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2005年07月16日

「死神の精度」とゼロ・プロセス このエントリーを含むはてなブックマーク

先日、読み始めた「死神の精度」を読了。

中盤の「恋愛で死神」を読んでいたら泣きそうになった。
最後のエピソードを読み終えた時、映画をみているような錯覚に陥った。

読んでいる間、僕は存在しない海を見ていた。

しかしその海はどの海よりも海らしい質感があった。

伊坂幸太郎、いままでの作品とは感じが違うではないか。

本を読んだ、という実感が残った。

もっと読んでいたかった。

自分はコンテンツ性のどこひかれるのかがわかった。

自分は「迷いのなさ」にひかれるのだ。

老女には迷いがなかった。

ヒロイズムとも似ている。

それは「いま」この瞬間に存在するゼロのプロセスに生きることなのだと思う。

自分はあのような人と話がしてみたい。

 

聖路加タワーのエクセシオールで本を読み終えてから、隅田川のテラスをしばらく散歩した。

子供と若いお父さんが並んで座っていた。
男の子は夜の川を通り過ぎる屋形船が通ると

「ばいばいー」

と手を振る。
3歳くらいだろうか。

彼はいまを精一杯生きている。

文藝春秋に酒井さんの話が出ていた。
酒井さんはアジャリである。

千日回峰という壮絶な苦行を二度なしとげた方だ。
隆慶一郎も書いているがアジャリ達の所作には迷いが感じられないそうだ。

酒井さんの寄稿は

「今日を一生と思って生きる」

と結ばれていた。

その言葉を幾度か読み返した。

追記:千日については下記のエントリーを参照ください。

■千日回峰とある阿闍梨の誕生
http://www.kagaya.com/archives/2004/06/post_337.html

投稿者 TKM : 2005年07月16日 02:30

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