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2005年02月25日
映画「波止場」 vol.1 ~マーロン・ブランドは男の色気がプンプンであった~
■波止場
特殊効果や派手なアクションはないが出だしから強烈に引き込まれる。映像のリズムがいいのだ。
この時代の映画に特有なのだが主役が登場した瞬時に映像が全く別なモノに転じる。「駅馬車」でジョン・ ウェインが登場するシーンもそう。 同じセットや場面なのに雰囲気がガラリと変わる。まさに情報の相転移である。 創造性について考察をしていることが多いのでこうしたシーンには強く惹かれる。 だから意味やコンテクストが重なり合う時間を折りたたんでいる映画作品をみるのは面白くてやめられない。「転じる」 という瞬間には創造のエネルギーが凝縮されているのだ。(私の「異化」への強い興味も同様の理由による)
最近の映画とは存在感が異なる映画である。日本映画でこういう感覚にとらわれることは少ないのだが、この間みた 「レイクサイドマーダーケース」では似たような時間があった。
「薬師丸ひろ子」の存在がまさにそれであった。 彼女が登場しているシーンになると映像の重みが変わる。 女優一人で何が変わるのか、 と思うのだが彼女が出てくると転じるように場面に重厚さが増すのである。なんとも不思議な感覚だ。
「波止場」では出だし直後にいきなりマーロン・ブランドが登場する。
「顔」の輝きが他のキャストとは全然違う。ひとりだけ妙にキラキラしている。ヒロインもそう。開始直後に彼の親友が殺されてしまうのだが、
その妹イディ(エヴァ・マリー・ セイント)も場違いなくらい美しく輝いている。
(照明のあてかたも違うのか?)
同じくマーロン・ブランド主演の「欲望という名の電車」でも誰が主人公で誰がヒロインかが一目瞭然にわかる。 見始めてすぐに気づくと思うがヴィヴィアン・ リーとマーロン・ ブランドだけが劇中で浮きまくっている。
あんなカッコいい労働者がいたらコワイ。「波止場」「欲望という名の電車」ともに画面の中にはマーロン・ ブランドの妙な色気がムンムンしている。実際にあの時代のマーロン・ブランドと対峙したら猪木などより更に濃厚な「男」 なオーラが漂っていたのではないだろうか。
映画の内容については次のエントリーで触れていきたい。
投稿者 TKM : 2005年02月25日 14:03
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