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2005年10月20日

結構、重要なこと 人の問題、ホームレスについての雑感 このエントリーを含むはてなブックマーク

今週号のNewsweekのカバーストーリー「世界が尊敬する日本人」という特集について書かれた下記のエントリー。

また英デイリー・テレグラフ紙東京支局長、コリン・ジョイス氏のコラムも興味深いです。

『東京で見つけた僕のひそかなヒーロー』として、家の近所のスーパーのレジ係の女性の「華々しく、英雄的といってもよい仕事ぶり」 を紹介しています。

そして「東京を訪れる外国人はみな、日本人の礼儀正しさと勤勉さに驚く。ガソリンスタンドの店員が深々とお辞儀をし、 ウェートレスは本物の笑顔で客を迎え、工事現場で働く人は通行人を丁寧に誘導する」と褒めちぎった上で、 こうしたサービスの伝統が失われつつある今こそ、政府が提唱するような「50年でノーベル賞受賞者30人」などという目標よりも、 あのレジ係の女性のような「見過ごされた英雄」を表彰すべきだと提案しています。(http://ameblo.jp/fushigi/entry-10005277105.htmlより引用)

そして愛読している板倉氏のブログのこのエントリー

なんだか世の中変じゃないか?
日本がどんどんおかしくなっている。
僕は、日本をアメリカナイズしようとする現政権に大いに不満を感じる。

が、一方で、けが人を想定して、車を止め、現場の対応を一緒にしてくれた28歳の中村君という若者。
そして、事故現場を無視して通り過ぎる車の中に、一台だけ、わざわざバックして「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた、 これまたおそらく20代の若者。
彼らの姿勢に、「日本の将来は捨てたものではない!」と思った次第である。

金がすべてを動かすと思っている馬鹿者ばかりではないのだ。
僕は今、警察の態勢と、事故って逃げてしまう人間に対する憤りと同時に、以上のような若者の清清しさを同時に感じている。

日本を取り戻そう。
(板倉氏のブログ「またもや事故」 より引用)

上記の二つのブログのエントリーの問題提起に強く共感する。

「人」を世代や場所ではくくれなくなっていて(前からそうだったけれども)、 もっと別なとらえ方をする必要がある。

例えばマンデラ氏がスパイラル・ダイナミクスを導入することで人種差別問題に取り組んだようにスパイラル・ ダイナミクスみたいな指標は南アに限らず有効であるかもしれない。

どこで読んだのか忘れてしまったのだけれど、ある人が10代の子供達の取材をした際の経験について書いていた。 彼らは引きこもり気味だったり、他者に対する感心が薄いというような印象を持っていたけれど、取材してみると、優しく丁寧で、 大人のそれよりも遙かにコミュニケーション能力が高くて驚いた。これまでの自分の思いこみは何だったのだろうとびっくりした。

およそそんなことが書かれていた。

どこの誰がダメなのか、僕もよくわからない。 こういう人たちという集合が場所や環境ではひとくくりに出来なくなっている。

「憂鬱の先端」と形容されることが多い日本の今を象徴する現象だと思うことがある。

隅田川沿いの月島のテラスを毎日走っているのだけれど必ず空き缶や空き瓶、 コンビニの袋に入ったゴミなどがポツンポツンと置かれている。

どこの誰がそこに捨てていくのか、どんな気持ちで彼らはそこにゴミを置いていくのか僕にはわからない。 ゴミというモノを一瞬でもはやく自分から隔離したい、という気持ちなのだろうか。 そういえばテラスにおいてあったゴミ箱は全て撤去されていた。ゴミ箱を置くと更にゴミが集まるという発想なのだろうか。

これは区の管轄の仕事なのだろうけれど、これではゴミを捨てていく人々と同レベルの対応に思える。

路上にゴミを捨てていくという行為を平然と行う人々とその対応に疲れてしまった人々。 ところでこのテラスはリバーシティの近くであるせいもあって富裕層と思われる人々が夜昼なく犬の散歩にいそしんでいる。

2週間前くらいから佃大橋の下にひとりのホームレスが住み着いている。 ここ10年で何度かこの場所にホームレスがいたことがあったけれど、これだけ長い間ホームレスが住み着いているのははじめてのことだ。 毎日走っていると彼の住居(それを住居とは呼ばないだろうけれど)の変化がわかる。

最初は半径1mくらいでまとまっていた荷物が次第に面積を増し、現在は半径5mくらいにまで広がっている。 日増しに乱雑さの度合いが強まっていくのがよくわかる。

エントロピーの増大をリアルに見せられている感じがする。

このホームレスの存在によって月島側のテラスの印象は大きく変容している。 彼の周囲10メートルくらいに暗い磁場ができあがり、佃大橋を境に勝どき橋側とリバーシティ側が分離されている。

近くにいくと人の流れや風のながれが歪んでいることを実感する。
これはこれで大きな問題なのだが誰も解決できない問題でもある。

そこに住むなといったところで彼はそこに住むだろうし、区ができることといえば中央大橋(リバーシティ側の橋) のように橋の下部を鉄柵で覆い、空間を排除するくらいのことだろう。

ホームレスの問題は直接は僕たちの生活に関係がないので放って置かれるのだろうけれど、 思っている以上に影響は大きい、と僕は思う。彼らがそこにいることによって無意識下で人は何らかの情報を受け取っている。 ポジティブな感情を抱くことはないし、そこを避けるようにもなる。

自らの行動やら思考を外部要因によって制限されたり、マイナスにもっていかれる、 というような機会が増えてしまっているわけで、それは生産性をそこなう要因ともなりうる。これは社会全体にとって大きなマイナスだと僕は思う。 (けれども、と僕はここで考えるのだがそれはこちら側からみた時の印象でしかなく、「ホームレス=非競争」 みたいなモデルが成り立つのであれば、そこには大きな意味があるのかもなあ、と思う。 人がレイバーとして働かなくて生きている世界が実現したら(働かないといってもその人のクリエイティブが発揮されない、 バリューが存在しない労働はしなくていいという意味での「働かない」であって、世界はそこに向かって発展していってるんだと思ってる) 彼らの今はその世界の一部を反映してるのかもなあ、と思った。競争がない社会でのクリエイティブってありうると僕は思うし、 そもそもクリエイティブと競争は関係がない概念だと思う)

しかし、何をどうすればいいのか。 という部分になると何をどうしたらいいのか個人レベルでどのような対策が実行可能なのか思い浮かばない。 イエローハットの社長が実践しているように徹底した掃除とゴミ拾いを実行すれば変わるという問題でもないように思う。 ゴミを拾わない人が問題なのではなく、ゴミを捨てる人が問題の本質なわけで、 そこいらにゴミを捨てないように人が変わるにはどうすればよいか、が問題なのだ。

ホームレス自治区をつくって自己組織化プロセスを導入する、くらいの施策しか思いつかない。 これも知恵のない発想であるが可能性はある。

ホームレス人口が拡大していってるのは体感ベースで感じられる。
中央区ですら目にするホームレスの数が年々増えている。

自分には関係ない、といってしまえばそれまでなのだが。

話は飛ぶが新橋に何件かマンガ喫茶がある。 夜になると1000円程度で8時間くらい滞在できるので長編のマンガを一気に読みたい時などよくいっていた。 ところがある時期を境にいくのが嫌になった。

夜の新橋地区のマンガ喫茶は「ここはこの世の果てなのではないか」と思ってしまうような時空が広がっている。 そこは極度に停滞した空間である。
上記の板倉氏のエントリーにあったケータイを3台放置して、車から立ち去った人間の刹那的な感じ、 の密度を100倍くらいにして陰鬱にしたモードがそこにはある。

未体験の方はいってみるとかなりのショックを受けるかもしれないがあれこそ「憂鬱の先端」 の姿なのではないかと思う。

こうした現象を感情面で論じても議論は深まらない。 それが意味することがなんなのかについて別なフレームで捉える必要がある。物事は関連しており、ホームレスが増加しているのには理由があるし、新橋のマンガ喫茶が異次元空間なのにも理由がある。 現象は単独では存在しない。

僕はこれを不自然と感じているが、自然な現象である可能性も否定はできない。 思いこみや一面的なものの見方は歪みを反復属服させてしまう。

根幹にある問題、もしかすると些細なものなのかもしれないけれど。
本質についての考察はつづけていきたい。

投稿者 TKM : 2005年10月20日 12:08

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コメント

 加賀谷さんの感じていることは日々常に受け取っています。いかにして、たばこのポイ捨てをやめさせるかとかでね。そういうものを見るたびに、その当人の心の痛みを見せつけられるようで、私の場合感じすぎるのか、いやな気持ちになりますね。
 私の場合、「自分には関係がない」訳はないのだとも思ってしまうのですよ。なんらかの理由でホームレスが増えていることも、新橋のマンガ喫茶が廃墟化しているのも、何らかの理由があるわけで。
 そんなときに、祖母のことを思い出すのですが、「昔の人はお天道様が見ていると思っていた」とか「利他の心」とか思わされるわけです。
 共同体が崩壊しかけている日本で、また、経済・効率至上主義に移行している現状では、解決策は皆無に近い気もしています。要は一人一人の心が現れているだけのことですから。
 自ら輝いて、他人の傷を癒すくらいまで行動を純化させるのも無理がありますし(ヒーラーになるわけでもないし)、教育で徹底させるのも無理があると思います。現在の親の世代からして躾がなってない人も多いですし。
 ただ、あきらめるわけにはいかないですよね。私は日本人でよかったと思っているし、日本を好きですから。
 変な投稿ですみません。
それと、遅くなってしまいましたがいただいた本、読み終えました。おもしろかったです。ブログで書かせていただきました。ありがとうございます。

投稿者 Endoh Takeshi : 2005年10月21日 00:46

 加賀谷さんの感じていることは日々常に受け取っています。いかにして、たばこのポイ捨てをやめさせるかとかでね。そういうものを見るたびに、その当人の心の痛みを見せつけられるようで、私の場合感じすぎるのか、いやな気持ちになりますね。
 私の場合、「自分には関係がない」訳はないのだとも思ってしまうのですよ。なんらかの理由でホームレスが増えていることも、新橋のマンガ喫茶が廃墟化しているのも、何らかの理由があるわけで。
 そんなときに、祖母のことを思い出すのですが、「昔の人はお天道様が見ていると思っていた」とか「利他の心」とか思わされるわけです。
 共同体が崩壊しかけている日本で、また、経済・効率至上主義に移行している現状では、解決策は皆無に近い気もしています。要は一人一人の心が現れているだけのことですから。
 自ら輝いて、他人の傷を癒すくらいまで行動を純化させるのも無理がありますし(ヒーラーになるわけでもないし)、教育で徹底させるのも無理があると思います。現在の親の世代からして躾がなってない人も多いですし。
 ただ、あきらめるわけにはいかないですよね。私は日本人でよかったと思っているし、日本を好きですから。
 変な投稿ですみません。
それと、遅くなってしまいましたがいただいた本、読み終えました。おもしろかったです。ブログで書かせていただきました。ありがとうございます。

投稿者 Endoh Takeshi : 2005年10月21日 00:48

日本の現状を「アメリカナイズ」という言葉でくくったり、そこから懐古主義に走って、小さな現象1つ2つを見て「日本の将来は捨てたものではない」としてしまう論調は、結局は世代や国境を超えられない発想で、本質を突けていない気がします。大新聞などに見られる「日本語の乱れ」論(たいていはゲームかネットかテレビか携帯が悪者になる)にもどこか通じるものがあり、考察が不十分だと思うのです。

「いい」「悪い」の価値基準がドグマ化して、「誰だってゴミが落ちているのはイヤでしょう」とか「金ですべて買えると思っているのは拝金主義の馬鹿者」というように大前提を疑わずに終わってしまっては、人間やその幸福感の本質というものには迫れない気がします。

大事なのは、「なぜ自分はそう感じるのか」というところまで突っ込むことだと思います。僕も、ゴミがあちこちに落ちているのが大嫌いです。道ばたでもどこでも平気で捨てる人の神経がまるで理解できません。でも、それを「多くの人がそう感じるのだから、まずそれは正しい」という前提に立って、「どう解決するか(どう人の心を変えて捨てさせないようにするか)」というところに持って行ってしまうと、本質をスルーしてしまう気がするのです。

まあ、結局こうなると哲学の世界に入ってしまうわけですが、そこまで突っ込まないことには「マナー指導」「懐古主義」の域を超えられず、いつまでも表面をなで続けて終わってしまうのかなあ、というのが僕の感じるところです。

※すみません、コメントで長いのいっぱいつけちゃって。ブログ立ててトラックバックにしないと…。

投稿者 nakase : 2005年10月21日 01:20

とてもインスパイヤされるコメントありがとう。

善悪とか良い悪いの問題は相対的で、子供の頃に仮面ライダーとかみると

「このショッカーの下っ端の職員は家に帰ったら子供とかいたりするわけで、だとしたらその子にとってこのライダーという存在って」

とか考えたりしてたな。さて、ドグマ化の問題だけれどこれについて、いま考えてたらキャンベルの話とかを思い出した。

そこにどんな意味があっても意味とは別にヒロイズムそのものは人にとって魅力的である、みたいな話だったかと思う。
(二つの例についての、オレの共感ポイントは出来事そのものではなく、こっちの方で、そこに共通してるのってキャンベルがいうところのヒロイズム的なものだと思う、というかいま思った)

ゴミもさ、オレらの視点からみるとマイナスな印象だけれど虫の視点でみたらあんまり関係なかったりするだろうな。

と、ここで思いだしたが、この間、電車のるときにさ、東京駅で山手線に乗り込む時。ホームに38歳くらいの人がたっていた。この人、何故か、立ったままコンビニにスパゲティを食べてた。で、そのまま電車に乗り込んで、立ったままスパゲティを食べてた。

これが正しいか正しくないかはオレはわからないよ。
ただね、正常ではないな、と感じた。

ここでオレが感じた「?!」は本質への入り口だと思うんだよね。じゃあ、何故そこでオレは違和感を感じたのか?

ここから先が本質へ迫る議論なんだろうな。

投稿者 かがや : 2005年10月21日 03:06

ヒロイズムの話、とても興味深いですね(虫にとってどうか、という視点はとても大切だと思います)。立ったままスパゲティという話は、正直「何だ、そいつ」って僕も思います。

でも、似たような話がオーストラリア時代にあって。普通のきれいなOLさんが、道路で信号待ちしているときに、マレー風焼きそばを立ち食いしてたんです(信号が青に変わってからは歩き食い)。日本ではちょっと見ませんね。特に銀座あたりでスーツ着たOLが焼きそばを歩き食いというのは。ところが、これを見たときは「何かおかしい」とは思わなかった。

結局、ある「場」にいたときに、周囲が作り出す空気(オープンさであったり、協調性であったり)というのに、自分の感じ方も無意識に影響されるのかもしれませんね。

面白いのは、たとえば日本人はブランド狂いだとか言われて、よくヴィトンだとかのバッグを若い子が持っているわけですね。で、海外ではそういうのは分不相応と思われるわけです。ところが、外国人が日本に来ると、なぜか日本に影響されたりする。「この人、母国ではきっとヴィトンなんて持たないんだろうな」という普通の人が、ヴィトンを持っていたりすることがよくある(気がする)んです。

ちょっと話がずれちゃいましたけど、場の持つ空気感と人間の心がそこから受ける影響ってあるのかなあ、と思いました。

投稿者 nakase : 2005年10月23日 21:27

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