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2005年01月26日
地球の声と感情漂流
今日はメモ代わりの雑記です。
■ある外国人の笑顔とある打ち合わせについて
数日前、近くのレンタルビデオ店にいった。
その店はバイク屋の二階にあるのだが階段を登って店の自動ドアをくぐり抜けるとロシアっぽい帽子をかぶった外国人の男性が店をでてくるところだった。40歳くらい。「レナードの朝」に出てくる先生(右側)に似ていた。
黒いレザーのコートをきた彼は優しそうに微笑んで先に通してくれた。
その表情は自然だった。
考えてつくられたものではなく彼のもつ素地がそうさせたのだと思う。
何かこの世界のものすごくたくさんの情報をいっかしょに集められ折りたたまれたような印象をうけた。
いまどきこんないい表情ができる人にはそうそうお会いできない。
他に僕が知っているのはダライ・ラマのナイススマイリングくらいだ。
なのでその日はそれだけでうれしくなった。
これはまた別の日のこと。
ある外国人と話をした。
雰囲気の問題なのだろうけれど裁判で尋問されているかのような印象をうけた。
自分にとってリラックスとはほど遠い雰囲気であった。
今日で一日が終わるとしたらこの人と過ごしたいだろうか?
迷わずNOだ。
しかしその人が本当はどんな人なのかを僕が知らないだけでその場の印象からそう感じているに過ぎない、のかもしれない。いまはフレンドリーでなくとも何年かしたら世界的な慈善家になる人なのかもしれないし、さっき食べた昼食があわなかったとか、親知らずが痛いとかそういうことなのかもしれない。あるいはトイレにいきたいだけだとか。
人と人の間というのは無限に近い相互作用の結果でできていて
「あの人はこんな人」
みたいな思考は正しくないのかもしれない。が、人に接した時に自分が感じる何かは確かに何かしらの方向性を示していて、それは人の行動や意思決定、コミュニケーション、モチベーション、気持ちに大きな影響を与えている。(それが人の限界をつくっているように思うこともしばしばあるが)
これはどういうことなのだろう。
おきてからしばし考えた。
■仕事にとって大切なこと、自分の場合
仕事について「自分の好きなことをしろ」であるとか「わくわくすることをやれ」というような言い方が一般的だし、そう思われがちだが僕の場合、それは大して重要ではないようだ。
人によって異なるのだろうけれど僕の場合、仕事において一番重要なのは
「誰とやるか」
である。
■「綺麗事」とその周辺について
「それは綺麗事だよ」
という意見がある。
けれど
「綺麗事でいいじゃない、何でダメなの?」
と自分は思う。
綺麗事の方がベターであり、人にとってプラスであるならば綺麗事を一般化させていくことはこの世界にとってもプラスではないのだろうか。
そもそも「それは綺麗事だよ」という発言はどんな意味があるのだろう。
「そうはいうけれど現実は違う」
というのであれば何故現実が違っているのか。
何処が違っていてそれは何故なのだろう。
また、それを受け入れているのは何故なのか。
「こうした方がいい」あるいは「こうだったらいいのに」という想いがあるならそちらが本来あるべき姿だと僕は思う。
綺麗事という便利な言葉で問題を簡略化し、存在自体をぼやけさせてしまうことが問題なのだ。
解決不可能という封印をしてほったらかしにするよりは少しでも整理をはじめた方がいい。
問題というのは「出来ること」ではなく「出来ないこと」で問題化する。
ならばそれができない理由をつきつめ、整理していくことは無駄ではない。
そういうことを怠ってきたからいろんな問題が潜伏・反復増幅し、本来問題が属していたレイヤーから別なレイヤーに影響を及ぼすまでに巨大化してしまうのだ。
■不幸はつくりやすい?
幸福と不幸についてもちょろっと考えた。
生活していると「うまくいく」「うまくいかない」「幸せである」「幸せではない」「気分が良い」「気分が悪い」などといろいろな場面で感じたり思ったり、いったりしたりされたりするわけだが大まかにいって
「不幸」の方が「幸福」よりもつくりやすい傾向にある、のだろうか。ほとんどのケースで人は幸福を志向し、不幸に悩んでいるように見える。これは法則といってもいいくらい一般的でさえある。
また、調和よりも対立の方がつくりやすいようにも思う。
でも何故だろう?
アソブよりもケンカの方が楽なのだろうか。
しばらく目に手をあてて考えた。
30秒が経過して…。
「わかった!
人は不幸が好きなんだ!」
と唐突に閃いたのだが案外あたっているのではないか。
人の特性として閑には耐えられないようにできていて、幸福というのは案外「閑」な現象なのだ。地と図の理論だ。反対側がないと絵が浮かび上がってこない。
アポトーシスな現象として幸福を捉えなおすとそれが表現行為と類似しているようにみえる。表現というのは基本的に付加することではなく「削る」ことで表現として成立している。
不分節は虚無である。
芳醇や豊かさを生じさせるのは逆説的に地としての無が不可欠だ。
幸福や不幸というのもこれと同じ関係にあって双方は地と図の関係にあるのだ。幸福がそれとして認識されるためには不幸が必要となる。
無によって有は生じる。
そこに「ある」ならばどんなものにでもあてはまる。
音にしても無音があることでその差異が音と認識される、といえるだろうし。
しかし、
「じゃあ、自分が感じた幸福ってどんなんだっけ?」
と考えてみるとこうした話も根本が違っているような気がしてきた。
感覚は地と図という単純な構造によって生じるのではなく、ある関係性が常時そこには存在し振動している。それらは普段は個別に振る舞っているが時折パターンを描く。そこにあらわれる関係性パターンが感覚なのかな、と思ったのだが。
そうだ時間の要素が絡んでくるので地と図というスタティックなイメージだと捉えられないのだ。それ自体も常に変動しており、量子レベルでの確実な再現性がない、ということが理屈ではなく感覚的に入り込んできている。
記憶はスタティックではなくダイナミックな存在だ。
時間の影響をうけ薄れる、あるいは変動、振動している。
それを基盤に今の感覚やら気持ちが形成される。
系は互いに影響しあう。
分離されていない。
不幸があるから比較して幸福がある、というわけではなく、多分、そうした平面な紙のイメージはズレていて。
常時、波打っている空間みたいなのが感情でそれはパターンを描くときもあるし、丸まって振動してる時もある。感情とは超スローモーションで展開している線香花火をプロットして、突然浮かび上がった、文字を記録していったら物語ができた、みたいなものだ。
(そういえば「センソリウム」の「ブリージングアース」という作品もそんなだったっけ。センソリウムといえばあれのプランニングとかプロデュースをしてた竹村先生って竹村健一さんの息子さんだったことを最近知った。余談ついでに敬愛する石井先生を初めて知ったのも日曜の朝にやってた「竹村健一世相を斬る」だった。まさかその先生とアソブ研を通じて個人講義受けたりお話をするようになるとは学生時代も昨年くらいも全然予想できなかった。こういうのをビジュアライズしたらどんなカタチになるのだろう。ストレンジアトラクターのような形状なのかなと思うけれどそれにしたって固定的ではないだろう)
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投稿者 TKM : 2005年01月26日 13:33
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コメント
加賀谷の言うとおり、これまで先輩達が色々ごまかし(はっきり言えばインチキだけど)をして、問題を先送りして処理せず残っている物を処理する時に、最初がインチキだから、最後の処理もインチキしないと処理できないので「綺麗事じゃ済まない」って事態になっちゃっています(涙)。
事業を進める際に、「権利者の同意」「お金の都合」「法的手続き」のタイミングを合わせるのが難しいのはわかるけど、後任がインチキしないと処理できない物を残していかないで欲しいっす。
僕はそうならないように心がけたいと思います。
投稿者 きっぺい : 2005年01月26日 17:16
読んでて納得させられることが多かった!
特に、「■仕事にとって大切なこと、自分の場合」はわたしも同感です。
投稿者 うらで : 2005年01月27日 20:14






















































































