンピュータの世界で考えてみると例えばネットワークのコア技術とかコンピュータの仕組みをどんなによく知っていてもネットビジネスで成功することとはあまり関係がない。 鉛筆でかくことへのこだわりや意味論というのはなんかそういうことと似てるように思った。
正しいとか正しくない、ということではなく、やり方というものは場合場合で違ってよいのだと思う。
建築というと建物をつくることとの関係性でしかみていなかったけれどネットワークサービスや組織のつくりかた、 仕事の組み立てなど構造と関連する物事や事象は建築の手法を用いることが有効そうにみえた。
それにビジネスだけれどあれもビジネスだからビジネスらしくというのはあまりにも四角い考え方で何も異化の手法を持ち込んでもいいわけだし、 生命システムを応用してもいいはずだ。またエンタングルメントを基盤にしたシステムというのもあっても面白い。
そういうことをパラパラと考えていたら意外になんでも自由なんだなとあたりまえのことに気がついてハっとした。
投稿者 TKM : 02:49 | コメント (5) | トラックバック
2005年01月23日
眠りのエネルギー
気が張っているとあまり眠らなくても眠くない。
逆にたくさん眠っても眠くて仕方ない時もある。
どうやら何時間眠ったから眠くないということではないらしい。
目覚めると外が静かである。
日曜日の空気だ。
この空気は好きだ。
何度も書いているが天候のすぐれない日曜日は明かに平日とは空気が異なる。
異様に静かで外国にでもきた気分になる。
こういう日が好きだ。
普段はこの国では人が動きすぎているのだ。
沖縄の友人と先日電話で話した。
結婚式の出し物の練習を連日遅くまでやっているといっていた。
彼と出会った日、
「何でそれほどまでに情熱を傾けて練習をするの?沖縄の人はもとからお祭好きだからそうするの?」
ときくと、
「違う。そうじゃない。気持ちだよ。相手に気持ちをおくりたいんだよ」
といった。
ホテルの近くの海で3人でオリオンビールを飲みながら夕食までの時間を過ごした。
沖縄Days1日目はそうやってはじまったのだった。
投稿者 TKM : 12:15 | コメント (0) | トラックバック
チューニング
感覚が鈍っている。理由はないがなんとなくそんな感じだ。
いや、理由はあるのだが明確ではない。
先週からガンダム(ファースト)を見直している。
四半世紀ぶりにみてみるとアニメというよりもテキストを読んでいるような気分になった。セリフがいちいち心情の吐露になっており、
それが映像の印象を薄くしている。
映像が言葉とリンクしているのだ。
と書いてみるがどうもモードが「オン」にならない。
自分にもこういう日があるのだ。
書くという作業はどこかこのあたりとかそのあたりにエネルギーがあってそれを取り込んでカタチにする、 みたいなことをやっているだけなのではないかと思うことがある。
クリエイティブな事象は創るというよりも 「やらなくて済むならばやらないでいたかったけれどどうしてもやらなければ生きていけないからやった」とか 「やらなきゃおかしくなりそうだからやった」という場合が多いように思う。悦びよりも苦々しさの方が理由としては妥当である場合もある。
うまくいえないがこの時空には「フロー(流れ)」があってそれを変換する作業が全般的にクリエイティブと呼ばれており、 その回路をひらく方法はたくさんあってどちら側からはいっても変換行為であることに変わりはない。 けれど僕らはそのプロセスに対して意味づけをおこなってしまう。アウトプットをプラスとマイナスに単純化していくことで理解しようとする。 結果、本質からは遠ざかっていく。
パワーというものは自分がその分野の素人であろうとプロでろうとそんなこととは無関係に相手に伝わってしまう特性を持もっていてどうごまかしても否応なしに伝わってしまう。 環境が感覚を鈍化させていてもどこかで分節化できない「ん?」という記号がはしっているはずだ。
経過する時間が記憶をぼやかすので感覚や意識は次の事象にチューニングされてしまう。
深部からくみ出された表現がもつエネルギーに触れると蘇ってくる感覚がある。
その感覚に触れることは僕にとって最も大切な時間であり、その時、 対峙する忘我的自己は自分の探しているあるモノへの入り口であろうと思う。
投稿者 TKM : 03:07 | コメント (2) | トラックバック
梅図かずおのバルタン星人
先日、松戸のバンダイミュージアムにいってきた。
メインは1/1サイズのガンダムの模型である。
シャアやアムロのコスプレなどもやってみたのだがこれはかなり面白かった。アソブ研の方で後日レポートがアップされる予定である。
左記はご存じバルタン星人だ。ガンダムミュージアムとは別にキャラ系のミュージアムも別の階に併設されており、 ウルトラマンや仮面ライダーなどの製作に使われた実物が展示されている。
さきほどデジカメの画像をみていたらなかなか綺麗に撮れていたのでアップすることにした。
バルタン星人をみると子供の頃に読んだ楳図かずおの「ウルトラマン」を思い出す。 20年以上たったいまでもはっきり覚えているくらいだから相当インパクトが強かったのだろう。 マンガの中ではバルタン星人がかなり重要な役割をになっておりウルトラマンの舞台を借りたホラー作品になっている。
これがべらぼうに面白い。主人公はどちらかというとウルトラマンではない。 敵の宇宙怪獣や生物が楳図テイストでまとめられており抜群の存在感なのだ。 バルタン星人の登場で印象的だったのは廃屋のような小学校のトイレに入ると隣でバルタン星人が用をたしている、みたいなシーンがあって、 妙なリアル感があって最高であった。 あとは何故だか隊員のひとりがヘルメットではなく風呂敷みたいなほっかぶりをしていてその絵もなかなかすごい。
確か誕生日に父がコマ(回すヤツ)のセットを買ってきてくれて。 それはそれで嬉しかったのだけれど子供の頃から本とかコンテンツ系が好きだったもので「本も欲しい!」 と交渉したら本屋につれていってくれて「ウルトラマン」(楳図かずお)を買ってくれたのであった。
ウルトラマン、しかも楳図かずお版。
よくもまあ選んだものだ。
調べてみたら楳図版ウルトラマンは現在1万円くらいのプレミア価格になっているらしい。 実家のどこかに眠っているとは思うのだが発見は難しいであろう。最近コンビニで廉価版が復刻されたようなのでもし見つけたら迷わず「買い」 である。コンテンツ選びのプロとして自信をもってお薦めする。決して時間の無駄にはさせない。
投稿者 TKM : 01:10 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月22日
24時間マラソンとしんのすけのセグウェイ
大広間には外国人を含む100人強が座っている。
「使えないヤツは国籍に関係なく使えない」
左斜め前に座っている坊主の白人がいちゃもんをつけてきたのでそれへの返答である。 スタート時間が迫っているからみんな気が立っているのだろう。これから24時間マラソンエベレスト杯である。
しんのすけの家は掃除がすすめられている。業者からは二人が掃除要員として派遣されている。 小学生を含む10人の子供達が臨時に集結を義務づけられていた。当初、 この競技は午後5時にスタートされる予定であったのだが掃除の進み具合とエントロピーの第二法則がぶつかってしまい拡散していく散らかり具合の方が掃除人のスピードよりもはやい。
「みんな、これから少しお話をします。いいですかきいてください」
としんのすけが話をはじめた。みんな話に集中している。
そもそもことの発端はこうだった。
銀座の中央通りを歩いていると正面から木の箱に乗った男が歩道を壁側に向かって進んでいた。
「なんだアイツ!」
思わず叫んでしまった。
みると目をつぶって眠った状態でしんのすけが箱にのってふらふらと壁に向かって歩を進めているのだった。
この絵がすさまじく面白く。
「しんのすけ寝てるよ!」
というと「ハッ」と我にかえったようで
「え、寝てないねてない。これからやるよ」
「やるって何を?」
「だからマラソン。これから市場にかい出しにいってそこでやるから。駐車場のところにアイスクリーム屋があるのでそこで集合。 よろしく」
そういって日本式のセグウェイに乗って彼は去っていった。
素晴らしい映像だったので撮影しなかったことを悔やんだ。彼が乗っていた木製の箱形の乗物には動力はなかった。
足で漕ぐにしても足が地面に接するポイントもない。不可思議な乗物だった。
駐車場に向かう途中で電気自動車の話になった。
「そんなものこんなところ走ってないだろう」
と言ったら後方から。
「今日、時間ある?」
とモロイさんが登場した。
「あ、大丈夫ですよ」
というと。
「あ、っそ。じゃあとりあえずいくか」
といって国会の周りの公園を走る専用のガソリン式電気自動車を借りてきてくれた。
「運転してみる?」
「え、いいんですか。では」
二人乗りの三輪車のような乗物で公園の歩道を走り始めた。ステアリングが激アマで。ちょっとハンドルを切るとふらふらする。
「替わる。オレやるわ」
そういってモロイさんと運転をかわった。後部座席に座ってモロイさんが運転をかわった理由がわかった。 後席は自転車の二人乗り状態になっておりやたらと狭いのである。190cmを越す長身のモロイさんではこれはきつそうだ。
「あのさ。歩道に溝があるじゃない。あれにはめると自動的に走るんだよ。やってみるか」
石畳の歩道には幅5cmくらいの溝がある。 どうやらこれが古代より続く誘導ラインになっているらしく操縦を代行してくれる仕組みである。
「よし、じゃあここでラインインしよう」
そういって直角のカーブのところでハンドルを溝にあわせようとするがスルーしてしまう。
「あれ、なんで入らないんですか?」
「いやー、あぶなく猫をやるところだったよ。寝てるだろうそこ」
ほんとだ直角に曲がった溝の中で黒猫が眠っている。ここではいっていたら後々ヤバイことになっていた。
途中、水をまいているおじさんがいたのであいさつをした。
「やあどうも。今日はひまわりが綺麗だねえ」
おじさんはそういってホースで水をまいていた。
そろそろ出発時間だろうか。アイスクリームを買って集合場所に向かわなければ。
投稿者 TKM : 13:50 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月21日
Googleの秘密
昨日、打ち合わせの後で本屋をのぞくとGoogleについて書かれた本が出ていた。
パラパラ読み進めるとGoogle社のサークルノリなスタイルが強調されていた。
(おやつが山積みで食べ放題のスナックルームとか社専属のマッサージサービス、毎週行われる映画ナイトの話など、
それらはもちろん会社のイベントである)こうなるとほとんどPR本であるが読んでしまうと好感を持ってしまう。
アマゾンの書評では評価は散々であったが新手の会社案内と思って読めば結構面白い。
そういえばGoogleを使わない日はないわけだがGoogle社がどんな会社なのかはほとんど知らない。 この本にもGoogleスタイルの経営の詳細についてはほとのど書かれていない。経営に関してはだいたいが推測である。 そうだGoogleの強みというのが「GFS」と呼ばれる独自のファイルシステムにあることを初めて知った。しかし、面白そうな会社である。
「最高の頭脳に最高の創造的環境」
というコンセプトらしいがこうした遊びなノリは自分たちも取り入れたい。
でも、素直にGoogleのようなオフィスの環境が日常化して欲しいものだと強く思う。学生の頃、 はじめて会社というものでアルバイトをした時は楽しくてしかたがなかった。というのは当時、 僕の上司であった新井さんが破天荒な人でほとんど遊びにいっているようなもので毎日がただただ新鮮だった。 その自分もいまは当時の新井さんと同じ年齢になっているというのがびっくり仰天ではあるが。
iモードの黎明期について書かれた「iモード事件」(松永真理)
でもiモード開発にあたってまずは「サロン」というか「たまり場」
をつくるところが肝であったと書かれていたが黎明期のノリは結構どこでもそんな感じなのだと思う。
Googleはあのノリを維持したままで世界企業になっているのだとしたらスゴイなあ。 近くにはGoogleで働いている人がいないのだがどんな様子なのか教えてもらいたい。
投稿者 TKM : 11:39 | コメント (1) | トラックバック
靴をひろう
ようやく集計の仕事が終わった。
なかなか長い戦いであったが今回は新しいやり方をマスターしたので得るところも大きい。
さて明日は石井先生と六本木ヒルズクラブで会合である。
ドコモモバイル社会研究所の方をご紹介いただくことになっている。
先日、東京海上研究所でのミーティングででた宿題もカネコが良い感じでまとめてくれたのでこちらの評価も楽しみだ。 スカイプ絡みで開発したカネコのデモはスカイプ社でもかなり好評なようで、ニコラス社長にも喜んでもらえたようだ。
このように開発のウケがいい時は素直に嬉しい。
ということは制作者のカネコも嬉しいはず、こうした「楽しい」
の連鎖でスパイラル状に開発が進んでいくと意図せずして様々なことがらがつながりあい、自己組織化されていくようでとても面白い。
さて昨日、自転車で東京駅に向かう途中、家の前の小学校の前を通ると道ばたにシューズが落ちていた。
「はて?」
と思いつつ近くまでいってみると格子戸状のフェンスの下から手が伸びてきた。 小学生が蹴飛ばしたシューズがフェンスを越えて外に飛び出してしまったらしい。3年生くらいの少年が必至に手をのばしている。
しかし、シューズまでは30cmくらい足りない。届かずに手をひっこめては「グゥー」っと手を伸ばしてという動作を続けている。
「おい、大丈夫だよ。取ってやるよ、ホラ」
とシューズを拾って柵の向こうに立つ少年に手渡すと集まっていた5人くらいの少年達から歓声がわき上がった。
「どうもありがとうございます!」
と少年の元気な声が続いた。
素直さがにじみでているような声であった。
言葉とはこういうふうに使われるべきものだ、と思った。
投稿者 TKM : 02:35 | コメント (1) | トラックバック
2005年01月19日
スカイプ社のビンセントさんを訪問 ~フットワークとリズム~
アソブログにも書いたが昨日、
スカイプ社のビンセントさんにお会いしてきた。
詳しくはアソブログにゆずるとしてビンセントさんは仕事のフットワークとリズム感が素晴らしくあっというまに世界中と話が進んでいく。ワールドワイドに様々な業界のスカイパーの方たちをご紹介していただくことになった。
カネコと二人で「この感覚は盗みたいねー」と話がはずむ。
オフィスの壁がホワイトボードになっていたのでカネコがさらさらっとビンセントさんの似顔絵を描いてきたのだが消してくるのを忘れた。 あそこにずっと残ったままだろうか。
今日はこれからアソブ研の取材で松戸へ。
その後、豊洲に移動して「対中・対北朝鮮外交・蹴球問題小委員会」である。
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投稿者 TKM : 11:57 | コメント (2) | トラックバック
2005年01月17日
ビルの中でからみあう世界と心のカタチは愛の嵐
ビルの螺旋階段を登っていく。
吹き抜け構造のビルである。
といってもフロア毎の床面積はそれほど大きくはない60㎡くらいだ。
上階への移動を確認してから振り返る。
外では車がまっている。
これからカネコと釣りにいく約束になっている。
路地が京都になっており、視界にひびがはいっていく。
地震が視覚的にみえているのである。
車で待機してくれるように父に頼んでビルへと移動する。
ビルの入り口で女性と待ち合わせをしていたのを思いだした。
屋上近くにある模型屋の入り口に腰掛け話をする。
別な世界のルールが人のカタチになったのが自分なのだ、と彼女はいう。
なるほどそうかもしれない。
二人の間に会話はない。
そういうスタイルの話し方なのだ。
沈黙が気まずいかどうかは二人の関係性による。
知らない同士のが沈黙を維持すれば気まずい沈黙となる場合もある。
この場合は別な種類の沈黙であった。
心地よさに身をゆだねていたら時間が来た。
海にでかける時間だ。
波はまだ高い。
彼女とのエンタングルペアを維持したまま外にでて車を呼ぶ。
川向こうの道に止まっているのが見える。
方向転換してこちらに向かってくれるようにもみえるし、待ちくたびれて出発しようとしているようにも見える。
おそらくその両方の可能性が同時に視覚化されているのだろう。
車は曖昧な意味を表現している。
海沿いの教室に移動するとゲンとキタというおじさん二人が議論していた。
トイレの構造についての議論であった。
曰く、オープンであることの意味はあるがそれは水の存在が前提になっているはずだ。とのことであった。
議論は白熱しており外野である自分が介入するには専門的すぎた。
ビルであった女性の事を思い出していた。
彼女の隣には自分もいる。
ここにいる自分と彼女と一緒にいる自分は同じ自分なのだろうか。
同じらしいということがなんとなくわかった。
というのも彼女もゲンさんもそこにいるようだったし、二人の間には会話があった。
会話の重要性を感じた。
会話は何も言葉のみをつかっておこなわれるわけではないのだ。
模型屋のドアの前に立ち、炎に包まれた箱・アタッシュケースを階下へ投げ捨てた。
階下では他の誰かがそれを目撃するだろうか。
上階へと向かう僕たちを人々はフィルターごしにみているはずだ。
彼らの視点もまた同時にその場に存在したし、僕には彼らがつくりだす拘束された意味の存在が感じられた。
これが世界の一部なのだろう。
彼女と階段を登っていくと螺旋階段に橋がかかっていた。
橋をわたるとビルは沈黙に包まれた。
橋の向こうは地上につながっていた。
ドアをあけ、空を見上げた。
ビルの脇の路地に僕たちは座っていた。
父の車で釣りに出かけなければ。
彼女を連れて車の方に歩き出した。
投稿者 TKM : 13:09 | コメント (0) | トラックバック
プリンの思い出
幼稚園に行っていた頃、カゼで幼稚園を休んだ日があって、おばあちゃんの家で寝ていた。
昼ご飯を食べたくなくて
「甘いモノが食べたい。プリンがいい」
といったら
「タマゴはいいけれどカラメルだめなんじゃないかい?」
と民間療法的に断言をされ、カラメル部分を排除したプリンを食べさせられた。 いま考えれば丸ごと食べてもカラメルを除いても違いなんてなかったのだろうけれど、その時はわからないから
「へー、そういうものなんだ。勉強になるなあ」
と納得し、薬でも飲むかのように真剣にプリンを食べた。
さっき
グリコの新商品のプリンを食べたらそんなことを思い出した。
++++++
友人でプリンの専門家がいます。
山野上君といってプリンの総合サイトをやってます。
人あたりの優しいナイスガイです。
オレも彼の紹介でTVチャンピオンのシュークリーム対決の審査員をやりました。
■いいなプリンワールド「1日1プリン」
http://iina.com/
投稿者 TKM : 00:45 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月16日
ねんどで天狗
昨日は日経新聞で記者をしている同級生の家に遊びにいった。
2歳の娘さんとの対話が面白くてずっと遊んでいたら彼女が「みどりー、あかー、ねんどー」と粘土を取り出してきた。
カップに入った粘土を手渡され、無意識に天狗をつくってしまった。
粘土に触れるのは、6年前に陶芸をやっていらいである。
やってみるといまの粘土はなかなかよくできていて、べっとり感が少ない。
またカラーが鮮やかで面白い。
彼女とは昨年に会ってから数ヶ月しかたっていない。
それなのにしっかり成長が認識できるのがすごく不思議だった。
特に言葉の習得スピードが驚異的で子供の脳はどんな風に世界をみているんだろうと興味はつきなかった。
総じてそうだけれどいい母親と父親に育てられている子供は感情が豊かで一緒にいるとひきこまれるね。
投稿者 TKM : 19:09 | コメント (0) | トラックバック
国会潜入
モロイさんの案内で国会にいってきた。
写真は参院の会議場である。
国会内部に足を踏み入れたのは今回が初めてである。
新築される前の交詢社とそっくりな雰囲気であった。
交詢社は福沢諭吉によって日本で最初につくられた倶楽部だ。
当時は議論の場であったのだろうか。
いまは老人の社交場である。
衆院の会議場と違って参院の会議場には天皇が座る「お席」というものが上段に存在する。議長席かれみて最後方、 僕が立っている場所の左手にも皇族用の観覧席がある。しかしこの席が使われたことはない。
国会議事堂の地下では参院・衆院が長大な地下道でつながっている。衆院に入るパスと参院に入るパスは別口になっており、 両方を訪問するには二つの種類のパスが必要になる。システム的な問題なのだろうか。
議事堂の地下には「加治隆介の議」に出てくる寿司屋やそば屋がはいっている食堂街がある。 その近くには地方の土産物屋をさらにレトロにした雰囲気の売店が並んでいる。 国会グッズや背広などが販売されているのだがどの店も雑然としている。
国会界隈を歩いていると独特の雰囲気があることに気づく。
丸の内とも違うし日比谷とも異なる。
官庁系の箱なイメージとも違う。
感覚的な言い方になってしまうがあそこは
「昭和を引きずっている場所」
だと思った。何もかもが昭和のテイストでまとめあげられている。
そのため時間が固定されているような印象をうけるのだろう。
国会議事堂や会議場も映像として知っているのと実際に足を運んで空気を感じるのとでは随分、印象が違う。
ニュースやテキストをもとに政治を論じるのもいいが、その前に一度、政治の現場である議事堂や会議場を訪問してみてはどうだろうか。
印象がだいぶ変わるはずだ。
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投稿者 TKM : 12:08 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月14日
感動とか
どういう時に感動するのか時々かんがえる。
時間や宇宙や自然をリアルに感じる時、例えば、みたことがない色の空をみたときであるとか。
海であるとか。
そういうものに接した時にそれを誰かとわかちたいと強く思う。
どうしてもそれをひとりで体験していたくなくて、誰かに伝えたいと感じる。
その時にパっと思い浮かぶ人。
その人を大切にしなければならない。
人の優しさに触れた時にも同じように涙することがある。
同じ風景や日常が突然、それがとてつもなく幸せな時間であると「気づく」
瞬間があってそういう時間も感動する。
時々、起こるのだけれどあれはなんなのだろう。
仮にの話だがあれと同じ感覚が毎日起きるならばその人の人生はこの上なく幸せである。
おそらく幸せというのは外的な要因に左右されるものではない。
自分との関係性によって生じる感覚なのだ。
投稿者 TKM : 07:09 | コメント (2) | トラックバック
杉田かおるさん@月島で飲み
何年か前にバシ師匠と僕とアラサンダーと杉田さん姉妹とで月島に飲みにいった。
確かクリスマスの晩だったと思う。
随分盛り上がっていろいろな話をした。
髪が濡れているように見えたので
「どうしたの?」
ときくと
「なんか久しぶりにきたので楽しくなってさっき、月島の銭湯いっちゃったのよ」
「へー、銭湯ってあの月島温泉?」
「そうそうあそこ」
月島温泉というのは西仲商店街の真ん中あたりにあった瓦屋根の「ザ・銭湯」という感じの雰囲気のある銭湯である
(いまは改築されビルになっている)。
杉田さんが子役で出演していたTV番組のロケ地が月島だったそうで彼女は月島に詳しかった。
佃の三角公園のあたりで撮影をしていたそうだ。
その杉田さんが結婚とのニュースが昨日ながれていた。
そうか、あの人も結婚か。
よかったなあ、と素直に思った。
そういえば杉田さんの妹さんも面白い人であった。
杉田さんに「すっごい好みなんです」と言われて調子にのったナガエ氏(PR会社社長をしている友人)は
「オレは断然、妹の方が好みだ」
などとトークが爆発してご満悦であったのを思い出した。
バシ師匠と連名でメールでも送っておこう。
投稿者 TKM : 04:32 | コメント (1) | トラックバック
岸壁からダイブ ~久々に面白い夢をみた~
昨日はモロイさんの案内で国会にいってきた。
その詳細は後ほど。
まずは夢日記から。
釈由美子と車に乗っていた。
我々はプロジェクトの罰ゲームに参加しているようで港の岸壁の30m後方にいた。罰ゲームの要領はこうだ。
まず車で岸壁まで全速で加速する。
岸壁を飛び越えて海にダイブし、沈むまでに脱出する。
岸壁には黒と黄色のボーダーのコンクリのブロックがおいてある。
その隙間から車で飛び込むことになる。
とりあえず距離を確認したかったのでバックして方向をかえ、岸壁の近くまで車を走らせる。
岸壁近くに寄せて、運転席から外海をのぞくと下にはテトラポットがある。
高さは5mくらいであろう。
正直な感想としては「ヤバイ」と思った。
洒落なっていない。
突入後の自分たちがどのような状況におかれるであろうかを想像していたらそれがリアルな現実になってイメージされてきたのであわててイメージと現実を引き離していく。危ない。
大門さん(わたりてつや)ひきいる軍団といっしょにテロ対策を行う約束なっていた。
彼らからバズーカタイプの銃を渡され、
「そろそろ配置だよ」
と声をかけられる。
少し肌寒かったのでジャケットとりもどる。
ジャケットというよりもジャンパーといった方がしっくりくる。
紺色の上着を羽織ると思いのほか温かい。
外にでるとトラックの向こうから紺色の作業服男が歩いてくる。
あれこいつ…。
渡されたデジタルリストにあったテロリストの服にそっくりだ。
連絡しなければ。
近くのトラックに乗る。
電話かまそうとするが電話ない。
近く歩いていた男の人に訳をはなして貸していただく。
電話をかけようとするけれど秘匿回線用の番号わからない。
通常回線で番号をきいてメモする。
ところが通常回線なものだから暗号化されている。
これがやっかいでキュービタル暗号を利用しているようだ。
A「さんかもな321053awaやさわんじわ」
という文字列が
B「参加もなヤサわカれんじ」
のような文字列と同時に存在している。これらの二つの重ね合わせ(エンタングル)が数字になっているのだ。これをひとつひとつメールインターフェイス(つまり携帯の文字入力)をつかって入力していく。
ここからがキュービタル暗号のスゴイところで実際に入力している文字、画面に現れる文字、そして自分がみているメモの文字のすべては異なって表示される。
これは量子世界における不確定性をマクロな系である現実世界に反映させることによって生じる現象のブレを利用した究極の暗号システムで入力時に生じる量子的ランダム性を拾うため信号の解読は不可能である。マッチングには電話番号を示す暗号が脳内でイメージとリンクしていく時にうかびあがるストーリーパターンをマクロ信号として用いている。
久しぶりに使うので思うように入力が進まない。
入力しているとリストテロ(集団の名前)のトップ・Mr.ナカタに発見される。
危険を感じたのでいそいで車をだす。
左にまがって信号こえて左にまがると港の近くの有名な漬け物旅館の入り口についた。
ここで隣に座っていたおじさんをおろす、この人もリストテロの一員らしい。
脱出して、左にまがって止めて番号を打つ。なかなかうてなくてずっと携帯と格闘を続ける。なんどもまちがうがようやく脳内で「ヤサカ」と認識していた文字が「ヤサワ」であることに気づく。「サ」まで入力した時点で現実世界に呼び戻された。
その後、カネコとデジタルマンガのブレストをした。
教室にかえるとリックスプリングフィールドをしってるかとタクに聴かれたので知ってると答える。先生が「ゲストにたしかー」といってエアロスミスとイギリスのバンドにチェロを教えていたという高名なロッカーが下にきてたなあという。へー、と思っていたらその人登場した。教室は大騒ぎであう。タクが英語で解説をはじめた。
「僕が質問するけれどみんな入ってきてください」
といって質問タイムにきりかわる。しかし僕は彼を全く知らないので質問が思い浮かばない。
帰りにバスにのったらバスの座席の上がオープンルーフになっていて、オレとタケでそこにたちあがってバスから上半身をだして騒いで坂をおりていった。
途中、警察の車とすれ違った。
カネコとのブレストは良い感じでイメージがみていく。
「やっぱりあれだ。対話というスタイルがガチンコはまるんだよ!」
とオレ。食堂で食事をした後、地上にあがって帰ろうとするとケンタロウが
「オレボードやってくわ。これ新作なんで」
といって入り口が小坂になっている家にはいっていく。なるほどボードとはキーボードをつかったボードゲームであった。
オッケーじゃあね、と声をかけて家に戻る。
タケがワインを飲むというので食堂でワインでも飲み始める。勧められるが小銭がないからやめようかなと思ってた。
友人に
「ギネスならばしかけによっては無料で飲めるよ」
と教えてもらったので樽に座っていたらサクサクとグラスが並んでギネスが手渡された。良い店である。
しかし、でもそこで発表された論文がつまらないので結局、途中で帰ることにした。戸棚の中にルータが入っていて、それがつまらなさの原因らしい。
投稿者 TKM : 04:05 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月13日
東京復帰
土曜日から福島にいっていた。
昨夜、東京に戻るとあまりもの温度差に驚いた。
暖かいのではなく暑い。
暖房が過剰なのだろうか。
ともかく施設という施設が過度に熱されているように感じた。
映画「もののけ姫」の中で主人公の少女がシシガミの住む池にある小島に負傷したアシタカ(もうひとりの主人公)を連れて行った後、アシタカを抱えた自分の腕のにおいをかいで「人間くさい」と呟くシーンがある。
昨日、上野駅の中央出口を出て大江戸線に向かう地下道にはいったときそのセリフを思い出した。
地下道には暖房と人の人いきれが混じった独特のにおいが満ちていた。
それがいいとか悪いではなくて人間というのは臭いを持っているのだという事を実感したのであった。
++++++
昨夜、夢を観た。
少女がスピーチをしていた。
日本人の少女である。
歳は10代。
彼女は自分が生きている時代や世界について自分がどう感じているかを自分の言葉で話していた。過度な技や情熱的なもの言いではない。自然な言葉であった。話が終わると彼女は自己紹介をはじめた。
綺麗な英語であった。
「私の名前はキョウコです。アメリカ人です。え?日本人にしかみえない?そうですか?でも日本語の細かい言葉を知ってますよ。こんな言葉ってありますよね」
と古語をスラスラと話した。話をきいていて僕はこれからはくだらない議論は失せていきこういうことになっていくのだろうなと思った。彼女の英語は美しかった。日本語も素晴らしかった。彼女はアメリカ人だといったがそこには大した意味がないようにきこえた。彼女自身、それを意識してはいないだろう。
彼女の演説の後でバスにのって移動した。
男の子二人の兄弟がバスを降りようとしていた。
小学校高学年だろうか。まだあどけない。
彼らの後ろの座席には上級生が座っている。
こちらは30後半の年配の上級生だ。
兄弟にとって先輩の存在は別な世界であり、彼らの生活とは異なるルールがそこにはあった。
弟がその男の世界に取り込まれようとしていた。
兄はそれに気づいたがどうすることもできなかった。
バスはトンネルの中をくぐり抜けていく。
時間が分断され過去と未来が交差していく。
兄は席を立ち、過去に歩き始めた。
時間が揺り戻されていった。
投稿者 TKM : 02:33 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月08日
時期はずれだがうちはそろそろお正月
昨日、キッペイから新年のあいさつメールがきた。
正月は沖縄でもバイクに乗るときはダウンジャケットが必要です、とのことだった。
新年は産まれたばかりの息子さんが熱をだしてしまったりと大変だったみたいだが落ち着いたようでよかった。
昨年は「気持ちだよ」というキッペイのコトバを何度も反芻した一年だった。
福岡の野知師匠の所にも昨年は顔を出せずじまいであった。 野知さんは「マチとものがたり」 というプロジェクトを立ち上げ昨年末には書籍も出版された。
今朝はそんなことを思い出しつつ、プロジェクトマネジメント(タクの専門だ)について考えた。
タクもいっていたがガチガチに固めるやり方では個人が持っている力を最大限に引き出すことには難しい。
プロジェクトを成功させるには気持ちが開きやすい場、緊張と穏やかさのバランスポイントといったらいいだろうか、自然に 「もっとこうやったらいいんじゃないだろうか」という気持ちが反復増幅していくようなノリをつくることが重要だ。
これはしんのすけの専門でもあるな。
人の問題というのはその人の能力に原因がある場合もあるけれどやる気とかモチベーションをどう維持したりあげていくかというのが根本的な問題だと思う。 僕なんかもひとりでやっているとやる気が失せてくる時や気持ちが乗らないときがあって、 そういう時はどうしようもないので待つか流れを取り込むかみたいなことをするけれど決定的な解決法にはなっていない。
能力というのは鍛えたり努力すればある程度までは向上していけるものだがやる気のコントロールは本当に難しい。ひとりで報酬もなく、 完成度の高い研究や創作をつづけることができる人々を僕は尊敬する。 ここ200年くらいの科学史などを読んでいると昔のひとはほんとうにすごいとおもう。
昨日電車にのったらサラリーマンらしき3人組が大声で「ウェルチが」とか「ヤフーに対する○○が。思想としての経営は…。 でまた○○に怒られてさー」と話していた。
昨日もちょっと思ったのだがここ一年くらいは「怒られる」という経験がない。
カネコとも時々話すのだがそういうストレスというのは皆無だ。
僕たちの場合は。
「怒る」「怒られる」は基本的にどっちもストレスとリンクしている。
「怒られなければやらない」ならばそもそもやりたくないのだからやるだけでストレスになるし、「怒る」
のもムカつくから怒るわけでストレスだ。どうにもストレスが多いようだけれど何が「怒る」「怒られる」
の原因なのだろうと考えていくと先日のメモにも書いたように「時間」という制限が理由かな、と思う。
時間が無限だったら「時間を守れないやつはムカつく」とか「何遅れてんだ?」みたいな無用のストレス (だって結局遅れた時間が巻き戻せないならムカついたところで何も解決しないし、そのエネルギーは単に無駄だ) は綺麗さっぱりなくなるだろうよ。
そんなわけで時間の問題に注目している。
また、お金という指標も時間とリンクしている。
虚世界が入り込む時間やお金の認識ができたらこの世界、大きく変わるだろうな。
全然関係ないが
これ100年前のカラー写真だそうだ。
カラーでみると突然印象がかわる。
言われなかったら「あー、外国の風景ね」ですましてしまいそうだ。
江戸時代のカラー写真などがあったらどんな感じなんだろう。
案外、時代劇っぽいのかもしれないな。
投稿者 TKM : 11:51 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月07日
戦車とウマと少年とボビーのサイフ
ゆっくりと眠った朝は気持ちがいい。
戦車の夢をみた。
回転する砲台に男はしがみついていた。ぬかるむ地面は雨に濡れているのではない。溶解する地表がうねっているのだ。 50台の戦車型自動車がうねる大地を疾走していく。川へと向かって重機が高速で移動する様を丘の上からみていた。
海のような地面である。50cmの硬地の下には大地の呼吸があった。割れた地表はクレームデュプレに似ていた。 戦車は海と化した大地を進んでいく。
砲台につかまった男はいま何をみているのだろう。
男の視覚に入ってみた。
1mの距離まで近づいた。男の視覚ではない。戦車の視覚だ。この戦車には視覚がある。
男は振り落とされそうになりながらも心の奥底に余裕をもっている。男を振り落とすかどうかは僕が決めるのだろう。
しばらく揺れる地面をみていた。
戦車隊が行進をつづけているころ川のこちら側の草原では馬が草を食んでいた。少年の馬であった。
「チーズを食べたことがあるか」
と少年に尋ねると
「馬も僕もチーズを食べたことはないです」
というので少年とチーズを買いにホームセンターにいくことにした。休日のホームセンターは午前5時にもかかわらず数名の客がいた。 少年にカゴを持たせ、チーズを選ぶ。瓶に入った粉末を固定させた形状のチーズを選んだ。このチーズには蜂蜜がよくあう。 よくみると小さな蜂蜜がセットになっていた。
少年の父親にはビールを買っていってやろうと思った。
二人でレジに並んだ。並ぶのは嫌いだが隣のレジよりも空いているように見えた。
前の客が会計をすませた。
サイフを取り出して支払いをしようとすると
「予約がはいっているのでおまちください」
レジの女性がそういった。50歳くらいのおばさんである。肩くらいまでの長さの髪は歳のわりに綺麗にカットされていた。 この年代の女性のイメージは失敗したパーマネントの髪型という印象があったがそうではなかったので意外だった。
三人でしばらく待つが会計の予約をいれた女性はあらわれない。
10分ほど待った。女性があらわれた。見た目は大きな黒人の女性であった。しかし彼女は同時に日本語を話すおばさんでもあった。
彼女は日本人のおばさんでありながら巨漢な黒人のおばさんでもあった。
彼女の買い物カゴには粒入りピーナツキャンディーの袋が15袋入っていた。
会計をしようとしてレジのマークをみるとカードが使えた。レジのおばさんと入れ替わりでやせたおじさんが会計をしてくれた。 おじさんは紺色のエプロンをしていた。口元の髭は「喫茶店のおじさん」な雰囲気を醸し出していた。
少年とレジを離れるとフランス人のボビーが向こうから歩いてきた。ところでこの店は屋外にある。床はなく足下は地面であり、 草が生えている。棚は普通のホームセンターと同じだ。しかし床と天上はない。店は自然と共生している。
「これからいくのかい?」
ボビーが少年に尋ねた。足下をみると黒いサイフがおちていた。20cmほどの長方形のサイフである。拾い上げて中をひらく。 ファスナーをあけると茶褐色の小銭がはいっていた。
「あれサイフだ。このサイフ誰のですかー」
大きな声で周りの人々にたずねた。
「あー、僕のです。去年なくしたのよー」
ボビーが手をあげてそういった。サイフをボビーにわたすと喜んで駆けていった。
少年と草原に戻ると馬は消えていた。替わりに馬型の木材がおかれていた。背の高い草が風になびいている。
「馬と世界が固定されるのはどうしてかわかるかい?映画の秘密を知っているかどうかが問題なんだ」
背後から声がした。振り返ると男が朗読をしていた。つぶやきといったらいいのだろうか。男はそこに設置されていた。 自律的に存在するのではなくこの世界の構成要素としてそこにあった。男の言葉にはメッセージがあった。 それをくみとるかどうかは少年と僕の意思だ。
男の周囲で風景がほどけていった。
彼は20分前の世界を導こうとしていた。
風景はそのままに時間がまきもどされていった。
戦車隊は時間を行進していた。
縦軸と横軸が入れ替わっていく。
時間と空間が縦軸と横軸におきかえられ、別々のシーンで進んでいく二つの物語がそれぞれのエネルギーを示していた。
男はまだ「映画の秘密について」の朗読を続けている。
投稿者 TKM : 11:22 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月06日
冬の運動会
いつぶりだろう。
ドラマを観た。
「冬の運動会」。
先日、TVをつけたらたまたまやっていた。TVドラマなのにフィルムっぽい映像の質感にひかれて5分くらいみた。
バリカムかなあと思いながらみてた。
なんだったか忘れたけれどセリフが耳に残った。
録画してその日は本を読み続けた。
今日、石井先生とのミーティングの後、カネコとブレストをやった。(エンタングル編、その他の準備ができていなったのだが、これでカツが入った)
3時間くらいやっただろうか。
家にかえってきてVTRを再生した。
植木等と寺島しのぶの生活の風景がなんだか幸夫さんの家に似ていた。
なんだかそのままみてしまった。
しんのすけの奥さんによく「どんな人がタイプなの」ときかれる。
5年くらいまえにみた向田邦子の写真が好きだった。
パラパラとめくっていたらスッとした目に見据えられた。
迷いなんてないようにみえてカッコ良かった。
中学生か高校生の頃に向田邦子の 「あ・うん」という作品をみた。高倉健が主演だった。相手役は板東英二。それを思いだした。 あの昭和の雰囲気とさっきみた「冬の運動会」で男達が安らぎを覚えた家々の風景がかさなった。 人が人とつきあってた時代といってしまってはいまを悲観しすぎかもしれないが幸夫さんの家の居間もあんなだった。
幸夫さんはオレの兄貴分で月島に引っ越して来た頃にいろいろとお世話になった。
ある日、遊びにいったら「よし、御輿いくぞ」と鉄砲洲(銀座のちょっと先)に連れて行かれ、ふんどしに着替えさせられた。
はじめて御輿を担いだ。
先頭をやらせてもらった。
御輿の乗った櫓は想像とは違って異様に重く、肩に食い込んで痛かった。
釣りにも連れて行ってもらった。
当時の自分は彼らとどういう距離感をとったらいいのかがいまいち分かっていなかった。
それもあっていつしか縁遠くなり、ずっと店にも顔を出していなかったのだが、先日、仲間と何年かぶりに幸夫さんの店にいった。
幸夫さんはとてもうれしそうだった。
あの人は人と人でつき合う人だ。
もちろん、ダメなところもあるし「ハァ?」と思うこともある。
それでもベースは気持ちだ。
そういうところが好きだった。
ドラマをみていたら幸夫さんを思った。
日本のドラマには日本の良さがある。
比較優位で考えても日本のコンテンツの優位性はそこにあるように思う。
いつまでも高倉健なノリじゃ進歩がない、と決めつける必要はない。
それはそれでいいはずだ。
役者だってドラマだってそういうものだろう。
それにプラスでいけばいい。
書いていたら、ひさしぶりに「あ・うん」をみたくなった。
投稿者 TKM : 21:56 | コメント (0) | トラックバック
エンタングルなお昼と"Live Forever"
昨夜、カネコとSkypeで打ち合わせをしていたらNTTの研究所にいっているタツキ君もオンラインだったようでお昼に会合が決定。
「そうだ、サダムも!」
とカネコが閃いて新聞記者のサダム君も会合に参加することになった。
Skype効果といったらいいのだろうか。昨年の東京海上でのフォーラム以降、一度絡み出すとバーっと物事が展開していくことが多い。
先日の六本木ヒルズでの会合の際、石井先生はこうした「エンタングルな感覚」 が今後は顕著になってくるのではないかといっておられた。
我々キュービタル研究会の4人を相手に行われた先生の個人講義のビデオをDVDにおとしておこうと思ったがディスクの関係でまだできていなかった。 あれは僕個人が所有するよりも興味のある人と共有すべき教材である。
数冊の量子、および、量子コンピュータに関する文献を読み終えたので講義の内容に対する理解が少しだけ深まった。 量子力学の用語が自分の中でイメージとリンクしているかどうかで講義内容から想起されるイメージが大きく変容してくるのだ。 この感覚は実際に体験してみるまでわからなかった。
話は変わるが今朝はiTuneからhurricaneの「step into my world」が流れていた。 シャッフルでiTuneを流しっぱなしにしてあるのだがこの曲を聴くのは何年ぶりだろう。きいていたらブリティッシュロック、 OasisやBlurの曲を思い出した。
僕は全然疎くて知らなかったがOasisとBlurの確執は有名らしく、映画にもなっていた。"Live Forever"というドキュメンタリーがそれである。出だしだけ観たのだが本人達が出演しておりかなり面白そうだ。
楽しみである。
投稿者 TKM : 11:04 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月05日
Ωの教室と巻き戻された未来
昨夜遅く、モロイさんとSkypeで話す。
年末は埼玉も大雪だったそうである。
駅にはタクシー待ちの行列ができ、家に帰るのに随分時間がかかってたといっていた。あの雪によって人生が変わった人もいたのだろうか。 雪が降らなかったいまを揺り戻すことはできないのだからいってみても仕方ないのだが別ないまの可能性を想像することも全く無意味ではない、 かもしれない。
量子力学的には事象がAであったかBであったかは事象が起こった後に決定することができる。これを「遅延選択」 というのだが自分の人生で起こった様々な出来事も今それをどう捉えるかによって変わってくるなあと思った。
過去の出来事の意味を決めるのは今の自分の思考である。
本屋にいくと人生の指南書みたいな本がたくさんある。
それらのほとんどは思考についての記述である。
どう思考すべきかを論じてある。
昨年、そうした本を何冊か読んでみた。
読んでみてわかったがそれらの本を読んでいる間は恐ろしく快適である。
けれど冷静になってみると「脳が動いていない」という感覚の方が強い。
モードは変わるが自分の本質は変わっていない。
気持ちは盛り上がっているのだが「筋肉」はつかない。
これは面白い体験であった。逆にどういう「読み」をするときに脳や精神の筋肉がついていくのか。
それはそれまで知らなかったことを頭の中に定着させていくという作業をおこなう時である。
新しい回路をつくっていく感覚だ。
これは食の場合も同じであろう。
おいしさへの感性を高めていくには新しい味覚を脳に定着させていくことが肝心だ。食の場合、「味」は「味わい方」とリンクしている。
だから同じ「味」でも「味わい」との関係性から別な意味や価値を見いだすことができる。
話はそれるがふと気づいたことがある。
発する言葉、いや、文章のほうがより顕著なのだが「○○のような駄文」「○○のような稚拙な○○」という言い回しがある。
こうした物言いは「カッコ悪い」。
自分の立場を安定させようとしているのだけにみえる。
駄文といってる間に別なことをしたらいいのになあと思う。
言葉は浮ついている。
ふわふわしている。
だから消えていく。
一方で心に残る言葉もある。
同じ言葉でも誰がどの状況で発するかで意味や印象が変わってくる。
どういう場面だと言葉が人の本質と接しやすくなるのだろう。
人の本性があらわれやすい場面があって、そこにはその人の本質につながる何かがある。
感情の爆発とその先の穏やかな鋭さみたいな感覚はけっこう紙一重だ。
二者を分かつのは思考なのだが思考的な思考ではなく本能的な思考だ。
そういえば大学で授業を受ける夢を観た。
久しぶりに入るΩの教室は記憶の4倍あった。すり鉢状の半円形教室になっており、最上階から教壇までの間には谷間があって、
前方のブロックは教壇に向かって逆向きの坂になっていた。
投稿者 TKM : 14:31 | コメント (0) | トラックバック
「DOGTOWN&Z BOYS」 スタイルという響き
先日、「DOGTOWN &
Z-BOYS 」
というスケートボードの黎明期を駆け抜けたグループのドキュメンタリーをみた。
出演者達はいまは大人で落ち着いているがもとは手のつけられない悪ガキだ。
彼らはうち捨てられた遊園地跡地で危険きわまりないアクロバティックなサーフィンを楽しんでいた「ゼファー」というグループの一員である。
波のない日はボードを真似てつくったスケートと呼ばれる乗物で遊んでいた。それがスケートボードになっていくのだが、ある夏、
カリフォルニアを干ばつが襲った。カリフォルニア中のプールの水がひあがった。
水のなくなったプールをのぞくとスケボーにはもってこいのカーブと傾斜が用意されていた。
彼らは不法侵入を犯しながら町中のプールですべりまくった。そこで生み出された技の数々、スタイルは「エクストリームゲーム」
など現代のスケートボード競技の礎となった。
作品は彼らの若き日の映像といまの映像を交えつつインタビューによって構成されている。
僕は大人になった彼らの醸し出す独特の雰囲気にひきつけられた。
不良ともヤクザな雰囲気とも異なる。
反体制的とも違う何かだ。
「何がどう違ったのだろう?」
中盤近く、ショーン・ペンのナレーションがはいる。
編集のうまさもあるのだが彼らの答えがカッコよかった。
過去を追想しながら彼らが口々に言う。
「スタイルだ」
「重要なのはスタイル」
「スタイル」
「スタイルなんだ」
「技術じゃない。スタイルだ」
彼らはすでに大人である。
中年を超え、成熟期をむかえつつある。
けれど芯の部分に老いとは無縁の独特な野生、濃い別な何かを感じさせる。
「スタイル」
その言葉は心に響いた。
言葉がフラついていない。
「スタイル」という言葉が本来の意味をあらわにし、生々しい質感とともに自分に問いかけてくる。
この感覚は素晴らしかった。
これまでの自分のものの見方や人との接し方を思った。
嘆きたくなったり、頭に来たり、文句を言いたくなったり。
いろいろな時があるけれど大事なのはスタイルだ。
素直にならないということではない。
感覚や感情には素直であっていい。
何をやっていたっていい。
大事なのは自分をごまかしていないかどうかだ。
環境や評価、外部から持ち込まれる価値観とスタイルは別物だ。
スタイルは外部からの拘束とは無関係であり、自分の本性とリンクしている。
自分を裏切っていないか。嘘をついていないか?
それが本質的な問題であり、その考え方がスタイルの本質なのだと僕は思う。
2005年になってきいた言葉の中で一番心に響いた一言だった。
※「オールド・ボーイ」 (映画ではなく原作の方)の主題も同様に「スタイル」についてであった。
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投稿者 TKM : 04:35 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月04日
2005年の正月と私の日常
年が明けてからは生活のパターンができてきた。
それによって食が安定した。
それが一番うれしい。
いや逆か。
食の安定によって生活にリズムができたのだ。
何をやっているわけではないのだが昨年にくらべるとマシになった。
昨年は本を読むにも、仕事をするにも、何をするにもリズムが悪かった。
最初の一歩といったらいいのか、その一歩がどうにも踏み出せずにいた。
元旦から量子論の本をずっと読んでいる。
慣れない分野なので社会科学系の本と違いなかなか読み進めることができない。
それでも少しづつ、数式やら概念が頭の中に定着してきた。
昨日くらいからどうにかストレスなく読み進めることができるようなってきた。
ネットでは量子関係の最新論文がたくさんアップされている。
http://xxx.lanl.gov/archive/quant-ph
上記のサイトでそうした最新の論文を閲覧できる。昨日みたら早速2005年づけで"Experimental Free-Space
Distribution of Entangled Photon airs over a Noisy Ground
Atmosphere of 13km"というタイトルの論文がアップされていた。
パラパラと読み進めると中国の大学のグループが提出した論文だった。
詳細な内容はわからないが読んでいたら量子論ではおなじみの「ボブ」「アリス」 が登場してきてなんだか嬉しかった。この二人の名前は通信について記述するときに慣習的に使われる。 ボブとアリス、あとよくでてくるのはイブ。日本だったら太郎とか花子になるのだろうか。 と全然違うことを考えてしまった。
投稿者 TKM : 23:09 | コメント (0) | トラックバック
絶対零度の寿司を食べる『これが零度斬りです』
寿司を食べる夢をみた。
詳細はおぼえていない。
なんだかたくさん食べていた。
カウンターの向こうでは寿司競技がはじまっていてマグロやらなにやら刺身の盛り合わせの切り口を競っている。 問題はそれぞれのネタが絶対零度であることである。そのため盛りつけは円形に行われる。
「これが零度斬りです」
とアナウンスが入るが僕にはその良さがわからない。
とりあえず食べていた。
お寿司が好きだという人は多い。
友人にもそういう人がたくさんいる。
僕は好きでも嫌いでもない。
おいしいなと思う時もあれば面倒だなと思うときもある。
面倒だと感じるのは食べているのに食べることに集中できず落ち着かない時である。食は基本的にエンターテイメント、楽しみであり、 コンテンツであると思っているから、いちいちこちらから声をかけなければならないような「手続き」は蛇足だ。
「うまいものを出すこと」それに集中するのは誰でもできる。
問題はそこから先なのだ。
コンテンツとして食をとらえなおすとそこでは「気持ち」が問われる。
「そんなものなくたってうちはお客さんがいるし、バンバン儲かってるよ」
という店もあるだろう。しかしそれはトレンドでしかない。消費的行動に支えられた商業的成功は食というコンテンツを疲弊させていく。 その傾向は驚愕すべきスピードで加速されコンテンツとしての食は見せかけだけで中身がないものにすり替わっている。
こじゃれた店舗。
暗めの照明。
○○風な内装。
コンビニレベルの食コンテンツ。
ダイニング系の店のほとんどがこの傾向にある。
その手の店がはやるのは消費的なニーズへの回答なのだろう。
それは食ではなくスタイルの消費である。
店舗以外の部分ではコンテンツ性を持たない希薄さに辟易するとともに妙な既視感を覚える。
そうした場にいくといつも思う。
「何故この人たちは好んでこの店に来て、こんなもの (決してマズくはないがおそらく適正価格の5倍くらいの値段であろう)を喜んで食べているのだろう」
本当にそう思うのだ。いつも。
飢餓にあえぐ人々とか明日の食にも困っている人もいるのに、という話はなしだ。
これはコンテンツとしての食の話である。
僕は本心から思う。
この人々は何故この店にくるのだろう。
何故、適正でないこの価格に疑問を抱かないのだろう、と。
やまけんのブログで「美味しいものは高くていいはずだ」という意見があった。
高い店と言われる店はサービスと商品のクオリティをみればわかるが実はさほど高くない。
けれどその差は目に見えるわけじゃない。
問題はここだ。
その違いはボーダーラインがひいてあって「ここから先でレベルが変わります」
と表示されているわけではない。
なので見かけだけは「それっぽい店」をつくることはそれほど難しくない。
視覚的な店といったらいいだろうか。
そこでは「味」と「味わい」は問われない。
大事なのは「見かけ」である。
「見かけ」に重点が移行しているのだ。
といってはみるがこの傾向は止まらない。
傾向は傾向として認めなければならない。
その上で方法を考える。
そういうアプローチが必要なのだ。
統治や経営もそうした人の力学を取り入れる必要がある。
テコを効かせるのにもそれなりのやり方があるはずだ。
投稿者 TKM : 15:16 | コメント (0) | トラックバック
“考え方”が動き出す 「佐藤雅彦研究室のアニメーション・スタディ」
“考え方” が動き出す
「佐藤雅彦研究室のアニメーション・スタディ」
▽佐藤雅彦研究室が生む新しいアニメーション▽脳科学とアニメ▽数学と表現▽CGで見る概念
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス・佐藤雅彦研究室がおこなっている概念やコンセプトをビジュアライズ、 アニメーション化していく研究が番組化されていた。 数式ばかり読んでいたら頭がグツグツしてきたのでハーっと息をつきながらパラパラとページをめくっていたら偶然番組の情報をみつけた。
すでに放送開始から13分が経過していた。
丁度、八分木を使ったアニメーションの場面だった。枝分かれしていく概念図に沿ってオブジェクトが分散、
再構成していく様がアニメーションになっている。
それがなんなのかを問われると僕にもうまく言えないがルールにそって概念が事象に変換されアニメーションになっているのをみていると引き込まれていく。
そこには「悲しい」とか「楽しい」という情的な意味はあまりないように見えた。映像はかわいいものもあればポップなものもある。 モードとしてはアニメなのだがストーリーを持たないアニメーションである。
冒頭で概念のビジュアライズという言い方をしたけれどまさにそんな感じだ。
こればかりは実際に映像をみてもらわないと説明できないのでどうしようもない。
いくつかメモをとったのでそのことについて書いておこう。
作品の多くは何らかの概念に基づいて作成されている。
僕がみたのは途中からだったので第二部以降を視聴した。プログラム、脳科学という二つのテーマをベースに制作された作品群であった。
面白かったのはプログラム編では 「信号」という作品、脳科学編の方では
「single trace」という作品だ。
信号機は赤黄青という色情報が決められた時間に沿って変化する。 作品では信号の色をビジュアライズし信号の丸い窓に向かってゆっくりと伸びていく線として表現していた。この感覚は新鮮で素直に 「うまいなあ」と思った。
「single trace」の方は言葉で説明してもなかなかイメージがつかみにくい。画面には三つの長方形の箱がある。 真ん中の箱をランダムに30個くらいのドットが浮遊している。この状態だと単なるランダムな点のアニメーションである。 次ぎに上の箱に一つだけ点があらわれる。上の箱の点は真ん中の箱の点のひとつと同じ動きをしている。しかし、 それに気づくまでは少し時間がかかる。
次ぎに下の箱にも上の二つの点と同じ動きをする点があらわれる。すると瞬間的に三つが同じ動きをしていることに気づく。 この切り替わりの瞬間が面白い。自分の意識とは関係なく、視覚的に動きを認知しているのがわかる。
なんでなんだろうな、と自分も不思議だったが佐藤雅彦教授も不思議だったらしく、慶應大学の医学部の研究室を訪れ、実験を開始する。 実験の結果も興味深かったのだが僕が「面白れーなあ」と感じたのはこうした作品がなんなのかわからないところだ。
確かに絵は綺麗だし、かわいいし、面白い。けれどそれは楽しさとも違うし、美とも異なる。
「これは一体なんなのだ?」
考えてわかることではない、と思ったがひとつの言葉が浮かんだ「キワ」という言葉である。
これらの作品から想起される感覚は先日、石井先生がいっていた「知・情・意」の狭間にある。(僕はそう感じた)
更にこれらの作品の面白さの基幹部分には認識がズレる感覚、自分の言葉でいうと「視点の転換」「動いていなかった脳の部分が動く感じ」 があって、僕たちが知っている面白さとは異なるタイプの面白さなのだ。
これらの作品を面白いと感じるのは本能的な反応だ。
けれどそれはストーリーの面白さではない。
概念の面白さでもない。
知的な面白さとも異なる。
ではなんなのか?
佐藤雅彦教授はさすがに言葉が上手だ。
研究室の黒板にチョークで
「entertainmentからinterestへ」
という言葉を書いた。なるほどなあ、うまい。確かにそういう感じなのだ。
こちら側が入り込む必要があるけれど勉強や知識によって入り込むというやり方ではなく、本能的な反応を利用してユーザ・
視聴者を作品世界に参加させ、そこで自分の認識や脳の機能によって作品を体験する。
メディアアートにはこの種の面白さを利用した作品が多いが、アニメーションという視覚表現に絞り込んでいるだけに作品は直感的で
「わかりやすい」。
また時間の拘束による世界への没入を強いることがないので負荷も低い。
アート系の映像表現の最大の欠点はここにある。映画を含めてある程度の時間を作品世界で拘束しないと感覚が伝わらないのだ。しかし、
その拘束があるからこそ成立する感覚もある。
が、情にどっぷりと入り込むわけではないから情的な感覚が激しく揺さぶられるということもない。それが問題であるとも思わないのだが。
概念やコンセプトをアニメーションという手法でビジュアライズする、というある種の流派だなと思った。 いやスタイルという言い方の方がしっくりくるかな。よくこういう世界を考え出し、つくっていくものだ。 佐藤教授は静かだがなんといったらいいかな信念みたいなものを感じた。そうだ、迷いがないのだ。研究者的なんだよな。それが興味深かった。
番組をみてあることを想起した。
自分は何の為に何をやっているのかという問題と関連しているのだがそれはまたの機会に。
かなり有意義な40分間を過ごせた。
そうだ最後に番組では研究室での授業の風景が時折流れるのだけれどこのフィルム映像が素晴らしかった。
同じ映像でもあんなに違ってみえるのかと思うくらい「重み」とか「雰囲気」があった。大学の研究室っていいなあと思った。
ナレーターのピーター・バラカンがまたいい味をだしていた。
最後のテロップをみたら番組も佐藤雅彦教授の手によるものであった。なるほど。
慶應大学もこういう番組を週に10本くらいつくったらいいのに。
◆関連URL
佐藤雅彦オフィシャルホームページ
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オリジナル発想のヒントがここにある
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投稿者 TKM : 00:31 | コメント (2) | トラックバック
2005年01月03日
地下室の攻防
ドラマな夢をみた。
男は地下室に降りていく。
彼は扉を閉めようとする。
重い扉である。
扉を開き50cmくらいの黒いケースを中に押し込む。
自らも入ろうとする。
「あなたを信用できない。ガムを貸して鍵を壊すわ」
「何をいっている。ここを閉めなければ殺られるぞ」
「はやくガムを。でなければ通せない」
男の娘は頑なであった。二人の視線が対立した。男が折れた。娘は鍵へガムを詰めた。これで世界と向こう側を隔てる扉は開かれた。 鍵はもはや機能しない。二人が扉の向こうに入ったその刹那、数人が階段を駆け下りてくる。
「奴らはこちら側にくるぞ」
「わかってる」
鍵を破壊したのは間違いだったと気づいた。
今回は本物であった。
男は実体であった。
部屋に入り扉を閉める。鍵はかかっていない。だが見た目にはわからない。彼女は扉を閉じた。 急いで2mくらい向こうにおいてあった木の箱を扉まで押していった。
「どうした?開かないのか?」
扉の向こうから彼女を呼ぶ声がする。
「鍵があるの。だから開かない」
そう答えてから壁際においてある冷蔵庫に気づいた。
「あれも使う」
「わかった」
二人は冷蔵庫を扉まで押していった。
「長くはもたない」
「わかってる…」
鍵の存在が重くのしかかる。何故あの場面で鍵を破壊したいと思ったのか。何故、封印をためらったのか。考えるが答えはでない。 時間は迫る。
「朝になる。時間はない」
男は船の準備をはじめた。床におかれた布を払うと風のような物質でできた船が二艘あらわれた。全長は4m。 見た目は時代劇にでてくる川船ににている。しかし船を構成する木片の厚みは5mmに満たない。風の船である。
船体に黒いケースやその他のボックスを乗せていく。
外界へとつづく開き戸をあける。眼前には道路とその向こうに水深の深い水田が広がっている。船出には道路を抜け、 水田へと船を押し出す必要がある。
「どうしてもいきたい」
彼女は男にいった。
「わかった。お前の命を預けろ」
男はそういって開きかけていた扉の方へ向かった。彼女には男の言葉の意味がわかった。振り返らなかった。 外界へとつながる扉の向こうで妹が待っていた。
「はやく」
妹に声をかけ二人は船を押し出した。驚くほど軽い。10kgもない。振り返ると扉が開き始めていた。妹が父親の不在に気づいた。
「どうして?」
「わかってる。間違いだった。でもいかなきゃならない」
彼女は悔しさに顔をゆがめた。それから二人は船を押し出した。船は坂をのぼり道路を越え、水田へとこぎ出した。 水田の真ん中あたりを小川がはしっている。そこまでいけばいい。それだけを考えた。
鍵の事は考えなかった。
扉の事も考えなかった。
明け方が近づいていた。
投稿者 TKM : 16:36 | コメント (0) | トラックバック
エンタングル雑感
散歩から戻ってきてお茶をいれていたら 大往生という記事を見つけた。
普段は読まないでとばすようなタイトルだ。
読み進めると途中から引き込まれた。
タイトルのことなど忘れ、文中にでてくる祖母という人がどんな人なのかイメージを膨らませた。
読み終えてから昨夜の出来事を思い出した。
珍しく母から電話があった。
近くの親類が亡くなったそうだ。僕はほとんど交流がなかったが母によればその方は90歳くらいでとても若い人だったらしい。
「もう、皺なんかなくて。わたしなんかよりも若いくらいよ」
と言っていたがいくらなんでもそれはないだろう。とても元気で若々しかったその方が昨日、亡くなったそうだ。
その一週間前、母の所にその息子さん(といっても60歳すぎだろうな)から突然電話がきたそうだ。 普段もそれほど頻繁に往き来することはなかったので「珍しいなあ」と思ったそうだ。
干し柿をつくったのでいらないか、との電話であった。母はうちの妹が干し柿好きなのを思い出した。
「ではいただきます」と返事をするとまもなく箱に入った干し柿をもってきてくれて父を交え3人でしばらく茶飲み話をした。
とりたてておかしなことはない平凡な午後の風景なのだが何十年も近くに住んでいてそんなことはあまりなかったので「なんか不思議な感じねえ」
と思ったそうだ。
明けて1月1日、夜。
近所で救急車のサイレンが鳴った。
騒ぎ好きの父がみにいくと先週干し柿をもってきてくれた方の家で何かあったようだ。
翌日、その家のおばあさんが亡くなったことがわかった。
「そんなことがあったのよ。なんかそういうことってあるもんなんだねえ、と思ったわ」
と母は電話でいっていた。
干し柿と救急車という事象は直接は関連していない。
そこに関連性をみてしまうのは人間の認知の問題である、とはよく言われる。
しかし量子論の世界だと情報の伝達がないのに事象が連動する不思議が頻発する。
光子間で光速を超える通信が不可能であるだから量子論はおかしいというEPR(アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン)
パラドックスはパラドックスではないことが実験によって証明されている。
エンタングルという現象について調べていけばいくほど現実には上記のようなことはある種の条件下では頻繁におこり得る、と思えてくる。
フラクタル模様ではないけれどスケールがずれるとそこにパターンの共通性があらわれる。
これは何も不思議なことではなくある種の法則である。
清田さんは「リアルインターネット感覚」
といっていたがその感覚はスケールをずらしたエンタングルな現象のように見える。
昨夜から10年ぶりに科学史を復習しているのだが不思議な感覚だ。
100年も前の人が原子について研究していたり、レントゲン発見の瞬間などほとんど偶然としかいいようがない。
それらの物質なり現象なりは1000年前も1万年前も、現在も同じように存在している。
それはどういうことなのだろう。
明け方に散歩しながらそのことについてずっと考えていた。
量子論の影響は「NP完全」「充足化問題」へも及ぶ。
創造性という全く縁遠いように思われていた分野まで関連してくる。
創造とは選択なのだろうか。
言葉に関してだけいえばそうかもしれない。
文章は量が限定されないかぎり無限に可能性の広がる50音の組み合わせだ。
けれど10万字、20万字という限定された文字数の規定を設けるならばそこに存在しうるあらゆる文字の組み合わせの数は限定できる。
選択肢は宇宙的な規模にまでふくれあがるが無限ではない。
わかりやすいたとえでいうと32枚のコインを放り投げる。
コインは裏と表にわかれる。何枚かは表になり何枚かは裏になる。
投げるまではコインがどうなるかはわからない。
けれど投げられる前のコインの状態はもあったはずだ。
投げられたコインから投げられる前のコインの状態を特定することはできないと思われているがこれができたらどうなるだろう。
作品を投げられた後のコインのようなものだと考えるならば無限の選択肢から一つの選択を選び出す方法がわかればその逆もできるのではないだろうか。
これは「NP完全」の変形版といっていいだろう。
こうした考えを更に大胆に発展させていくとペンローズの「量子脳」という考え方になっていく。
ベースになっているのはタンパク質分子の折りたたみという現象だ。「量子脳」
という考え方はイメージしやすいだけに面白いのだがピースが一つ欠けている印象を受ける。そのため反論も多い。
それにしても科学の世界は面白い。
思っていたのと違ってかなりの部分で人間的、思考的である。
※最近、よくこの分野の話題になる。石井先生にいわれたように知情意の「情」からの説明をできるようにしたい。
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投稿者 TKM : 08:39 | コメント (0) | トラックバック
DSで通話
ウトウトしていたら夢を観た。
月島の三角公園の近くでドラマの撮影をしている。その様子をチャンネルを変えながらみていた。
主演は両方とも有名な女優だ。今井美樹もでていたように思う。
ナガタ二尉と待ち合わせてゲーム会社の寮に向かう。ナガタ二尉は近くに住んでいる。撮影が始まる前にカネコと打ち合わせをした。 米国のゲーム会社のオフィスが公園の近くにある。オフィスにいくと1階のはしが風呂場になっていてプールの形状をした湯船がおいてある。 その湯船で打ち合わせをした。場所がないのだ。
しかしこれは米国では一般的な様式らしく社員は「ヤア」などとこ声をかけてくる。 薄いブルーのシャツをきたボールドヘヤーの男性が中央のテーブルで議論をしている。
「そろそろ時間じゃないかな?」
時計をみると待ち合わせの時間が近づいていた。カネコとの打ち合わせを終えて、外にでる。まだ撮影は続いている。 ナガタ二尉はすでに公園に到着していた。
「ご無沙汰してます」
と挨拶もそこそこにナガタ邸に向かう。今日はDSとPSPについて研究会を催す予定だ。早速、PSPをわたして画面を確認してもらう。 カバンからPSPを取り出すと実機の2倍ほどの大きさの画面サイズの端末であった。
「この画面。大きいですね」
「そうなんですよ。現在、リッジレーサーしかないのですが酔いますね」
そんな会話を交わした後にDSの解説をしようとDSも取り出す。
「こちらはオモチャという感じですね」
取り出したDSを起動させるとピクトチャットが立ち上がった。同時に画面にははじめてみるゲームタイトルが映し出されている。 「ヨッシーファイト」というゲームらしい。どうやらさっき打ち合わせをした際にカネコの本体を間違えて持ち帰ったようだ。
プルルルー
プルルルー
DSから呼び出し音がしている。ん?
いぶかしげに下画面をタップすると
「もしもーしカネコでーす」
なんとカネコの声がする。何事だろう。DSは通話ができたのか?
「あれ、通話機能ってあったんだっけ?どうなってんの」
「本体、逆になっちゃったよね。これから取りに戻るわ」
「あ、わかった。いま、ナガタ二尉といるんだけれどこれ話せるんじゃない?」
「お、いいね。こんにちはー。カネコでーす」
テーブルにDSをおいてナガタ二尉にも話てもらう。
「こんにちはナガタです。きこえますか?」
二人は会話を楽しんでいるようだ。ほとんどSkype状態だがこの機能は素晴らしく楽しい。DSが端末になるのか。えらく感心した。
TVをつけると公園の撮影は終わったようで番組は終盤にさしかかっていた。謎は依然のこされたままだが感じとしては終幕に近いだろう。 風呂場の電気をつけようとしたら今日が何日だったのか忘れていることに気づいた。
投稿者 TKM : 02:02 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月02日
今年は酉年だったのか
アソブ研・カネコから年賀状がきていた。
それをみて初めて2005年が「酉年」であったことを知った。
干支というと思い出すのは築地にある干支ビルだ。
ビルの周りが干支のレリーフだったかで飾られている。
バイト時代はよくそのビルに出入りしていた。
子供の頃にキツネがニワトリをとっていくという話をよく聞いた。 死んだ爺さんがタヌキの話やらキツネの話をよくしていたのだ。 当時はキツネにバカされて店だと思って田圃で酒を飲んでいたおじさんの話だとかをよくきかされた。
他にも覚えているのではキツネ狩りと称して雪で隠れ家をつくってのぞき穴からビールの瓶を滑らせたら相手は人間でよほどの衝撃だったのかホントにその場で飛び上がってマンガのように駆けていったそうだ。 いま思えば結構、酷い悪戯だがやってる方はキツネからの防備だと思ってやってるから本気だ。
僕が小学生の頃はさすがにもうそんな感じではなかったけれど戦時中はほんとにトトロの世界そのままだったと思う。 学生時代に寮の仲間5人が実家に遊びにきた。夏だったので水田が綺麗だった。 母の勤めていた小学校でイモ掘りの行事があるというのでみんなでサツマイモを掘りにいった。
高台にある小学校からは水田が一望できた。
眼前に広がる水田はみずみずしく緑に輝いていた。
夏の風景だった。
投稿者 TKM : 20:49 | コメント (0) | トラックバック
使えるソフトを発見!ブログクライアント「ユビキャスト」
先ほど久しぶりに画像を使った説明のあるエントリを追加しようとしたら、
その作業をMTのインターフェースを使ってやっている自分がとてもローテクな感じがしてBlogwriteを使おうすると既に使用期間が終わっていたので別なソフトを探してみる。
無料で使えるユビキャストというソフトが見つかった。早速インストールしてみる。 アプリケーションを起動させ簡単な接続ウィザードにそってIDなどを入力していく。 インターフェイスのデザインはBlogwriteよりよくできている。 画面によけいなものがないからマニュアルなどみなくてもサクサクと編集できる。 一つ前の鮎釣りのエントリーはこのソフトを使って投稿してみた。
画像の張り込みも簡単だし、画面も明るい。 おそらく機能的にはBlogwriteの方が上なのだろうけれどBlogwriteはプログラマー的というかプログラマーが使って便利な感じで僕たちが使うには機能が多すぎて少し野暮ったい。
HTMLコードの編集に外部エディタを使わなければならないのとリンクを別ウィンドウで開くというオプションがないのを除けばユビキャストでおおむね満足である。 まだベータ版ということなので正式版ではこれらの機能もサポートされるといいな。 エディタが変わると書く文章にも影響が出るというのが僕の考えなのだが実際、 ユビキャストの方がブログライトよりも書いていて気持ちがいい気がする。
※ベクターにユビキャストのレビューがありました。
投稿者 TKM : 17:08 | コメント (0) | トラックバック
鮎の釣り方
久しぶりに徹夜。
能率はあがってるのだろうか?
眠っていたら電話の音。
バイブレータにしてあったのだが気づいたようだ。
「お前、正月はいつかえってくるんだ?」
と父の声。確かに帰るならば今日くらいしかない。
しかし6日にミーティングがあるのでそれまでにやっておきたいことがある。量子力学関係の本をあと数冊読んでおきたかった。
昨日までは今年は帰れないと思っていたのだがこうして電話がくると田舎の正月も悪くないなと思い返したりもする。
電車の本数が少ないので田舎に戻るのにも自分の都合ではなく電車の都合に合わせなければならない。 ぐっすりと眠って夢の中で考えよう。久しぶりにベッドで眠った。
夢はバラエティに富んでいて最高であった。
鮎釣りにいく夢だった。
実家の玄関のドアを閉めようとすると鍵がドアの開閉部分とヒンジの内側の二カ所についていることに気づいた。 新型の鍵だ。ドアを一度明けて内側からヒンジ部の鍵をかけ、外にでて本鍵をかける。
これで準備万端である。
ところが竿をもってくるのを忘れた。
もういちど部屋にもどる。
玄関をはいって奥の物置と化している部屋へいく。
友人に貸すぶんを含めて竿は2本必要だ。
竿ケースをあけて何本か選ぶ。
3.6mの竿だと少し短い。
5.5mの万能竿をつかんで玄関にもどる。
「これでOKだろ。テンカラでやってみろよ。 禁止されてるから見つかると怒られるけれど時期はずれだから入れ食いの可能性あるぞ」
と友人にテンカラを勧める。テンカラとは毛針を使った釣りのことである。
テンカラで鮎を狙う場合はドブづりと複数の毛針がついた仕掛けにウキ重りをつけて水面を流す
オランダ釣りという方法の二つがある。
ドブづりの方は初心者にも楽しめる釣り方で長めの竿に短めの仕掛けをつける。
仕掛けは左記のような形になっており、一番下に天秤つきの重り。その上に数個の毛針が配置される。
水深が1m以上ある川の深みでこの仕掛けを上下させると鮎が餌と間違えて毛針に食いつく。 魚影の濃いポイントにいけば一度に2~3匹の鮎が面白いように釣れる。 友釣りなどの伝統的釣法からすると邪道とされるドブ釣りだが面白さは格別だ。
オランダ釣り(名称は違うかもしれないが僕たちは勝手にそう呼んでいた)
の方は更にたちが悪い。
ドブ釣りの場合は釣場が水深の深いポイントに限定されるため鮎釣りの主要ポイントとなる水深50cmくらいの流れの速い場所では使えない。
そのため友釣りの人たちとかぶることはないからトラブルも少ない。(いや実際、
小学生にとって釣場にいる大人の多くは野蛮人か獣な存在であったのだ)
ところがオランダの仕掛けの場合はウキで囲まれた複数の毛針を水面で流す釣法なので水深には関係なく楽しめる。どんな場所でもOKなのだ。
そしてこの釣り方がまたバカみたいによく釣れる。そのため普通の河川では禁止されていることが多い。
禁止されているけれどこちらはたくさんつれた方が楽しいからやりたくなる。 というわけで僕たちは秘密のポイントなどでこれらの釣り方でガンガンに釣りまくっていた。怒られたことは一度もない。 というのは大人の方も監視員などの四角野郎以外は「まあほどほどにしろよ」な感じでおおらかなのだ田舎では。
ちなみに駐車禁止の取り締まりなんてものは田舎にはほとんどない。 土地が余ってるというのも理由の一つだけれどそういうセコい通報をする人が圧倒的に少ないのだ。 反対に誰が何をやっていたかなんてことがすぐに知れ渡ったりする嫌なところもあるけれどおおむね自由ではあった。 友人の高校生にきいたら最近はかなり四角野郎ばかりになってしまっているそうだ。もったいない話だ。
そんなわけで僕たちは意気揚々と川に出かけた。 すると堤防のあたりに駅ができていた。こんな場所に駅などなかったはずなのに。駅は斜面につくられていた。草原の緑がまぶしかった。 本が落ちていたので拾ってページをめくると2ページ目の著者がバシ師匠であった。
「おー、バシ師匠だ!」
思わず声が出た。
「そーなんだよ。カガヤ君、僕もねまあね」
と師匠が駅の床下から登場した。 いつになく爽やかなので
「やりましたね!」
というと
「今回は地蔵の特集だったのでラッキーだったけれどね」
とにこやかな返答であった。では、と。祝杯をあげることにした。
釣りはこの次だ。
近くの温泉コンビニにいくことにした。
温泉コンビニとは温泉がコンビニになっているのだ。コンビニが温泉ではない。似たようなものだけれど二つの違いは大きい。
温泉コンビニの場合はコンビニ機能はあるけれどモードは温泉なのだ。
二階の角の席についた。座敷である。 黒人の店員が注文を聞きにきたので
「じゃあ、3時のチケットをお願いします」
そういって話をつづけた。 座敷の隣のテーブルには15歳くらいの女の子とその母親らしき女性が座っている。女の子が
「じゃあ、その星までの距離ってどうはかるんですか?」
と話しかけてきた。 難しい問題だったのでふすまの向こうにある星空間ディスプレイをつかって説明することにした。
「たとえばこのマウスがあるじゃない。 このポインタで軸をみながら空間を星界におくっているんだよ。そこから計測されてポインタがここにかえってくる。 それが距離と時の和になってる」
「それだと脳空間は対応しているの?」
母親が声をかける。彼女は研究者だ。以前、 ブラジルにいったときにあったことがあるのだが当時は物理世界の演算概念について生理学的なアプローチで論文を書いていた。 彼女に言われてしばらく考えていると店員がチケットと一緒にビールをもってきたのでカンパイしながらマウスのスイッチについての議論を続けた。
アタマからメールがきていた。
星の時間についての解説だった。
少女に挨拶をして駅に向かった。
駅は地上にあるが電車は地下を走っている。
乗るべき電車はきていた。
改札にチケットを通すと乗車までの時間が表示された。
残り時間は9分だった。
今日という日の残り時間だった。
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投稿者 TKM : 16:23 | コメント (0) | トラックバック
Brainと元旦

なんとなしに昨年の自分のブログをみていたら上記の絵を見つけた。
そういえばこんな絵を描いていたのだ。
小学生の頃から絵を褒められた記憶はない。
習字や書き初めというものが大嫌いだった。
「上手」とされる形をつくるのがあまり上手ではなかった。
あの頃に字が上手かった人たちはいま何をしているのだろう。
小学生の頃に絵がうまい友人がいた。
タカダ君という同級生だ。
彼はホントに絵がうまかった。
当時は写真のような絵を描ける人が「上手い」のだと思っていた。
そういう人が美術の成績がよかったのだ。
それが何なのかを教えてくれなくても感覚を議論というか話し合うみたいなことがあったらなと思う。
あの頃にピカソやマティスの絵をみたかったし、どう感じるかを小学生同士で話したらどんな議論になっていたのか。子供の頃にやっておかないと不可能なことってたくさんあるのだ。
あの過酷な環境下で先生方はそれぞれよくやっていたとは思う。
授業中にいきなり叫び声をあげて校内をかけまわる生徒もいたし。
あれだけばらつきがあったら教える方も実際かなりキツイ。
小学校、中学校、高校を通して仲間と過ごした時間や行事・イベント以外の記憶はほとんどない。
僕の世代だと学校の記憶というとだいたいそんな感じではないだろうか。
プロが持つ緊張感というものを感じたのは大学にいってからだ。
「自分は生の情報に触れている」という感覚があった。
元旦は本を読んでいたらひさしぶりに頭がパンク状態である。
数学的な概念がイメージとなかなかリンクしないのである。
けれど一度リンクができると計算や考え方が意味することがなんなのかが感覚的にイメージできていく。これは不思議な体験だ。
量子、電磁波、最先端のCPUなど研究所でやっている研究というものは言語の異なる異世界の人々にだけわかるものでブラックボックスの中は我々にはイメージすることなど不可能だと思っていた。
けれど少しだけその覆いをはずしてみると「エッ!そういうことなの。なんかあれだな、やっぱり人間がやってることって人間っぽい思考なんだな」と以外に身近な感じがした。この感覚はとても面白く、複雑なんだけれどその中身、奥の方にはやっぱり人間ぽさがあると、何故か楽しいのである。
いろいろな人がいろいろなことを考えたりやったりして今を過ごしているのだろう。
いろんなブログをみていたら人というのはほんとうにいろいろなことを考えるのだと感心してしまった。
世間がどうなっていて、メディアがこうなっていて、そこで言及された事件や問題はこの人のこの考えに照らして何々的であるから、それが時間的な意味でこうなっていて、それがゆえにこの問題は○○的である。
みたいなテキストがたくさんあった。
いずれのテキストも実体験とはリンクしていない。
なので僕には響いてこない。
思考のパズルというか言葉のこねくり回しで「で、それがなんなの?」と思ってしまう。あれらは政治的な議論や思想的な議論というのだろうけれどあれが何なのか正直いってわからない。
言葉が言葉をつくりそれがまた言葉と絡み合って、とコピーがコピーをみたいなのが続いている。
「なんでこの人たちはこういう遊びをしているんだろう」
ある人は
「この記事を書くのに250のブログのエントリを読みました。それらを切って並べてそれからこの記事を書いてます。…ネットで検索もせずに書き始める人が多すぎます。それでは質の高いものは書けません」
みたいなことを書いていた。
なんだろな、と思った。
この世界に60億からの人がいてブログの記事だって英語のを混ぜたら一生かかってももう読むのが不可能なくらいの量がある。量を読みこなして質に転換していくというアプローチはもう限界点だと思うのだけれど。
いや何がいいたいかというと人の意見をたくさん読んでベースをつくって書く、みたいなやり方はひとつにはある。でも、もっと大切なことがあって、それをインプットとして入れた後の思考の方だ。一番大切なのはそこじゃないのかな。
その人の「声」といったらいいかな。
それがきこえてくるかどうか。
僕はそこが一番気になるし、大切だと思っている。
投稿者 TKM : 03:35 | コメント (2) | トラックバック
2005年01月01日
「PRIDE録画した?」と党首から新年の電話
1月1日、元日。
お昼前。
トゥルルルルー
トゥルルルルー
トゥルルルルー
突然、電話の音が鳴り響いた。
「あけましておめでとうございます」
と食い倒れ党・党首やまけんからの電話であった。
しかしかなり衰弱しているように聞こえる。
「あのさー。昨夜のPRIDEどうだった?」
「あれ観てないの?これまでのPRIDEでも最高の試合だったよ」
「なにぃ~…。…録画したんだけれど標準でとっちゃって最初の1時間くらいしかないんだよね。先生、録画してませんか…。熱だして、倒れてます…」
なんと党首はPRIDE史上屈指の名勝負が連発した昨夜の試合を録画ミスしていたのだ。僕は昨夜はオカダハウスでスカパーの方で観戦したため録画していなかった。
「そうかー。録画ミスったか。残念。ホントにこれまでで最高レベルの試合だったんだけどオレもスカパーでみてたので録画してないんだよ」
「そっか…。誰かとってないかな…。グスン…」
というわけで熱に倒れた党首やまけんがふせっておりますのでお見舞いということでPRIDEを録画した人いたらお知らせください。(確かタイにいってるやましんが録画してたような気がするなあ)
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PRIDE GP 2004 決勝戦 おすすめ平均 ![]() 残念。 最後の結末以外は最高!Amazonで詳しく見る ![]() |
投稿者 TKM : 13:25 | コメント (3) | トラックバック
食い倒れGP2004結果発表
「食い倒れ日記」の方でも結果発表が行われたようなのでこちらも補足で書いておこう。
トップ3だが集計中も結構これはおもしろかった。ほとんどブッシュvsケリー状態、いや、ゴアvsブッシュのフロリダの票といった方がいい。国会と沖縄は最初は7票差くらいだったのでスゲーなあ国会とか思っていたのだが集計をみていったら名前が微妙に違う重複の投票があって、集計しなおすと票差が5票にまで縮まっている。危険を感じメールアドレスで重複を再度チェックすると名前が違うのにメールが同じという人がいて
「まさか逆転か?!」と思いつつ、再度集計。
ため息がでた。
なんと最終的には3票差であった。
かなりの接戦である。
モロイさんパワー恐るべし。
国会という知名度はやはり強かったようだ。
さてそんなこんなで集計作業を終えたのが午前2時。
結構時間がかかってしまった。
午前4時前にモロイさんからSkypeがきたので少し話す。
ランキングは本家の発表を待つとしてモロイさんの回がトップ近くにいることだけ報告。
いやはや面白い結果であった。
というわけでここでは個人的なベスト3を発表しよう。
個人的なベスト3は
1.豚丼
2.沖縄
3.オフ会
という感じだな。沖縄は自分がいっていたのもあって中身がわかっていたのと、最近DVDを編集したら実際にはもっと面白かったので現場の方がパワーがあったということで2位。
3位のオフ会はマクロの動画なのにバシタカ師匠だけはっきりと認識できるのが最高であった。
そして1位はなんといっても一番バカ笑いさせてもらったあの描写である。あれだけベタな演出な描写は久々に読んだ。短編小説かと思わせる素晴らしいノリであった。だってこれだよ
「俺も、ここまでか、、、」
そう思い下腹に手をやった時、ベルトとジーンズのボタンを緩めていないことに気づく。そう、デジカメや携帯をジーンズのポケットに入れているため、いつもよりきつく締めていたのであった。あれっと思いベルトを緩める。途端に胃が蠕動(ぜんどう)し、詰まっていた管が開通したかのごとく、タレご飯と肉片が下方に大移動を始めた。
これで、また喰える、、、
お前は伝奇ハードボイルド小説かよ!
というノリが最高である。なんつったらいいかな「書いてて文章に酔ってただろ!」な感じ。
大抵はこれをやるとはずすんだけれどやまけんの場合は竹中直人的というか外しているのが逆にツボで笑ってしまうのだ。
純粋にテキストとしてのコンテンツ的にこれを超えるのはないね。
これまでのエントリーでは。
以上、本当の食い倒れ日記2004ベスト3でした。
(と、トラックバックしてみたがどうもやまけんのブログシステムに問題があるようだ。2005年には修正してほしいものだ)
投稿者 TKM : 04:14 | コメント (2) | トラックバック
2005年スタート 格闘技から学んだこと
2005年。
オカダ宅より帰宅。
K1とPRIDEをダブルで鑑賞した。
二人とも共通の意見で興行的な優劣はハッキリしていた。
全てはヒョードルのあの戦いに集約されていた。
あれをみせられては何も言えない。
イベント性、マーケティング、運、いろいろあるけれどそれらを超えた何かがヒョードルとノゲイラのあの戦いにはあった。
あの時間あの二人だけが別な世界にいた。
静かな衝撃であった。
世界というか物事の本質的な部分がどこにあるのかを感じた。
文句なしにヒョードルは素晴らしかった。
派手ではないし洒落てもいない。
が、素晴らしかった。
ただただひきつけられた。
ノゲイラも素晴らしかった。
あと5分。
いや、あと3分でいい。
二人の戦いをみたいと思った。
ヒョードルの態度、戦いは他の選手とどこが違うのか。
彼には迷いがないのだ。
その姿に求道という言葉が浮かんだ。
いままでみた戦いの中で最もレベルの高い戦いであった。
K1とは全く異なる世界がそこにはあった。
あの試合が二つの団体の明暗を分ける一戦となったように感じた。
(ちなみにK1で一番良かったのはホイスの目であった。あれは素晴らしい。リングの上であの目ができる人を他に知らない)
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懐かしい・・?



航空写真IIとW3の導入










