2005年12月12日
裏庭の中国
結婚式も終わり、ゆっくりと眠った。
式についてはポッドキャストで報告したい。
昨日の式はタフな時間であった。
その反動か昨夜は早々に就寝。
今朝方はたくさん夢をみた。
島の郊外にあるドーム状の建物は大規模電気店になっている。その店を巡回する。店は広く大きい。
出入り口付近でヤマケンとホリエモンが筆談していた。なるほど、この島では筆談がブームなのか。僕も参加してみた。
アイデアが浮かんだのでその本のプランをまとめていった。
そのプランを持って外にでると。坂道が水に覆われていた。著名なカメラマンが波打つ水をさかのぼっていった。 彼の姿が水の壁に吸い込まれていく。頂上から降りてくる人々もいる。それらを見ていた。
公園でぶらぶらとしていると中国人の女性に声をかけられた。パキスタン人の男性やブラジルの女性も声をかけてくる。 英語で対応しているのだが彼女たちは日本語で答える。しばらくそうやって歩いた。ベトナムの女性が子供をつれて歩いている。 彼女と二言三言話した。何かを上げようと思ってカバンの中を探すが何もみつからない。男児の目は遠くをみているようだった。
川につくと二つの勢力が闘争をつづけているようだった。まきこまれないように水面に浮かんでいた。 片方の生命体が開発したエルモと呼ばれる戦闘機を眺めていた。10機くらいの変態がアクロバティックな飛行を繰り返している。 ITSを1000倍発達させたような自己統制システムによって彼らの機体は情報化され、生命的な振る舞いをするようであった。 形状は通常の戦闘機に似ているのだが曲線が多く、バルキリーを情報化で丸くしたようなイメージである。 青みがかった緑とオレンジが迷彩模様を描いている。
彼らは敵対している生命体との闘争の渦中にある。リーダー格の一機が雲の中に機体を隠すように指示を出すと続き機体も皆、 雲の中に消えていった。ぶつからないのだろうかと不思議に思ったが情報化が進んでいる為、機体同士の自立性は保たれ、 同時に相互依存が成立しているのであった。
地上を歩いていると中華料理屋が立ち並ぶ谷についた。谷の入り口にはシャレたカフェのような中華料理店が何軒も並んでいた。 その中の一件はベトナム人のヤーさんがやっている店だ。彼は奇跡的にこの店をつくりあげた。カウンターだけの小さな店だが味があって素敵だ。
その隣には日本人のやっている店がある。この店は下方向に二階建てになっている。谷の入り口近くに若者がやっている店があり、 ここはメニューもカフェに近い。ただし、僕はこういう店はあまり好きではない。適当に洒落ているだけで味も中身も伴っていない。 そうした店が量産されているのは哀しい限りだが、消費者の意識が低いことで引き起こされた現象でもある。 表面だけ洒落ているといったインチキくさい店が兎角多いのは人々の間に「気持ち」で行動することが減ってしまっているからだろうか。
僕が「気持ち」という時、これは自分だけの気持ちを言っているのではない。自分に関わる相手の気持ちも含めた気持ちである。 気持ちは単独で存在しているわけではなく、相手との相互作用の所産である。それがわかっていない人が驚くほど多い。 自分の気持ちだけを見るものだから、逆説的に相手に気持ちを左右されてしまいがちだ。 相手を含めた状態で気持ちを見るようにすればアウトサイドインな状態はなくなる。
その後、吉田と古賀が意識状で融合された日本で最も高潔で高名な柔道家と対峙する機会を得た。彼は偉大であった。組み合う前に 「こちらからは技はいっさいかけないから」と僕にいった。左手を掴み組みにかかる。びくともしない、というのではなく、 むしろあたたかささえ感じる。技をかけにいっているのに舞っているような心地良さだ。
これが真なる人の奥深さなのだろうか。
素晴らしい体験であった。
投稿者 TKM : 11:24 | コメント (0) | トラックバック
2005年12月10日
夢見 螺旋にリンクしていく不思議な世界
河原を歩いていたら遠くから川が逆流してくるのが見えた。50cmくらいの波が河口から昇ってくる。ちょっとこれはマズイぞ、 と感じたので近くをあるいていたショウコちゃんに
「オイ、これはちょっと危ないので登った方がイイゾ」
と声をかけた。土手まで上ると波はチョコレートのブロックに似た形のコンクリを覆っていった。土手からそれをみていた。 自転車で家に帰るとシャレた青年が管理人に挨拶をしていた近々引っ越してくるかもしれないのだそうだ。 BMWに乗っている7Fのオジサンの部屋が貸しにでているらしい。どうですか、とたずねられたので
「川に面してないとパッとしないですよ」
と答えた。後ろでは管理人のオバサンが「屋上がいいのよー」と言っていた。
そうこうするうちに山に登ることになった。メンツはいろいろいたのだが学生達が一緒にいきましょうといって連れて行ってくれた。 河原の裏からテクテクと登っていく。山の裏は病院になっていて、そこには隔離された子供達がたくさんいた。彼らと話をする。 そのうちスティーブン・セガールが彼らのつくった秩序を強引にねじまげていくのだがその様をみていて
「セガールっぽい映画だ。まったく情緒がない」
と声に出していっていた。セガールは二人の子供をターゲットとし、攻撃を加えていった。 それによって少数だが秩序だった軍が組織され彼はその軍を率いて、侵入してくる異分子に対峙するのであった。 陳腐なストーリーだがその場に立ち会うことはかなりの先端感があった。ここは情報が現実世界と交差してる場所なのだ。
そろそろ時間なので街におりなければならない。
テクテクと歩いていたら
「カガヤさん、こっちでいきましょうよ」
と磨に声をかけられた。みれば電車の形をしたバスであった。トトロの猫バスを角張った感じにした形状である。これに揺られて5分ほど。 モロイさんが肉屋で待っている。電話すると映像が見えた。すでに到着していて、棚によりかかり(この棚は青山にある) 我々の到着を待っている。
ロープウェイシステムになっているのかバスは高所から降りていく。次ぎでおりなければならない。磨が運転手に合図をする。しかし、 運転手は気づかない。いや、気づいたようだ。
「ボタンを押して下さい」
そう言われた。言われるままに磨はボタンを押す。
「隣のボタンとダブルで押してください」
運転手がいう。複雑なシステムである。 吊革に取り付けられた赤のボタンとバーに取り付けられた白のボタンの二つを押すことで降車の合図になるのである。
バスを降り、ジープにのった。磨の車なのでパワーがありそうだ。 ところが運転しはじめると自転車のようにアクセルをこがなければ走らない。困った。そうだギアを変えよう。ローのまま走り続ける。途中、 前の車がトロトロしているので追い越そうとすると右から入ってきた虹色の塗装の車高の低い車が低速になった。 このため連鎖してそのレーンの車が更にノロノロと進む。
そろそろ高速の入り口である。
磨の車が高速で給油に向かうのが見えた。さて、こちらは。メータをみると左の方に傾斜している。これも給油かな。
満タンにしてみると4070円であった。47リットル。
投稿者 TKM : 10:46 | コメント (0) | トラックバック
2005年12月09日
デジタルマンガSkypeをアソブ第12話 「Skypeビデオ開始編」公開です!!!!!
久しぶりにデジタルマンガが公開されました。
Skype2.0で追加されたビデオ機能についてアソブラボの二人(オレとカネコ)がアーダコーダと体験レポートをお送りします。
デジタルマンガSkypeをアソブ第12話
「Skypeビデオ開始編」
Skypeをお使いの方もまだの方もデジタルマンガをみてSkypeビデオの「?!」な面白さを感じてください!!
■関連情報
我々がSkypeビデオで使っているのは上記のカメラです。
投稿者 TKM : 15:06 | コメント (0) | トラックバック
雑感モロモロ 人と言葉と時間と心
先週も様々な出来事があった。
出来事とそこから派生する情報が別な層で結晶化し、不安定化するという状態を繰り返していた。
リアルな散逸構造であった。
言葉によって対象のイメージは変化していく。
しかし言葉以前にも対象の本質はそこにあったわけで変化は自分の脳内で起こっている。
ここに時間という要素が絡んでくると記憶の再生過程が微妙なスパイスとなり更に非存在性を増した像をつくっていく。
こうした思考プロセスこそ「俄」の神髄である。
人と人の関係についてもよく考える。
一方には客観的な視点があり、もう一方には制御不能な意識が存在する。人の意識は両者の狭間でせめぎ合っている。
正しいものとそうでないもの、という区別をしたがるが明確な違いはない。関係性よって意味は常に反転する。 あらゆる物事は地と図の関係にあり静的に固定されたものではない。コンテクスト(関係性)によって揺らぎ反転する動的な存在である。
背反するものが共存する状態が自然なのだ、とも思う。夜と朝、白と黒、上と下、右と左、等々、 量子の世界からマクロなシステムまでどこの層にも対立した構造が存在する。しかし、それらは固定的ではないし、否定的でもない。 パラレルに存在している。
面白いのはそこだ。
「心にひっかかる」という感触がある。
たまにそういう感覚になる。
人を表現するにはいろいろな言い回しがある。
昨日、僕が思ったのは「不穏」という言葉だ。不安ではない。不穏である。不安の産み出すダイナミズムはフィードバックであり、
系が閉じている。一方、不穏が産み出すダイナミズムは方向が内向きか外向きか未確定である。異化的感覚といったらいいだろうか。
人は不安定にある方がダイナミズムを発揮しやすい。
セレンディピティな感覚はこの狭間に発現するように僕は思う。
安定と不安定のバランス。
散逸構造の波。
「草の竪琴」の後書きに書いてあった(と思う)螺旋を飛んでいくイメージを時々思い出す。 このイメージと縦に波打つダイナミズムのイメージは同一の対象を別な角度から描写しているように思う。
「私」という感覚をどう文脈づけるかで世界と自分ではなく自分と世界との関係が決まってくる。
「いい」(良い)について。
いい音楽、いい本、いい映画。
そこには何かしら本質的なものが含まれている。
その起点、本質は形と形以前の間の関係性であろうと僕は思う。
人は本質的にそこに反応せざる得ないのだと。そうした本質部分で人と接することができればといつも思う。
投稿者 TKM : 11:39 | コメント (0) | トラックバック
ドバイのスキー場
上記、ドバイのスキー場とのことだが砂漠の真ん中にスキー場をつくったものだから「いくらなんでもやりすぎだ」 と言われているらしい。
しかし、これ、プランとしてはかなり興味深い。
よく閃いたものだと感心するし、実現してしまうあたり「オイルパワー」
の凄さを感じる。
エネルギーとして石油が必要のない時代がくるなら現在の産油国の世界中でひとりバブルな状態は終焉を迎え、 中世なみにプレイバックしてしまうのだろうか。
「アラブの王様」 という言葉は誰でも知ってると思う。また、その言葉は過度な資産、超バブリーな生活を連想させる。けれど、 正直なところあの地域だけが世界でも浮きまくっているし、かなり異常な状態にあると僕は思う。
投稿者 TKM : 03:33 | コメント (0) | トラックバック
「コンピューターおじいちゃん」とコンテンツの形
上記、エントリーなにげなくながめていたのだけれどツッコミが面白い。
後半部分のMacとWindowsについて書かれた
追記;世の中のパソコンには、マッキンとウィンドウがあります。私はマッキンはできません。 時代はフローラです。沼田さんは私のアドバンスを無視してマッキンを買いました。 沼田さんのマッキンはマウスのボタンが一つしかないんです。私のフローラは2つ有ります。勝ちです。
マウスのボタンでパソコンの優劣が決まるのならマウスだけ買い返れ。 ってか沼田さんはドラッグのとこでも見下してたけどなんか恨みでもあるの?
の箇所を読んでいたら不覚にも吹き出してしまった。
この記事の考察のポイントはこういうことだと思う。
「コンピューターおじいちゃん」
→たいしておもしろくない
「エントリーでのツッコミ」
→編集が入る為、 笑いのポイントが明確になり面白さが浮き彫りになる。
という関係があるのかな、と思った。
この構造は「モノマネのおもしろさ」と似ている。
クラスにひとりくらいはモノマネの上手な生徒がいる。 その生徒が教員のモノマネをする。やたらと面白くてクラス中が笑いに包まれる。だったら当の教師が登場したらどんなに面白いだろう。 ところが教師が登場しても全く面白くない。
モノマネの過程で対象が編集され表現に変化することで情報の質が変わり「面白さ」が発生する。
上記のエントリーでのツッコミもこれと似ている。
またネット上の超ニッチなコンテンツ群の中には上記のような「情報の編集・加工」
によって強烈な面白さを発揮するものが少なからず存在するように思う。
こうした情報の編集的表現はネットとコンテンツの一つの形だと僕は考える。
投稿者 TKM : 02:12 | コメント (0) | トラックバック
2005年12月08日
久しぶりに中央大学へ
ドアtoドアで約2時間に及ぶ電車の旅。
中央大学にいってきた。
急遽、スピーチなどやりました。
詳細は明日書きます。
久しぶりに長時間電車にのったせいか頭が回らないです。
帰りの電車でスガシカオの曲を聴きながら眠ってしまいました。
モロイさんとナリタ達と笑っている夢をみていたら現実世界でも笑っていたみたいで笑いながら眠っていたようです。
自分でいうのも何だけれど幸せ過ぎる絵だ。
投稿者 TKM : 00:27 | コメント (0) | トラックバック
2005年12月05日
こんな人間がいたのか?! これは超人である!
まずは
の映像をみていただきたい。
このような動きが人間に可能なのだろうか?
マンガか映画の世界でしかみたことがないようなアクションの連続に頭がクラクラしてしまった。
考察は後ほど。
投稿者 TKM : 14:02 | コメント (1) | トラックバック
2005年12月04日
久しぶりにフラッシュコンテンツについて考える その1
明日、ポッドキャストで触れようと思うけれどこうしたコンテンツが量産されている件について考えてみたいと思った。
上記はパロディ系のFLASH作品なのだがこうした作品の方が面白いと思えてしまうのは著作権を無視した自由さがつくりだす 「未体験性」が理由だろうか。
上記のような作品が自由に製作、配信できればより多くの人が曲を耳にすることになるのだから、 アーティストにとっては必ずしもマイナスなだけではない、と思う。
上記の作品はパロディだが新しさがある。
僕が考えたいのはそこなのだ。
面白いと感じる作品があること。
それが何よりも重要なことで、それを阻止したり、ブレーキになってしまうような制約は消えるべきだと思う。 コンテンツの管理には保護や拘束とは別のあり方が必要とされている。
例えばだけれど自然な声はまだエディタでつくれないのだが、これができるようになったらどうなるのだろう。
自由に声と歌がつくれるようなったら、全然違ったコンテンツがわんさかとでてくるのだろうか。
FLASHだってこんな使われ方をする予定じゃなかったろうし。
この曲もコンテクストによってこれだけ印象が変わってしまうとは思ってもいないだろうし。
こうした作品には何かしらのクリエイティブがあるわけで。
それが自分のどこかに訴えかけてくる理由なのだと僕は思う。
これなんかもスゴイなあと思う。デザイン会社やFLASHの専門家がつくる作品、 コンテンツ配信会社がつくるようなコンテンツとは全然違う。クオリティは決して高くないがパワーとか「楽しんでる感」が伝わってくる。 僕はこうした熱のようなものこそコンテンツ・パワーの源流ではないかと思う。
いくつか面白い作品をみつけたのでこれもメモしておく。
上記は正統派のアニメーション作品である。
よくもまあFLASHでここまでつくるものだと感心してしまう。
投稿者 TKM : 04:21 | コメント (1) | トラックバック
2005年12月02日
書くことと話すこと
「海を飛ぶ夢」を見終えた。
中盤、ある映画のことを思い出した。
という韓国映画である。
今年みた映画の中で最も印象深い一本のひとつだ。
繰り返しになるが僕が映画に求めるのは「異化」という体験である。
感動や悦びの感覚にも心ゆさぶられるが「異化」
はそれらの感覚とは別な位相にある。
「海を飛ぶ夢」にも用いられていたが、オアシスの劇中で用いられた異化表現は強烈であった。
異化を感じさせられた作品は幾つかある。「ユリシーズの瞳」等、一連のテオ・アンゲロプロス作品には感覚をディストーション(歪める) させるシーンがいくつも見受けられる。
禅問答は言葉と意味を分離させるような言葉の用法を用いる。人の脳は意味の存在しない言葉から意味を読みとろうと躍起になる。 映画における「異化」もこの反応と同種の反応を引き起こす。僕にとってのコンテンツ性の中心にはこの感覚がある。
「ディストーションと異化」
脳内で言語が非言語的な働きをしているような感覚である。ズレる感覚は自分を魅了する。どうして引き込まれるのかはわからない。ただ、 反応せずにはいられない。脳的なのか感覚的なのか。おそらくその狭間の領域に座す感覚なのであろう。
「混沌をベースとした言語理論」
はこうした感覚の奥に存在する。人工言語の向かう先もこの周辺にあるのではないかと思う。
「秩序である言語によって非秩序である心を現せるのは何故か」
それが自分の出発点であった。いまだ、 自分にわかる言葉の範囲でしか言えないがそれはテキストの後ろに存在する不可視なテキストによる、と僕は考えている。 ソシュールが後期でアナグラムに没頭していったのはそこと関連しているのではないか。10年前にはじめてソシュールの研究について調べた時、 そう思った。
あらゆる物語はここという一点からスタートし、最後の点で終わる。自分はどの時点の何をみているのだろう。何故、この一点 (例えばこの文字)が意味を有するのだろう。
読む、観るという行為の中に「今」「未来」「過去」はホロニックに存在しているのだ。
先行的理解という解釈学の考え方を知り、そう考えるようになった。しかし、 それがどのように創造性の発現に利用できるのかはいまだわからずである。
いま僕はubicastというブログエディタでこの文章を書いている。
しかし、このソフトウェアそのものに先行的理解が介在するようなインターフェイスが実装されていたらどうだろう。
ブログというシステムそのものが創造性をドライブさせる機能を持っていたら。
ソフトウェアは狭間な存在になっていく。
創ることとコンテンツを消費することがパラレルに存在するようなソフトウェアがあっていいし、未来はそこに向かっているように思う。
デジタルステージが「ID for Weblife」のコンセプトを発表したときに衝撃を受けたのはそこに「旅のモード・ メタファーでWebサイトを構築する」と書かれていたからだ。発表されているソフトはそうはできていないのだが、 初めてその一文を読んだときに自分の脳裏には体験的にコンテンツを生成するエンジンのビジョンがあった。
なんだか胸焼けが酷くて吐いてしまいそうだ。
「嘔吐」は10年以上前に最初の数ページだけ読んだ。いまだに一年に一度は手に取るが毎回、数ページ読んで止まっている。
山田詠美の「放課後の音符(キーノート)」を高校生の頃に読んだ。感動はしなかったが最初の一編を読んだ時にグラリと来た。 人は言葉によって思考を限定される。高校生の頃の自分もそうだった。意識は一般という言葉や普通という言葉をベースに規定され、 TVメディアが思考の幅を決めていたように思う。
テキストはTVというメディアとは別な位置にあるせいか(自分も記することができるという点で)可能性を持っているのだな、 といま思った。書くことはまた面白いかな。
話すことと書くことは異なる。
僕は話すのが苦手だ。話しているのは自分だけれど、それを話している自分はそこに発生した関係性によってつくられた自分である。
自分が自分として自律しているのは書く方の自分ではなかろうか。
ポッドキャスティングという行為は書くことと話すことの間にある。
課題はテキストは「書く」と「読む」がパラレルに存在しているのにポッドキャスティングでは「話すこと」が「聴くこと」
とリニアに存在してしまっている。
この生成プロセスにイノベーションが必要なのだ、と僕は思う。
以上、雑記である。
投稿者 TKM : 03:36 | コメント (0) | トラックバック
2005年12月01日
夜と朝

以前にも書いたが夜が朝に変わる時間。
昼が夜に変わる時間。
二つの狭間な時間に自分は強く惹きつけられる。
自分の奥底にある本質が感応しているように思う。
昨日もそんな話をしていた。
自然や地球や宇宙を感じるような時間に出くわすとそれがいまこの瞬間にしか存在していないもので、 一瞬あとには消えてしまうことが直感的にわかるから、いまという儚くうつろう時を誰かと共有しホロニックに記憶しておきたいと願うのだろう。
それが切なさというものであろうと僕は思う。

夜の紅葉は美しい。
しかし光がなければこの景色も存在しない。
写真とは光を写し取ることだ、とどこかで読んだ。
色を美しいと愛でるのは人の性である。
これもまた固定できないものだ。
木々は人の為には存在していない。
夜であれ昼であれ同じようにそこにある。
以前、茂木さんが
「ティルマンズの写真をみるとゲイの人には世界の関係性がこうみえているんじゃないか、を感じさせる」
というようなことを言われていた。
他者の目には世界はどのように見えているのだろう。
気配でもいいからそれを感じられるなら世界は丸くなっていくのだろうか。
投稿者 TKM : 07:30 | コメント (1) | トラックバック
2005年11月29日
プロの心得
深夜に磨とドライブ。
久しぶりに門仲のモスバーガーにいった。
二人でしばらく話す。
「プロだったら否定や批判をしないでそれ以上のものを出していかないとだめですよね」
という磨の言葉に激しく納得であった。
このマインドが世界をよりよくしていくのである。
投稿者 TKM : 01:58 | コメント (1) | トラックバック
2005年11月28日
70kgの壁突破!!
8月10日から走り始めて三ヶ月、
とうとう70kgをきった。
磨のいうとおり体重がおちはじめるまでに二ヶ月、この一ヶ月で8kgくらい落ちた感じである。
身体が軽くなったので気持ちよい。
それと前に着ていた服も着られるようになった。
それもこれも一足のシューズがはじまりであった。
神田・ビクトリア本店のあの店員の方がいなかったら今はない。
感謝します。
ADIDAS JAPAN純正 アディゼロ CS ワイド(116334)
投稿者 TKM : 18:07 | コメント (2) | トラックバック
2005年11月27日
声について思うこと 福島電話の話
会ったことがない人と話す時はいつも緊張する。
使う言葉は同じでも伝わっている情報の質感が異なるように思う。
普段は気づかないのだけれど、対話においては言語そのものよりも音質であったり間であったり、 言葉以外が占める割合が大きいのだと思う。
以前、石井先生が東大の福島先生のコミュニケーションについてご紹介されていた。 情熱大陸でもとりあげられた方である。福島先生は目も耳も聞こえない。先生のコミュニケーションの手段は掌をタイプライターにみたてた 「指点字」という方法である。福島先生とお母さんが考案・開発したコミュニケーションの方法である。
衝撃をうけたのは視覚も聴覚も閉ざされている福島先生が石井先生と電話で話している映像だった。石井先生は普通に電話で話している。 そして福島先生も電話で話している。何がどうなってこうしたコミュニケーションが成立しているのか最初はわからなかった。 福島先生の隣にいる翻訳者の方が石井先生の発話を指点字に変換し、福島先生に伝える。それを瞬時に言語化し、 福島先生は受話器に向かって話す。
受話器の向こうにいる人は福島先生が盲ろう者であることには気づかない。
これが有名な「福島電話」である。
情熱大陸の放送を見て僕が強く印象を受けたのは福島先生の次ぎの言葉であった。
「僕は目も見えないし、耳も聞こえないから、有利なんですよ。 その人の言葉からその人を感じるしかない。その人がどんな容姿をしているか。どんな声をしているかと関係なく、 その人の言葉からその人を判断することができる」
およそこのような内容であった。
僕らはその人がどんな人かを判断するときにもの凄く多くの情報を瞬間的に並列処理して判断している。 けれどそれが正しいとは限らないし、情報が多すぎれば逆に本質を見逃すこともある。
「言葉だけを見て相手を判断する」
これ、深いなあと思うのである。
そしてスゴイなあ、と。
さきほどある人と電話で話をしたのだが違和感がないのが不思議であった。今朝までは見知らぬ人であったはずが、 いまは以前からの友人であるような感じさえする。コミュニケーションは脳を活性化させるのだろう。
投稿者 TKM : 17:55 | コメント (0) | トラックバック
午前5時の三日月
深夜、ポッドキャストの録音を終えてから銀座へ。
銀座の土曜日といえば映画の日である。
その帰り道。
自転車で月島に戻る途中、和光の前あたりでふと見上げると三越のビルの向こうの方にぼんやりとした光がみえた。しばらくいって、
歌舞伎座を通り越したあたりで月がみえた。おぼろに輝く三日月であった。
上弦の月の最後といった感じだろうか。月の左半分が輝くのが下弦の月。右半分だと上弦の月である。
月をみていたら、そのまま帰るのが惜しくなり、トマトジュースとビールを買った。
この飲み方、タドがよくやっていた。
先週、朝シャンという言葉を久しぶりに聞いた。
朝にシャンプーすることかと思いきや「朝にシャンパンを飲む」
ことだそうである。
普通やらないと思うけれど、自分にとっては懐かしい。
学生時代のある夜の事。
その数日前、後輩の友人に頼まれてちょっと世話してあげた。お礼にこのお酒を渡してくださいと言われました、 と後輩がお酒を届けにきてくれた。
お酒についてはよくわからなかったので、ありがというと言って冷蔵庫に入れておいた。
そのころは朝7時くらいに眠るのが常だったのだがその日は寝付かれずなんだかノドが乾いていた。そういえば昨夜、 後輩がお酒を持ってきてくれたっけ。そう思って冷蔵庫をあけ包みをほどくとシャンパンであった。シャンパンといっても水分には違いない。
子供の頃に飲んだメルシャンのジュースみたいなものだろう。そう思っていた。
ポンと音を立てて栓が開いた。
グラスについで飲んでみる。
ン?!
アレ?!
なんか美味しいぞ。不思議なのである。ワインやビールよりも美味しいのだ。これは一体?! 飲みながら気持ちがもりあがってきてしまいキーボードに向かって文章など書き始めたら、これが妙に楽しい。気づくと1時間くらい経っていて。 良い感じである。
意外に美味しいじゃないか、なかなかいいぞ。
と気分良く眠った。
翌日、後輩がたずねてきた。
「カガヤさん、昨日のお酒ってなんでした?」
「あ、あれ。いやー、美味しかったよ!そこに空き瓶おいてあるよ」
「へー。アァァァ!!!!!!カガヤさん!!!」
「ン?!」
「美味しいって。カガヤさん、これドンペリじゃないですか!!!しかもこれロゼですよ! !!」
「ヘッ?!」
「エッって何で、オレも呼んでくれなかったんですかーーーーーーーーー!!」
なるほど美味しかったわけだ。あれが世にいうドンペリというヤツだったのか。 ドンペリというモノを飲んだのははじめてだったが確かに美味しかった。ノドが乾いていたせいもあったけれど、 朝に飲んだシャンパンがドンペリだったとは。
しかも全く気づかずに飲んでいたのが良かった。先入観になしに純粋に味を楽しんだわけだ。
加えていうとコップ酒状態でやってしまった。けれど、いまだにこの時飲んだシャンパンが一番、美味しかったように思う。
ドン・ペリニヨン・ロゼ・[1995]年
(これだったのか…。スマン、次回は誘うよ…)
投稿者 TKM : 07:41 | コメント (0) | トラックバック
2005年11月26日
これじゃ複雑すぎてまるで保険商品 ドメイン移管に関する手続きをつうじて
メモ程度にまとめ。
KAGAYA.COMというドメインを取得してはや10年近くになる。
いくつかのホスティングサービスを乗り換えてきたのだがドメイン自体はNetworksolutionsで管理している。
いま使っているホスティング会社を早急に変えようと決意したのだが、どうにも手続きが煩雑でずっとやれずにいた。
さくらインターネットに変えようとしているのだがDNSのポイント先を変えるというオプションがなく、
ドメイン自体を移管しなければならないらしい。
Networksolutionsを使う金額的な利点も薄れてきたのでこの際、移管してもよいかな、 と思って手続きをはじめると昨年から管理体制に変更があったようで「REGISTRAR-LOCK」なるものが追加されていた。 これを外そうとNetworksolutionsの管理ページからログインするのだがどうにも様子がおかしい。 (ここまで情報を集めるのだけでも結構大変であった)
どうログインしても「Domain Protect」がエディットできないのである。
悪戦苦闘すること30分。ようやく事態が飲み込めてきた。
一つのドメインに対して管理アカウントが二つ設定されておりこれらをマージしてやらないと管理画面がフルで機能しない状態になっていたのである。 過去のファイルを探り当ててもうひとつのアカウントでログインするとあっさりエディット可能になった。
現在のアカウントとマージし、REGISTRAR-LOCKの解除を完了。
これで移管手続き完了か、と思いきやDBの更新はリアルタイムではないようで反映されず。
というわけで、今日できる作業はここまで。
ここまで2時間くらいあーでもないこーでもないとやっていたのだけれど、あまりにも複雑。 流れがわかってしまえばなんてことはないのだが、包括的な情報が無さ過ぎである。
医療知識が独占的な状態におかれているのと似ている。
金融商品も同じようなものだ。
それ自体が複雑なのではない。
本質にリンクした必要とされる情報が少ないのである。
わかってしまえばシンプルな構造だけれど、レイヤー毎に欠落してる情報があって、それらが絡み合うと全体が迷宮化してしまう。
この感じってヘンに複雑化してしまっている保険商品みたいな印象を受けた。
以前、「保険つっても所詮はカネ集めて運用してるだけなわけでネズミ講と構造はかわらん」と書いたらFPの人から
「保険商品でも立派に資産運用になります。なんならコンサルティングにいきます。」
とコメントをもらったのだけれど資産運用系の商品は保険部分のコストがかかってるわけだから他の資産運用手段に比べてパフォーマンスが落ちざる得ない、 と僕は思うのだけれど。どうでしょ?この部分に関しては反論はないと思うんですが。
保険についてはプロじゃないのでアレだけれど、格安を組み合わせるのが効果的じゃないかと思う。まあ、 それには保険に関する知識が必要だからちょっと勉強しなきゃならないので、それをコストと考えるとなんとも言えないのだが。
大手生保がやってる総合系の保険は経費率が高いから格安生保に比べると競争力がない。それをごまかすのに複雑化している。 というのが僕の理解です。
投稿者 TKM : 04:05 | コメント (1) | トラックバック
2005年11月25日
「ザ・サーチ」 必読書である理由→スラスラ読めない
まだ読んでる途中なので詳しくは書かないけれどネットとビジネスの本質に関わる洞察に満ちている。
ともかく紹介せずにはいられなかったのでエントリーを書いてみた。
「ネットって何ですか?」
という問いには無限の答えがあるだろう。
ポイントはここだ。
ひとりひとりが思い浮かべた答えの根幹には個人の「意識」「意志」がある。
そして最初に感じた「何か」は何らかの本質とつながっている。
ようやく120ページまで読み進めたのだが、その思いは強まるばかりだ。 このエントリーは僕以外の人には全く重要でないかもしれないが自分にとっては重要である。
思考の方法がわかってきたように思う。
追伸:表題だが「スラスラ読めない」 というのは難解という意味ではなくその回路が頭の中にないので構築しながら読むというプロセスの意である。 これがないコンテンツや読書は消費的であり、創造性とはリンクしない。同様の指標は生活や人間関係にも当てはまる。 素通りできない書籍やコンテンツとの接触機会を意識的に増やすことで人の思考力の質は飛躍的に向上する。しかし、それをドライブさせるには 「アウトプット」の作業が必須であり、これの開き方によって個人の生き方や質が決まってくる。 遊んでいるように見える人でも実は遊んでいない場合もある。違いは思考するという選択をするか否かである。また、思考の質と善悪という指標はリンクしていない。 今と別の今はエンタングルな関係にある。これは真理である。
追伸2:読むことが書くこととパラレルに存在し、同時に情報として発信されるような「読み」がつくりだせないものか、と常に思う。 現在、「読む」はそれで完結してしまっているが「読む」の価値は絶対的なものではなくそこにあるテキストと読者との関係性である。 「読み手がどう感じたか」という情報が読むという行為と同時に創造されている。しかし、 それらが情報の生態系をつくるようなシステムは内包されていない。ブログは異様にプリミティブでまだできあがってもいないが現段階では 「テキスト」と「読む」が近づいた中間的存在である。
投稿者 TKM : 02:48 | コメント (0) | トラックバック
そういえばキャラ弁あったっけ 「キャラ弁考」〜食べ物がコンテンツ化していることについて 〜
この間、中塚さんに教えてもらったのだけれど「キャラ弁」 なるものを創っている主婦の方がいる。
上記がキャラ弁サイトである。 (本当は画像を張りたいのだがそれだとオレが利用してるみたいになっちゃうのでまずは何も考えず、上記のサイトをクリックしてみてください)
たけくまメモでもたけくま先生が熱く紹介している。 (勝手に画像張っちゃってるけれどこれってルール違反では? このあたりのストレスをなくし情報の流通を最適化するためにもクリエイティブコモンズなど利用に関するルールがクレジット表記されていることは大事だと思う)
話をキャラ弁に戻そう。
先日紹介した男前豆腐と同じようにお弁当も形状が在る程度、形式化してしまっているので商品の差別化にはこうした「オヤ!?」が必要である。
僕らは食材を食べたくて弁当を買うのだが、買うという行為の時点で味への渇望が明確でない場合、面白さ、
新しさを求める脳的な欲求が大きな影響力を持つ。
つまり、
「ナンダコレ!?」
と反応してしまうコンテクストとコンテンツは内容と同じくらい大事なのである。それらとの相互作用によって内容もまた影響を受ける。 モノの本質は変わらなくとも、受け取る我々の脳の状態が変質するのである。
しかしまあ、このようなお弁当がコンビニに存在していないことに僕は注目する。
方法はわかっているし、企画もあがったハズだ。
でも、これらはロングテールなの尻尾側であってまだコンビニで扱える商品にはなっていないのだ。
Googleアドセンスのようなコンビニがユビキタスに存在するようになったら、
衝撃のキュービタルワールドだけれどね。
投稿者 TKM : 01:08 | コメント (0) | トラックバック
2005年11月24日
安易な奇跡はない
いつ頃からか忘れたけれど表題のこれ座右の銘というのだろうか物事に対する自分の心証である。
投稿者 TKM : 02:17 | コメント (0) | トラックバック
やまけんの気持ちがよくわかる
先週くらい仕事や出来事や思考やらが100倍くらいの濃度でガーっと頭を駆け抜けていて、 ようやく情報量に頭がなじんできたようで活性化してる感じがする。
感じることが多すぎて、 書きたいことが溢れんばかりに脳をぐるぐるとよぎっていくのだけれどそれを文章にしてここにつなぎとめる作業が全然おいつかない。 ライブで記録しないと体験の瞬間の感情や感覚が流れていってしまう。ライブ感がないテキストを書くのは難しい。
だからすぐに書き留めればいいんだけれど感じた瞬間を逃すと「書く」という作業にはそれなりに負荷がかかってきてしまう。 脳が記憶をリコールさせ、再現しようと躍起になってるのがわかる。これはやっぱり負荷なんだろう。
入ってくる情報をライブで文章にしていくスピード感にまだ慣れてないのである。日記みたいにただ書くならばできるけれど、 記録として書くのと、 感覚を書くのとでは文字を使うという意味では同じだけれど使っている脳の機能の質が全くことなる。
書こうと思っていたことをメモした紙をみると
・Kentaka
・Akira Kurosawa
・Four Bros
と書いてある。これらの言葉から何を自分が感じていたかを想起することは僕には可能だけれど他者には不可能だ。
自分の中にわき起こった「伝えたい」という気持ち。僕にとってこの時の感覚が全てといってもいい。この時、僕は何も考えていない。 ただ感じた何かを「伝えたい」という気持ちだけがある。僕はそういうのがいい。
表題の件について。
よくやまけんが
「忙しくて本当に書きたいことはやまほどあるのだけれど書けない!!!!!!!!」
と書いているがその気持ちがよくわかる。僕も書きたいことが山ほどある。しかし、書けないのである。そう、ありすぎて書けないのだ。 脳が感じるスピードと書くことの間のギャップがありすぎてまだこのスピード感に慣れてないのである。そしてこういう時はとても悔しい。クソ、 書きたい、でも書けない。気持ちは伝えたくてしょうがないのだけれど脳と身体がおいつかない。これってとても悔しいのである。
だから、ポッドキャストならばできそうなので、やり方を考えてみます。(ここ面白い感覚です。 話のはできると思うけれど書くのはできないんですよ。おそらく僕が感じた感覚やら感情やらは文字として固定してしまうと揺らぎがなくなって変質してしまうんですね。 例えば好きだという感情を伝えるのに「好きだ」と書くアホな作家はいないですよね。文字を使う場合、 文字の後ろに浮かび上がるもうひとつのテキストがつくりだす質感によって感情やら気配を伝えるしかないんです。音声の場合、 それ自体が揺らぎをもっているので感覚を表現する際に使える情報量が圧倒的に多いのではないかと思います)
投稿者 TKM : 01:44 | コメント (1) | トラックバック
2005年11月23日
「川本真琴」 久しぶりに音楽で感動!音楽と非可逆性と儚さと
昨夜は某プロジェクトミーティングの後、ミーティング第二部。
オレ以外は皆さん音楽関係の仕事をされている。
何かの流れでイシカワさんがアレンジを担当された川本真琴というアーティストの話になった。
オレは音楽に疎いのでどういう位置付けのアーティストなのかよくわかっていなかったが帰宅後に「愛の才能」という曲を聴いて衝撃を受けた。
モロ好みの曲である。
こんないい曲をこれまで知らずにいたのか?!
恐ろしい。
調べてみると作曲は岡村靖幸である。
好みな曲なわけだ。
高校時代に岡村靖幸の「19」を聴いて以降、大ファンなのである。
なにせ生まれて初めていったライブは岡村靖幸である。
しかも前から3列目。
あの頃の岡村靖幸はかなりきていた。
CDで聴くのとは別世界である。
帰りの電車で1曲目からアンコールの二曲目まで何曲あったのか数えてみたり、とあの日は本当に楽しかった。
さて、川本真琴だがどうにか聴くことができたのは「愛の才能」と「やきそばパン」の二曲。
いやはや、こんなアーティストがいたのか。
音楽知らなさすぎである。
ショックだ。
残念ながらiTMSでは買えないので早速、CDを借りてこよう。
それにしても音楽で感動したのは久しぶりである。
追伸:さっきからヘビーローテーションで「愛の才能」を聴いているのだけれどこの曲の
「あの子にばれずに誰にもばれずにキスしようよ 明日の一限までには何度もキスしようよ」
という部分の音のつらなりがつくりだす質感がたまらない。音をここに貼り付けることができないのがどうしようもなくもどかしい。
自分がいまここで感じている音の質感を言葉で表現することは不可能だ。
これは物質的なものでもないし、かといって非存在でもなくて、その瞬間にだけ存在し、
消えていってしまう本来は非可逆な質感である。 それが固定されるでもなく存在と非存在の狭間として存在している。
そこに強く感応しているように思う。夕日や朝焼けが妙に美しく感じられる時があるけれど、
その時間が不変ではなく消えていってしまうはかないものだと直感的にわかっているからそこに固定可能な情報とは別の質感を感じるのだと思う。ああしたシーンに出くわすとその情報量と質をひとりで受け入れることができなくて(いっぱいいっぱいになって)誰かに伝えたい、と感じてしまう。
音楽は極めて不思議な存在である。これはモノなのか。それとも瞬間にだけ立ち現れる儚さという非存在に近い情報なのか?
空間の振動現象なのだから物理的な存在である、とも言えるだろうけれどこの非可逆性をどう説明すればいいのだろう。音楽とは本来固定できなかった存在だと思うのだ。それがここに存在してしまっているこの不思議は。
投稿者 TKM : 06:54 | コメント (0) | トラックバック
2005年11月18日
Google考 Google Baseについて15秒考えてみる、あと創造性とか美とか不存在の価値とか
話題の
β版が公開された。
奇しくも昨日、某企画関連で動的なクレイグスリストの可能性について考えていたところだった。
Help the world find your content.
というコピーにもあるが、世界や人々、社会は常に才能を探している。才能は常に求められている。ただし、 そのマッチングができていないだけで、才能、クリエイティブをベストにマッチングさせることができたら、 関係性のオプティマイズは進んでいき、物事はうまくかみ合い出し、連鎖し、創発性も加速される。
というのは仮説ではあるけれど本質はそのくらいシンプルなのだと思う。
Google Baseに話を戻すとクリエイティブに関しては
「創り出したもの」
や
「創りだすという行為」
が全てで、その人がどこに住んでいるかという部分の持つ価値は小さくなってきている。 (文脈的に価値を付加するタイプの創作物や行為は別だが)
ホントのところ、世界に遍在する才能間のドライブが最大化するように効果的にマッチングされていったら、どうなるのだろう。
まだイメージがわかないけれど才能やら創作ブツやらビジネスやらいろいろみんなひっくるめて大本は
「コミュニケーション」
の問題なのだろう、とは見当がつく。
ここに手をつけた企業、組織、個人、集団、場はネットでも実世界でも台頭してきているように思う。面白い限りだ。
再び見えない世界が立ち現れ、人の心はそこに向かっている。
怒りでも悦びでも発端となっているのはそこに存在する「モノ」や「何か」 ではなく見えない関係性である場合が大きいのではないだろうか。
例えば人の話が気になる場合(不快でも快でも)我々が気を取られるのは音の質かもしれないし、 音が指し示す言葉から想起されるイメージや内容かもしれない。そこに定位出来ない何かがより強く我々に訴えかけてくる、 ように思えて仕方がない。
簡単にいってしまうと
「見えるモノ(在るモノ)よりも見えないモノ(存在しないモノ) に価値がシフトしてきている」
ということをいいたかったのだけれど、上記の言説はいろいろなところで言われているのでいまいちパっとしないなあ、と。実際、 見えないモノの価値が高いのはいまにはじまったことではないだろうし。
例えば(これも話をよりこんがらがらせそうだが)「美」については
「普遍的で絶対的な美というものがあるのだ」
という立場をとる人もいれば
「いや、そんなものはない。美を感じるかどうかは記憶や認識など後天的な要素のよる」
という立場の人もいる。
その両方が場合場合によって当てはまることもあれば違う場合もある。それぞれがミックスされ、 総体としてどちらの割合が強いかが違うだけなんじゃないかと思う。
同じ時代に同じ空気と時間の中で生きているという共通性によって、ある程度の認識の普遍性はあると思うのだ。 人類とかそういう枠でみた場合でも。
いかん、話がそれてしまった。
「存在するモノ」と
「存在しないモノ」について考察していたのだった。
「見えているものは見えていないもの」
というのが僕の考えである。 そこにある何かを見たり聞いたりしているときそれはそこにあるように思っているけれどホントは「ソコ」は引き金で感じているのは同時に「ココ」 にあるものだと思う。
人が惹かれたり、グっと感じたり、グラっと来たりする対象はソコにある単独の何かではなくて、 そこにある何かを起点とし同時にココに立ち現れる存在していないモノだと僕は思う。
この境界がだんだんと外側ににじみ出していて、曖昧になってきているのかなあ、と。
何かをするときに「フィーリングで選ぶ」とか「感覚的に」という言い方をする。 「考えて選ぶと大抵うまくいかない」と対比して使われるがそれってイメージのコピーによる劣化だと思うのだ。 未来をイメージして選択を試みるがそこで使われるイメージの輪郭がぼけているから、そこから想起されるモノの輪郭もぼやけていく。
なので完璧にシミュレートできるイメージ能力があればそれは感覚的と同意なのだと思う。意思決定の問題は面白く、 全ての解決を感覚に託すのは安易だし、俄的なアプローチが常時有効なわけではない。
自然そのものが「パラレル」だとすれば、 我々もAであり同時にBであることの方が自然なのではないだろうか。
(この本を読むまで量子コンピュータについて完全に誤解していました。 量子コンピュータは概念そのものが既存のコンピュータとは違います。高速な演算をするという考え方ではないんですね。 現在我々が使っているコンピュータは素子を量子レベルまでもっていった時点で高速化の限界点がきてしまいます。 量子コンピュータって最初はそういう高速なコンピュータのことだと思ってたんですが全く違いました。 世界の根本とか知性とか創造性とかそういう部分にまで絡んでくる話です)
投稿者 TKM : 17:08 | コメント (1) | トラックバック
3日ぶりにラン
寒くなったのと打合せが増えたこともあってこの二日、走ることができなかった。
基本的に毎日走っているからたった二日でも随分時間が空いてしまった感じがする。
だいたい午前11時頃から30分走ることにしている。
コースは決まっていて、月島側の隅田川沿いのテラスを2往復する。
ちょっと少ないが20分くらい走ると身体がほぐれてくるのがわかる。
先月は半袖でも大丈夫だったがいまはさすがに半袖では肌寒い。
冬が近づいているのがわかる。
走り込みを初めてすでに3ヶ月くらい経つ。
昨年からずっと走ろう、走ろうと思っていたのになかなか始められずにいた。
ある日、思い立って神田にランニングシューズを買いに行った。
月島や銀座、豊洲などの量販店を探したが27.5cmというサイズはなかった。
次ぎの日、自転車で神田までいった。
夜7時過ぎくらいだろうか。急に
「やらねば」
と思ったのだった。神田に着くとスポーツ店が多い。どこで買ったものか全く見当がつかない。 大きめの店でいろいろ比較しながら買おうと思っていたので一番大きそうな店を探した。最初に目に飛び込んできたのが「ビクトリア」。 閉店までの時間は20分くらいはある。
ランニングシューズのフロアにいってシューズを眺める。100種類くらいあるのではないだろうか。どれがどういいのか全くわからない。 仕方ないのでデザインだけでみていこうかとも思ったがこれまた目移りしてしまう。
仕方なく店員さんに相談することにした。
「このスゴク軽いシューズがいいんですけれど」
とたずねると
「このタイプのシューズは主に競技などをされている方向けで、 筋肉への負荷は問わないというような人にはお勧めできますが。これから走り始めよう、という方の場合、 膝などを痛めてしまう場合があるので注意が必要ですね」
軽ければ軽いほどいいのかと思っていたが全然違っていた。一見、重そうに見えるシューズの方が足への負荷は少ないのである。
「ではどういうのがいいんですか?」
「各メーカーによってショックアブソーバーの種類が異なるのですが例えばこのミズノのシューズの場合、ソールがゲルやエアーではなく、 ミズノ独自の仕様になっておりまして。こちらをご覧下さい…」
と、ミズノ、アディダス、アシックス、 ナイキなど各社のソールの構造や特徴などについて模型や素材のサンプルを使ってことこまかに教えていただいた。 教えていただくというよりもコンサルティングに近い感じだ。店員さんとの良好なコミュニケーションによって買い物時の満足が急速に増していく感じがした。人は納得して買う時、 すごく満足を感じるのだ。
そして20分にわたるコンサルティングの末、僕が選んだのが下記のシューズである。
ADIDAS JAPAN純正 アディゼロ CS
ワイド(116334)
軽さを追求しつつも、ヒールとつま先で緩衝剤の質を変え、つま先には反発タイプ、ヒールには吸収タイプのゲルを備えた優れものである。
実はミズノのシューズもかなり惹かれた。ミズノのシューズの場合、日本人の足の形を考慮したデザインになっており、 甲の幅が広めになっている。そのため履き心地がナチュラルで全く違和感を感じない。 同じサイズでもメーカーによって履き心地はかなり違うのである。
アディダスの場合は少し細めになっているし、アシックスの場合は足に重さを感じた。 ナイキはクッションにエアーを使っているためか他のシューズよりラフな感じがした。総合的にはミズノのシューズがいちばん履き心地がよかったのでベストのように思えたのではあるが…。
僕はこのシューズを見た瞬間に惚れてしまっていたのだ。
ほぼ一目惚れである。
1分ほど迷った末に決定。
異様な満足感と昂揚感と共に帰路についたのであった。
投稿者 TKM : 03:16 | コメント (1) | トラックバック
2005年11月17日
渋谷のんべえ横町
8年ぶりくらいだろうか渋谷はのんべえ横町にいった。のんべえ横町というのは渋谷駅を出てQフロントの前のスクランブル交差点を渡り、 JR線の下をくぐってすぐ左に曲がって線路沿いにいったところに密集している小さな店(平均10席くらい)が集まっている飲み屋街である。 正直寂れまくっているが「味がある」という人もいる。そういえば食においてはロングテールが現実化している。
訪問予定の名物店は満席であったが通りを歩くと懐かしさがこみあげてきた。
先回、ここに来たのは8年前。
イシミツ君が富士通でディレクターをやっていた頃である。
ヤサカさんと3人で狭いカウンターの席に座ったのを覚えている。
当時のイシミツ君はメディアへの露出が徐々に増え、半分業界なノリになりつつあった。彼はその後、 別方向な業界ノリに転じていったのであるが。
昨夜はチョウさんと津田さんと一緒であった。
津田さんは「音楽配信メモ」
というネットと音楽についてのサイトを2002年から運営している。チョウさんは音楽のプロデューサである。二人とも音楽、
音楽業界についてもの凄く詳しい。メモを片手に話を聞いていると少しずつではあるが雰囲気はわかってきた。
音楽というと派手な印象があるけれどもとは人がつくっているのである。
先日、ハッスルとプライドを運営者側の立場から視察する機会を得たときも思ったがその場に足を踏み入れてみると、人間が普通にそこにいて、
パッケージ化された映像とは異なる「不確定性」や「アバウト感」とともに場は動いていた。
ベンチャー企業がとんでもないスピードで洗練されていったりするのと似ている。全てがしっかりしているわけではないのだが、 あれよあれよというまに変貌していくこともある。
そんなことを思った。
++++++
朝方に電話が鳴って目が覚めた。
外にでてみるとトリトンの向こうの空が朝日で照らされていた。築地市場の上には大きな月が浮かんでいる。
それらをみていたら妙な既視感に襲われた。
聖路加タワー。リバーシティ。早朝5時の空。
どんなに成功した個人も聖路加タワーをつくる人はいないだろうし、リバーシティもつくらない。あれは事業がつくった建造物である。 個人ではない。と、そんなことを考えていたら「ルールの違い」を強く感じた。 人が成果としてつくりだせるものはそれほど大きくない。 事業というフレームを用いることなしには宇宙開発のような仕事を進めていくことは難しいだろう。 王政なんかもある種の事業みたいなものだろうし。
まだイメージがぼんやりしている。
Webサービスには個人が開発できる余地が残っているけれど人類全体に影響を与えるような
「情報」の開発は別な立ち位置であったり、事業というフレームを使わないと実現できない、のかなあ、と。
投稿者 TKM : 13:42 | コメント (0) | トラックバック
2005年11月16日
ビデオSkypeの秘密兵器
昨日からアソブラボでは動画に対応したSkypeのβテストをしている。
カネコと実験したのだけれどこれは…
面白い!!!!!!!!!!!!!!!
昨年の丁度いま頃に石井先生に教えていただいてSkypeを使い始めたのだがたった一年で今度は夢のテレビ電話が実現である。 これまでも似たような動画対応版テレフォンカンファレンスソフトやシステムはあったけれどSkypeほどのクオリティと手軽さはなかった。
ノートPCとネット環境さえあれば「どこでもオフィス」や「どこでもブレスト」
が驚くほど簡単に実現できてしまう。
詳細は本ソフトのリリース後にレポートするけれどこれはある種の革命です。
Skypeが台頭してくるにつれて「ヘッドセット」 というアイテムの市場が広がったが、今回は新たに「Webカメラ」 というツールが一般化してきそうだ。僕らが使っているのは下記のカメラ。小さいけれどこれで130万画素。 更にフェイストラッキングというスゴイ機能がついている。頭の位置を移動するとそれを感知してカメラが追いかけてくれるという優れもの。 オススメです。
Skypeキャプテンによれば下記のプラントロニクスのヘッドセット、
「ヤバイくらいに音質がいいですよ」
とのことでした。試してみたい。
DSP-500USBマルチメディア・ステレオPCヘッドセット
投稿者 TKM : 13:12 | コメント (0) | トラックバック
Gyao.jpでハッスルの放送開始! オレらはちいさく0.5秒くらい出演!
が今日から放送開始である。カネコから連絡をもらって早速サイトにアクセスし、 第3ハッスル「和泉元彌vs鈴木健想戦」を鑑賞。 カメラの視点でみるのははじめてなのでセコンドからみるのとは印象が大分違う。
残念ながら入場シーンはない。 演出的には重要なのだが鬼瓦軍の入場で使ったジュディー・オングの「魅せられて」の権利などの関係でカットなのではないかと。
あらためてじっくりとみてみると試合の方はかなりよくできた構成。
宗家の表情の出し方がレベル段違いに巧い。
魅せる部分に関してはさすがにプロだ。
会場の盛り上がりも凄かった。
宗家より先に退場したので観客総立ちの盛り上がりシーンは立ち会えず、
バックステージで宗家を待っていたのだがあれほどの盛り上がりだったとは。スゴイわ。
最後のHGの試合と宗家の試合がダントツな盛り上がりだったことを再確認。
つい2週間前のことなのだがもう半年も前のイベントのような気がしてしまう。
そういえば僕は鬼瓦軍として参戦していたわけだがそのレポートを書いているこのブログがGoogleで検索してもなかなか出てこない。 情報の検索という分野まだまだ未開拓だと感した、面白い限りだ。
情報のマッチングはこれから更に重要性を増すだろうな。
投稿者 TKM : 12:54 | コメント (0) | トラックバック
2005年11月15日
新日本プロレス売却
この記事は素通りできなかった。
オンラインゲームについて調べていた頃、ユークス社の谷口行規社長の話をきいたことがあった。 WWE系のプロレスゲームはユークスで開発されていて、日本ではなく米国向けにつくっているといっていた。また、 日本ではそれほど本数がさばけないけれど米国市場だと何十万本という単位でスポーツ系のゲームが売れるのだといっていた。
いや、 その時の話の本質はそんなことじゃなかったのだがユークスというとWWEのゲームをつくってる会社というイメージが強い。 そのユークスが今度は新日を買収とは感慨深い。
ゲーム会社がプロレス団体を買収するとは10年前では想像できなかった。
10年後は今度はゲーム会社が予想外の勢力に買収されるようになっているかもしれない。
求められるエンターテイメントやコンテンツの質が変化しているのだ。
昨日、「ALWAYS三丁目の夕日」という映画を観た。
(映画についてはPodcastでレポートします)
劇中、TVが運び込まれ町中の人々が集まり、画面に表示されるプロレスの中継に熱狂するというシーンがあった。しかし、
「力道山のチョップが日本の人々を興奮させた」
といわれてものか僕には実感がない。
一つのイベントに対して多数が熱狂する機会は減少している。 エンターテイメントはより個人の嗜好を反映させたものへと向かっており、この分野でのロングテール現象は顕著だ。 2割のメガヒットが注目されるけれど全体の8割を占めるのはヒットとは呼べない小粒なコンテンツの集合体である。これらを僕は
「群れとしてのコンテンツ」
と呼びたい。
プロレスに話を戻すと新日の惨状とは逆に先日、僕たちが鬼瓦軍で参加した「ハッスル」は盛況である。 会場に足を運ぶと凄まじい熱気に驚かれることだろう。僕もかなり驚いた。最盛期の新日の興行並に観客が「ハッスル」している。
「ハッスル」はエンターテイメント性を重視し、プロレスという舞台をつかった「ショー」 を定着させることに成功している。ドリフと吉本のライブ性をプロレスで再現してしまっている。 このスタイルのプロレスが全ての人にアピールするとは思わない。なので5万人規模の会場、例えば「東京ドーム」などを埋めるような興行は難しいだろう。
しかし、こうしたプロレスを受け入れ、楽しむことができる人々は存在し、 そうした人々を対象として興行を行う場合、興行を成功させることは不可能ではない。 (映画に例えるならばマーケットサイズを把握して映画を製作していれば観客動員が少なくとも黒字はつくりだせる)
こうした市場の変化を興行に組み込むことができなかったのが現在の新日の惨状を招いたのであろう。
新日劇場と呼ばれる団体抗争劇は10年前にはコンテンツとして人々を魅了したが、いまや、役者が固定化し、昼ドラのどろどろ感よりも醜い。
そうした愛憎劇の再現をユーザ(観客)は求めてはいないのだ。(それを求める人の数が減ってきている)
追伸:プロレス団体によってTシャツも全然ちがっていて、
プロレス会場で上記の新日の赤Tシャツを着ている人を見るのが好きだったのだけれどそのシーンも少なくなっていくのだろう。 以前は会場にいく途中の電車の中で既に上記のTシャツに着替えている人なんかもいて、やるなあこの人、とか思っていたものだ。
同じTシャツでもハッスルのは
な感じである。Tシャツひとつとっても全然雰囲気が違う。
投稿者 TKM : 12:03 | コメント (0) | トラックバック
2005年11月14日
男前豆腐!! これは豆腐革命だ!
ある豆腐屋のサイトを教えてもらったのだけれどこれはスゴイ!
アクセスするといきなり流れ出すチープな音がなんとも15年前のTVゲームっぽくて良い。脳のどこかをバリバリと刺激してくる。
しかし…、
このブランド感は…、
食関連のオンラインコマースのイノベーションといってもよいのではないだろうか?
「キャラの立った豆腐」
こんなのはこれまでなかったよ。あっても言葉で補強された高級感くらいだったわけだけれど
豆腐にキャラを持たせることでイメージから想起される「記号性」
の刷り込みに見事に成功している。
ネットというメディアにおいてこの手法はすばらしく効果的で、僕だってこうやって「キャラ」
として成立している豆腐商品を見せられたら試してみたいと思ってしまう。
言葉や映像で豆腐自体の味を差別化して表現することは難しいが
「美味しんぼメソッド」
の応用として商品を「キャラ化」し、豆腐のイメージをドライブさせてくるとは。
いやはや驚きである。
投稿者 TKM : 23:13 | コメント (4) | トラックバック
2005年11月13日
やまけんとインデアンカレーを攻めるの巻
土曜日の午後であった。
予定がなかったのでゆっくりとしていたら、電話が鳴った。このタイミングで電話してくる






