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2005年10月20日

非競争社会のダイナミズム このエントリーを含むはてなブックマーク

掃除機で掃除してたらそういうものがありうるんじゃないかと思った。

廊下で英語の話声が聞こえるのでみてみると清掃会社の社員が床のワックスがけをやっていた。
彼は外国人(アジア系)のようでインカムで話をしながらモップをかけている。

そういえば月島のスーパーに外国人の姿が増えている。
ものすごい勢いでマンションが建設されているがその住人の何パーセントかは外国人なのだろうか。 夕刻の下町なスーパーでおばさんに混じって外国人が買い物をしている絵は思ったほど不自然ではない。

印象でしかないがスーパーで買い物をしている外国人の表情は一様に穏やかで優しい。
柄と品が良いのだ。

こういう人が集まった方が暮らしやすいし、心地よいのだが、その場合、多様性は失われダイナミズムが損なわれる、 ということになるのだろうか。競争によるダイナミズムが絶対視されているが、協調によるダイナミズムもあっていいのではないか。

「好みを同じくする」

という共通性ではなく、別なレイヤーでの共通性と個性はパラレルに存在し、協調のダイナミズムを生成する、それが僕の考えである。

投稿者 TKM : 2005年10月20日 12:48

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コメント

直接関係ないのですが、「スーパー」「外国」というキーワードに関連して、少し思うところがあります。

外国(と十把一絡げにするのは乱暴過ぎですが)では、日本のスーパーと違って、音楽があまりかかっていません。日本では、ダイエーにしてもサミットにしても、必ずといっていいほどテーマソングというのがあり、それが一日中かかりっぱなしということを考えると対照的です。これはスーパーに限った話ではなく、たとえば家電店でもテーマソングを持たない店はないでしょう。テーマソングでなくても、あらゆるお店で音楽がかかっています(TSUTAYAのような場所やレコード店はいいとしても)。

僕は、これがあまり好きではありません。単純にうるさいのが嫌いというのもありますが、どうもこの国は「賑やかし」が過ぎるのではないかと思うからです。音楽に限らず、たとえば電車の広告や街の看板、田舎の畑の看板、テレビ番組やCM。日本は何でも「やりすぎ」だと感じるのです。

「賑やかでないと振り向いてもらえない」という恐怖のあまり、あらゆるものについて“装飾”がいきすぎていると思うのです。これは、次のエントリーにも関連するのですが、結局、メディアにしても人にしても「本質的な話」ができない人が多すぎるのは、こういう「飾り」に一生懸命になりすぎていることの一つの現れではないでしょうか。

とはいえ、一方で「スーパーで買い物をしている外国人の表情は一様に穏やかで優しい。 柄と品が良いのだ」という記述もあるわけで、外国人にとってはむしろ、この賑やかな感じが(自国になく)心地よいのかもしれません。ですから、安易に日本の文化を否定するわけにはいかないのですが、「なぜこんなに目にも耳にも騒々しいのか」ということを考えてみるのは、無意味ではない気がします。

エントリーの本筋とは少し違う話になってしまいましたが、こんなことを考えました。ここに書いた問題は、もっといくつかの面に切り分けて考えないといけないのですが、それは書ききれないので割愛します。

投稿者 nakase : 2005年10月21日 00:25

加賀谷さんがスーパーで感じられたことは、「協調によるダイナミズム」の話なのでしょうか。もちろん、ご本人の「感じ」を否定する気は毛頭ないのですが、単純に国際感覚(この言葉は陳腐でいやですね)というものなのかも、と少し感じました。

僕がオーストラリアに行ったとき、はじめての国なのに妙に気持ちがよかったのを思い出します。原因を探ってみると、小さい頃にやはり移民の国ブラジルで育って、いろんな肌の色をした人たちに囲まれて過ごすのが当たり前だったせいで、そういう環境を気持ちよく感じたのかもしれない、と思います。

加賀谷さんは海外生活経験がおありかどうか分かりませんが、外国のお友達が結構多いんですよね? 必ずしも海外で生活しているかどうかがキーではなくて、そういう「異物」が混ざった状態を心地よく感じる精神性を持ち合わせている人、というのはいるんじゃないかと思っています。異物の持つ未知性だとか、それに対する恐怖感や精神武装を解除できる人、ってことなのかなあ、と思いました。勝手な空想が過ぎるかもしれませんが。

協調によるダイナミズム、という言葉自体には、それはそれですごくピンときました。健全で公正な競争をできる基盤というのは必要だと思うんですが、精神性や価値観を深い部分のレイヤーで共有したスモール・コミュニティーというものが持つダイナミズムというのは、幸福感を増大させるパワーという意味では、競争によるダイナミズムを超えるかもしれないな、と思いました。

投稿者 nakase : 2005年10月21日 00:45

久しぶり!
もう帰国してるんだっけ?

さて、コメントありがとう。
日本はメディアもそうだけれどどこにいってもうるさすぎです。先日、カネコとラジオの録音をしようといろいろな場所にいったのだけれど10箇所くらい歩いて結局すべての場所でBGMやらガヤガヤした音やらに邪魔され、公園で録音しました。

「外国人の表情が穏やか」には補足が必要で、がさつなノリの人が少なく、外資系企業のエリート社員ぽい人が多いのです。なのでみんな振る舞いがスマートであるように感じられました。

日本の文化について僕はそう明るくないので自分はこう思う、ということしか言えないのですが、いまと比較しても20年くらい前の方が自然の音との調和を楽しむという雅感があったように思います。

都市部の騒々しさ、音、情報、映像の洪水状態は人の意識を疲弊させる側面もあるかと思います。先日、島にいって何もない時間と空間をただよっていたらそう思いました。

「本質的な話」を大上段に構えることなく、普通にできるような環境を整備していきたいですね。

メディアとひとくくりにはできないんですが、特に産業として成立してしまっているメディアにおいては、偏ったコミュニケーションの加速がなされているような印象を受けます。

投稿者 かがや : 2005年10月21日 00:46

コメント前後してしまったようなので補足します。

オレは海外生活の経験はないんですが外国にいくと妙に落ち着くんですよね。

日本人の集まりよりも外国人の友達のパーティに出てる時の方が自然に話ができることが多いですね。また、話をあわせる必要もないし、自由感がある。

こういうのが何なのか意識してこなかったけれど、いろんな国のいろんな考えの人が集まるパーティだと、コミュニケーション感覚が重要になるから、場に居合わせた人のコミュニケーション環境がこちらがわに開いている感じがします。相手に対する好奇心みたいなものをベースで共有してるからコミュニケーションが生じやすい感じです。パーティで内輪の話をされるとすぐに帰りたくなるのだけど、日本の集まりってそういうのが多いんだよね。

「精神性や価値観を深い部分のレイヤーで共有したスモール・コミュニティーというものが持つダイナミズムというのは、幸福感を増大させるパワーという意味では、競争によるダイナミズムを超えるかもしれないな、と思いました」

という一文、いいですね。オレもこういうことを言いたかったんです。頭がスッキリした感じです。

上記の精神性や価値観を深い部分で共有した集団は例えばこの街とかそういうレベルではとてもマイナーなのだけれど、これがロケーションフリーでつながると、国とかそういうレベルくらい、大きいものになるんじゃないかとオレは思ってます。

投稿者 かがや : 2005年10月21日 00:57

最後の3行、とても興味深いです。「ロケーションフリー」という発想は、ユニークですね。特定の集団が、「場所」という概念で必ずしも一カ所に集まらなくてもよいとは。

そういう集団が一定以上の数値(臨界点)に達したときに、突然そのダイナミズムがものすごい勢いで働いて、社会や世界のベクトルを変えてしまう、なんてことがあるかもしれませんね(昔、同じような話で「100匹目の猿」とかいうエピソードを聞いたことがありますが)

投稿者 nakase : 2005年10月23日 21:34

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