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2005年02月28日
いまさらですがlast.fmの驚異 ~尋常でなく頭痛~
前に登録してあったのだがずっとつかっていなかったlast.fmをあらためてみなおしてみようと気合いで使いはじめたのだがかなりレスポンスが遅い。 また曲の登録がうまくいっているのかいないのかわからないのはメンテナンス中ということなのだろうか。 とりあえず300曲ほど登録しないと機能がフルには使えない仕様になっている。 (であればリストを外部からインポートできるようにして欲しいものだ。 なにせこのレベルで止まっていると異様なストレスになるそのせいかかなりの頭痛である)
相当にストレスフルな使用感である。
しかしこのサービスコンセプトは素晴らしい。
これが「最後のFM」になってしまうのかもしれない、と一瞬思った。
難解すぎるインターフェイスは問題であるがいずれ解決されるだろう。
または同種の別なサービスがたちあがってくるのか。
プログラマーがサービスを考えると自分に使いやすいようにつくるので得てしてユーザには使いづらいものができあがる。
Googleがあそこまでシンプルなデザインになっているのは創業者がたまたまHTMLに疎かったからだそうだが使う側の自分としてはインターフェイスというものはとにかくシンプルになっていて欲しい。 機能がたくさんあるのは実は全然リッチな環境ではない。
機能性は高ければ高いほどよいがその素晴らしさはインターフェイスに表出せず影にかくれていた方がスマートである。 無骨でもいいけれど、ものごとはスマートさを兼ね備えているべきであり、スマートさは心地よさにつながる。
さてlast.fmだが。また明日にでも試してみよう。 詳しい解説は明日にゆずるとして何ができるかを簡単にいってしまうと自分用のラジオ局ができてしまうのだ。しかも曲はかけ放題である。 また強力なデータベースが背後にあって、アマゾンのように自分が聴いている曲のメタデータをアーカイブしてパターンを検出し、 同傾向の音楽趣味を持つ人々のリストとリンクさせ個人に最適化された楽曲リストを動的に生成してしまう。
ベースになる音楽データの登録と聞き込みの部分にエンターテイメント性が皆無なので全くスマートではないがこうした機能は今後のウェブサービス、 特にコンテンツ分野において必要不可欠な機能になっていくことは間違いない。
ボトムアップでできあがっていくヒットチャートはコンテンツのあり方をかえていくだろう。 主力先はPCでもTVでもステレオでもいいのだ。注目すべきはコンテンツパッケージが編成される過程にある。 これが次世代のチャンネル化していくのは時間の問題だ。
我々は凄まじい変化のまっただ中にいるのだ。
投稿者 TKM : 21:13 | コメント (0) | トラックバック
第三回 紅白FLASH合戦 ~遅ればせながら第一報~
こんな面白いコンテンツがあったとは!
不覚にも全くノーマークであった。
■第三回 紅白FLASH合戦
http://flash.chbox.com/rw04/
FLASH使いの人たちのレベルすさまじすぎだ。
ほとんどの作品が第一級と言わざるえない。
恐るべし。
商用のサービスや広告コンテンツのテクニックもスゴイが上記のようなコンテンツが自発的につくられていることに僕は驚愕した。
これはボトムアップからくるイノベーションである。
MVPに輝いた「NIGHTMARE
CITY」はあまりにもクオリティが高いので続けて二回もみてしまった。
実物の紅白よりも遙かに面白い。
例えばだが実際の紅白につかわれる曲をオープンにして曲毎にこうした作品のコンペになっていて、
その優勝作品群が当日に提出されるというイベントになっていたら、両方みるだろうな。
ネットが逆にTVコンテンツへの誘導を引き起こすということも起こりうる。
素晴らしい。
こうしたネットの優良コンテンツをTVモニター用に再編集して番組化したら分野によっては既存のTVコンテンツよりも遙かに面白い番組ができそうだ。
ライブドアとフジの騒動以降、ネットとTVの融合について様々な媒体で議論されているがメディアの変移が起こるとは考えにくい。
変化は編成のシステムに生じる。
編成力、編集力がコンテンツ価値を決めてしまう。
万人の為のコンテンツというものは存在しない。
動的に生成されるカテゴリーに対して影響力を持つグループがチャンネル化する。
しかしそのチャンネルもまた動的に生成され、パターンを維持しながら常に変化しつづける。
コンテンツの変化について考察していた夜にこうしたコンテンツに遭遇するとは。
ネットのつくりだすダイナミズムとの対峙を実感している。
ギコネコの大冒険2
などよくもまあこのようにシステムのしっかりとしたゲームがFLASHでつくれるものだ。
感心を通り越してそのひたむきさに感服してしまった。
スゴイ人たちがいるものだ。
この「コロロ(ミラー1)(ミラー2)」 という作品も例の傾けるインターフェイスを搭載した携帯電話などに標準アプリとして搭載したら楽しめるだろう。また努力賞の 「辛臭糸酢(ミラー1)」は「なーんだ普通の作品か」と思って眺めていたのだが最後にシテヤラレタ。 ヤラレタ感はこの作品が一番だったかもしれない。
そうそう前にも「電車男 」についてエントリーを書いたけれど。
「電車男」の作品性についての議論にはあまり意味がない。
問題は創生のプロセスなんだよね。
全然関係ないけれどネットとメディアの融合のゆきつくさきがコンテンツの「ジャパネットたかた」 化というビジョンは痛すぎる。そういうのは貧困すぎるビジョンだ。
直接的体験とシームレスに連動していて感動して泣いてしまうようなの、がキケンきわまりなくて良い感じだと僕は思うのだが。
投稿者 TKM : 07:22 | コメント (1) | トラックバック
2005年02月27日
アートとプレゼンテーション
アートとプレゼンテーションは対極にある概念だと思っている。
一般的なプレゼンテーションは相手に「わかれよオイ」と強要する。
アートの場合は相手が「わかりたい」と望む。
誰かに何かを伝えたいという意思は共通しているけれど。
モードは全然違う。
表現の伝達といってもモードは様々だ。
弱さと弱さをかけあわせたハイブリッドから面白さは生まれるだろうか。
いや、弱い強いという概念がそもそも違う。
情報は強さ弱さとは異なる指標ではかられなければならない。
投稿者 TKM : 17:56 | コメント (0) | トラックバック
アソブラボ第一期終了・雑感1
ラグビーの日本選手権の中継を耳でききながら雑感などまとめてみたい。
昨年11月からアソブラボと称してデジタルマンガの手法を利用したレポートをつくってきた。その結果、 いくつかの反響があり発足のきっかけである東京海上研究所の石井先生や世界で最も普及しているIP電話ソフトのSkype社、 ライブドア社との個人的なリレーションができた。
我々が能動的に発信した情報を起点としこれらの「つながり」はできあがっていった。
しかし、これらのつながりはそれ自体が自律的に躍動するにはいたっていない。
これは大きな問題である。
どういう要素を注入していけば自己組織化を促進させることができるのか。
要素が少ないことが問題の根底にあると思う。
よって積極的なオープン化を進めていこうというのが自分の考えである。
僕のコンセプトを書いておくとアソブラボは製作集団ではない。
コンセプトジーンのプールである。
インスパイヤやドライブの場である。
アイディアや閃きはアソビの中からしか生じない。
アソビとは集中である。
集中の面白さを感じること。
それが根底にある。
「変えること」しかもより「面白く変えること」。
思考は常にそうあらねばならない。
その基本的な行動指針がカタチをつくるのだと僕は思う。
3月からの第二期は「より面白く変える」をキーコンセプトに据えていく。
行動の上でのブレーキは個人のマインドやモチベーションの問題である。
マネジメントは個人にゆだねられるべきであり、外部要因に左右されるべきではない。
相互依存は自律・自立があってこそ機能する。
情報の共有やオープン化は依存からは生じない。
はじめに自律・自立ありき。
それがあってはじめて情報は自らが相互作用をはじめる。
情報をとどめようという思考から生じる現象はミクロにとどまる。
僕はそこには魅力を感じない。
ダイナミズムのエネルギーは相転位する時に最大化する。
セコさは何もつくりださない。
しかしエネルギーが存在しなければオープン性も意味を持たない。
高エネルギーであること。
自立・自律であること。
高度に相互依存であること。
それが自分の考える情報や人のあり方である。
投稿者 TKM : 14:40 | コメント (0) | トラックバック
2005年02月26日
マジンガーZはロボットか? 永井豪のトランス世界にひきこまれしばし現世を忘れてしまう
■切手との遭遇
先日、KAGAYA.COMの注文商品を配送しに郵便局にいった。
窓口の女性に荷物を渡し、送料の会計をすませると受付テーブルの厚手のビニールの敷物の下に若干斜めに配置された紙切れを見つけた。
新しく発行される切手のお知らせのようだが色合いがアニメそのものである。
まさか…。
じっくりとみてみる。
なんと往年のスーパーロボットマジンガーZではないか!
しばしみいってしまう。
ブレストファイヤーはともかくルストハリケーンはあり得ないだろう。
そしてロケットパンチってそんなのあっていいのか、
といった感じでツッコミどころが12トントラックにダイナマイト満載であるところの名作アニメ「マジンガーZ」
との予期せぬ対面がそうさせたのであろう躊躇なく
「すみません、この広告もらえませんか」
と係の女性にお願いしていた。
あちこち探しまわったのち、
「すみません、もうなくなってしまったようです。ごめんなさい」
とすまなそうに郵便局の女性は答えた。
ところで僕の周りには人垣ができている。
みんなこの切手に興味があるのだろうか。
いやそんなことはない。
彼らはATM詣でを試みる群衆である。
金曜日ともなると郵便局は通帳への記帳を求めて中年以降の人々が群れをなす。 以前も書いたがこれは日本全体でみたらものすごいコストだ。このエネルギーを別なものに向けるべきである。 競争力の低下はこうしたエネルギーのロスがつみかさなって生じている現象である。
話をマジンガー切手にもどそう(ATOK15は「きって」と入力すると候補には「切って」が必ず初出する何故だ?)。
僕は切手というものの価値がわからない人間であったのだが、この日、はじめて「コレクター」な人々の悦びを少しだけ理解した。これは… このマジンガー切手は…欲しい。
切手の機能とはおよそかけ離れたマジンガーZという記号がそこに付加されることで切手が機能以上の情報価値をもって自分に迫ってくるのであった。 これがキャラクターの力であろうか。
■意外とグロテスクな原作版マジンガーZ
さてそんなこともあって昨日よりマジンガーZについての興味がふつふつとわき上がってきた。
この作品、マンガ版とアニメ版ではテイストが随分違う。(マンガ版は昨年イーブックで入手した。画面上で読む漫画も悪くない。
というよりも物理的な理由からこの方がよい。これを100倍くらい快適にして「何処でもマンガ喫茶」というのをつくりたい。経済性、効率性、
衛生面、快適さどの観点からもそれがユーザとってベストなサービスの一つである。自信をもって断言する)
デビルマンもそうだったがマンガ版のマジンガーZでも永井豪節は炸裂であり、人がバンバンちぎれ飛んだりする。 グロテスクな描写がそこかしこに見受けられる。主人公の兜甲児の印象も異なる。
TV版では声の影響もありまっすぐな「青年」という感じだがマンガ版でのはかなりエキセントリックな人物に描かれている。 デビルマン同様、マンガ版は主人公は永井豪テイストな45°の目つきだ。視線は読者を向いていない。 劇中でも重要などこかを見つめているわけでもなく、彼ら自身の脳内宇宙に向けられたある意味神懸かりな視点がそこには存在する。
このマジンガーZだが子供の頃の記憶をたどってみてもシステムとしてかなりユニークな存在であった。
何せロボットのくせに空を飛ぶことができない。
操縦されるまでこのマシンは起動しないし、パワーと機能のわりにマシン自体のインテリジェンスはかなり低い。
それが話の複線になることもたびたびだったのだが。
何話頃かわすれたが放ったロケットパンチが消失してしまい片腕のまま戻ってくるシーンは子供心にもかなり異様であった。
というわけでこの稀代の名作をこの度、見直してみることにした。
続報はいずれ。
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※アニメ化された永井豪作品では下記の「真ゲッターロボ」とOVA版「デビルマン」 の二作が原作の永井豪テイストを再現している。描写はグロテスクであるが凄まじい躍動感が動画で再現されているので未見の人は必見であろう。
これはゲッター線を巡る壮大なミステリー作品である。本来あるべき姿のゲッターロボ。アニメ版とは合体システムを共有しているが世界観、
ストーリーの奥行きは家内制手工業と多国籍企業くらいの差がある。宇宙論、
進化論が入り交じりすさまじいスピード感で展開されていくスートーリーにはクラクラとした眩暈を感じずにはいられない。
最終話前後は絶賛です。「アベノ橋魔法☆商店街」
でもパロディの題材としてとりあげられておりこちらも出色の出来。
執筆者みずからが「デビルマンはトランス状態で描いた。どうやって描いたのか覚えていない」
と語るように原作には溢れんばかりの生命力の息吹がほとばしっている。
紙面からとびかかってくるかのような絵はベルセルクとも通じるモノがある。
その原作のパワーを忠実に再現したOVAはTVのデビルマンとは全く異なる。この作品を観ていない人を羨ましく思う。
投稿者 TKM : 17:54 | コメント (2) | トラックバック
躍動感やダイナミズムについてふと思うこと(改訂)
窮屈だと感じることが多いのはいつものことだが少し油断するとそちらにもっていかれそうで慄然とする。
こんなのにまともにあてられたらツライだろうそれは。
TVからCMというものが消えたら面白い。
広告モデルがなくなったらコンテンツは視聴者を志向しなければならない。
ルールが変わるのだ。
コンテンツ至上主義はコンテンツの多様化を引き起こす。
環境という括りではなく個人のセンスによって分化が進む。
マスやメジャーは特定層にとってそれでしかなくなる。
それが健全であるか否か。
あるいは効率的であるか否か。
それは問題とされない。
別のルールが機能する。
最適化に向かう前に現象は膨張するだろう。
オプティマイズは果てしない相互作用の後におこなわれる。
それを制御することは不可能だ。
それこそが健全であり自然なのだ。
現在のネット上のメジャーなコンテンツは厳密にはコンテンツではない。
それらは機能であり器官だ。
一人の影響力は一人にしか及ばなくなる。
それがぼやけているのはコミュニケーションが不在だからである。
全てのコンテンツは個人にオプティマイズされて提供されるのが理想だ。
過度のカスタマイズは偶然を抑制する。
情報の個人化が進めば一時的にダイナミズムは低減していく。
しかしそれはマスの消滅ではなく新たなパターンの創出へと向かう動きである。
そこから生じるパターンはそれ以前のマスと似ているが否なるものだ。
プロセスの違いが情報の本質的な意味をかえてしまうのである。
更にいうとシステムは個人の嗜好を学習する必要はない。
システムに要求されるのは質の最適化である。
そういう方向に機能するならば評価システムとリンクした情報のあり方は有用だ。
ライブドアが提示したランキングシステムはあまりにもプリミティブなモデルだ。
(実際フィードバック回路が働いていないのでシステム自体が学習をおこなわない。だから情報の自己組織化も進まない)
けれどその先には可能性がある。
要するにコンテンツの問題とはつきつめていけばシステムの問題なのだ。
最適化の前段階としてメディアは発達した。
いま存在しているTVコンテンツの多くは無料であるという理由で視聴されている。
友人のしんのすけの家にはTVがない。
いや、友人達の多くはTVを観ない人である。
対して自分はどうだろう。
案外、視聴している時間は多い。けれど完全にタイムシフトはさせてあるからまだましだろう。
リアルタイムにTVを視聴することは直接的体験の希薄化を加速させる。
どこでだったか忘れたのだけれど比較によらない判断や意思決定みたいなことについて書かれた文章を読んだ。
いい文章だなと思った。人にたいする普遍性の有無は言動、行動、その他コミュニケーションに関わる全ての事象に反映される。
この50年くらいを考えると現存する人間のほとんどは50年前にはいまのカタチと全く違う状態にあったし、 国や組織やなにやかにやも全然違うものだった。この世界といったときに思い浮かべる今の風景や人間もたかだか数十年くらいのものでしかない。
躍動感やダイナミズムは増幅と封印の両方向にバイアスがかかっているなあ、 と僕は感じているのだがこういう働きも作用反作用みたいなものでトップダウンというよりは局所的な振る舞いの相互作用によって生じている群体的な振る舞いなのだろう。
僕の関心事はそういうことなので実生活とはあまり関係がない。
学者ほどに本を読んだりしていないし、思想家ほどに思考しているわけでもない、
ビジネス系の人々のように世の中のアセンブリーに徹しているわけでもない。
流れの際でおもむくままにやっている。
中国から帰ってきたばかりの頃、野知さんとはいろいろな話をした。
己に内在するダイナミズムの萌芽を希薄化させていくことほど人にとって大きな不幸はない。
以前、しんのすけが「興味があるもの:フェムト秒レーザー」とどこかに書いていたのを唐突に思い出した。
いや、全く関係がないのだが言葉は急に浮かんでくる。
情報の振る舞いのダイナミズム値をあげていくには情報を切るのではなく取り込む装置(システム)が必要だ。 ブログにはというよりも言葉それ自体にはその機能がない。人間が介在しなければならないのが問題だ。 システムが思考を表現するようにデザインしなおす必要がある。
僕の目下の興味は集中から生じる静かな躍動とダイナミズムが何を引き起こしているのか、とかそういうことだ。 創造性とか創造は自己組織化によって引き起こされると僕は信じている。
閃こうと思って閃きがやってくるわけではない。アイディアや閃きは制御系の方法論ではつくりだせない。「ゾーン」の部屋と一緒だ。 ただし潜在意識の働きかけによってなされるというものでもない、という立場を僕はとる。 考え続けることで解があらわれるように見えるのはそれが情報の自己組織化を引き起こすトリガーになっているからで「問い」 は重要だがより重要なのは情報同士の相互作用である。
「つなぐ」「つながる」を実感する時、
自分をかこむ世界がいきいきとしはじめ、生命の躍動に似た情報の息吹を感じる。
無関係の情報にリンクやパターンがみえだすときの感じ。
この種のパターン認識を閃きというのだと思う。
投稿者 TKM : 01:34 | コメント (0) | トラックバック
2005年02月25日
映画「波止場」 vol.2 久しぶりに観た完璧な映画
■波止場
マーロン・ブランド、カッコよすぎである。
中盤以降、不正との対峙に決断を迫られ、迷いから脱した後の彼の表情にはしびれた。
そしてヒロインのエヴァ・マリー・セイント。
あの目はすばらしすぎる。あんな表情ができる人がいるのだな。
俳優、女優の力をみせつけられた。
久しぶりに見た完璧な映画だ。
それにしても劇中であんなにカッコよく見える俳優は他にジェームス・
ディーンくらいしか思い浮かばない。
当時の人々のスゴさにただただ唖然であった。
先日書いた「ストーカー」 などの抽象的な描写の多い映画とは方向性は異なるけれど僕はこういう映画も好きだ。「波止場」はドラマ系エンターテイメントの王道である。 波止場を舞台にヒロイズム、苦悩、大衆心理、それらがエネルギッシュに描かれた傑作だ。勿論、現実にはああはいかないだろう。でも、 これは現実ではない。映画なのだ。映画は映画であることに注力すればいい。それが映画の使命だ。
それにしてもだ。
「うーん」と唸ってしまった。
この時代の映画、素晴らしすぎる。
人はいい映画を観なければならない。
プロモーションだけの映画やプレゼンテーションのような映画をみてもったいない時間を過ごしてはいけない。
それは人生において大きすぎるコストだ。観客が育てば映画も育つ。
よい映画をつくるのに必要なのは映画と観客のポジティブなフィードバックループだ。
コンテンツの生成においてはそのスパイラルが最も重要なのだ。
陽方向にスパイラルが機能すれば政策やトップダウンの意思決定などとは関係なく良質なコンテンツは創造されるのである。
投稿者 TKM : 19:35 | コメント (0) | トラックバック
激ウマ! 実家より福島の「米」が届く
うーん、これほどまでに差があるか。
ウマいお米である。
「ゴハンって旨かったんだ」
スーパーで売っている平均的なお米には「米の味」がないのだということに気づいた。
母曰く「一番オイシイお米はお店にはいかないのよ」とのことで田圃で一番おいしいお米は自分のところで保管しておくらしい。
僕はお米の流通システムに明るくないので推測だが農協に集められてしまうと美味しいお米もそうでないお米も一緒にされてしまうので 「うまい」を田圃毎に評価するシステムが機能しなくなる。であれば自主流通をやっていない場合、 一番おいしいお米は自分のところで消費するのは道理である。
僕のところに昨日送られてきたお米は親戚の家でつくっているお米だから計画外流通米というヤツだ。 一昨日うちの父が精米して送ってきてくれた。箱詰めで届いたのをみてもそれが旨いのかどうかはまったくわからない。 しかし焚いて食べてみたら驚きである。
更に父曰く、「無洗米にするとだいぶ味がおちるけどいいのか?」とのことであったのだが結果、無洗米でも無問題であった。 スーパーのに比べたらもう段違いにウマイですよ。
こうまで違うかな。
お米はおいしいんだ、としみじみと感じ入りながら食べるゴハンは最高なのであった。
投稿者 TKM : 18:01 | コメント (0) | トラックバック
映画「波止場」 vol.1 ~マーロン・ブランドは男の色気がプンプンであった~
■波止場
特殊効果や派手なアクションはないが出だしから強烈に引き込まれる。映像のリズムがいいのだ。
この時代の映画に特有なのだが主役が登場した瞬時に映像が全く別なモノに転じる。「駅馬車」でジョン・ ウェインが登場するシーンもそう。 同じセットや場面なのに雰囲気がガラリと変わる。まさに情報の相転移である。 創造性について考察をしていることが多いのでこうしたシーンには強く惹かれる。 だから意味やコンテクストが重なり合う時間を折りたたんでいる映画作品をみるのは面白くてやめられない。「転じる」 という瞬間には創造のエネルギーが凝縮されているのだ。(私の「異化」への強い興味も同様の理由による)
最近の映画とは存在感が異なる映画である。日本映画でこういう感覚にとらわれることは少ないのだが、この間みた 「レイクサイドマーダーケース」では似たような時間があった。
「薬師丸ひろ子」の存在がまさにそれであった。 彼女が登場しているシーンになると映像の重みが変わる。 女優一人で何が変わるのか、 と思うのだが彼女が出てくると転じるように場面に重厚さが増すのである。なんとも不思議な感覚だ。
「波止場」では出だし直後にいきなりマーロン・ブランドが登場する。
「顔」の輝きが他のキャストとは全然違う。ひとりだけ妙にキラキラしている。ヒロインもそう。開始直後に彼の親友が殺されてしまうのだが、
その妹イディ(エヴァ・マリー・ セイント)も場違いなくらい美しく輝いている。
(照明のあてかたも違うのか?)
同じくマーロン・ブランド主演の「欲望という名の電車」でも誰が主人公で誰がヒロインかが一目瞭然にわかる。 見始めてすぐに気づくと思うがヴィヴィアン・ リーとマーロン・ ブランドだけが劇中で浮きまくっている。
あんなカッコいい労働者がいたらコワイ。「波止場」「欲望という名の電車」ともに画面の中にはマーロン・ ブランドの妙な色気がムンムンしている。実際にあの時代のマーロン・ブランドと対峙したら猪木などより更に濃厚な「男」 なオーラが漂っていたのではないだろうか。
映画の内容については次のエントリーで触れていきたい。
投稿者 TKM : 14:03 | コメント (0) | トラックバック
AppleとiPod Photo
Appleのサイトで紹介されるAppleの製品群をみていると素晴らしく美しいなあといつも感心する。
最近の株価の強烈な高騰ぶりもうなずける。 Appleの製品はプロダクトデザインの美しさが目立つけれどそれはどちらかというと表現形であって、 製品を魅力的なプロダクトたらしめているのはApple独自テイストのインターフェイスデザインだ。
iPodをみても同じ機能を持つ他社製のプロダクトとの最大の違いはあのインターフェイスにある。MacOSもそうだ。 機能的な差異ではなく「使いごこちの違い」が商品価値を高めている。
今朝も新型のiPod Photoのページをみていたらそれだけで楽しくなってしまった。 Appleが車やTVや携帯電話をデザインしてくれたら世界はいまよりも気持ちよくなるのではないだろうか。(iPod PhotoはAVケーブルをつなぐとそのままAV出力できるのでこれとケーブルだけあれば音楽付きのプレゼンができてしまう! このスマートな機械が¥38800とは驚きである。あと1~2年もすればこのサイズのMacOS搭載機が登場するだろう。 いやはや優しさと美しさがこうまでバランスよくカタチになっているとは。まったく気持ちのいいことだ)
Appleが無印良品のように生活に関係するものをデザインしてくれることを強く強く望みます。
どんどんよいプロダクトを世におくりだしてくれたらこれに勝る悦びはない。フジ・ ニッポン放送vsライブドアの騒ぎなどみているとあまりにも不毛だ。一連の騒動はプロダクトやサービスの向上には直接は結びついていない。
あのエネルギーや労力がコンテンツやプロダクト、製品の開発に向けられていたらと思うと残念な限りだ。 こういう無駄が多い社会は疲弊してしまうのではないだろうか。
■ボイジャーがやってくれた
一昨年、ボイジャーの萩野さんにドジョウ鍋をごちそうになった。 最近は連絡などしていなかったのでどうしているかなと思っていたのだがやってくれた。
最新のT-Time5.5ではPSPやiPod、デジカメ、 携帯などメモリーカードスロットを内蔵している電子機器を電子ブックリーダーに変えてしまう機能を実現してしまった。 なんとも執念の電子書籍情熱人である。なにもそんなところまでフォローしなくてもいいのに、と思うようなデバイスにまで対応している。
ここまでやるかな。
こういうオタクなノリは嫌いではないのでいろいろ使ってみたいと思う。
問題は僕が持っている本や読みたい本のほとんどが電子化されていないという点だろうな。本を買うと電子データももれなくついてくる、
という環境でなければ面白くない。
コピーの問題が電子化されたテキストの付与を不可能にしているわけだけれど、この際、 コピーを前提に商品をつくったらいいのではないか。これまでとは異なる収益構造を開発したっていいわけだし。 そういうことをしないと情報がいくべきところにいかなかったり、活用されないで死蔵される一方だ。
情報はもっと柔軟に活用される方が世の中を最適化する力をドライブさせる、と僕は信じている。利便性からいったらどうしたって「読む」 のは書籍、大量の持ち運びや検索には電子テキストが向いている。
と、書いていて思ったが何も所有の必要すらないのか。オリジナルはネットの向こうにあればよくて、それを保持する必要はないんだ。 必要なのはフォーマットではなくて、インターフェイスなのだ。
iTuneにつづいてアップルがiTextを発表し、 iPodがネットワーク対応し常時接続されるときに電子書籍の次ぎのラウンドが始まるのだろう。
・T-Time5.5
http://www.voyager.co.jp/T-Time/TT55b/index.html
投稿者 TKM : 07:13 | コメント (1) | トラックバック
2005年02月24日
「ストーカー」(アンドレイ・タルコフスキー) 外は春一番から冬へ逆戻りの木曜の出来事
いつかは観なければと思っていたタルコフスキーの「ストーカー」を半分までみたあたりでプツリと意識が途絶えた。
気がつくと夜であった。
危険だ。
自分までもが「ゾーン」に入っていったかのようだ。
「ストーカー」はできれば映画館でみたかった。
TVモニターなどでの視聴には不利な映画である。
テーマ、 雰囲気ともに素晴らしいがこの種の映画は時間との対峙によって意識が劇中の世界にチューニングされていくことで映画として機能する。
そのせいか時間の流れが尋常ではなくゆっくりしている。視聴中の1分は現実世界での10分に相当するのではないだろうか。 折りたたまれ引き延ばされた時間がここにはある。
この虚ろな時間の世界が物語の舞台となる。「ゾーン」の定義が明らかになっていくシーンは スタニスワフ・レム(僕の一番好きな作家だ)の描く世界を彷彿とさせた。
さて、前半の終わり部分のちょっと先から再びトライである。
投稿者 TKM : 21:51 | コメント (4) | トラックバック
スミス都へ行く
フランク・キャプラは中学時代から好きな映画監督だ。
今朝、はじめて「
スミス都へいく」をみている。
政治を舞台とした映画なのだがキャプラ節炸裂で「
素晴らしき哉、人生」を彷彿とさせる。
政治というと一般的には権謀術数が渦巻くダークな世界という先入観が強い。
けれどそれは作られたイメージでしかない。
現実とはシンプルな選択の相互作用によってつくりだされる。
面倒な手続きの世界が一般化しているというのは間違った認識でそれは思いこみでしかない。
世界は驚くほどシンプルにできている。複雑なのは人の思惑の側である。
随分あってない人がいる。
今度この映画の話をしたいと思った。
投稿者 TKM : 04:49 | コメント (0) | トラックバック
超現実主義宣言(アンドレ・ブルトン)
■超現実主義宣言
今宵は枕元にあった左記の超現実主義宣言(アンドレ・ブルトン)を読んでいる。 以前に最初の方だけよんでほったらかしにしていた一冊だ。冒頭から強烈なアジテーションでドストエフスキーの「罪と罰」 をこき下ろすくだりは痛快でもある。
僕は翻訳文という形でしか読めないので原文のリズムはこの読書感覚とは異なるのだろうと思う。 それでも何かは伝わってきているのだろう。文章が指し示す意味とは別な「勢い」や「空気」が活字の向こうにゆらめいている。
音楽を聴くようにこのテキストが読めればいいのにと思う。
全ての書籍が好きなときに活字を追え、好きなときに音声にスイッチし、
好きなときにモーションテキストにチェンジできなたら読書という行為のあり方は大きくかわるだろう。
出版社は新たなベストセラーを画策するよりも「読む」という行為そのものの変革に着手すべきだ。 いまだにディスプレイで読むことが快感につながるようなテキストのカタチは開発されてないし、模索もされていない。
ブラウザというインターフェイスで読まれるテキストの総量はとっくに紙の上に固定されたテキストの量を超えている。
投稿者 TKM : 02:57 | コメント (0) | トラックバック
2005年02月23日
なぜ「○○」というのか
極まったり、感情が暴発すると人は
「○○」
という言葉を口にする。
人種、言語に関係なく罵倒にはだいたい似たような意味の言葉が用いられる。
とても不思議で興味深い現象である。
「○○」という言葉は非常に生々しく、軽率には使えない言葉だ。
が、誰もが使う言葉でもある。
どの言葉を使うかはその人の自由だ。
関係性が閉じている環境下においては。
関係性は言葉の意味と振る舞いを変容させる。
投稿者 TKM : 03:48 | コメント (0) | トラックバック
ベーコンエッグ丼
思い立って深夜に食事をつくる。
ベーコンを二枚ひいてタマゴを落とし蓋をしてしばしまち、ゴハンにのせる。
味付けはなし。
醤油をかけて食べてみる。
うますぎる。
生きていて良かったと思わせるうまさだ。
どこにでもあるスーパーのタマゴ。
コンビニでかったベーコン。
それでも最高にうまい。
理由は自分だけが知っている。
人間の脳や身体は絶えず生きていて変動している。
一点に向かっていつも躍動している。
そして閾値を境に世界は転じる。
マルホランドドライブの魔法の箱みたいに。
++++++
ミルコのパンチはいいパンチだった。
人の動きに魅了されるのは久しぶりだった。
ナチュラルな生命力は本来あのカタチをしているのだろう。
++++++
いい夜だ。
上と下を同時に感じている。
夜更けにひとり話してみた。
その方法で思考してみた。
面白いやり方だと思った。
ナイーブさが苦手だ。
この場合のナイーブは安易さという意味でのナイーブである。
天真爛漫という意味ではない。
「イズム」
という音の響きが好きだ。
投稿者 TKM : 03:14 | コメント (0) | トラックバック
2005年02月22日
本棚の洪水
尋常ではない眠気を感じ、起きていたのに倒れる。
僕の部屋にタドとやましんという付箋がはられた本棚が3つくらいもちこまれる。15インチくらいのTVも3台くらいあった。 激やせしたアラマハ師匠が
「これから昼っしょ」
というので外にいこうとして気づく。
「アラハマさん、昨夜のPRIDE観戦したんですか?」
「ん?ん…ハ!天気よかったじゃない。かみさんと子供と散の歩にいくことになったんだよね。ハハハ」
さて本棚だ。なぜにこの巨大な本棚がうちに?
ともかく本棚を移動させねば。
と、そこに見慣れた後ろ姿の男が現れた。
中西君である。
本棚を持って貰おうと思ったが瞬殺で却下した。
キケンすぎる。
結局自分でもって運ぶことにした。
部屋の入り口のあたりにもうひとつ部屋ができあがっていたのでそこにもっていくと牛がモーと鳴いた。
部屋の中に畑が存在している。
親子サイズの二台の耕耘機を蹴散らして本棚を運んだ。子供用の耕耘機の模型がネギのむこうにふっとんでいった。 かわいそうだったのでそこらに刺さっていた棒をひっこぬいて取り寄せる。畑の土は長島農園なみにやわらかい。
耕耘機をならべて畑をあとにする。畑のネギにはミソがたっぷりと塗られていた。魔よけか何かだろうか。
投稿者 TKM : 17:23 | コメント (0) | トラックバック
海でバックドロップ
エリートヤンキー三郎っぽい夢をみる。
いつものように舞台は海である。
辞書がないので翻訳を司書に頼む。
サイトウさんと一緒に該当箇所をそらんじる。
サイトウさんと司書の女性は仲がよいようだ。
二人とも50代である。
海に兄弟がはいっていく。
深い海。
楽しい海。
海に雨がふりそそぐ。
窓から外を眺めた。
明け方の堤防でベージュのスーツをきたおじさんがワインを吐いている。
スゴイ量だ。
血のようだ。
おじさんは毛が薄い。
「バックドロップの練習してるか?」
レスラーにきかれた。
「やってないですよ」
「そうか。じゃあまたあとで」
彼は歩き去っていく。
夏の夕方である。
海にいた兄弟はそこが海水ではなく真水であることを知る。
ゆっくりと沈んでいく。
そして兄弟は再び出会う。
幾度も幾度も彼らは出会いを繰り返す。
飽きることなく。
潜水服を着ることもなく。
ドラえもんが待っていた。
しずかとスネが次ぎのシーンの打ち合わせをしている。
投稿者 TKM : 11:26 | コメント (0) | トラックバック
雑誌SPA!にやまけん登場
■コンニャクソング
「コンニャク、グニャグニャー。コンニャク、グニャグニャ~」
母親とスーパーに買い物にきた3歳くらいの女の子が歌っていた。
グニャグニャ感の表現があまりにも自然だったのでケータイでメモして自分あてにメールした。
あの歌はなかなか歌えない。
そもそも閃かない。
深夜、夜食を買いにコンビニにいった。
パンでも買おうかと棚をのぞく。
ヤマザキダブルソフトを選んだ。
このパン。
取り立てて「ウメー!」というパンではないが一般的な食パンと比較すると革命的な存在である。
これを開発したことで山崎製パンはどれほどの売り上げを得たのであろう。
そして誰がこの商品を開発したのだろう。
プロジェクトXの題材になりそうな商品だ。
話は飛ぶがコンビニで売られているパンはそれほど美味しくない。
ベトナムの街角にあるパン屋のパンはかなり美味しかったのだが…。
菓子パンとかカレーパンとかではなくて、 バゲットとか食パンとかそういったベーシックなパンになると日本のパン屋のパンはどこでも大差ない。(うまい店のはうまいけれど)
昨日、山本益博さんの出ていた回の「ソロモンの王宮」を観た。
素晴らしい食材のオンパレードをみていたら食について少し考えさせられた。
食事は日々のことなのにおろそかにしがちだ。
早速、実家に電話してオイシイお米を送ってもらうことにした。
ところで山本益博さんのウェブサイトだがこれだけ高名な人なのにインフォシークの無料サービスで運営されている。
このあたりのセンスは理解不能だ。
ウェブサイトなどどうでもいいということなのだろうか。
僕の個人的な意見だがフリーランスの人はオフィシャルのサイトを自分のドメインで運営すべきだ。 ☆さくらインターネット☆
だったら300メガの容量をフルに使えて月に125円しかかからないし、
自分のサーバスペースを持っていると気持ちもいい。また、
URLやメールアドレスも自分専用になるから広報的効果だってあるはずだ。何故みんな使わないのだろう。
僕が思う7不思議のひとつだ。(バシ師匠、ビール一杯やる値段でお釣りきますよ!)
サーバを借りてブログやオフィシャルサイトをやってみたいという人は相談して欲しい。
ぼったくりじゃないコンサルティング料で導入をサポートします。
機会損失はもったいなさすぎる。
こういうちょっとしたことも日本全体でみていけば巨大なロスになっているはずだ。
■雑誌SPA!にやまけん登場
山本益博さんの名前で連想したのは「やまけん」。
そう「やまけん」も同じ「山本」性なのである。
いずれやまけんも達人としてメディアに登場するのだろう。
夕刻、やまけんからメールがきていた。どうやら録画セットを忘れて旅立ったらしく、
「録画わすれた~。明日のPRIDEの録画よろしくおねがいします~」
とのことだった。
夜半過ぎ、モロイさんにブログ導入のサポートをおこなった。モロイさん自身にもいくつか作業をやってもらった。
多少なりともブログシステムの「感じ」をつかんでもらうのが目的だ。
夜食を買いにいったコンビニでSPA!をパラパラとめくるとコラムニストの神足氏とやまけんの対談が掲載されていた。
前にやまけんから
「おう。今度、SPA!に出るからさ。見てよ」
と言われていたのはこれか。
パっと読み進める。やまけんの持論が展開されている。
僕は農業についてはド素人なので印象くらいしか言えない。
それでもこの世界にはうまい野菜もあるということは体験を通じて知っている。
食の優先順位が下がっている背景には食事の希薄化があるように思う。自分の生活にあてはめても、 普段の生活ではひとりで食事をすることが多く、イベントとしての食事の機会が減っていてただ食べているだけ、という場合が多い。しかし、 やることが多すぎて落ち着いて食事をするまもなく追い立てられている、というわけではない。
単に習慣の問題だろう。
手間暇かければありきたりの食材でも豊かな食卓をつくりだすことはできるはずだ。
山本益博さんの話に戻ろう。
彼は「すきやばし次郎」をこれ以上ないというくらい絶賛していた。
僕は次郎の鮨を食べたことがない。
TVのドキュメントでみただけだ。
次郎の鮨は二人で7万円くらいのプライスという不思議な価格の世界である。
(ある食のポータルサイトのレビューをみると5つ星と1つ星のレビューがならんでいた)
高い鮨でも安い鮨でも栄養価(カロリー)はあまり変わらないだろうから(栄養価も10倍とか10分の1だったらすごく面白いのだが)
価格のほとんどは食材の選択と編集という人側のソフト的な部分にある。
食材の価格にしても生成や収穫のプロセスのコストが反映されているわけだから情報価値が価格に反映されていると言えるか。
そう考えると不思議な感じがする。
食べることは料理という媒体を通じて情報を食べていることでもあるのか。(料理自体も情報だが)
食の価値というのは主観的なものだ。
その鮨が幾らであるか、とか超有名である、
とか前もってインフォメーションがインプットされた状態で食べるのと全く予備知識なしで食べるのとでは全然味が変わってくると思う。
これは味わいの問題だ。
人は舌で食べ脳で味わっている。
脳の状態によって味わいは変わる。
あるレベルは存在するが絶対的な味は存在しない。
味もまた確率的な存在だ。
酷い二日酔いの時は次郎の鮨も「食いたくない」だろうし、チキンラーメンを最高にウマイと感じるかもしれない。
食事の価値も変動しているのだ。
ということをふまえた上で食について考えていかなければならないな、と思う今朝です。
■山本益博さんのブログ
http://stylog.jp/masuhiro/
投稿者 TKM : 04:46 | コメント (3) | トラックバック
2005年02月21日
球団創設 ~楽天プロ野球経営の舞台裏~
■ディズニーランドのメタファー
しんのすけに頼まれて録画しておいた番組をさきほど視聴した。
全く野球に興味のない自分だがこのチームの試合はみてみたい。
しかし、それは野球的な見地からではない。
僕らは美術館にいく。
思わぬ作品との出会いを求めていく場合もあるけれど、本やTVなどの映像で知っている作品を再確認しにいくというケースが多い。
このケースもそれと似ている。
番組を通じて球団創設の舞台裏を知ったことによってこの選手たち、
この組織人がどういう試合をどういうドラマを演じるのかを確認したいという思いが強い。
番組中盤で球団経営についての会議のシーンがあった。
楽天社内の会議はこのような雰囲気なのか。
楽天に知り合いは多いのだが会議の様子などきいたことがなかったので知らなかった。
ゴールデンイーグルスの経営の特徴は球団が球場の運営もおこなう点である。
オーナーの三木谷氏はディズニーランドのメタファーで球場と球団について語っていた。
なるほどうまい説明だ。
球場という場を最大限に利用し、広報、販売、商品として機能するチャンネルを構築していこうという計画だ。
こうした構造を解説つきでみていると野球を舞台にした新規事業という印象を受けた。
番組はこうした一連の流れを淡々と追っていく。
■脱線してしばし思索 ~もしも別なルールの集団があったら~
野球にしろ何にしろ組み立ててまとめて流れをつくって起動に乗せてという作業には業種に関係なくある種のパターンがあるように見える。 このケースは楽天というくくりがつくりだすパターンでそこには彼らのスタイルがある。
で、僕が思ったのはならば別のパターンもあるのだろうなということだ。
選手も他の競技のアスリート達も必死でやってるだろうし、楽しんでる人もいれば入り込んでしまってもがいてる人もいるだろう。
なんつったらいいかな。ここにだ、球場運営とかギャラだとかそういうことが全く関係なく「勝つ」だけを共通の目的とした集団が存在し、 それがプレーしたらどうなるのだろうな、という思考がよぎった。武士集団というか戦闘集団のような全く異質の野球団というものが存在したら、 と考えると既存の野球という枠とは全く別のスポーツ像が浮かんできてしまう。
オレは正直いってそういう集団がいたらコワイと思う。 既存の概念やらルールやらとは別なところで生きている人々の持つ空気はおそらく我々のいきている日常とは根本的に異なるだろう。 なんかそういうのがあったらどうなんだろう、と番組をみながらずっと考えていた。
スタイルを拘束条件にした集団ができていく未来だってあるんじゃないだろうか。
そしてスタイルによる結合はヒロイズムとリンクしていくと思う。
こうした結合には必ず統治の問題が発生する。
しかしそこをクリアする組織化のプロセスも存在する。
生命という現象はまさにそれだ。
会社や集団、組織というものがゆきつくさきには複雑とシンプルの調和がある。
生命力とはダイナミミズムだと思う。
勢いのある組織にはダイナミズムがある。
そこには複雑とシンプルが同時に存在している。
枠の外が入り込み、ダイナミズムの源になってる。
こうした「際」の存在に着目して組織や現象をみていくと違った風景や違った未来がみえてくる。
■GMの一言「この球団は運がいいなあ」
話を番組に戻そう。
紆余曲折があって投手の獲得でいきづまっていた楽天球団に次々と追い風がふき、最後には当初の予定よりもはるかに強力な布陣がしかれた。
GMのキーナート氏が
「この球団は運がいいなあ、そう思いましたよ」
といっていたが一連の流れをみていたら僕もそう思った。
綱渡りとはいえあれよあれよという間に布陣が固まっていくのはみていて不思議だった。
++++++
繰り返しになるが僕は「スタイル」が持つ自己組織化パワーみたいなものに注目している。
「類は友をよぶ」
という言葉があるが大きな現象の背景には必ずこの種の引き込みが存在する。
それはダイナミズムと連動しており、閾値を境にガラリと意味や機能をかえてしまう。
なかなか気づかないのはスケールをはかり間違えているからだろう。
そうした躍動は絶えず様々な場所で連続しておこっている。
そのように見えてしかたがない。
投稿者 TKM : 21:18 | コメント (3) | トラックバック
夢の食事
ひさしぶりに深く豊かな眠りを堪能した。
頭の中がすっきりとして気分も晴れやかである。
眠りとはエンターテイメントであり、道でもある。
よき眠りは人をつくる。
「眠ってるんじゃない!」
は大きな間違いだ。
惰眠はマイナスかもしれないが豊かな眠りは人の創造性を呼び覚ます。
夢の中で食事をした。
体育館の近くにある会議室で後期のスポーツ政策について日本メンバーでの会議。某氏も参席している。今回は僕と彼はよく話をしている。
1時間くらいたったころ尋常ではない空腹を感じた。
「これはちょっとメシの時間ですね。空腹だとアイディアがでないで意識が胃に向かってしまう」
「そうだ、そうしよう」
というわけで昼食をはさんで会議を続けることにした。フジワラさんが
「オレのファインピックスが壊れちゃってさ。二台あるんだけれど試合前に修理しておかないと」
とジェスチャーを交えてデジカメについて話す。
手の動きを通じてバーチャルなファインピックスがホロニックに浮かび上がってきた。なるほどそういうカラクリか。
「フジは壊れやすいみたいですね」
どの店にいこうかという話になり、この時間は混んでいそうだった。
考えを空間にみんなで広げていく。
重なり合いの大きい部分が解だ。
そうかあそこの店か。
投稿者 TKM : 12:34 | コメント (0) | トラックバック
2005年02月20日
石垣いきますか

というわけで今宵もキッペイ&タクとSkypeトークです。
いつやっても面白いな、この感じ。
でも「ちゃんぽん倶楽部」は勘弁な。

これが「ちゃんぽん倶楽部」だ!
このような双六スタイルのボードゲームなのだが各コマ毎に「ウイスキーガブ飲み」や「コスプレ」などの試練がまちかまえている。
この試練が尋常ではないらしく、キッペイは自らこのゲームの生け贄となり3週間の入院を余儀なくされたのであった。
投稿者 TKM : 22:29 | コメント (3) | トラックバック
RSSリーダのデータが破損
gooRSSリーダを使っているのだが登録してあるサイトのリストとおぼしきファイルが破損したようで起動しなくなった。 なのでファイルをバックアップしソフトを再インストールし、データファイルを入れ替えるという作業を行った。 その過程で勝手にデータファイルが置き換えられてしまったようで登録してあったサイトのデータが吹っ飛んだ。
かなり脱力である。
バイチャンス理論といきたいところだが記憶をもとにサイトリストを復帰させるのは困難だ。
サイトのタイトルすら覚えていないものがいくつかあるので発見は難しいだろう。ローカルで管理する場合のこうした隠れたコストが存在する。
普段は潜行していてみえないがいざ問題が顕在化するとそのダメージにウッとなる。
ローカルに存在するものに対しては例外なくこうしたリスクが存在する。
突然全てが切り替わるわけではないだろうけれどローカルに保持するということのリスクは更に大きくなっていくだろう。
段階的にはパラレルに存在する状態がでてくるかもしれない。それによってリスクは分散されるし。
いま書いているこのテキストにしたって僕の手元とネット上と各ユーザのローカルファイルなどなどいくつかの場所に遍在している。
話は変わるが日々、不可思議だと思うことがひとつある。
(そうだパラレルというイメージから現金もパラレルに存在してるな、と思ったのだ)
週の終わりやはじまりになると街のATMにはいつも行列ができている。
振り込みの行列のようだがなぜ彼らはオンラインバンキングを利用しないのだろう。
あそこに並んでいるひとりひとりの労力を結集させたら全国的にはものすごいコストになる。
何故あそこに並ぶのだろう。
何故??
ATMというのは現金を引き出すためにあればよいと思う。
それ以外の必要性があるのだろうか。
また現金引き出しの手数料に関してもいくつかの銀行がやっているように無料化してしまえばいいと思う。利便性からいったらその方がいい。
そういう部分で儲けようという発想は銀行本来の機能を退化させていく。
ネット系の企業が手数料無料の銀行をはじめたらガーっとユーザはそちらに流れるだろう。
また、そうした活溌な新陳代謝が必要なのだろうなおそらくいまという時期は。
前に後藤田さんが各分野での新陳代謝が顕在化するのは「2010年頃」と具体的に時期を言っていた。
フィーリングでしかないのだけれどその時期って実感だな。
投稿者 TKM : 12:58 | コメント (1) | トラックバック
モードのある人
朝方。
一年に何度かメールをくれる女の子のことを思い出した。
彼女は元気だろうか。
彼女とは1年以上あっていない。
元気で新婚生活をおくっているだろうか。
彼女くらい性格の良い女性でも悩みがあるのだ。(冗談ではなくてオレが知ってる女性の中でも彼女くらいできた雰囲気の人はいない、 あんまり)
性格が良いだけにそれがマイナスに働いてしまう、ということもある、ということだろうか。 文面には何も書かれていないが彼女がいいたいことは文章の後ろ側にあって、時折それがみえかくれする。
オレらはたまたまとはいえ同じ時間に生きてるわけでそうした共通項がある。このテキストをたまたま読んでる人もそうだ。
それだけでも貴重になる時代もくるだろう。
思考や感情を折りたたんでダイレクトに伝えあえたらな、と思う。
音楽にはそういう作用があって、人も音楽みたいに生きたら関係性は変容するだろう。
投稿者 TKM : 06:42 | コメント (0) | トラックバック
ライブドア騒動雑感
所変われば意味が変わってしまうわけだし。
ロックだってそれ以前にはなかったわけだし、はじまったころは毒薬だと思われていたし。
投稿者 TKM : 04:06 | コメント (0) | トラックバック
2月の中盤のある土曜から日曜にかけての雑記
亡くなった友人を偲ぶ会にでる。
人の世界の悩みやなにやらのはこの世界の出来事なのだ。
会から12時間たって彼女の言葉を少し思い出した。
家に帰って着替えながら人のやってることのかなりの部分、そのほとんどが感情的な何かによるもので、自分を含め人が守ろうとしている 「今」やら「ちょっと先」やら「気持ち」やら「感情」もそれら全部がこの世界のできごとでしかないな、と思った。 重要だと思っていることや自分がその瞬間に「守ろう」としていることは本来「守る」必要のないものだ。どうしてそれがわからないかな。人は 「気持ち」だよ。キッペイの言うとおり。
人と人が「気持ち」でつきあえる世界をつくりたいとせつに思う。外側からじゃなくて、感じるようにやったらいいのに。 沖縄の友人と一緒にいるときにはそういられるのに何故おなじようにできないのか。自分に理由があるのか人々に理由があるのか。 キッペイと議論したいがSkypeではやりづらい話なので向こうにいかなければならないだろう。
夕方、カネコからのチャットがあった。
デジタルマンガの英語版がほぼ完成とのことであった。
直後、しんのすけから電話がきた。
勿論、デフォルトで設定済みであったがあげようと思ってテレ朝からもらった空テープに入れ替えてセットしておいた。
シードを観た後に眠くなって眠った。
目覚めるとキッペイとモロイさんからチャットが入っていた。
返事をするとキッペイはすでに退席しているようで返事がなかった。
モロイさんと少し話して、タケも加わり盛り上がる。
ブログ系の設定とGoogleの小切手の件などもあったので上野で買ったチーズケーキなどを持って夜にモロイさん宅にお邪魔する。 設定やらバカ話などしていたら夜更けになっていた。

カネコもSkypeで合流してアルゼンチンや南米の話で盛り上がる。
カネコが世界で一番ウマイと絶賛するアルゼンチンの肉の写真をみたら確かにおいしそうでうらやましかった。 写真の肉「アサード」
は日本で食べるのの10分の1の価格である。この量がアルゼンチンでは2000円程度。日本だと2~3万円はする。
(あまりにもインパクトがありすぎたので帰りにサラミを買った。いまはサラミを囓りながら書いている)
帰り道。雨は止んでいた。しかし2月の夜は肌寒い。
家に帰ってきてさっきの夢をおもいだした。
「記憶ノート」の夢だった。
記憶を持っていけるノートの話の後、ヨシザワさんに着物のケースのたたみ方を指導されているところで目が覚めた。
故人がみせてくれたのだろ。
いい夢だった。
投稿者 TKM : 02:44 | コメント (0) | トラックバック
2005年02月19日
土曜日の耳鳴りについて
一年前くらいから耳鳴りがずっと続いていて無音状態にたいして強い憧れや羨望や希望を持って暮らしている。 いい日もあれば悪い日もあり、この3日くらいはキーンという音が脳の中で鳴っている。 この音エネルギーが何かに変換できて聴いていると気持ちよくなるとか頭が冴えてくる、という効果を発揮してくれたらいいのだが。
今日もまた様々なことを考えた一日だった。
冷たい雨は妙に劇的な演出効果をもたらし上野公園を「第三の男 」な世界に変えていた。
故人との対話を思い出しながら歩いた。
彼女とはコミュニケーションについてよく話した。
人はその人の世界をいきている。
対話やコミュニケーションにおいてアンカリングや損得、相対的なという視点が無しでいけたらな、いや、
そういうのが無しでいける人の言葉は響いてくるものだ。
聖と俗を隔てるものは大きな違いではない。
しかし二者の間には超えようのない断絶がある。
■ 上野公園
投稿者 TKM : 19:08 | コメント (0) | トラックバック
2005年02月18日
バベットの晩餐会
今晩、テレビ東京で放送される「バベットの晩餐会」は僕の好きな映画の一本である。
以前にも感想を書いたのだが終了間際、彼女が語り始めるシーンが好きでいまでも覚えている。
あのシーンは何度見ても自分のどこかに響いてくる。
僕が好きなのはあのシーンでの彼女の目線でそこには「時」が折りたたまれている。
■ バベットの晩餐会
投稿者 TKM : 22:01 | コメント (0) | トラックバック
狂言ライブ鑑賞レポート!
先日書いた「狂言・体験記」に続き、デジタルマンガ最新作「狂言ライブ鑑賞記」公開開始です。
今回のデジタルマンガでは「和泉流宗家による狂言ライブ」(狂言「張蛸」&「鶏流」)の鑑賞レポートを三宅藤九郎さんの監修でお送りします。 伝統芸能の味わいがデジタルマンガで蘇ります。お楽しみください!
■ 狂言
投稿者 TKM : 13:31 | コメント (0) | トラックバック
ヤマエモン
ネタで昨夜は盛り上がった。
先日、やまけんとのミーティングの際にカネコが撮影したやまけんの写真が某氏にそっくりだった。
それをみて一同、
「これ、ヤマエモンじゃん!」
ということで昨夜みなおしてみたのだがやはり激似であった。
「似」という現象は不思議だ。
異なる遺伝子を持つ二者が似ているという現実を眼前にすると人は笑ってしまう。関係性のないはずの事象に関連性を感じそこに意味を見いだす。
この状態をリアルタイムに体験すると人はそれを「面白い」と感じてしまうようだ。
外観の相似がアンカーとなり、一度アンカリングされると、行動や言動から我々が受ける印象も変わってくる。 これも不思議といったら不思議なのだが人は感覚的に生きているのだなと実感した。ヤマエモンという現象を通じて考えることが多々ある。が、 それは私の胸の内に納めておくべき話であろう。
私の思考は変化し、現象と意味の関係は私の思考を反映し絶えず地と図を入れ替えている。
それもまた生命や人の本性なのであろう。
投稿者 TKM : 09:57 | コメント (5) | トラックバック
2005年02月16日
Earthquake
眠っていたのだが飛び起きた。
部屋が揺れていた。
関東大震災。
地震の度に毎回思う。
明け方、まだ夜だった。
グラリと揺れた。
最初の揺れは振動レベルだったので地震かと思う程度だったがいっぱく遅れて空間が弾むようなドワンとした揺れがやってきた。 何年ぶりかに感じる大きな揺れだった。子供の頃に遭遇した宮城県沖地震を思い出した。
このまま揺れたらどこにいくんだろう。このマンションは崩れるだろうか。上から天上が落ちてくるんだろうか。 机の下に入ったらいいだろうか。数秒の間、ぼんやりと考えた。仮に大災害に発展したら。目は覚めているから動けるには動けるが。
しかし、案外とぼーっとしているものだな。
それだけ危機感が薄れているのだ。
しばらくしたら揺れは止んだ。


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