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2005年01月04日

絶対零度の寿司を食べる『これが零度斬りです』

寿司を食べる夢をみた。
詳細はおぼえていない。
なんだかたくさん食べていた。

カウンターの向こうでは寿司競技がはじまっていてマグロやらなにやら刺身の盛り合わせの切り口を競っている。 問題はそれぞれのネタが絶対零度であることである。そのため盛りつけは円形に行われる。

「これが零度斬りです」

とアナウンスが入るが僕にはその良さがわからない。
とりあえず食べていた。

お寿司が好きだという人は多い。
友人にもそういう人がたくさんいる。
僕は好きでも嫌いでもない。
おいしいなと思う時もあれば面倒だなと思うときもある。

面倒だと感じるのは食べているのに食べることに集中できず落ち着かない時である。食は基本的にエンターテイメント、楽しみであり、 コンテンツであると思っているから、いちいちこちらから声をかけなければならないような「手続き」は蛇足だ。

「うまいものを出すこと」それに集中するのは誰でもできる。
問題はそこから先なのだ。

コンテンツとして食をとらえなおすとそこでは「気持ち」が問われる。

「そんなものなくたってうちはお客さんがいるし、バンバン儲かってるよ」

という店もあるだろう。しかしそれはトレンドでしかない。消費的行動に支えられた商業的成功は食というコンテンツを疲弊させていく。 その傾向は驚愕すべきスピードで加速されコンテンツとしての食は見せかけだけで中身がないものにすり替わっている。

こじゃれた店舗。
暗めの照明。
○○風な内装。
コンビニレベルの食コンテンツ。

ダイニング系の店のほとんどがこの傾向にある。

その手の店がはやるのは消費的なニーズへの回答なのだろう。
それは食ではなくスタイルの消費である。
店舗以外の部分ではコンテンツ性を持たない希薄さに辟易するとともに妙な既視感を覚える。

そうした場にいくといつも思う。

「何故この人たちは好んでこの店に来て、こんなもの (決してマズくはないがおそらく適正価格の5倍くらいの値段であろう)を喜んで食べているのだろう」

本当にそう思うのだ。いつも。

飢餓にあえぐ人々とか明日の食にも困っている人もいるのに、という話はなしだ。
これはコンテンツとしての食の話である。

僕は本心から思う。
この人々は何故この店にくるのだろう。
何故、適正でないこの価格に疑問を抱かないのだろう、と。

やまけんのブログで「美味しいものは高くていいはずだ」という意見があった。
高い店と言われる店はサービスと商品のクオリティをみればわかるが実はさほど高くない。
けれどその差は目に見えるわけじゃない。
問題はここだ。
その違いはボーダーラインがひいてあって「ここから先でレベルが変わります」 と表示されているわけではない。

なので見かけだけは「それっぽい店」をつくることはそれほど難しくない。
視覚的な店といったらいいだろうか。
そこでは「味」と「味わい」は問われない。
大事なのは「見かけ」である。
「見かけ」に重点が移行しているのだ。

といってはみるがこの傾向は止まらない。
傾向は傾向として認めなければならない。
その上で方法を考える。
そういうアプローチが必要なのだ。

統治や経営もそうした人の力学を取り入れる必要がある。
テコを効かせるのにもそれなりのやり方があるはずだ。

投稿者 TKM : 2005年01月04日 15:16

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