« この世界は | メイン | Google ~Making the world a better place~ »
2005年04月26日
「サマリア」 キム・ギドク
先日、別なエントリーで触れた サマリアだが先週ようやく鑑賞することができた。

■サマリア
トラックバックなどもいただいたので感想をメモしておこうと思う。観賞後に電話で映画についての雑感を少し話した。その時、 僕がいったのは「悪い男」と比べると荒々しさが薄れ映像全体が「優しく」感じられた、というようなことだったと思う。
この感想はいまも変わらない。
主人公である二人の少女(クァク・チミン(ヨジン)/ハン・ヨルム(チェヨン))のみずみずしさがそう感じさせるのだろうか。
鑑賞中に書き留めたメモがあったので掲載してみる。
[サマリア]
・ジムノペディ
・お墓のシーンから彼女の眼がかわる
・車がスタックした時、外に出て見上げる時の眼
・3つ目(彼女の眼が印象的なシーンが3つあったと記憶しているのだがそのシーンの最後の一つが思い出せない) は河原での夢の時or追うとき?
・底意の無さ
・マイナス、ネガティブはどこから来るのか→我々は何を守りたいと思うのか?
手帳にはこのような記述があった。
・ジムノペディ
映画のでこの曲が使われるのだがそのタイミングがとても印象的だったのでメモしたのだろうと思う。曲の質感と映像の質感が似ているのだ。
・お墓のシーンから彼女の眼がかわる
これは僕が物事を見るときの中心に据える視点の一つだ。
半ば狂気的に変貌していく父親ととも彼女(ヨジン)は母親の墓参りにいく。山中の丘にある土まんじゅうが母親の墓前である。
父親はつくってきた海苔巻きを連続して5個ほど口に運び、口中をご飯でいっぱいにして苦々しさに対峙する。
身体へ負荷をかけることにより心の苦々しさを軽減させようとするのは彼だけでなく我々にも覚えのある行動であろう。
人は食という行為によって一時的に記憶の拘束から解放される。それが過度であればあるほど記憶からの解放度合いは強まる。
この前後のシーンで彼女の表情がガラリと変わる。全く別人といっていいほどの変貌をみせる。僕はこういう「変化」に強く惹きつけられる。
・車がスタックした時、外に出て見上げる時の眼
車のナンバーが「6668」であったことには意味があるのだろうか、とぼんやり考えていた。「8」の数字はよごれで薄れており「666」
の獣の数字が強調されているようにも見えた。坂道で車はスタックする。父親は一度外にでて砂利や石をのけるが車は動かない。
再び車中にもどり座り込む。
入れ違いに少女が外に出て車の右前輪付近の石をのける。この時、彼女は空を仰ぎ見る。山々に視線を移す。
このシーンの彼女の表情が忘れられない。墓のシーン同様に素晴らしい表情だった。
表情には言葉以前の意味が含まれている。それなんであったのかを言葉としてここに固定することはできない。
固定によっては表現できない種類の情報なのである。
その質感を言葉を用いて表現しようとするならば言葉の意味とは別のカタチでここに再現する必要がある。しかしその技を僕は持たない。
それは言葉の本質作用に関わる問題であり、優れた小説家にのみ可能な技である。それを使いこなす作家は数えるほどしかいない。
・3つ目(彼女の眼が印象的なシーンが3つあったと記憶しているのだがそのシーンの最後の一つが思い出せない)
は河原での夢の時or追うとき?
もう一箇所、彼女の表情がハッと変わるシーンがあった。
映像がサラリと流れていくようなシーンだったと思うのだがどこだったかをメモする前に意識が流れていってしまった。
ラスト直前の川を見下ろすシーンだけが記憶にのこっているのでその付近だったとは思うのだがどこだったかは忘れてしまった。
・底意のなさ
チェヨンが援助交際で得たお金を返す旅
(いま思ったのだがこの映画はロードムービー的な要素が強い。僕はこの映画を彼女(ユジン)の旅のように見ていたのだろう)
の途中で幾人かの男性と会話を交わす。そこでの彼女には底意がない。あれは男からみたあって欲しい女性の姿のひとつなのだろう、と僕は思う。
男性には「赦されること」を求めている部分がある。しかし、それは母性への渇望とも異なるように思う。
コミュニケーションへの本能的な渇望といった方がいい。
・マイナス、ネガティブはどこから来るのか→我々は何を守りたいと思うのか?
これは父親の視点で彼女を見ている自分の意識である。けがれていて欲しくない、という思いがいつもあってこの映画に限らず「夜がまた来る」など見ていても意識が逆なでされ、
怒りのような苦々しさをどうしてよいのかわからなくなるときがある。「コンクリート詰め殺人事件」
に関する著作などを読んだときも同じ感覚にとらわれた。逃れようにも逃れられない無間の地獄をつくりだした同種である人間への怒りや、
おかしてはいけないラインが破壊されると、根元的な何かを破壊されるような気持ちになり感情がうねり爆発しそうになる。そうした
「許せない」 と感じるものが人にはあるのだと思う。
それはどこから来るのか、それは間違っているのか、あるいは自分のエゴなのか。
「サマリア」についてのメモを振り返って雑感を書き留めてみて、自分は映画から得た印象をキーに記憶と記憶の関係性を組織化し、 図象をつくりだす、ということをやっているのだな、と思った。
投稿者 TKM : 2005年04月26日 12:36
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kagaya.com/mt/mt-tb.cgi/4537



















































































