2004年08月05日
グラフィックアーティスト・ジョナサン・バーンブルック氏とのナイストーク+個人ワークショップ
昨日は銀座でジョナサン・バーンブルック氏と話し込んだ。
ジョナサンはグラフィックアーティストで六本木ヒルズのロゴのデザインも彼の手によるものである。その他多数の作品や製品に彼のロゴやフォントが使われている。
明日から銀座グラフィックギャラリーで行われる個展の準備で銀座にきていたそうである。といっても僕は初対面かつ作品についても何も知らないので雑誌などをみながら作品についていろいろ話し込んでいくと、ジョナサンは鞄から使い込まれたPowerBookG4を取り出し作品群をみせてくれた。
いきなりアーティスト自ら個人ワークショップである。
なんとも恵まれた機会である。
図書館にいると電話が鳴ったので外に出てから折り返すと友人からで銀座の喫茶店を教えて欲しいという内容だった。
「もう店に入ったから時間があればどうですか、ジョナサンを紹介します」
誘いは断らない主義である。
そんなわけであのロゴをつくる人とはどんな人であろうかといってみるとジョナサンは優しいイギリス人であった。しかしそのメッセージは多分に政治的であり、かなり共鳴を感じた。みせてくれた作品で印象的だったのは「脳死」という作品。
彼が作成した「脳死」という文字とアンテナ・伝播・TVモニター・コンテンツという内容を配置した作品なのだがこの作品にはグっときた。彼はグラフィックアーティストだが作品の核は「メッセージ」なのである。
「パロディ」あるいは「ブラックユーモア」ともとれる内容にみえるが思想は本物である。ジョナサンが世界をみつめるうえで抱いている問題意識が作品と本人から直に伝わってくる。
この感覚なのである。
「アーティストの持つ感性」という言葉でメディアはごまかすけれど感性とかそういう問題ではないこれは「視点」なのだ。「その人」がいったい何者かといったときそこで問われるのはその人がみている世界、その人の視点である。作品とは彼らの視点や世界が表出し形になったものでありそれは彼らの世界の一部なのだ。
ジョナサンの思想はわかりやすい。
マグドナルドやスターバックス、ナイキといったある種帝国的にモードによって浸透しもともとその場にあったものの気配を薄めていってしまうモノ達に対する反抗である。
ジョナサンはスターバックスには絶対いかないといっていた。
「なんで」ときいたらスターバックスのロゴをつかって帝国モードを批判する作品をつくったら強いクレームがきたそうである。しかしスターバックスの製品には彼のフォントが用いられているのだからこのあたりがまた皮肉である。
そうジョナサンの作品は「風刺的」である。
シンボルはシンプルかつダイレクトだがその背後には膨大なメッセージが織り込まれている。何千枚ものテキストによる批判よりもただ一枚のグラフィックスアート作品の方がより多くの情報を持つ場合もあるのだ。
二日連続で二人のアーティストと話をしたが彼らの作品も価値を持つけれどそれ以上に彼らの思考とモード、視点のようなものこそ価値の本質であり、それに触れることでそれぞれが何らかの「気づき」を体験すること、それが彼らの存在価値なのではないかと僕は思った。
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第219回企画展
Friendly Fire バーンブルック・デザイン展
2004年8月5日(木)~8月28日(土)
http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/
ジョナサンのサイト
http://www.barnbrook.net/
ジョナサンのフォント(購入できます)
http://www.virusfonts.com/
投稿者 TKM : 14:31 | コメント (0) | トラックバック
「動くの?コマ~布山タルト」展@京橋ASK?
やまけんのブログでも紹介されていたが布山君の個展をみにいった。
学生時代に彼がつくった作品はいずれもそれまでに体験したことのなかった「視点」が含まれていて興味深かった。
今回展示されていた作品は3点。
「FRANK」と「SFの助」は映像作品でともに原作のマンガをアニメーション化した作品で
ある。
代表作の「FRANK」は第7回文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受賞した作品である。
布山君の案内でまずは先入観なしに映像作品をみることにした。
壁には原作のマンガが展示されている。
アニメーション作品はそれをもとに布山君がゼロからかきおろしたそうである。
白黒の映像をCG技術によって平面と立体が違和感なく融合された映像にしばしひきこまれる。劇のクライマックスでの映像表現のダイナミズムにかなり圧倒された。2次元の絵をこのように表現してくるとは。
アニメーションとは「視点」なのだと思った。
視点のアート、あるいは視点の表現。
作品を観賞後に会場に展示されていた原作と比較する。
さきほど体験した圧倒的な視点のダイナミズムの余韻がまだ残っている。
原画には独特の味わいがある。
これはコンテンツの遺伝形の情報といっていいだろう。
「FRANK」に僕が感じたのはこの情報をもとにアニメーションという「布山エンジン」によって「視点」と「時間」がかけ合わされた新たな表現形の誕生であった。
観賞後しばらく「これは何なのだろう」と自分の体験した感覚について考えた。
表現形として固定された作品の面白さと「原作」との対比によってはじめて見える「アニメーション」あるいは「視点」と「時間」(リズムというべきかもしれないが)という「コンテクスト」の面白さは別ものだと思った。
作品を別な表現形に変化させるエンジンとそこに付随する予想不可能生。それによって同じ遺伝形をゆうしながら全く別の表現形(この場合は映像作品)へと変ずる多様性や可能性をかいま見た。アニメーター恐るべし。
他の二つの作品も別な「気づき」を与えてくれたように思う。
「アニマルーぺ」というインスタレーション作品はこれこそ携帯電話が担うべき「遊」と「表現」の具体形であろうと唸ってしまった。
布山君の作品はどれもそうなのだが相手をつきはなした表現ではない。相手に媚びるわけでもなく、かといって「わかる人にだけわかればいいさ」という自分勝手な表現でもない。
「どうだこれがオレのメッセージだ!」と変に熱いわけでもなく。
相手のどこかに潜む「オヤ?!」という感覚を呼び覚ます余韻の残る作品である。
※僕が好きな「異化」の感覚と近い。
アーティストの持つこの視点や感覚に触れると自分がリセットされた感じになる。
++++++
その後、やまけん、布山君を交えてギャラリーオーナーの木村さんの店に向かい食事。
食べながら、飲みながらいろいろ話す。
「おい、タルト、っつーか。タルトってなんでだー!」
とヤマケン。
対する布山君はいたって冷静に
「前から作品の時はそうだったのだけれど、名前をかえるというのは気持ちの切換の上で重要で。たとえば教えるときと創るときとでは切換が必要なんだけれど、なかなかスパっと切り替えるのは難しいじゃない。でも名前をかえることで自分のモードをきりかえることができると思うんだよね」
なるほど。かなり納得である。これはメモだ、と思った。
やまけんも「食い倒れ者」と「農産物物流コンサルタント」の時とでは名前を変えたら更に「食い倒れ道」がきわまるというものであろう。などとバカばなしをしているうちに半ば強制的に布山君も食い倒れ党に入党が決定した。広報担当としてはきたるヤマケンのビックイベントには布山君作の
「食えるの?やまけん」
の作成を依頼したいと思うのであった。
そして当然ながら我々「食い倒れ党」も布山君の活動を全面的に応援することを誓うのであった。
布山君、やまけんともどもイベントの手伝いしますよ。
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「動くの?コマ」展
会場:art space kimura ASK?
東京都中央区京橋3-6-5 木邑ビル2F
TEL 03-5524-0771
Email: asku@oak.ocn.ne.jp
http://www.kb-net.com/ask
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投稿者 TKM : 13:39 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月19日
wire 04 参戦 音楽と場が人を協調ベースの波にかえていく
久しぶりにレイブイベント wire 04へ参戦。
Orbitalのライブを聴いたのは二度目だ。
先回はよくわかっていなかったが今回はしっかりと聴いた。
ゆるやかにスタートすると数曲を経て徐々に場がOrbitalモードに切り替わっていく、後半にかけて完全に場が変質し個ではなく集団の感情を帯びた空気が極限へと向かっていく様子は圧巻であった。
その頃にはすでに身体も心も「我時を忘れたり」である。
あっさりと終電をあきらめた。
それだけの価値がある演奏である。
周囲を見回すと熱狂とは異なる調和のような熱いうねりが人々を渦へと導いていた。
その光景にしばし目を奪われた。
雑多な集団がそれぞれに踊っているのだが時折みせる協調的な振る舞いがあってそれが結構わるくなく、気持ちいいのである。
自分を波にあわせるように身体と感覚を場に同調させていく。
このプロセスが心地よく、しばし時間と場所を忘れる。
これをうまく使えたなら社会的なジレンマも解決されるだろうか。
++++++
つきなみだが昨夜あの場で感じたことは次の一言につきる。
「精一杯生きる」
精一杯やっていれば人は案外、トラブルも起こさないし、楽しそうだし、協調的になるのだと思った。
※僕はこの手のレイブ系のイベントにうといのだがコンピュータミュージックの大御所である矢坂御大の尽力で今回のようにたぐいまれな機会をえることができた。ありがとう!
あらゆることに言えるのだろうけれどその道のプロにたずねれば今回のようにベストのモノとの出会いを与えてくれるのだなあ、と感心した。
投稿者 TKM : 06:33 | コメント (1) | トラックバック
2004年07月10日
[アート] 情報小説、あるいはメディアアートとしての「氷塊/平野啓一郎」と12時間の眠り
■鳥肌のたつ読書体験
昨日の夕方に眠って起きたら今朝であった。
12時間も眠っていたのか。
驚いた。
今日は江戸の真実を知る小旅行にでる。
といっても遠出ではない。
江戸時代の人々は背が低かった。
それは何故だろう、という視点での探求となる。
午後には出かけるとしてそれまではいくつかやることがあるな、などと思っていたらあっという間に7時である。
そういえば昨日、鳥肌がたつ経験をした。
平野啓一郎のインタビューを読んでいると「氷塊」という作品の話がでてきた。ページを上下に二分し、同じ時間軸ですすむ二つの視点の物語を書いたというのだ。上半分が少年の視点、下半分で女性のストーリーがすすんでいく話らしい。
図書館とは便利なものでこのような記事をみたらすぐに原本にあたることができる。幸い貸し出し中ではなかったので早速、「氷塊」の収録されている「高瀬川」という作品集を探してきて読み始めた。
そうだ、この本は以前、書店で手にとって「なんてありきたりで安易な手法だろう」とさっさと書棚においた本であった。改めて読むのもなんだな、と思いながらパーっと読み進めることにした。
■結晶感覚とテキストの可能性
5分くらい読むと段々と上下二段のパラレルストーリー展開の「読み」がわかってきた。見開き1ページ毎に上を読み、下を読み、とやっていく。この時の必須条件としては速読でこれを行わなければならない。上段のストーリーの時間が過去になっていく前に下段の時間を必死でよりもどす、という作業を続けていく。10回くらい(つまり20ページ分)これをやると頭が「氷塊」モードに切り替わる。
そうなると不思議なことに絵をみているかのようにストーリーが頭の中で動き出す。ほとんど映画の世界である。
そしてこれがもっとも素晴らしい点なのだが時間が寄ってくる感覚が生じるのだ。
詳しく説明しよう。
最初にもいったように上下でパラレルに進行するストーリーを一つの頭で追いかけるのは面倒だ。これはスタート時点で二つのストーリーに関連性がないためである。ところが少しづつ二者の時間が近づいていく。パラレルにすすんでいた物語がある一点に向かって段々と結晶化していくのである。
この「結晶感」を文字で表現しているということに一番驚いた。
日本文学の特性というか内面の描写が冗長的でいささかうざったいのだが「氷塊」のつくりだす「結晶感」はそんなことはどうでもいいと思わせるスピード感と躍動性がある。
「氷塊」のストーリーはアクションとは無縁だが冒険小説などよりもはるかにスリリングな読書体験を与えてくれる。こればかりは読んだ人にしかわからない感覚であろう。
アクション小説などでは各キャラの視点で同じ時間の別なシーンを描写することがよくあるがあれとは全く異なる読書体験なのである。単純だが上下二段の構成がこうも効果的に機能するとは驚愕である。
時間同士が寄っていく感覚は映画的でありテキストを読む感覚とは異なっていた。
読後感は良質の映画をみた後に感じる包容感と同質であり、満ち足りていた。
正直「読んでいてよかった」と思った。
これも全て「平野啓一郎」という作家の力量のなせる技なのだろう。
久しぶりに「作家、恐るべし」の感を抱いた。
同時にこのような作家が同時代にいるということを幸福に思った。
■メディアアートとしての小説表現
自分がこの作品をこのような「読み」で体験できたのは昨年より研究しているパラレルリアリティ感と大きく関連している。各種実験によるパラレルリアリティの体験を通じたパラレルリアリティ感覚の理解があるとないでは印象が大分違っただろう。僕が驚いたのはそれらの認識なくして作家がその感覚と力量だけでこの表現を完成させたことである。「氷塊」は文学作品という体裁をとっているがこの作品の本質は「情報体験」である。
メディアアートとして捉え直す必要がある。
さらに「高瀬川」に収録されている「追憶」という散文作品がある。この作品も文学作品としてみるのではなく「体験」的に迫ってくる書籍という形態を用いた一種のメディアアートだと感じた。
これらの表現が書籍とテキストでなされたこと。
それが驚きなのである。
あらためてパラレルリアリティ感覚の台頭を感じた。
※追記:インタビューが掲載されていた文学界には茂木健一郎さんの「脳のなかの文学」という論考が収録されている。この論考があまりにも面白かったのでコピーした。図書館で本をコピーしたのは何年ぶりだろう。茂木さんはソニーサイエンスラボでクオリアの研究をされている方である。そして何故か僕の友人のカラオケ仲間なのだそうだ。

高瀬川
平野 啓一郎
投稿者 TKM : 07:24 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月30日
[アート] ピエール・カルダン、82歳現役デザイナー
録りためていた日曜美術館をみる。
ピエール・カルダンの特集であった。
1時間の番組で一番印象的だったのは最後にカルダンが自身の創造について語る次のシーンだった。
創造性というのはセンスとは違う。センスは誰もがもっている。赤が好きな人がいれば青が好きな人もいる。それはすでにあるものを選択するに過ぎない。創造的な発想というのは見る人の気分を害するものかもしれない。好きになれないかもしれない。だけど何もなかったところに何かをつくりだすことなんだ。だから今の僕がある。想像とは常に人を驚かすことなのだ」(ピエール・カルダン・82歳)
カルダンに対しては商業主義に走りすぎているという批判もあると番組では伝えていた。しかしそれは単にビジネス感覚が優れているだけなのかもしれない。何しろ82歳で現役のデザイナーである。それこそが彼の最大の創造であるように僕は感じた。
投稿者 TKM : 12:51 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月24日
[アート] ベジャール、バレエ、リュミエール(1)
恵比寿駅についた時はすでに7時24分。
地上にあがるまでの駅構内は人であふれている。
人の間を縫って走ろうにもあそこまですし詰めだと物理的にも走ることは困難である。
エスカレータを登る人、階段を歩く人、改札を出る人。
その全てがおそろしくのっそりとしている。
都市部の混雑した駅の改札で人はぼんやりとゆっくりと動く。
しかし電車に乗り込む時はダッシュだ。
地上にでて時間を確かめる。
午後7時28分。
二分くらい進んでいるから上映時間の7時30分まではあと4分ある。
地下鉄恵比寿駅からガーデンプレイスまであるくと6~7分かかる。
駅からガーデンプレイスの敷地までは動く歩道が敷かれている。
そのため駅の側にあるように感じるが思ったよりも距離がある。
ガーデンプレイスの入り口のところにあるパン屋でパンを買う。
ガーデンシネマは飲食禁止なのでパンを囓りながら急ぐ。
「ただいま予告編上映中です後方左手の入り口よりお入り下さい」
係員がいう。
どうにか上映時間に間に合った。
まもなく、数十分前にネットでみたトレイラーと同じ音楽が流れ映画が始まった。
映画がはじまってすぐの場面。食堂でベジャールが昼食を食べている。彼の視線が壁に向けられる。カメラが壁に向かう。壁に紙が貼り付けられている。そこにはこう書かれていた。
「一見無益なものが一番有益である/モーリス・ベジャール」
投稿者 TKM : 18:10 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月23日
[アート] べジャール、バレエ、リュミエール
偶然「べジャール、バレエ、リュミエール」のサイトを見つけた。
べジャールについてはNHKの現代バレエの特集を見るまでどんな人なのか詳しくしらなかった。
モナコで行われたダンスイベントのドキュメンタリーをベースにした番組だった。
上記のサイトにあったトレイラーを見た。
なぜだかしらないが彼の声を聴いたら涙がとまらなくなった。
どうせ生きるならこういう風に生きたいし、こういう人と話ができるようになりたいと思った。
涙で目が腫れている。
今日の最後の回にはまだ間に合う。
投稿者 TKM : 18:48 | コメント (1) | トラックバック
2004年03月02日
[アート] 六本木ヒルズ/森美術館「クロッシング」 円柱形の部屋のレーザはあの人の作品だった
明け方に築地のジョナサンを出る頃に降り始めた雨はいつしか霙に変わり、正午過ぎに六本木駅に着く頃には雪になっていた。大江戸線のホームは地下深くにあり地上にでるまでには何基ものエスカレータを乗り継ぐ。
ホームに降り立ち進行方向の反対側に歩き始める。
後ろを振り返ると電車のドアが閉まるところだった。
一駅ぶんくらいはあるのではないだろうか。
長い長いエスカレータが続く。
二つ目のエスカレータにさしかかった時、左の列に入ろうとした女性が片足をエスカレータに乗せたところでグラリとよろめいて僕の方に倒れた。後ろから支えると「アァ、すみません」と答えた。女性は少し狼狽しているようだったが「大丈夫ですよ」と笑顔で声をかけると安心したようだった。
泉ガーデンで打ち合わせの後、麻布のラーメン屋で二度目の昼食をとる。
泉ガーデンの洒落たレストランは綺麗だし料理もまずくなかったのだが綺麗なお皿に描かれたイカ墨ソースの模様はコンビニの弁当を思わせた。
ダイニング系の店は綺麗だけれどどこも料理はコンビニみたいだ。
綺麗だけれどそれだけだ。
満足は得られない。
森美術館にいったことがなかったのと新しい展覧会もみておきたかったので六本木ヒルズから少しいったところにあるラーメン屋にいくことにした。ここのラーメン屋には田所と2回ほどきたことがある。2回とも二日酔いの頭で食べた。めちゃくちゃ美味いラーメンという記憶はなかったがスープはニューウェーブ系で気になる味だった。いや、本当はチャーシューご飯が食べたかっただけなのだ。その店はランチが午後5時までと長めでチャーシューご飯がセットで食べられたはずだった。
久しぶりに味わうスープはやはりニューウェーブ系だった。
しつこくなくあっさりもしていなく脂っこくもない。
でも美味いのだ。
そしてこれも大切なのだが店員さんがてきぱきしていて言葉も丁寧で気持ちがいい。
満足感の高いラーメンタイムを過ごす午後の優越。
最高である。
六本木ヒルズにとってかえして森美術館に向かう。
あいかわらず六本木ヒルズはゴチャゴチャしていてわかりにくい。
間違っても「ああいるだけで気持ちがいいなあ」という気分にはならない。
半年も通っていてこれなのだから設計がどこかおかしいに違いない。
森美術館は六本木ヒルズのほとんど最上階52F/53Fにある。
iPodを貸し出しているというので借りてみた。
使用感は最低であった。
Appleが貸し出しているiPodを首から下げるアクセサリーに操作用の窓がなくアーティスト毎にいちいち皮ケースからiPodを取り出して操作しなければならない。不便なことこの上ない。実験的なサービスとはいえユーザビリティを無視したインターフェイスはいただけない。
肝心の展示はこれといって惹かれるものは一つもなかった。
一つだけ「??」と反応した名前があった。
廊下の外れにパネルがあり
「作品の入り口はこの先です」
張り紙にあったように5mくらい進むと部屋の入り口だった。
部屋の中は円柱状になっており側面に赤いレーザーの光が映し出されそれが音に動機して波をうちながら周囲を回転している。ふーん、こんなか。2分くらいみて外に出た。
もう一度、パネルをみる。
「志水児王」
と書かれている。ん??
あれ、どこかで。
そうだ!
確か数年前に田所と二人で新宿の西口の虎という飲み屋にいった時にたまたまICCでの展示を終えた児王さんがいたのだ。我々二人は児王さんの連れの女性と意気投合し朝まで飲んでしまい、始発で長野だかどこだかまでいかなければならない児王さんは少し呆れていた。
確かその夜はICC始まって以来の暴行事件といわれている伝説の「T所乱闘腕つかみ事件」があった夜だった。
そうかあの人が作った作品だったのか。
もう一度展示室にもどってまじまじと作品を再確認する。
さっきとはレーザーのパターンがかわりマセマティカでつくったような幾何学図形が立体的に蠢いていた。それからレーザーが周囲を回転しはじめるまでしばらくみていた。
足が棒になるとはこういことをいうのだろうか。
多すぎる展示作品をガーっとみてまわったあとの頭の中には何も残っていない。
草間彌生の展示もみるが訴えかけてくるものを感じることができなかった。
朝2時から起きっぱなしだったので疲れていたのだろうか。
都市の模型を眺めてエレベータに乗ると僕以外は中国人のビジネスマンの一行であった。5階につくとエレベータの音声が「ゴカイデス」と告げる。彼らの一人がまねていう「ゴーカイデス」。
外にでると建物の裏手に回ってしまったようで歩けど歩けど六本木通りにつかないので途方に暮れた。途方ついでにABCでぴあをチェックしてから恵比寿へ向かった。
投稿者 TKM : 02:37 | コメント (1) | トラックバック
2004年02月26日
フォーサイスx安藤洋子~重力と戦う力
祖師ヶ谷大蔵でプレゼン用のムービー資料をつくっていたら、向かいのマンションに野茂がいた。
ムービーの書き出しを終えてから世田谷パブリックシアターに向かうのにバス亭にいってバスを待つ。三軒茶屋までの時間を運転手にきくと「今日は特に混んでますから一時間はかかりますね」と言われたのでてくてくと駅に向かって世田谷線に乗り換える。頭がガンガンと痛い。異様なまでに頭痛である。
「安藤洋子新作ソロ」「N.N.N.N.」「QUINTETT」の初日である。
ついて早々に頭痛で気分が悪くなる。カゼだろうか。席に着くと隣の席には老齢の夫婦。70歳くらいかな。こうしたステージにはよくくるのだそうだ。
4つくらい向こうの席には浅田彰。
以前、T所が火星人と呼んでいたがその趣はいまだ健在である。
iwtkに至っては「akirax」呼ばわりだ。
変なところでポップなネーミングで呼ばれている。
本人は気づいているのだろうか。
開演。
しかし、頭痛は酷くなる一方である。
ちりぢりになりそうな意識でステージに目を向ける。
巨大なアフロのカツラをかぶった安藤洋子がズリズリと舞台をうごめく。
動いては停止を繰り返す。
同じ光景が続く。
しばらくして、一瞬、意識が遠のく。
2~3分しただろうか。
気がつくとカツラを脱ぎ捨てた安藤洋子がステージをはっていた。
足先に緊張がみえた。
手足の筋肉が悲鳴を上げているようだった。
身体が踊っていた。
それは踊るというよりも「動く」感じで平面を人が「動いて」いた。
舞うのではなく動いていた。
重力を感じた。
SFの世界のようだった。
二人の男性のダンサーがロープを引きずる。
彼ら歩みはその場の物理法則とは異なる「重さ」を感じさせた。
傾いた足と上半身。
動いているのだが重心は微動だにしない。
幕が下りた。
休憩「N.N.N.N.」休憩「QUINTETT」とステージは続く。
素人目には最後の「QUINTETT」がわかりやすかったが自分の好みをいえば「N.N.N.N.」が好きだと感じた。
理由はないな。
始まって1分くらいの時の腕の動きをみていたら、止めと払いという二つの背反する動きを同時に感じさせられて、いいなあ、と思った。
そうだ忘れていた。
もっと良かった人がいた。
「QUINTETT」で最初にでていた黒人のダンサーの筋肉、そしてしなやかな手の動きは素直に美しいと思った。正直、少し見とれた。
安藤洋子の筋肉は限界点で動き続けていた。
決して軽やかではない。
ぎこちないとか硬いわけでもない。
意志に反して身体が硬直する時に似ている。
彼女の身体の中心に向かって重力が働いていた。
舞台の後でレセプションがあった。
何となく不思議な気分だった。
つい数週間までまったくその存在すら知らなかった安藤洋子。
TVでみたのも偶然ならばチケットを買ったのも偶然(彼女がでているということすら知らなかった)。
その彼女とパーティで乾杯している自分の今は何なのだろうか。
頭痛の頭で考えるが何もわからなかった。
浅田彰、坂本さん、フォーサイス、安藤洋子の4人が互いにデジカメで記念写真を撮っている。必ず、一人あまるので撮ってあげればいいのだが気力の限界だった。倒れる直前であった。
しばらく歓談していたら体調が少しよくなったのでiwtkの同僚のデザイナーさんたちと食事にいった。ほぼ完治したかに思ったが帰りの電車は気力だった。
普通だったら即行で帰ってるよな、と自分を省みるが相変わらずバカは治らない。ロレツがまわらなくなった村島さんは千鳥足で奥さんに抱えられて帰っていった。
青山一丁目で乗り換えなのだが間違えて3秒くらい渋谷で降りてしまった。すぐに車内に戻ってズキズキする頭で月島に帰った。帰ってきてメモとして書き始めていまにいたるが頭痛はなお強まる一方である。
いろんな有名人にあった昨夜であった。
同時にあることにも気づいた。
狭い世界である。
友人はその世界の友人としか話ができない、という広がりの薄い世界が広がっているように見えた。メディアがつくりだす枠は見えないだけに異様に強固で、あの場があの瞬間から漂流教室になったらあの場にいた人たちの持つコンテクストや関係性、過去、価値、意味、いろんなものはガラガラ崩れていったのだろうか。
無人島で話すように人と話せたらいいなと思う。
人にはそれぞれの到達度というのがある。それでもいろんなものをとっぱらって助走なしに「人」to「人」で対話できる世界がいいな、と僕は思った。
投稿者 TKM : 02:16 | コメント (0) | トラックバック
2004年02月11日
ダンスと偶然と情熱大陸はヤフオクの巻
録画してあった「情熱大陸」を観る。
安藤洋子さん。
ん?
どこかでみた名前だな?
はてと思ってぴあのメールをチェックする。
昨夜ネットで買ったチケットに彼女の名前が。
こういうのは偶然というのだろうか。
おそらく情熱大陸での露出がきいたのだろう。
チケットはほぼ完売であった。
と、ここでミスを犯したことに気づいた。
それは...。
第三のチケット窓口「ヤフオク」の存在をすっかりすっぽり忘れていたである。
実はネット経由でぴあで買うと電子チケットとかいって意味のない手数料をとられるのがあほらしかったので日中に店で買おうと思ってPコード(これがまたわかりづらい)を携帯に転送しておいた。しかし、途中で本屋によったら熱中してしまい閉店まで。あっさりぴあの窓口は終了しており、結局、家に帰ってからネットで買うことに。すると最終日のS席は既に売り切れ。アホである。昼間に買っておけば無問題であったのだが数百円の手数料をけちった為に買い逃した。
買い物に限らず行動はひらめきと直感が勝負である、と思い直した。
そしてさきほどヤフオクをチェックすると最終日のS席のチケットが一枚、売りに出ていた。
コンサートでもツアーでもなんでもそうだが初日と最終日とその間とどこが一番いいというのはあるのだろうか?
格闘技の場合はそういう概念がないので悩むことはないのだが。
++++++
情熱大陸を観終えた。
なんともいい雰囲気のお父さんとお母さんである。
そして安藤洋子。
ザ・ナチュラルである。
自分もああありたい。
投稿者 TKM : 23:54 | コメント (6) | トラックバック
2004年01月30日
ICCで映像の未来を観る~変わるのに変わらない、それがキュービタルの意味
久しぶりにICCにいった。現在おこなわれている展覧会「FUTURE CINEMA」をみるのが目的である。
昨年、やまけんに誘われて藤幡先生の展覧会にいったときに「年末にICCでやるからみにきてよ~」と言われていたのだ。
詳細は明日にするとして感想から。
いって良かった。
その一言につきる。
久しぶりに時を忘れた。
インスパイヤされる経験がぎっしり詰まっていた。
収穫としては映像の展示におけるものすごく大切なポイントにきづいた。
境界線といってもいい。
動画としての映像そのものではなくそれがどのようなコンテクストで語られるかによって映像の持つ意味がこれほどまでに変わるのかと感心しっぱなしであった。(自分用にメモをしておくとスケールによって意味はかわるのだ)
これは僕の感じ方なので他の人が同じように感じるかどうかはわからない。
というのは僕が映像をみるとき、特にこうした映像をつかった作品をみる時の視点は「アートを鑑賞する」という視点とは大きく異なる。全く違う部分をみているといってもいい。僕はずっとある問題について考えている。無意識下でも常にその問題についての思考は続いており、異化に対する異常な興味はその問題と関係している。
僕が作品に対して感じる「異化」はその問題意識なしには知覚し得ない感覚であり、作品をみて僕が感心する瞬間とは「異化」の感覚にとらわれるその時なのである。
++++++
藤幡先生の作品はCAVEの部屋を応用した作品である。
どれどれとヴァーチャルリアリティ用の専用グラスをつけて3メートル四方の空間に入っていく。
何度かCAVEを使った作品は体験しているのでCAVE自体への目新しさはない。
CAVEは5面を覆われているので通常のVR以上の没入感がある。
その空間の中で2Dの動画を観るということは頭でわかっていても実際に体験すると全く別ものなのである。
空間に浮かぶ無数の動画がランダムに可変しながら「旅」を再現していく。
見入ったまま時間を忘れた。
どこにでもあるありきたりの映像なのだ。
ところがそれがこれほどまでに面白くなるのか、というくらい面白い。
ずっとみていたいと思った。
「これは」と思ってメモを取った。
石井先生のキュービタルの事例もそうだが技術自体は目新しいわけではない。問題はスケールとコンテクストなのだ。
++++++
この作品からだけインスパイヤされたイメージではないが未来の映像視聴環境はこうなるだろうな、というヴィジョンを得た。人の目は一つの映像だけを観るには良く出来すぎている。速読は何も文字にだけあてはまるわけではない。直感像資質的な映像作品、フォーマットもありうるのだと思った。
++++++
一言でいってしまうと会場は石井先生のいう「キュービタル」でいっぱいだった。
そもそも現実がキュービタルなのだ。
僕はいまこの文章をMacのモニター上で書いている。
OSXのインターフェイスは確かによくできている。
しかし、これは変わる。その変化は僕が想像していたのよりも遥かに大きな変化となり、おそらくより肉体的な体験へと還元されていく。いまのこのシステムでは人は眼の機能すら使い切ることができない。
それは映画にでてくる未来のインターフェイスのような変化ではない。
感覚がブレることで生じるリアリティの介入。
立っているだけなのに後ろに下がっていくような感覚のブレが入ってくるだろう。
テキストも映像も変わらないのに変わるのだ。
ここが重要である。
変わっているのに変わっていない。
これがキュービタルの本質である。
投稿者 TKM : 02:34 | コメント (2) | トラックバック
2004年01月19日
クレイマスターとドッグヴィル
The Cremaster Cycle(クレマスター)/Matthew Barney。
DVDが欲しい。
そして「ダンサーインザダーク」のラース・ファン・トリアーの最新作「ドッグヴィル」が来月から公開。シャンテでも上映されるので渋谷にいかなくてもいいのが嬉しい。
投稿者 TKM : 04:28 | コメント (5) | トラックバック
2003年12月03日
田中一光とボスコンのおじさん
昨夜、もう朝近くだったが録画しておいた日曜美術館をみた。
田中一光の回であった。
ゲストには安藤忠雄。
いつもの甲高いダミ声が響く。
田中一光の制作シーンをCGを使って再現する場面があった。
四角や三角に切られた色のついた紙をA3用紙の上に並べていく様が順をおって再現されていく。
あっという間に形ができあがっていく。
まるで紙が意志を持っているかのように最短ルートでそれぞれの配置が決まっていく。
考えて作られるというよりもいきたがっている場所にそれぞれの要素が向かっていくように見えた。
田中一光を撮影したシーンをみていて既視感にとらわれた。
この人どこかでみたな。
誰だ?
しばらく考えた。
画面では田中は弟子に振る舞うため料理の盛りつけをしている。
料理の盛られた紅の皿は盛りつけなのか遊びなのか。
作品が抜け出してきたような印象を受ける。
無印良品の店舗、ロゴ、商品が紹介されていた。
そこで初めて田中が無印良品のアートディレクターであったことを知った。
琳派という言葉が頻繁にでてくるのだが何を意味しているのかわからなかった。
調べると「尾形光琳派」という意味であることがわかった。
ようやく思い出した。
田中一光、誰かに似ていると思ったがボスコンの社長だった堀紘一に似ているのだ。(髪型だけという気もするが「堀紘一だ!」と思い出した瞬間、嬉しさは最高に達した。「あれなんだっけな~?」とずっと思っていて閃くと妙に嬉しいものだ)