2005年07月16日
ひさしぶりに雑記
といっても朝はやくおきているわけではない。
たんに朝までおきているだけである。
4時30分くらいからの外の空気は普段とちがう。
特に休みの日はそうだ。
常にこういうモードで街がうごいていたら事件や諍いも減るだろう。
Yけんブログが荒れぎみだったので懸念したが大丈夫なようで安心した。
私見だが、意見があるならば自分の土俵で発言すればよいのにな、と思った。
提案なしにぶちまけあっても問題の本質(例えば議論になってる食事というプロセスのクオリティの改善とか) は何も解決しないように思う。
どちらが正しいかを問うのではなく、どうすれば最も価値が大きくなるかを考えたほうがみんなにとって幸福であろう。
++++++
「人は自分のことでは悩むが人間のことでは悩まない」
とは「死神の精度」にあった言葉だ。
悩んで解決することは皆無だ。
人間のことに知恵を絞るようにつとめたいものだ。
投稿者 TKM : 05:19 | コメント (0) | トラックバック
2005年07月04日
夜も素麺
食べ終えての感想。
粗食だけれど満足度は高い。
というか美味しいです。
投稿者 TKM : 19:30 | コメント (1) | トラックバック
2005年01月28日
プレゼンな映画と意味を隠す映画 ~帰りの電車での雑感より~
久しぶりに代々木界隈を歩く。
紀伊国屋などいってみた。
代々木のフレッシュネスバーガーでメモをしていたら警備員のおじさんが二人こちらをみつめていた。 植え込みになにやらあるらしいがここからはわからない。帰りの電車で思索していると電話が鳴った。
共時性か。
さっきのメモを思い出す。
時間についてのメモであった。
「いまという過ぎていくこの時間は誰にとっても同じ時間なんだよな」
あたりまえのこと、であるわけだが、その意味はよくわかっていない。
心臓の鼓動のスピードが子供と老人とでは随分違うらしく、それによって体感時間が違うのだ、という話をどこかで読んだ。
でもさっき浮かんだのはそれとはちょっと違っていて時間は流れているわけじゃなくココという一点にあるみたいなイメージだった。 うまく言えないのだが。
外を歩いている人たちも自分も同じ時間の点を共有していて、「あの人はこうだ」とか「この人はこんなで」 という違いはあれど同じ時間にいるという共通点の方がそんなものよりも遙かに大きいように思えてきたのであった。
この時間にいる人たちってパラレルな自分ではないのか。
あなたが感じてる時間と僕が感じてる時間は違うんだろうけれど、それでも我々は同じ時にいる。それってどういうことなのかな。
電車は大門を抜け、月島に向かってゴーっという音に包まれて疾走していく。
ひとつの音もそこから何を感じるかは人によって全然違う。
それは文脈によるものなのだろう。
文脈超えってあるのだろうか。
あるのかなやっぱり。
そういうのを言葉で表すには本来の使い方では難しい。
言葉の連なりの裏にできていくパターンを使うのだろう。
いい映画はプレゼンの対極にあるように思う。(何がいい映画かは人によってちがうのだけれど、
より深く自己に入り込んでくるようなものとしておく)
伝えないことで伝えるというやり方でしか伝わらない質感。
それを伝えるには逆説的だけれど意味は隠される必要がある。
そういうカタチでプレゼンをおこなったら笑えるだろうな。
「???」
が並ぶんだろうけれどわかる人にはわかるだろうし、伝わるのだろう。
こういうのは恋愛と似ているのかもしれない。
愛情表現の言葉って具体的じゃないし、そもそも、あんまり言葉がない。
理路整然と演説して惚れ合う男女が描かれてるのはハリウッド映画くらいだろう。
投稿者 TKM : 21:41 | コメント (0) | トラックバック
2005年01月26日
地球の声と感情漂流
今日はメモ代わりの雑記です。
■ある外国人の笑顔とある打ち合わせについて
数日前、近くのレンタルビデオ店にいった。
その店はバイク屋の二階にあるのだが階段を登って店の自動ドアをくぐり抜けるとロシアっぽい帽子をかぶった外国人の男性が店をでてくるところだった。40歳くらい。「レナードの朝」に出てくる先生(右側)に似ていた。
黒いレザーのコートをきた彼は優しそうに微笑んで先に通してくれた。
その表情は自然だった。
考えてつくられたものではなく彼のもつ素地がそうさせたのだと思う。
何かこの世界のものすごくたくさんの情報をいっかしょに集められ折りたたまれたような印象をうけた。
いまどきこんないい表情ができる人にはそうそうお会いできない。
他に僕が知っているのはダライ・ラマのナイススマイリングくらいだ。
なのでその日はそれだけでうれしくなった。
これはまた別の日のこと。
ある外国人と話をした。
雰囲気の問題なのだろうけれど裁判で尋問されているかのような印象をうけた。
自分にとってリラックスとはほど遠い雰囲気であった。
今日で一日が終わるとしたらこの人と過ごしたいだろうか?
迷わずNOだ。
しかしその人が本当はどんな人なのかを僕が知らないだけでその場の印象からそう感じているに過ぎない、のかもしれない。いまはフレンドリーでなくとも何年かしたら世界的な慈善家になる人なのかもしれないし、さっき食べた昼食があわなかったとか、親知らずが痛いとかそういうことなのかもしれない。あるいはトイレにいきたいだけだとか。
人と人の間というのは無限に近い相互作用の結果でできていて
「あの人はこんな人」
みたいな思考は正しくないのかもしれない。が、人に接した時に自分が感じる何かは確かに何かしらの方向性を示していて、それは人の行動や意思決定、コミュニケーション、モチベーション、気持ちに大きな影響を与えている。(それが人の限界をつくっているように思うこともしばしばあるが)
これはどういうことなのだろう。
おきてからしばし考えた。
■仕事にとって大切なこと、自分の場合
仕事について「自分の好きなことをしろ」であるとか「わくわくすることをやれ」というような言い方が一般的だし、そう思われがちだが僕の場合、それは大して重要ではないようだ。
人によって異なるのだろうけれど僕の場合、仕事において一番重要なのは
「誰とやるか」
である。
■「綺麗事」とその周辺について
「それは綺麗事だよ」
という意見がある。
けれど
「綺麗事でいいじゃない、何でダメなの?」
と自分は思う。
綺麗事の方がベターであり、人にとってプラスであるならば綺麗事を一般化させていくことはこの世界にとってもプラスではないのだろうか。
そもそも「それは綺麗事だよ」という発言はどんな意味があるのだろう。
「そうはいうけれど現実は違う」
というのであれば何故現実が違っているのか。
何処が違っていてそれは何故なのだろう。
また、それを受け入れているのは何故なのか。
「こうした方がいい」あるいは「こうだったらいいのに」という想いがあるならそちらが本来あるべき姿だと僕は思う。
綺麗事という便利な言葉で問題を簡略化し、存在自体をぼやけさせてしまうことが問題なのだ。
解決不可能という封印をしてほったらかしにするよりは少しでも整理をはじめた方がいい。
問題というのは「出来ること」ではなく「出来ないこと」で問題化する。
ならばそれができない理由をつきつめ、整理していくことは無駄ではない。
そういうことを怠ってきたからいろんな問題が潜伏・反復増幅し、本来問題が属していたレイヤーから別なレイヤーに影響を及ぼすまでに巨大化してしまうのだ。
■不幸はつくりやすい?
幸福と不幸についてもちょろっと考えた。
生活していると「うまくいく」「うまくいかない」「幸せである」「幸せではない」「気分が良い」「気分が悪い」などといろいろな場面で感じたり思ったり、いったりしたりされたりするわけだが大まかにいって
「不幸」の方が「幸福」よりもつくりやすい傾向にある、のだろうか。ほとんどのケースで人は幸福を志向し、不幸に悩んでいるように見える。これは法則といってもいいくらい一般的でさえある。
また、調和よりも対立の方がつくりやすいようにも思う。
でも何故だろう?
アソブよりもケンカの方が楽なのだろうか。
しばらく目に手をあてて考えた。
30秒が経過して…。
「わかった!
人は不幸が好きなんだ!」
と唐突に閃いたのだが案外あたっているのではないか。
人の特性として閑には耐えられないようにできていて、幸福というのは案外「閑」な現象なのだ。地と図の理論だ。反対側がないと絵が浮かび上がってこない。
アポトーシスな現象として幸福を捉えなおすとそれが表現行為と類似しているようにみえる。表現というのは基本的に付加することではなく「削る」ことで表現として成立している。
不分節は虚無である。
芳醇や豊かさを生じさせるのは逆説的に地としての無が不可欠だ。
幸福や不幸というのもこれと同じ関係にあって双方は地と図の関係にあるのだ。幸福がそれとして認識されるためには不幸が必要となる。
無によって有は生じる。
そこに「ある」ならばどんなものにでもあてはまる。
音にしても無音があることでその差異が音と認識される、といえるだろうし。
しかし、
「じゃあ、自分が感じた幸福ってどんなんだっけ?」
と考えてみるとこうした話も根本が違っているような気がしてきた。
感覚は地と図という単純な構造によって生じるのではなく、ある関係性が常時そこには存在し振動している。それらは普段は個別に振る舞っているが時折パターンを描く。そこにあらわれる関係性パターンが感覚なのかな、と思ったのだが。
そうだ時間の要素が絡んでくるので地と図というスタティックなイメージだと捉えられないのだ。それ自体も常に変動しており、量子レベルでの確実な再現性がない、ということが理屈ではなく感覚的に入り込んできている。
記憶はスタティックではなくダイナミックな存在だ。
時間の影響をうけ薄れる、あるいは変動、振動している。
それを基盤に今の感覚やら気持ちが形成される。
系は互いに影響しあう。
分離されていない。
不幸があるから比較して幸福がある、というわけではなく、多分、そうした平面な紙のイメージはズレていて。
常時、波打っている空間みたいなのが感情でそれはパターンを描くときもあるし、丸まって振動してる時もある。感情とは超スローモーションで展開している線香花火をプロットして、突然浮かび上がった、文字を記録していったら物語ができた、みたいなものだ。
(そういえば「センソリウム」の「ブリージングアース」という作品もそんなだったっけ。センソリウムといえばあれのプランニングとかプロデュースをしてた竹村先生って竹村健一さんの息子さんだったことを最近知った。余談ついでに敬愛する石井先生を初めて知ったのも日曜の朝にやってた「竹村健一世相を斬る」だった。まさかその先生とアソブ研を通じて個人講義受けたりお話をするようになるとは学生時代も昨年くらいも全然予想できなかった。こういうのをビジュアライズしたらどんなカタチになるのだろう。ストレンジアトラクターのような形状なのかなと思うけれどそれにしたって固定的ではないだろう)
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投稿者 TKM : 13:33 | コメント (2) | トラックバック
2005年01月21日
靴をひろう
ようやく集計の仕事が終わった。
なかなか長い戦いであったが今回は新しいやり方をマスターしたので得るところも大きい。
さて明日は石井先生と六本木ヒルズクラブで会合である。
ドコモモバイル社会研究所の方をご紹介いただくことになっている。
先日、東京海上研究所でのミーティングででた宿題もカネコが良い感じでまとめてくれたのでこちらの評価も楽しみだ。 スカイプ絡みで開発したカネコのデモはスカイプ社でもかなり好評なようで、ニコラス社長にも喜んでもらえたようだ。
このように開発のウケがいい時は素直に嬉しい。
ということは制作者のカネコも嬉しいはず、こうした「楽しい」
の連鎖でスパイラル状に開発が進んでいくと意図せずして様々なことがらがつながりあい、自己組織化されていくようでとても面白い。
さて昨日、自転車で東京駅に向かう途中、家の前の小学校の前を通ると道ばたにシューズが落ちていた。
「はて?」
と思いつつ近くまでいってみると格子戸状のフェンスの下から手が伸びてきた。 小学生が蹴飛ばしたシューズがフェンスを越えて外に飛び出してしまったらしい。3年生くらいの少年が必至に手をのばしている。
しかし、シューズまでは30cmくらい足りない。届かずに手をひっこめては「グゥー」っと手を伸ばしてという動作を続けている。
「おい、大丈夫だよ。取ってやるよ、ホラ」
とシューズを拾って柵の向こうに立つ少年に手渡すと集まっていた5人くらいの少年達から歓声がわき上がった。
「どうもありがとうございます!」
と少年の元気な声が続いた。
素直さがにじみでているような声であった。
言葉とはこういうふうに使われるべきものだ、と思った。
投稿者 TKM : 02:35 | コメント (1) | トラックバック
2005年01月13日
東京復帰
土曜日から福島にいっていた。
昨夜、東京に戻るとあまりもの温度差に驚いた。
暖かいのではなく暑い。
暖房が過剰なのだろうか。
ともかく施設という施設が過度に熱されているように感じた。
映画「もののけ姫」の中で主人公の少女がシシガミの住む池にある小島に負傷したアシタカ(もうひとりの主人公)を連れて行った後、アシタカを抱えた自分の腕のにおいをかいで「人間くさい」と呟くシーンがある。
昨日、上野駅の中央出口を出て大江戸線に向かう地下道にはいったときそのセリフを思い出した。
地下道には暖房と人の人いきれが混じった独特のにおいが満ちていた。
それがいいとか悪いではなくて人間というのは臭いを持っているのだという事を実感したのであった。
++++++
昨夜、夢を観た。
少女がスピーチをしていた。
日本人の少女である。
歳は10代。
彼女は自分が生きている時代や世界について自分がどう感じているかを自分の言葉で話していた。過度な技や情熱的なもの言いではない。自然な言葉であった。話が終わると彼女は自己紹介をはじめた。
綺麗な英語であった。
「私の名前はキョウコです。アメリカ人です。え?日本人にしかみえない?そうですか?でも日本語の細かい言葉を知ってますよ。こんな言葉ってありますよね」
と古語をスラスラと話した。話をきいていて僕はこれからはくだらない議論は失せていきこういうことになっていくのだろうなと思った。彼女の英語は美しかった。日本語も素晴らしかった。彼女はアメリカ人だといったがそこには大した意味がないようにきこえた。彼女自身、それを意識してはいないだろう。
彼女の演説の後でバスにのって移動した。
男の子二人の兄弟がバスを降りようとしていた。
小学校高学年だろうか。まだあどけない。
彼らの後ろの座席には上級生が座っている。
こちらは30後半の年配の上級生だ。
兄弟にとって先輩の存在は別な世界であり、彼らの生活とは異なるルールがそこにはあった。
弟がその男の世界に取り込まれようとしていた。
兄はそれに気づいたがどうすることもできなかった。
バスはトンネルの中をくぐり抜けていく。
時間が分断され過去と未来が交差していく。
兄は席を立ち、過去に歩き始めた。
時間が揺り戻されていった。
投稿者 TKM : 02:33 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月31日
格闘技の夜
書きたいことは山ほどあって一日に12時間くらい書いていたら最高なのだが今日は我が人生のただ一つの嗜好といってもいい「格闘技」の祭りの日である。
昨年は舞台監督さんからチケットをいただいて埼玉スーパーアリーナでPRIDEを現場で観戦していたのだがK1を録画したため猪木祭りを見逃し、伝説的な「ヒョードルのフックがかすっただけで永田がカメ状態でKO」をアラハマ先生からのレポートされかなり悔しい思いをした。
今日は大阪からオカダが戻ってきているのでオカダハウスで観戦会が催される。
6時スタートということでそろそろでかける時間だ。
実家で観戦の予定であったが雪だったのと仕事が山積みということもありオカダハウス@都内となった。2005年の予定はまだ未定だが。
明けて決まっているところでは
・東京海上の石井理事長とのミーティング
・Skype開発者へのインタビュー
・アソブ研主催の凧揚げ大会
その他、プランは目白押しというわけで来年は世界に広がってるネットワークを稼働させ、仲間のクリエイティブというか「面白い」を感じる力みたいなものを集中させていこうと思うのであった。自分のネットワークをみまわしてみたら面白い人ってたくさんいすぎだ。寝る間が惜しい。
バカになれ、というわけでそろそろオカダハウス行きの準備を開始します。
投稿者 TKM : 16:32 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月27日
雑感
昨日は2004年を締めくくるにふさわしき宴を楽しんだ。
予定表には「餅つき」と記されていたのだがその言葉で収まりきるイベントではなかった。友人、仕事、飲み、思考というよりも現実の多様性に興味がつきない。
国とは関係なく人はハートだなと思った。
タドともひさびさにディープにやってしまった。
ながい一日であった。
投稿者 TKM : 04:34 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月26日
実体験の面白さ
「悪あが記」終了か。
いいコンテンツだったなと素直に思う。
イベント性があるというのは大事だ。
やまけんの食い倒れ日記もイベントみたいなものだし。
実体験というのは人をひきつける。
我々のアソブ研にしても実体験なので面白いというのがある。
おっと、今週の更新が…。
今日のモチつき大会をレポートしますか→カネコ。
投稿者 TKM : 10:07 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月23日
久々に雑記
昼前にやまけんとSkypeでミーティング。
食い倒れ日記、来年は素晴らしい飛躍をみせそうな気配である。
実に楽しみだ。
今朝もよい夢見であった。
丘の上にあるラグビー場にいくにはロッククライミングばりに岩場を登っていかなければならない。仲間はすでに上で練習を開始している。上からベージュの背広の男性が降りてくる。学生時代にバイトしていたPR会社のKタケさんであった。
「あ、わかるわかる。オレもさ、大変だったんだよ、ボールもって登るの」
そういって降りていった。脇の方の岩が登りやすそうだったので移動する。ようやく上まで到達した。みんな練習している。僕も練習を開始した。
ラガーシャツは着ていない。
黒いラバーパンツで走っている。
実際の自分の身体よりも細身だ。
しかし何故上半身裸なのだ?
骨折以降、身体がなまっているのでその裏返しだろうか。
意味不明である。
投稿者 TKM : 14:41 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月18日
失態
鞄を丸ごとロストしました。
電話とその他DSなど全部消えてしまった。
なんとも良い感じにバカヤロウっぷりを発揮。
というわけで電話は現在自宅とスカイプしかつながりません。
とりあえず寝ます。
サイフは無事だったので運はあるみたいだ。
しかし、メルアドを知らない人の電話番号は全部ロストした。
かなりオモシロイ。
人間、アホみたいにカバンの中身にすがっていきてたんだなって思う。
投稿者 TKM : 08:29 | コメント (6) | トラックバック
2004年12月17日
岡村靖幸登場!
なんと今晩のR30にあの岡村靖幸が登場だ!
タイミングと気分があわずライブもコンサートもいってなかったのでかなり楽しみだ。
久しぶりに録画しよう。
そうそうアソブ研で「サイバーフォンK」というスカイプに対応した電話機の実験をやりました。詳細はレポートの方で。
投稿者 TKM : 18:46 | コメント (2) | トラックバック
2004年12月11日
代官山
iwtkに誘われ、茂木さんの会合へ。
著書を読みながら移動。
エアロビクスの先生の指導で40人強が代官山で汗を流す。
その後、指導してくれた先生にお話をうかがう。
毎年なぜかみてしまう番組の一つにエアロビの全国大会がある。
ニカっと笑う男性の絵がインパクトあり、毎回あきさせない。
先生によればTVなどでやっているエアロビは競技用なので違うんですとのことだった。
しかし先生もかなり鍛えている。
全身、締まりきっていて体脂肪率は一桁なんじゃないかと思ってしまう。
細身だけれどもの凄いパワフルだった。
打ち合わせの予定だったがバシ師匠より中止との連絡がはいる。
その後、少し途中下車し、無事帰宅。
渋谷の街を歩いていたら「Vシネマ」っぽいおじさんの集団がいた。
白川元議員に職質するならばあのおじさんたちにするほうが理にかなっていると思うが、それもまたあり得ないから不思議だ。
投稿者 TKM : 13:25 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月08日
MT3.121にアップグレード
しばらく3.0で使っていたのだがさきほど3.121にアップグレード。バージョン2.66時代に比べれば10倍くらい楽になったがPC買っていきなりこれをヤレといわれたらパニックになるだろうな。
ついでにダイナミックPHPも試してみる。
が、サクラインターネットではこの機能が使えないことが判明。
ロリポップでは無事使えた。
確かに下記にあるようにマニュアルも充実であった。
ロリポップならMovableType設置マニュアルも充実。
あなたも月々263円でブログデビューしてみよう!!
しかし、ロリポップといいサクラインターネットといい最近のレンタルサーバの価格破壊には驚かされる。負荷のかかるサービスを運営しているか自前でサーバを構えなければならない絶対的な理由がないかぎりは企業でもこうしたレンタルサーバを使えば格段にコストの削減が可能だろう。
投稿者 TKM : 19:37 | コメント (0) | トラックバック
開戦記念日
昨夜の奇妙な夢についてエントリーを書いた後に気づいた。
日付が変わって今日、12月8日は開戦記念日であった。
◆開戦を伝える臨時ニュースのアナウンス。
http://kitadai.air-nifty.com/fd/19411208.mp3
高校生の頃に「東京裁判」というビデオを観た。
はっきりとは記憶していないがすごい作品であったと思う。
マイケル・ムーアの「華氏911」もすごいと思ったが凄さの方向性が違う。
同じドキュメンタリーでも東京裁判にポップさは皆無である。
歴史のうねり、個人という存在とは異なる時間の流れ。
知識などまったくなかったが映像から滲んでくる質感はダイレクトに響いてきた。
まだ観ていない人がいるならばいちど観ておくことをオススメする。
で、僕がいいたいのは視聴後の感覚である。
翌日になったら消えてしまうかもしれないし、数週間したら日常に覆われてその質感は消えてしまっているかもしれないけれど見終わった直後に感じた何かは確かにあって。それがどんなもので何なのかを言葉にできなくてもいいし、忘れてしまってもいい。ただ、見終わった時のその感じ。それが大事なのだ。
++++++
映像とか書籍とかいろいろなものにいえるのだが数時間という時間をひとつの作品につきあうことでその作品が持つリズム、時間の流れが自分の中に発生する。コンテンツというものについての僕の興味のひとつは時間感覚が伝播してくるその感覚である。
さっきのエントリーとは全然違う見方なのだが90分から2時間くらいだろうか、向こうの世界が入り込んでくるそんなスイッチのようなタイミングがある。これをつくりだすことができる広告はまだない。
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投稿者 TKM : 02:20 | コメント (1) | トラックバック
2004年11月29日
windVibe_mobileなど
windVibe(上記の写真:坂本龍一さんとのインスタレーション作品。電通本社ビル36Fに常設展示)が完成した後、次は屋外ライブ時にwindVibe Mobileを使って環境を取り込んだ音楽を流したりできないないだろうかという話なった。メンバーもモバイル版のwindVibeには前向きだったし、チームのミーティングで幾度か話題にのぼったりもした。
先日、ヤサカさんと食事をしたときもwindVibeの話題がでた。
通常は企画提案し制作費を確保してから製作するという方法をとるのだが、まずつくってみないと説得力のあるプレゼンもできないだろうし、それじゃあオープンソースプロジェクトでやってはどうかという話になった。チームのメンバーはそれぞれ専門が異なる。なのでそれぞれの得意分野で仕事としてではなく「アソビ」としてプロジェクトに参加してもらうというやり方だ。それはそれで面白いなと思った。
と、そんなおり、この記事をみつけた。
◆USB接続のセンサー"何でもあり"セットが登場、サーボモーターも付属
http://pcweb.mycom.co.jp/news/2004/11/26/008.html
いろいろなやり方が考えられるのだろうけれどまずはこのようなセットをつかってプロトタイプをくみ上げてしまうのはどうだろう。アイディアやチャンスというのは面白いものでモノがカタチになってくると向こうからどんどんやってくる傾向がある。
では、まず自分がやるべきことは何か。
いや、やるべきというよりもできることは何か。
プランニングである。
全体のコンセプトと流れ、方向性、具体的な活動方法等々のたたき台をつくっていく。自分にできるのはプランとディレクション、マネジメントであるし、プロジェクトへの貢献が最大化するのはその部分であろう。
そんなわけで今週はアソブ研のプランづくりとwindVibe-mobileのプランをやってみよう。
投稿者 TKM : 04:20 | コメント (3) | トラックバック
2004年11月26日
エンタングルDiary
以下、詳細は明日。
・「いま、会いにゆきます」
脚本がすさまじくよくできている。あれは反則だ。恋愛映画というカテゴリーではない。ミステリーに分類すべき。竹内結子の映画との評があったがなるほど。女性の顔は表情でこうもかわるか。終盤直前までは子供が主役の映画であったが終盤にガツンと一撃をくらった。嫌だと思うシーンがいくつかあたけれどそれらを飲み込んであまりあるミステリーの傑作であった。
・くぼたつさん飲み
著名なプランナーのくぼたつさんと飲み。カネコとSkype体験記のデモなど。好感触。プランナーとして企画を毎日書いていた頃にくぼたつさんの著書を読んだ。その著者と隣り合ってすわっているということが不思議な感じであった。縁とはおもしろい。またしてもエンタングル。しかしエンタングルを説明しようとするとイメージがつたえられない。デジタルマンガ化が必須だ。くぼたつさんの実体験ベースのエピソードがおもしろく話がとまらない。小出監督の話の流れでくぼたつ氏の技が炸裂。内容は「君どうおもう?」的ツッコミワードなのだがタイミングが絶品。正確な言葉を失念。(隣できいていたのにはやくも正確な言葉を忘れている…)。ひきこまれる。話が盛り上がりすぎて皆、終電ギリギリになる。詳細は日が昇ってから追加予定。
・ヤマダと青木
高校時代の戦友二人と体育祭にでる夢をみる。
・ページ
一日に100ページつくるのと、その分のパワーを1ページにつっこむのとではどちらがやっていて面白いのだろう。
・1年と10年
1年や10年と1週間は「1週間>10年」となりうることを実感。
であれば「1日>永遠」もなりたつのであろう。かなりインパクト強し。エンタングルイメージとクオリア芸術vs文脈芸術がかぶる。エンタングル的であることは理屈をとびこえる。
・表参道
店をでるときに店内にいる人々から何かを感じる。かなり重要な情報なのだが言葉におこせない。システム的なものと場的なものが実体としてそこにあったような方程式が生きているようなイメージであった。
・ひとと飲みと
帰りの電車でインスパイヤエンターテイメントのイメージがうかぶ。というか飲むことが形式化してしまっている人類システムに対して疑問など。
・素手の格闘技
番組表をチェックしてみたいと思っていた番組を録画せずにでかけた。かえるとSkypeにメッセージ。(注:Skypeは近々にも留守電機能を実装するらしい)ヤマシンが録画していて、ネットでおくってくれた。エンタングル再来。
・はてしない物語
帰りの電車でミシャエル・エンデ「はてしない物語」を読む。
・セグウェイ
カネコと「セグウェイ入手を近々の目標のひとつにしよう」と合意。4輪タイプのセグウェイについてしばし議論など。オンラインにやまけんを発見したので同時に3人で「おやすみ」とメッセージをおくってみる。おくってから「時間差でおくった方がインパクトあったかもな」と猛省。
・PSP
今週号のNewsWeekでPSPの特集。
・先行研
ロボットの先行者ではない。トヨタの頭脳集団。話はfromくぼたつさん。
エンタングルしたい。というかエンタングルってる可能性大。
・エンタングル社会
拡大志向からの解放。外向きではなく内向きだが限りなく開いた状態。基本姿勢、基本思考は「インスパイヤエンターテイメント」な状態。
アソブ研入会者、続伸のおそれあり。
投稿者 TKM : 04:49 | コメント (1) | トラックバック
2004年11月18日
チロルパンの誘惑
◆ローソンのチロルパン
http://www.lawson.co.jp/company/news/857.html
チロルパンとは。
「やるなローソン」といったところか。
食のコンテンツ化が進んでいる好例であろう。
この形状から想起される郷愁によるものなのだろうか。
5円玉チョコ、美味い棒とならんで小学生御用達スナックの王道であったチロルチョコ。
派生商品として生まれ変わってものいぶし銀な勇姿は変わらない。
囓りたいという欲望が海馬を通じて大脳に伝わっていく。
ヤマケン流の話術を用いるならば「このプレゼンテーションを見よ!」とでもいうべきか。
形のマジックにまんまとしてやられた感じだ。
残念ながら九州地区のみでの発売のようなので福岡以南に在住の人からのレポートが欲しいところである。
投稿者 TKM : 20:50 | コメント (0) | トラックバック
ブログを読んで笑う
もっとも気に入っているブログサイトの一つである「切込隊長BLOG」を読んでいたらあまりにヒットしてしまい部屋でひとり声を出して笑ってしまった。
笑いのトリガーになった箇所は次の二つ。もちろんこれらの部位の前後のテキストやエントリー全体があってこの箇所がいきてくるのだが。ポイントとしては下記の部分が直接の引き金であった。
気遣いは私の本分ではあるが、勇気を振り絞って長い顔の男に問うた。「お前、うんこしたあと手を洗わないのか」
その反応は意外なものであった。尻を拭いたとき、うんこが紙につかないキレの良い状態である場合はその手に汚れが付着することなど考えられない、したがって資源の節約を考えると手を洗うべきではない、と主張したのである。この野郎、無断で長い顔をしておきながら味な回答をしやがる。単にズボラなだけだろうが。そのとき私はそう思った
先日読んだ深夜特急(沢木耕太郎が長距離バスに乗ったときにトイレにいきたくなり、ウーウーと内面でうなっている描写)もそうだが語られる内容は普段の生活でわれわれが経験していることなのにそれがキレのある言葉で語られるとそこにギャップを感じて、それが何故か面白いのだ。
長い顔の男が、低い声で言った。「そうか。実は手洗いというのは、小便であれうんこであれ、行為前と行為後に等しく行わなければならないのだ」これは私たちにとってコペルニクス的転換だった。
このコペルニクスという単語がまたイイ。この単語で議論・問題がいっきに武道館のステージにあがった感じになり、印象が転じる。
ここに面白さの本質というかリズムを感じてしまう。
笑いについてあまり考えたことがなかったが笑いにも形があるのだろうな。
調査予定にいれておこう。
投稿者 TKM : 16:45 | コメント (0) | トラックバック
リサーチ代行サービス開始
たまっていたメールにひたすら返事をだす。
20通程度なのだがまとめてやると結構たいへんだ。
ライブドア堀江氏は一日に5000通というからこの100倍くらいの処理スピードでメールをさばいているのだろうな。
夜になって少しホッとしているがかなり疲労困憊。
精神的にも肉体的にも疲弊しているようだ。
絵をかいていなかったのでペンをもってホワイトボードに描いてみるがマーカーのインクがきれかかっていて思うように描けない。心がまっすぐでないのかいまいちいいラインで絵がかけない。身体もそうだが心の方に根本的なオーバーホールが必要だと実感。
夜半、母から電話。
何事かと焦ったが不安はあっさり解消した。
なんのことはないPCのトラブルであった。
プリンタまわりのトラブルが発生していた模様で様子をヒヤリングしてから対処法を伝え解決。明後日からいくという登山の行程について必要情報をネットで調べて欲しいとリクエストされる。まかせておけ、とばかりにササーっと調べて該当情報を発見。明日、父にメールで送ることにして今晩の家族ミーティングは終了であった。
実家もADSLにかわってルーターもはいって複数台PCが常時接続になっている。さっそくSkypeをいれてもらおうかと思ったがあいにく、向こうのマシンはWindowsMeとWin98なのでSkypeが使えない。
実家にも新たにPCを設置しなければな、と思った。
ところで母と話していて思ったが「○○に関する情報をネットで調べて欲しい」というリクエストを受け代行して調査するというサービスは年配の人にはありだな、と思った。年配の人だけでなく、僕らも不得手な分野かつ調査している時間がなく、プライベートではなく仕事で必要なときなど「国内外のこれこれな情報」というオーダーであるレベル以上のクオリティでレポートしてくれるサービスがあったら使うかもしれない。その場合の適正価格とはいくらくらいなのだろう。
「商品力=調査を担当する個人への信頼性」ということにもなるかと思うがプライベートリサーチというのは面白い商品になるかもしれない。
リサーチしてみないとなんともいえないがアソブ研究所のメニューに追加しておこう。
投稿者 TKM : 02:37 | コメント (4) | トラックバック
2004年11月17日
ブログの使い方
メモ帳がわりにブログに書き込んでいかないと以前みたサイトなどどんどん忘れていく。
・ブラウザでアソブファミコンソフト
http://lovefami.exblog.jp/
・ゲームボーイで演奏する人たち
http://www.gameboyzz.com/
投稿者 TKM : 11:58 | コメント (0) | トラックバック
2004年11月06日
雑記
しんのすけに新一万円札をみせてもらう。
シールが貼ってあるみたいで少し違和感がある。
会合があったのだがドタキャンしてしまう。
いろんなことにもの凄く疲労していたようだ。
投稿者 TKM : 01:42 | コメント (3) | トラックバック
2004年11月03日
スキームの何故
嫌いな言葉。
「スキーム」という言葉。
僕は「スキーム」という言葉が嫌いだ。
この言葉をきくとTV番組の告白劇をみたときのようにきいているこちらが恥ずかしくなる。
なので僕はこの言葉を使うことはない。
が、ビジネスに酔ってる感じのビジネス系の人たちと話しているとこの言葉がポンポンとびだす。
「スキーム:scheme」は計画とかプラン、図式のことでビジネスだと事業計画とかそういう意味なのだけれどだったら「とこういうプランなわけだけれど」とか「こういう流れになってる」「こういう仕組みで、計画で」とか言えばいいと思うのだが。
わからんけれどこれって大学の頃によくみかけた日常生活でやたらと英語で会話したがる人たちに似てる。
日本での日常生活シーンで必要性がないのにやたらと英語を使いたがるタイプの人がいた。そういう人の多くは高校以降で留学した人が多かった。一方、小学校低学年とか生まれた頃から海外にいてどちらかというと英語ネイティブな人たちと話していると日本語で会話している限り日常会話ではほとんど英語を使わない。
そういえば芸能人も仕事時は化粧してるけれど生活シーンでは化粧してないな。
必要性のないこと、自然じゃないこと、はなんであれなんかしらの違和感が生じる、というか僕はそのように感じてしまうのである。
投稿者 TKM : 14:06 | コメント (2) | トラックバック
2004年10月29日
午後から福島へ
従兄弟の結婚式に出席するため午後から福島に戻る。
都内も夜になるとだいぶ寒くなってきたのでこちらの感覚だと福島は冬装備でいかないときついかもしれない。
この部屋は日当たりがよいので12月でも昼間は半袖で大丈夫なのがうれしい。今朝も4時過ぎに起き出してガタゴトといろいろやっている。朝方にサエコさんからFAXが届いた。
文面をみると「朝、築地にいきます」と書いてある。
電話すると「これから買い出しなんです。築地はじめてでワクワクしてます」と楽しそうな声が。依頼されている仕事の目処がついたことをお伝えし、来週、ミーティングの約束をして電話を切ると朝の出勤ラッシュがはじまったのか急に街に人が増えはじめた。
パワーを復活させるべく「はいばら」でうな肝丼をやってからスケジュール帳を買いに無印へ。「木の家」は盛況なようで見学者が絶えないようであった。
投稿者 TKM : 12:56 | コメント (0) | トラックバック
2004年10月26日
川の向こうとこちら側
今朝の雑感。
世界にはいろいろな人がいる。
東京のそれまたマイナーな月島・勝ちどきエリアにも。
人間のかなり根元的なことに関係してくるのでこれ以上は書けない。。
これは関連しているけれど別な話。
サービスについて考えたこと。
サービスを「場」としての考えるとそこに集まってくる人というのはそのサービスの持つ空気に共鳴している人だと思うのだがその根本、根っこにある「素」はなんなのだろう。
人であろうか、物理的な場であろうか。
これは僕が子供の頃の話である。
車で隣町の相馬市にいくときに国道六号線を通ると山間にはいってすぐのところにレストランがあった。しばらくしてからそのレストランは改装されログハウスになっていた。喫茶系の店だったのがステーキ店になっていた。
ところがそれから数ヶ月するとそのステーキ店も閉まっていた。
両親いわく「あの場所は誰がやっても続かないんだ」とのことだった。
そんなことがあるのだろうか。
子供ながらに不思議であった。
場所的にはかなりいいポジションだったし、それぞれの店もみた感じは小ぎれいで悪くなかったように思う。
そこはどんな商売をやってもうまくいかない「場」だったのだろうか。
確かにその場所では次々に店が閉開店を続けていた。
変わった人、恐い人(この場合の恐いは暴力的という意味ではない)がきやすい「場」というのはあるのだろうか。たまに週末のWINZにいくと雰囲気に圧倒される。空間に渦巻く思考や思惑がムワっと押し寄せてくる。
新橋、銀座、東京はそれぞれ1kmも離れていない。しかし、銀座エリアと新橋エリアの境界。銀座エリアと東京エリアの境界は明確で共に首都高を挟んで雰囲気がガラリと変わる。こちらに住みはじめた頃から、あれが不思議でならなかった。何故あれほど明確に雰囲気が変わるのだろう。
新橋の一角に漂う空気は他よりも濃度が濃く感じられる。その空間だけ地場が歪んでいるような印象をうける。具体的にどのあたりということも言える。そこには何かがあるのだろうか。
月島と勝ちどきも運河を挟んで向こうとこちらなのだがここにもハッキリとした空気の違いがある。何がそれを感じさせているのかを「コレである」と明示することはできないのだが数メートルを境に確かに違いを感じる。
隅田川をはさんで同じようにテラスが整備されている。
月島側にホームレスの姿はない。
しかし対岸の築地側には多くのホームレスがテントを張って暮らしている。
空気の差を特にはっきりと感じるのはリバーシティ側からみて佃大橋の右側のテラスである。聖路加側でも佃大橋を境に空気が変わる。
++++++
午後から六本木ヒルズのイベントに参加の予定である。
しかし外は本降りの雨だ。
投稿者 TKM : 09:46 | コメント (0) | トラックバック
2004年10月24日
日曜日、隣の小学校では幼稚園の運動会
晴れでよかった。
校庭には低めにつるされたロープに各国の国旗がはためいている。
子供達が走っている頃だろう。
今日はこれから直子さんの所で打ち合わせだ。
昼過ぎには終わる予定。
帰りがけ新宿で麺通団によろう。
今朝も徹夜であった。
急がねば。
投稿者 TKM : 10:12 | コメント (0) | トラックバック
2004年10月23日
ひさしぶりにSQSのサイトにアクセスしてみた
久しぶりに久保君のプロジェクトをのぞいてみる。
今年も六本木ヒルズで発表があるとのことである。
早速、彼がつくっているアプリケーションを立ち上げて使用感を試す。
いつのまにかしっかりとしたソフトになっていたので驚いた。
こうやって形にするのは大変であっただろう。
地道に改良を重ねちょっとづつできあがっていくのだから。
ソフトの方向性はわかった。
プログラミングときいて「ウ、めんどくさそう」と思わない人であるならば簡単に使いこなすことができるだろう。
自分のような一般ユーザは心理的にハードルが高いと感じてしまう。
プログラミングの必要はないのだが雰囲気がプログラムっぽいのがその理由だ。
が、調整すればこなれていくだろうから大した問題ではないだろう。
もっとシンプルなバージョンがあったらよいなと思った。
しかし、ここから先はディレクターの「好み」や「個性」の問題だし、プロジェクトチームで議論されつくしているはずだ。外野がとやかくいうべきではない。
僕はソフトやサイト、サービスに接するとき、
自分がゼロの視点で接した時にどう感じるか、
なるべく考えずにフィーリングでとらえていくようにしている。
それが自分のポジションを微妙にしているともいえるのだがサービスを考えるうえでは必要なことだと思っている。
投稿者 TKM : 04:02 | コメント (4) | トラックバック
2004年10月21日
電車男と野球と台風
台風の夜。
夕方、「電車男」を探しに有楽町にでていた。
タケから電話があって月島で食事することになった。
「電車男」を入手し、書店をでて駅に向かう。
まだ雨は強くない。
月島に着いてから電話で店の相談をする。
久しぶりに「猪八戒」に行くことにした。
「猪八戒」は勝ちどきにあった「香風」(シャンフォン)の姉妹店である。
「香風」の店長が帰り際にかならず「シェーシェー」と挨拶をするので僕は「シェーシェー」という渾名で呼んでいた。
その店長が月島西仲商店街に開いた店が「猪八戒」である。
台風のためであろう店には僕たちの他にカップルが一組だけである。
西仲の他の店は早々に店じまいをしている。
メニューをめくると美味しそうな牡蠣料理の写真。
「これだ!」と思ってカキを注文するが品切れであった。
主曰く、台湾料理に最適の牡蠣がはいってきているので是非またとのことである。
角肉と青菜のせ飯と蟹と卵をあえて炒めた一品などを注文する。
相変わらずよい塩加減だ。
食べながらタケの専門分野であるスポーツビジネスについていろいろと話を聞いた。
先週、「イチロー革命―日本人メジャー・リーガーとベースボール新時代」を読むまではスポーツビジネス、特に野球について考えることなどなかったのだが読み進めるうちに日本のプロ野球やプロスポーツの多くは閉塞した状態にあるのだとわかった。
日本のプロスポーツの場合、企業がPR・広報手段としてチームを保有しているケースが多い。ライブドアがプロ野球への参入を発表した際に問題提起したのはこの部分である。チームが赤字で運営されていても赤字分は母体企業の広告費として扱われ補填される。広告費だと思えば安いモノ、というとらえ方だ。
しかしこうした構造だと広告媒体としての価値の有無によって競技の是非が判断されてしまう。人気があってたくさんの人の目に触れる機会があるスポーツはいいけれどそうでないスポーツの場合は「広告価値がない」→「広告を止めよう」→「広告(チーム)は廃止」と縮小へと向かってしまう。
プロ野球の場合も巨人戦を組むことで観客動員数が少ないパ・リーグへテコ入れし広告価値を高める、というのがセ・パ統合のねらいだったのだがライブドアの参入表明を機に「プロ野球=広告媒体」という構造はおかしいのでは?、という議論がなされるようなってきた。
数ヶ月前のライブドア堀江氏の記者会見以降、一連の買収騒動はライブドアによる売名行為である、という論調であったが「イチロー革命」を読んだいまは違った印象を受ける。勿論、PR・プロモーション的なねらいも重々あったと思う。
しかし問題の本質はプロ野球という競技がそれ自体で採算がとれるような構造になっていないということでJリーグのように各チームがそれぞれ自分たちでビジネスをおこない運営していけるような構造へと変わっていなければならないのだろう。
相次いで参入表明をしてきたネット系企業は次代のメディアとも言える。
昭和34年の天覧試合で野球がTVで日本全国に生放送されてから今年で45年。
天覧試合はTVの時代のはじまりであった。
おそらくあと数年で地上波はネットに置き換わる。
コネクティドTVになった時、そこでTV局の役割を果たすのはYahoo!などのポータルサイトになるであろる。ソフトバンクの持つBB網も強力なインフラとしてYahoo!のサービスと統合され浸透していくはずだ。
TVからネットへとメディアの中心が移行していくのと符合するようにネット系企業群がメジャースポーツの代表であるプロ野球参入へと向かうのは自然な流れなのかもしれない。
いちユーザとしてはより面白く、より高いレベルへと各プロスポーツが発展していくことを強く望むばかりであるが。
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投稿者 TKM : 10:01 | コメント (6) | トラックバック
2004年10月19日
激しく頭痛
凄まじく頭痛だ。
ストレスも相当にひどい。
しかしこれはゲームみたいなもの。
ストレスというのは自分を知る上で役に立つ。
弱さのポイントを起点に流れのどのポジションにいるのかを計測できる。
探検みたいなものでこれもなかなか面白い。
投稿者 TKM : 01:52 | コメント (2) | トラックバック
2004年10月14日
魔裟斗と山本“KID”徳郁
帰宅後、山本“KID”徳郁の試合を観る。
やってくれる。
。
ニュータイプである。
試合がどうこうとかそんなこととは関係なしに場の空気を変えてしまうその手腕、いや、パフォーマンスには拍手を送りたい。
言葉はいらないとはこのことだろう。品やコンテクストなどふっとんでしまう魅力がある。
が、最も印象的だったのは魔裟斗の笑みである。
惚れたね。
こういう笑みができる男でいたいなと思った。
俳優にもいい男はいるけれど方向性が違う。
山本から年末のダイナマイトでの挑戦をうけてニヤリとしながらも目はスワっと格闘家の目にかわり
「いいですよ。ルールさえあえば。K1ルールでは負けませんから」
といったあの姿は惚れるに値する。
いい男ってのはあああって欲しい。
比較はなりたたないが言論とか評論なんてこれほどどうでもよい世界はないなと思った。ひとりでもいい、負けても、死んでもいいからリングにあがってもいいよ、と思う人間がどのくらいいるのだろう。
特に言葉に関わる人々で。
言葉遊びに意味はない。
またその人々にも興味はない。
それだけ書いておきたい。
++++++
自分はいい友人に恵まれたなと思う。
投稿者 TKM : 02:45 | コメント (4) | トラックバック
カルビ館
ICCでのイベントの後、ヤサカさん、タドと話す。
会場ではパヤがいろいろと展示について説明してくれた。
久しぶりに江渡くんにもあう。
イベント自体はこなれた感じだった。
久々に参宮橋のカルビ館に顔をだす。
おばちゃんがとても嬉しそうな顔であった。
以前は週に一度くらいのペースでいっていたのだが数ヶ月ぶりだろう。
カキキムチとプルコギのサンチュ&味噌・ニンニク包みが最高であった。
何を話すでもないのだがこの時間が楽しい。
タドの話が実感がこもっていてかなり説得力があり、あれは世の人々も聴くべき話だと思った。
どうでもいいことにうんたらかんたらいってる閑あったらタドの話をきくべし。
投稿者 TKM : 01:11 | コメント (2) | トラックバック
2004年10月11日
ニュ−メディアの美学 / ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学@三田
明日は久しぶりに慶應大学@三田へ。
フランス大使館主催のシンポジウムがおこなわれる。
山食のカレーも久しぶりだ。
2004年10月12日(火) 慶應義塾大学 三田キャンパス 東館6F G-SECラボ
ニュ−メディアの美学 / ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学 13:30 - 18:00 (同時通訳付)
ニュ−メディアの美学 (13:30 - 15:30)
パネリスト: ニコラ・ブリオ(パレ・ド・ト−キョ−現代創造センタ−館長)
アンヌ=マリ−・デュゲ(パリ第1大学教授、芸術・哲学)
ジャン=ピエ−ル・バルプ(パリ第8大学教授、デジタル文学)
ドゥ・ジェンジュン(ア−ティスト)
石田英敬(東京大学教授、哲学)
前田富士男(慶應義塾大学教授、アートセンター長)ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学 (16:00 - 18:00)
パネリスト: ダニエル・アンドレ−ル(パリ高等師範学校教授、認知科学)
コルコズ(ア−ティスト)
茂木健一郎(ソニ−コンピュ−タサイエンス研究所、認知科学)
廣瀬通孝(東京大学教授、バ−チャル・リアリティ)
渡辺茂(慶應義塾大学教授、心理学)
岡田光弘(慶應義塾大学教授、哲学)
大森貴秀(慶応義塾大学助手、心理学)
投稿者 TKM : 14:44 | コメント (0) | トラックバック
2004年10月05日
「暴走する世界・アンソニー ギデンズ」 ~箱根とヘミングウェイ~

日曜からの雨はまだ降り続いている。
週末は箱根で過ごした。
平和な時間が流れていった。
夜、長い時間みんなで話をした。
それから温泉に入ってから布団にはいった。
明かりを消して眠ろうとすると金子が蚊の羽音を聞きつけ「退治する」と宣言しておきあがった。
四人で探したが蚊は見つからなかった。
朝早くに目覚めた。
外は雨だった。
左手の小指のつけねあたりを刺されたようで少しかゆかった。
もう一度眠った。
サヤカちゃん(2歳)がバタバタと走り回る音がとても遠くのほうで聞こえた。
耳栓をしてねたのですぐ隣の音が遠くに聞こえたようだ。
ふすまをあけると先生夫婦とリカさんがテーブルで談笑していた。
日曜の遅い朝。
みんなで食べる朝食は合宿のようでおいしかった。
合宿のようでではなく合宿なのだからあたりまえか。
一生合宿してたっていいと思う。
軍というものには憧れないけれどああした合宿生活は好きだ。
きっと自分がひとりで仕事をしているからそう感じるのだろう。
夫婦というものには憧れない。
家庭にも憧れない。
共同体の定義と仮想としてのイメージはすでに過去の伝統なのであろうと僕は思う。
数十年後の家庭はいまの家庭とは異なるだろう。
昨晩、アンソニー・ギデンズの「暴走する世界」を読んだ。
数ページ読んで面白い論考だと思ったので数ヶ月前に読み始めた。
100ページ程度の短い論考なのだが2章まで読んで途中にしてあった。
数ヶ月ぶりに残りの3章を昨晩、読んだ。
最終章で書かれていた民主主義についての論考が面白かった。
ただ情念の民主主義の具体的な形は提示されない。
「国家と市場、官と民といった二項対立的な社会観を払拭すべきである」
という言葉が印象的であった。
金子レナさんのレストランで相磯先生が「スタンダード」について話されていた。
なるほどSONYはすぐに独自フォーマットをつくりたがる。
野知さんの言葉じゃないけれど「世界のSONY」だったのが「世界はSONY」に変わってしまった印象を受ける。
eBookの画像派とデータ派の分裂はその一例であろう。
スタンダードの押しつけは迷惑でしかない。
だから反発を招く場合が多い。
例えばPS2や来るべきPS3を核としたネットワーク戦略をみていると自分がコマにされているようで気分が悪い。
PSPにしてもブルーレイディスクという独自のフォーマットやあたりまえのように提示される「動画版ウォークマン」な利用イメージには魅力を感じない。
追い立てられているようでなんだか疲れてしまう。
日本のITベンチャーが「テクノレバレッジ的」であることはどのような意味を持つのだろうかと少し考えた。
++++++
夜、ヘミングウェイの「日はまたのぼる」を半分くらいまで読んだ。
実は文学に疎い。
ヘミングウェイも「老人と海」と「キリマンジャロの雪」以外の作品は読んだことがなかった。
読み進めてすぐに思ったが日本語で読むと面白さが異なるようだ。
英語と日本語ではストーリーは同じでも印象は違う。
「グレートギャツビー」を読んだときもそう思った。
翻訳の問題はこれから更に重要度を増す。
翻訳論という意味ではなく、別なフェノタイプとして翻訳問題が顕在化するだろうという気がするのだ。情味の面だけでなく関連的な問題として。
意味とは関係によってあらわされる不可視な存在だと思うから。
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投稿者 TKM : 04:57 | コメント (1) | トラックバック
2004年09月07日
食い倒れDVDと徹夜でフライト
今朝は徹夜のままフライトである。
朝一番でやまけんと羽田で待ち合わせ。
昨日、準備でバタバタしていたが仕事もバタバタ立て込んでおり自己管理能力のゆるさを自覚する。
問題の一因はモバイル環境が無いことなのだろうな。
仕事柄モバイル環境が必須であることをあらためて実感した。
現地ではやまけんからシグマリオンを借りる予定なのでテキストワークやメールの処理は問題ない。一安心である。
メールに関しては読むだけならばケータイでOKなのだが返信の際にはどうしてもキーボードがないときつい。ブログの方もテキストならばアップできるだろう。PCが一台あれば家にいようと島にいようと大差ないのだから不思議なものである。
タドにDVカメラを借りたので今回は初の「食い倒れDVD」の撮影になる。
戻ってきたらGCFカネコに手伝ってもらって製作となる。
DVの編集は久しぶりだ。
超がつくほど特定されたユーザに向けてつくられるタイトルになるが面白い試みであることは間違いない。楽しみである。
あとは最近の読書・映画録。
村上春樹「アフターダーク」読了。
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ナレーションがラース・フォン・トリアーの「ヨーロッパ」を思わせる。その成果、ナラティブが変わるごとに映画のシーンがよぎる。久しぶりに「エレメント・オブ・クライム」を観たいと思った。
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「ハリーポッター 不死鳥の騎士団 上・下」読了。
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ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 ハリー・ポッターシリーズ第五巻 J. K. ローリング, J. K. Rowling, 松岡 佑子 発売日 2004/09/01 売り上げランキング 2 Amazonで詳しく見る ![]() |
ファンタジーの王道をいく構成。しかし…。長い。長すぎる。そしてハリーが「かわいくない」。この巻のハリーは自分とそっくりだ。自分の嫌なところを指摘されているようで耳が痛い。いや目が痛いというべきか。
とはいえキャラの設定。王道をいく憎まれキャラの描写など物語に引き込む構成力は素晴らしい。外伝でハリーのお父さんの物語ができたら、彼のストーリーは結構ハードボイルドでいいだろうな、と思った。
「誰も知らない」を観る@銀座シネカノン。
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誰も知らない(予約販売) おすすめ平均 ![]() 一部ネタバレのレビューです 救いは多分ある 見る前から結末は分かっていたのにAmazonで詳しく見る ![]() |
主演の少年がなぜああも絶賛されたのかようやく理解した。この映画は虚構の時間に現実の世界の時の流れを取り込んでいる。彼が魅力的なのは映画という限られた時間内で精神的に、生物的に、彼が成長していくからだ。撮影に一年という時を投じ、作品ではその実時間を圧縮しているのだから当たり前といえば当たり前なのだが。それでも見まごうばかりの変化。子供が少年あるいは青年へと変貌を遂げていく様は頭ではなく胸の奥で理解しているような、そう映像を自分の内部で生命力と時間に解体し再構成しているようだった。観ている自分が何歳なのかを全く忘れた。
家においていかれた時のあの気持ちは経験のないものにはわからないだろう。
前述のハリーと似ているが僕には少なからずそうした記憶があるのだろう。それは恐怖なのかもしれないな。と思うが克服すべき感傷でもある。(追伸:前にも話したが僕は映画をみながらその不条理(実在主義の用語の方ではなく)ともいうべきがんじがらめなキプールのような泥沼にずっと「信号」をみていた。この信号は今後数年で巨大化・複雑化し、不可視のうちに人を絡め取っていく。我々がみつけなければならないのは信号の攻略法なのだ)
「ヴァン・ヘルシング」を観る。
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脚本の参考にと思ってみた。思った以上にバランスとテンポが悪いがCGは強烈であった。強引すぎるみせかただ。正直いって見終わっても何も残らない。しかし…。じゃあつくってみろと言われたらあの脚本だってそう簡単には書けないだろう。よく映像化したものだ。惜しまれるのは会話とモンスターの心理描写がチープ過ぎる点である。ヘルシング自身もアニメ版とくらべるとコミカルに描かれすぎだ。もっとダークに「スリーピー・ホロウ」系の抜け方をすれば案外名作になったかもしれないのに。
う…待ち合わせの時間までもう2時間ちょっとだ。
で駅探で調べたら「6時15分 勝ちどき 発」であった。あと2時間もない…。
昨日、野知さんから「マチとものがたり」の相談を受けた。
宮島さんに相談してみることにした。
僕とGCFカネコでやっている「デジタルコンテンツ」とは全く違う方向の「コンテンツ」だがこうしたサステイナブルなコンテンツクリエーションも別な面白さがあるのだと思う。
昨夜も少し話をしたのだが僕の興味は基本的には「異化」を基本とする「創造の源」や人間の感覚・能力のドライブ感にある。そこには様々な問題を解くヒントの結晶がある。
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さてここで曲はアンダーワールドの「Dinosaur Adventure 3D」に変わった。しかし、この状態で毎週大学で授業をやってるとはヤサカ御大、流石である。14日の未来館メンテナンスが楽しみだ。今度こそ我々のポートフォリオにくわえておかねば。と、丁度、作品の作曲者でもある坂本さんの「1919」に曲が変わった。
投稿者 TKM : 04:29 | コメント (3) | トラックバック
2004年09月05日
ムツゴロウの記憶
愛用している無印の無地のノートが切れたので買いにいこうとするが橋を渡ったところでDVDを返却しなければならなかったのを思い出して月島に戻る。
来た道をもどるのは芸がないので聖路加の前を通って帰る。
すると聖路加の前で防災訓練が行われていた。
巨大な緑色の塗装は自衛隊のトラックである。
小学生の頃、コロコロコミックに連載されていたムツゴロウさんの自伝を楽しみにしていた。覚えているのは3つのエピソード。一つはお父さんと鳩を撃ちにいって山ほどの獲物を収穫する話。当時ムツゴロウさんは満州にいた。お父さんは軍医だった。最初ムツゴロウさんは鳩撃ちなんてカッコよくない、もっと派手な狩りがしたいそう思った。でも初心者には鳩が最適なんだ、というアドバイスに従って猟にでることにする。
鳩猟は散弾を使って真下から樹を撃つ。鳩は枝にとまっているので撃ち逃すことがない。しかも一発でたくさんをしとめられる。大量の獲物を手に意気揚々として二人は帰宅する。食卓にはこれでもかというくらいにつくられた鳥料理が並び、ムツゴロウさんは猟の悦びを知るのだった。
あとはお父さんと二人でどこかに出かけて寒くて遭難しそうになったときに「ムツゴロウこれを食べろ」とお父さんは道ばたにあったホオズキをムツゴロウさんに手渡す。囓ってみるとシャーベット状になったホオズキは寒さを忘れさせてくれるおいしさだったそうだ。これをみてホオズキというのはどれほど美味しい果物なのだろうと思って家の周りを探してみた。みつけて囓ってみたらとても食べられたものではなかった。
そして本題。
自衛隊のトラックをみて思い出したのはこんな逸話だった。当時から軍用のトラックはかなりパワフルにできているらしく。ムツゴロウさんのマンガには「30cmくらいまでの水深は走ることができるんだ」のようなセリフがでてくるシーンがあって。トラックは巨大な水たまりに突っ込んでいく。それをみてこっちは「なんてスゴイ車があるんだ!」とえらく憧れた。男の子の特性なのかもしれないが水陸両用車のようなどうでもいい機能がついている車に萌える傾向がある。
さきほど聖路加の前でみた自衛隊のトラックをみていたらそんなことを思い出した。
あのトラックならば確かに30cmくらいの水深ならば楽に超えられそうだった。車幅も通常の車の1.5倍はあった。それとナンバープレートが数字数桁の一列になっていて緑色の車体とその記号からは日本ではないものが感じられた。
月島に帰ってきて買い物をしてから出直そうかと思ったら雨が降り出した。
バイチャンス理論にしたがって図書館に本を返して買い物をしてから家にもどった。図書館はあいかわらず養老院のようだったが最近は調べ物で子供の本のコーナーにいることが多い。こちらは向こうの世界とは別世界でセコセコな世界とは無縁であった。ふと本棚をみると「はだしのゲン」が全巻そろっていた。
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投稿者 TKM : 14:06 | コメント (3) | トラックバック
2004年09月04日
土曜日の雨
夕刻。
出かけようとすると突然、雷鳴がとどろいた。
ベランダに出て空を見上げると街の上空を稲妻が駆けめぐっているのが見えた。自然は壮大であり巨大であり僕たちの社会とは違ったルールにそって動いている。そんなことを考えた。自転車を外におきっぱなしだったのでしたまで駐輪場に移動させるため降りていった。
するとそこには…。
時間というか世界というかこの世界にポッカリあいた不思議があった。
こんなこともあるのだ。
自分でも笑ってしまった。
長いこと留守にしていたあらゆる運が還ってきた。
それからしばらく雨を眺めていた。
いっこうにやむけはいがない。
ドシャ降りの雨。
向かいのビルの軒下で仕事を終えた男性が空をうかがっている。
やがて覚悟を決めたのだろう。
小さな傘を開いて一歩を踏み出した。
稲妻がひかりゴロゴロガシャーンと雷が落ちる。
雨はいよいよ激しさをましてきた。
彼の傘は大丈夫だろうか。
身をかがめるようにして小さな傘にすがりつきながら出て行ったさきほどの男性の背中はいまごろどのくらい濡れただろう。
女性が反対方向から女性が歩いてきた。25歳くらいだろうか。折りたたみの傘は彼女の全身を雨から守るには小さすぎるように見えた。女性はカツカツと靴音を響かせて歩き去った。
駐輪場に行く前に自転車で少しあたりを走ってみた。10mいって戻った。スゴイ雨だ。でもいずれやむだろう。世界は循環しているのだ。
投稿者 TKM : 18:56 | コメント (0) | トラックバック
2004年09月01日
近況メモ
近況。以下、メモ。夜に詳しく。
・体調良好
・睡眠不足
・移動、移動、移動
・使う脳の切換が頻繁
・New iMac発表
・岸崎さんにプレゼントを貰いごちそうになる。ありがとうございました!
・Tシャツ打ち合わせ
・沖縄詳細
・流れの円運動
・モバイル環境必須の理
・プロジェクト用のwiki設置(wikiはよくできたツールである)
・祖師谷へ
・月島のカッコいい家が岡村さんのデザインだと判明!(タケにもああいう家を建てて欲しいデザイナーは紹介するぞ)
投稿者 TKM : 12:02 | コメント (6) | トラックバック
2004年08月31日
外はすごい風の音がする。幸せの秘訣について閃く。
仕事を仕上げた後、渋谷で打ち合わせに出かける。
やる気や感覚が戻ってきたようでグダーっとなることなく深夜までストーリー関係の作業を続ける。
メールがたくさんきていたが外でメールバックができないので帰宅後まとめてメールバック。10通くらい書いた。たった10通でこれなのだから一日に5000通のメールを処理するというライブドア掘江社長はいかなるメールの使い手なのだろう。
チームの二人ともラップトップを持っていないので外での作業はここまで。以後、脚本執筆からはPCが必須になる。
と、ここでずっと忘れていたMovieMagicをダウロードしてみる。
全く使い方がわからないが機能をみるかぎり解読すれば面白そうである。
Winplosionがバージョンアップしたのでアップグレードしてくださいとのメールがあったので早速アップグレードしてみるとさらにexposeに近くなっていた。しかしメモリもくうらしく描画でもたつくのでとりあえず止めた。
さすがにそろそろ眠ろうと思うがものすごい風の音である。
GCFカネコに連載デジタルマンガのオリジナルソフトをもらう。
さっそく遊んでみると第五話。
最終回はクリックによる参加性がリズムをつわえており、フラットになりがちなデジタルマンガに別な面白さをつけくわえていた。(このあたりで脳が眠りを求めてるので寝ます)
昨日は80%くらいまで体力をつかったのでとても気持ちが良い。
身体も意識もこうなっていると不平や不満など抱くわけがない。
「小人閑居して不善を為す」というがまさに言い得て妙である。
自分もご多分に漏れず暇だとろくなことをしていないし、ろくなことも考えないのである。閑にあっては不善を恐れなければならなく、常に自分の能力やパワーを使い切ることができる状態にたもっておくことが幸せの秘訣である。
そうそう。
夜の12時過ぎ、帰宅時に一階の駐車場にしっぽを切り離した灰色っぽいトカゲ(イモリっぽかった)をみつけて50cmくらい飛びのいた。中央区ではじめてみた野生のトカゲであった。
明日は7時に四谷だ。
投稿者 TKM : 03:26 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月30日
魂の円運動
早々に目覚める。
精神が高ぶっているせいで眠りが浅いのである。
今日はこれから仕事の仕上げとGCFKとコンテンツのミーティング。
打ち合わせの詰めである。
人の心を傷つけていいことなんかひとつもない。
忘れないように時々いってみる。
物事は円運動である。
人を傷つければそれは自分に返ってくる。
面倒でも理解を模索しなければならない。
遠回りなように見える。
しかしつけはかならず生じるし、育て創ることなしに得ることはない。
投稿者 TKM : 11:01 | コメント (0) | トラックバック
へつらうよりも100倍面白く
いつだったか忘れたけれどジョン・グレイのインタビューを聴いたことがあってやけに面白いタイトルだなと思った。
似た名前でジョン・グレンという人がいてこちらは史上最高齢の宇宙飛行士である。
一文字違いでこうも違うかというくらいに違う二人である。
ジョン・グレイの本を読んでいたら社会的ジレンマとの類似点を感じた。なるほどそれも人のパターンであり構造なのだろう。
そもそもはじまりが間違いなのだろう。自分の本質とあわないことばかりずっとやってきた。それは違うとはわかっていて渋々やってきたことはやまほどあって、ジレンマでもあり、精神の逆大リーグボール養成ギブスx2だ。
頼まれたり、頼られると断ることができない。
尽くしたいとか何かをしてあげたいという気持ちも押さえがきかないのでバカばかりやる。が、しかし。
それも自分の特性だ。
世界のどこかで誰かの役にはたつ。
問題なし。
ロストした年数は倍年圧縮でトントンになる。
さてこれからは何をしようか。
つぶやいてみると気分は愉しである。
浮かんだ言葉は二つ。
「へつらうよりは100倍面白く」と「夢を追えば迷わない」である。
投稿者 TKM : 05:06 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月23日
高校生と過ごす週末
昨日の恐竜博以降、BlogWriteというツールをつかってエントリーを書いている。土日は太と過ごした。高校生と話をしていて気がついたのだが彼らは普通に素直である。勿論、粗もある。ここがダメというところはいくらでもみつかるし「オイ、お前何やってんだ!!」と一喝したくなる瞬間もある。
親であればそこで声か態度が出てしまうのだろう。しかし自分は保護者ではない。説教や矯正をするためにいるわけではない。友達だから一緒にいるわけだ。だから自分にも学ぶところがたくさんある。詰めの甘さや考えの甘さがあるから逸脱し新しいものをつくる力を発揮することができるわけで老成よりはマシなのだ。
さきほど次の宿泊先である太の親戚夫婦との待ち合わせ場所に送ってきたのだがヤツもよくやる。先方と連絡がとれたのは昨夜の深夜。それまで相手の住所も知らなかったそうだ。相手が月島にいるならもっとはやく言えよな、という心境ではあったがその甘さを否定しようとは思わない。変われといっても本人が変わろうとしない限り人は変わらないし、相手がどうあれ自分がそれに影響される必要もない。
湘南の友人にはリーダー的な役割を担う人が多かったように思う。そのせいか気の利かない人をみるとつい「何でそのくらいの気がまわらないのかな」と思いがちだがそこは二律背反していたりもするわけで気が回りすぎることで逃している何かもある。
無理矢理でも「笑顔」をつくれば気持ちも多少は笑顔になる。という話を二人でずっとしていた。ことの発端は銭湯にいたおじさん、若者が一様にムスっとした表情で彼らは何故風呂にまできてあんなにムスっとしているのだろうか?ということについてサウナで話をした。
どちらが最初かというのが問題なのだろう。面白いことがないからムスっとするのか。笑顔をつくらないから面白いことが起きないのか。これは自分の考えだがまず方向性がありきだと思う。心の笑顔をつくれれば自然と行動にもその気配が満ちていく。店にはいっても注文の時は「●●をお願いします」と自然に笑顔がでるかもしれない。そうすれば相手も笑顔をかえしやすくなる。
相手ではなく自分だと僕は思う。自分がどうするかは自分で選択できるわけで相手がムスっとしていたからこちらもムスっとする、では意味がない。相手がどうあれ自分の心は笑顔でいれたほうがいいはずだし、ムスっとしている人はどこか心が堅くなっているのだと思う。それに合わせる必要はない。とはいえその連鎖が段々と人を閉鎖的にしているような気がする時もある。
それでも自分が変えられるのは自分なわけで自分がそうならないように気をつけるとか、笑顔がでてないなと思ったら形だけでもいいので顔の筋肉を動かしてみる、などやってみれば何かは変わってくる。
小さいことだけれどそれが時間の流れの中で反復増幅されれば少しづつ自分の周囲が変わっていくのだろう。
++++++
本棚に積んであったノートをパラパラとめくって太が叫んだ。
「何だこの絵!絶対Tシャツをつくって欲しい。この絵でTシャツがあったら絶対に買うよ!」
と。なるほどあの絵は面白いのか。下手だなあという思いしかなかったのでよくわからなかったが自分のノートは面白いらしく、太はトイレにまで持ち込んで熟読していた。やはり高校生との対話は面白い。
2004年08月20日
恐竜博
今日はこれから取材を兼ねてGCF金子と恐竜博へ。
土日は高校生の友人が泊まりに来る。
というまたしてももろもろ盛りだくさんの週末である。
そんなおり、今朝は気が張っていたのか目覚ましが鳴る前に目覚める。
昨日のペルー料理のパワーはまだ持続中でお腹はすかない。
夢を覚えていた。
二人の女性がタイの公園で赤い花をめぐるすれ違いをする夢だった。
親友と二人で彼女たちのすれ違いをどうにか邂逅させようと奮闘するのだがなかなかうまくいかない。公園を亀が歩いていく。
「その亀をつかまえるのだ」
と老人に言われて亀を追う。道を間違えて外にでてしまう。川が流れており岸の向こうがわにきてしまった。橋を渡ろうとすると兵士が近道を教えてくれた。果たして二人をあわせることはできるのだろうか。
様々な思いが交錯するなか電話にメールが入った。
「あと30分で南部に移動します。いろいろありがとう。」
といっても二人の距離はそう遠くないはず。間に合うのだろうか。
投稿者 TKM : 09:39 | コメント (1) | トラックバック
2004年08月12日
体重
電話にでると外国人の男性だった。
「鍵をなくしてしまったのですがどうすればいいですか?」
少し話したのだがいい人であった。
以前からちょろちょろとは走っていたが今週に入ってからわりとハードに走り始めた。食にも気をつかうようになった。
月曜から数えて今日で4日目。
ベースラインで2キロくらい落ちている。
悪くない。
今月中にベスト体重までもっていくのが目標。
このペースをキープすればいけそうだ。
ベルトの穴が段々縮まっていきウエストが落ちていく感じは悪くない。
けっこう気持ちいい。
自分の場合、気力はまずは肉体からである。
10年前、2ヶ月かけて泳ぎまくり77キロ→67キロという肉体改造を行った。
体調を含め、外見がかなり別世界になったのが今回はどこまでいけるか。
といっても難しいことをやっているわけではない。
食事前に1時間の走り込み。
就寝前と起床後にストレッチとウェイトorサーキットトレーニング。
食事で脂質と糖質を極力避ける。
これを地味に続けていくとおよそ一月で肉体が別物になってくる。
で、可能であれば週に3回くらいジムで90分のウェイトトレーニングと同3回、一回90分のスウィムを加えると更に効果的である。更にこれをチームでやれるとベスト中のベストひとりよりもチームの方が楽しいし、能率もあがる。
たった一ヶ月やるだけで人生が別物になる。
コツは短期集中で身体に覚え込ませること。
投稿者 TKM : 15:33 | コメント (0) | トラックバック
恋愛力のもつスゴさ
タケのブログに長文のレポートが掲載されていた。
起きてすぐに熟読し、少し考えた。
メールを確認すると気持ちのよいメールが2通きていた。
それから昨夜の自分の仕事についてみなおしてみる。
さらに信号(赤・黄色・青のあれ)と信号理論について考察する。
と、いきなりひらめいた。
人類の最終兵器は「恋愛力」だ。
恋愛とはすごくおもしろい現象だと思うがそれがなんなのか実はあまりわかっていない。
恋愛の感覚と何をしたかとかそれがうまくいくとかいかないとは全く関係がない。
「心が変わると書いて恋と読む」みたいな話をどこかで読んだけれどまさに転じる瞬間というのが確かにあってそれは説明の不可能な感覚である。
脳が別な機能を覚醒させる感じとでもいえばいいだろうか。
それはいきなりわかるのだ。
恐れとか信頼とかゆがみとか人間性とか心とかそういう観念がクルっと転じる。
何があったからそうなるということでもない。
おそらく理由はない。
要素があまりに複合的でコレとかアレに限定することは不可能なのだ。
で、ここが肝心なのだが「常にそうあったらいいじゃないの」というのが僕の意見だ。
悲しい恋なんてものはこの世には存在しない。それは振り返っていってるだけのことで渦中にあってはそんなものはない。(いくつかモードがあるのとは思うけれど)
深いの浅いのとか言ってる場合ではなく常に脳は恋のモードに入っていた方がパフォーマンスがあがる。これは多分間違いない。誤解があるかもしれないので少し解説をしておくと「思い悩む」方のではない。僕が言っているのは転じた瞬間のあの感覚である。
これは愛情と背反するものではなくパラレルに存在する。
ここの認識がズレると人の内部には感覚のドライブをセーブする信号ができあがっていく。
人間の中身、心情というのは常に波うっている。
夜と朝では気持ちは変わる。
睡眠の前と後ろでも意識は違う。
ミラーニューロンの例が示すように脳は夢も仮想も同じように認識している。
リズムと同期のバランスがコミュニケーションには必要だ。
常にどのような人とでもベストのコミュニケーションがとれるわけではない。
コミュニケーションの波長はそのときそのときで変動している。
人間の能力と脳力のパフォーマンスを最大化するにはどうしたらいいか。
呼び名が誤解をまねきそうだが「恋愛力」はその一つの答えだ。
「なんだそれ。あまりにも簡単じゃないか?つーか発見でもなんでもないぞ?」
と思われるかもしれないけれど感覚が開く、あるいは転じる時のあの感覚の持つ力は絶大だ。実際に世界が転じる感覚を誰しも味わったことがあるはずだ。
男の人も女の人も相手が男性であれ女性であれその人と対峙しているその瞬間を恋な感覚で過ごせれば少なくともその時間とその日くらいは一日が幸せを感じる。これは「転じる」という感覚によって引き起こされる現象だと思うし、本来コミュニケーションとはそうあるべきだ。
そんなわけであれが何なのか、あの力とはどこからきて何をしているのか、それを考えることは実は小難しい理論や「心」のありようを分析するだけで具体的な方法がともなわない抽象論の集大成である成功哲学よりはるかに即効性がある。
成功哲学というものは恋愛力と類似しており、それを読んだ時に脳が転じる感覚があってそれを言葉で引き出すにはあの形がベストだったということなのではなかろうか。米国ではひとつの市場として成功哲学という分野(日本でも大きくなってきている)が成立しているけれどかなりの部分「恋愛力」とかぶっており、つきつめていけばそこに「快」があることが最大の理由だ。
また、恋愛力についてはありようや使い方がこれまで間違えられていたのではないだろうか。
「学生のくせに」とか「半人前のくせに」とか「子供のくせに」とかこういうバカげた言説によって本来の「恋愛力」のありようが歪んでしまっていて。実際には逆なのだと思う。「恋にうつつをぬかす」からダメになるのではなく感覚に外部からブレーキがかかることで生じるストレスがダメの基なのだ。
また幸せな人は総じて恋愛力が高い人であるように思う。
といっても「恋多き●●」というのとはちょっと違うのだが。
映画のような毎日とは映画のような出来事が日々おこることではなく、それを感じる力や波長の有無を指しているといえばいいだろうか。風景や世界は心のありようで意味や印象が全く別なものにかわっていくこともある。
++++++
と、いっきにはまとまらない話なので続きは少しづつ考えていこう。
投稿者 TKM : 12:47 | コメント (3) | トラックバック
セミの朝
午前4時50分。
はやくもセミが鳴いている。
このところ朝8時には目覚めていたのだが今朝はまだ寝付けない。
なので久しぶりに眠れない朝である。
何なのだろうと考えるが答えはない。
というのは嘘だ。
わかっているのだが方法が思いつかない。
どうすればいいのかわからない、あるいはどうかしたいのか。
イニシアティブのとれない問題は苦手だ。
10年前から繰り返しているが「安易な奇跡はない」ということだろう。
そう簡単には休ませてもらえないのだ。
自力でやらなければならないことが結構たくさんある。
なんだってやれないことはないのだが時間はかかる。
間際にならないとわからないだろうことなのだろうけれど、やれないことはない。
何十年か、あるいはもっと多くの時間を得ることになるかもしれない。いや時間からフリーになるのだろう。と、考えているのは頭蓋という小さな場所にある1000億のニューロンのつながりなわけだが、それらが関連しあい心情が生まれる。
意識とはシステムである。
要素ではない。
と書いて思った。
OSは言語で書かれている。
そしておそらくは意識も言語で書かれている。
なるほど10年前に師にいわれたことを思い出した。
投稿者 TKM : 05:07 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月11日
犯罪者と手錠 ~創造性のスイッチと地と図の関係~
「妙に気分がのっているな」と感じる時がある。
どんな時にそうなるのか?
ときかれてもはっきりとは言えないのだが何となくそれがそのスイッチがONになる時は予感めいたものがあって、それは肉体からきているような気がする。
こう、身体から躍動してくるものがある。
この意識の躍動スイッチが入ると意識が鮮明になり、物事の間の関係性がみえはじめる。「あれってこういうことではないのかな」とか「これはこうだな」というのが急にパラパラとつながっていくのである。この感覚はとても面白く、僕はこれを「感覚のドライブ感」と呼んでいる。
これら一連の創造性に関するドライブ感を僕は「クリエイティブスイッチ」と呼びたいがそれだとわかりにくいのでもっと簡単にある言葉で呼ぶことにした。
その言葉については別な企画としてたちあげるのでもうしばらく伏せておきたい。
こうした気持ちの躍動が実生活や行動に具体的にどのような影響を与えているかを考えたことがなかったのだけれど自分の身体や心のありようと成果について分析していくと両者の間には強い因果関係があることがわかってきた。
気持ちが滅入っている時は何をみても滅入った感じになるし、身体や気持ちが高揚している時は何をみてもヒントに見える。
銀座のブックファーストの今週のトップセラーをみたら「愛されてお金持ちになる魔法の言葉―あなたが変わる」という本が一位になっていた。
内容は昨日みた「悪い男」とは全く別世界である。
ありがちな幸せのフレームというものをベースにして語られているが内容は簡単にいってしまうと、
「ものごとは気持ち次第。どうせやらなければならないなら自己完結であろうとなんだろうと幸福であった方が世のためにも自分の為にもベター」
とでもなろうか。基本的な考え方は高校生の頃に読んだポップサイコロジーの本とかわらない。けれどある意味これは真理であろうと思う。前述の「妙に気分がのっている」状態が継続するなら環境や状況とは関係なく物事をクリアしていくことが妙に楽しく感じられる。周りが変わるというよりも環境からの影響を受けづらくなるというべきだろう。自分に都合のいいものにだけ目がいくようになる。これってとても大切なことだと思う。
子供が突飛なアイディアを考えついたり、「何だそれ?!」という企画はたいがい規制を外すところから生まれてくる。
この法則はプランニングに関しても全くその通りあてはまる。
プランナーというのはアイディアマンだと思われているがそんなことはない。
他者のプランを練るから規制を外し逸脱しやすくなりアイディアや企画が閃く。
けれど自分のこととなるとなかなかこれが難しい。プランナーとアーティストの決定的な違いはここにある。
プランナーは自分のことをプランすることができない。
逆にアーティストは他者のプランを練ることは苦手だが自分のプランを練ることは得意である。
思考を生業としていてもどの方向性でやったときに能力が最大化するかを考えることは実は大切だったりする。
「人には向き不向きがある」というのはよく言われる。
文章はうまいけれど歌は下手だとか、この分野には向いているけれどこれには向いていないといった話はよくきく。
しかしこうした評価は他者の判断であってそれほど重要ではない。
下手であってもそれをやっている時に感覚がドライブすると感じるならばそのままやり続ければ途中でスイッチがONになる。
上手くできることとスイッチは関係がない。
要はやり方はなんでもよくていかに簡単により強いドライブ感が得られるか。
それがポイントである。
このスイッチが入っている人は何となくわかる。
惑わないし迷わなくなる。
かといっていい人になるということでもないのだがとりあえず変な空気がではじめる。これに周りが引き込み現象で引き込まれていく。なんだそれ?という感じがするかもしれないけれど妙なオーラを出してる人々の近くにいると引き込まれる。
それが時代にあえば周りは幸せになるし、ズレればズレたでやはり騒動や動乱に転じ、激しい流れを生じさせる。
++++++
もう15年くらい前になるけれど受験で東京に向かう電車で護送中の犯罪者二人と刑事二人と隣あわせたことがある。約2時間。彼らと一緒だった。TVでみるように二人の手首には手錠がかけられており、刑事は手錠につけられた紐を握っていたように記憶している。
しかし、僕にとっての衝撃的だったのはその光景ではない。
手錠をかけられた二人の目に宿る暗い光である。
そんなものありえないと言われればそれまでだが僕は明らかに常人とは異なる目の輝きをそこにみた。獣の目といえばいいのだろうか。まわりの人々とは発する雰囲気が違うのである。人間としての生命的な機能は大差ないはずだ。しかし彼らは全く周囲にとけこむことなく異形であった。外見の異形は目にあらわれ、雰囲気の異形は彼らを取り囲む周囲数メートル四方に沈黙を強いていた。
それは強いマイナスの引き込み現象であった。
世界はマイナスとプラスががせめぎあってできている。
どの時点でどちらに転じてもおかしくない。
二者は地と図の関係にある。
創造性について考える場合、まずはここに注目しなければならない。
記号はそれが単独で存在するかぎり無と同意である。
唯一、他との関係性が成立する時、相対的に記号化し、意味が生じる。
分節とは関係性のはじまりなのだ。
投稿者 TKM : 04:03 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月06日
仕事のポイントとできない人の共通点
赤坂で打ち合わせの後、久しぶりにMr.バイチャンス・タケザワと落ち合う。だいぶ遅い時間だったがどうにか到着。
一日を通して電車の乗り継ぎや打ち合わせやらもろもろのタイミングが微妙にあわなかったのだが一日の終わりにいい時間を持てた。終わりよければすべてよしとはこういうことなのだろう。
タケの同僚の方々をみていて「こういう人たちを雇いたい」と思った。なるほど成長している企業には人材が集まる。自律している女性は優秀だ。加えて人を心地よくさせるムードがある。幸せになるべき人々である。なんとなくではあるが共通した雰囲気があり、企業にはDNAがあるのだとも感じた。
++++++
話はかわるが昨日はこんなことを考えていた。
仕事のできない人は人の使い方を知らない。仕事を人に依頼する場合、頼む側と頼まれる側の関係は決して「受注・発注」という主従関係ではない。他者への依頼はサービスの交換である。特に知的労働に関していうと自分ができないことを他の人に「お願い」するのであって立場はイーブン、対等である。
この部分を理解していない人が驚くほど多い。
彼らは多大な損をしているのだがそのことに気づかないのが不思議でならない。
ある仕事を頼む場合、重要なのは相手のモチベーションをあげていくことである。繰り返しになるがここを理解してない人があまりにも多い。彼らはバカではなかろうか。
費用が同じでも自分のモチベーションがあがっている状態であれば10倍も20倍もの力で仕事にのぞむことができる。だからモチベーションをあげるのが上手な人がトップをやっている企業はそのことだけですでに強力なアドバンテージを有していることになる。
同じコストで人の働きが何十倍も違ってくるのだから他社とは比較にならない。
この能力を定量化することは難しいが視覚化できたらな天と地ほどの差がある。
人の気持ちを萎えさせる人がトップをやっている企業は消滅への道を前進している。
そうやって考えてみると伸びる企業は伸びるべくして伸びているのだとも思う。
人の心を読むことからはじまり、市場の成長カーブを読むこと、動きのポイントを読むこと、物事の道理を知れば何をすべきかはおのずと明かなのに駄目な企業はこれらを徹底的に逆に推し進める。やるべきことをやればいいのにやらなくてよいことにだけ興味を持つ。ネガティブスパイラルを自ら引き込んでいる。
ジョナサンや茂木さん同様に自分も「スカスカ」したものに対して反抗的である。
デコレーションが先導するスカスカしたモノやコトは見た目の派手さと裏腹に「すり減っている」感じが強い。全体的な流れとして大多数に受け入れられるという状態は終わりのはじまりであるように思う。
(成長カーブに忠実といえばそうだけれど)
いつも思うがダイニング系の店や洒落たカフェっぽい店にはメッセージや思想を感じない。
雑誌が広告用の媒体と化していったのと同様、物事がモードに偏重するあまり根本的な問題意識が忘れさられている。それは店ではなくユーザの選択なのだ。
TV同様、人がみたいと思うものを提示しなければビジネスはなりたたない。けれどその方向性に豊饒はない。美しくない。みてくれは美しさと似ているが本質は否である。変化して継承されることはなく消えていくのみ。長期的にみて人から可能性を奪いはしても感覚をドライブさせることはない。確実にすり減っていく。
しかしそれほど悲観はしてはいない。
少しの企てでガラリと様相はかわる。
要はポイントなのである。
投稿者 TKM : 09:13 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月03日
36歳の女性起業家達
深夜、TBSのドキュメント番組「ドキュメントD・D」をみる。
数年前に同じ番組で放送された3人の女性起業家たちのその後をおったドキュメントである。
現在、彼女たちはみな同じく36歳。
パワフルさの反面なかなかに疲れた表情をしているのが印象的だ。
3人の女性が登場するのだがその中の一人でマネーの虎などにも出演されていた方がいる。今年に入ってから事業をたたみ数ヶ月間、自らリセット期間と宣言しビジネスを離れていたのだが暇に耐えられず腰越で海の家をプロデュースしビジネスに復帰したそうである。
で、登場した人々にてついて僕が思ったのは「なんかすっきりしないな」という曖昧な感想である。
具体的に何がどうというのではない。
これまでいろいろな人にあったし、いろいろな人と話してきたから、という自分の個人的なものさしなので絶対とはいえない。しかしその人が使う言葉や音に注目すれば何となくその人の持つ空気というものはわかる、と僕は思っている。
気になったので調べてみたら彼女のプロデュースした店舗とは「Livedoor Cafe@江ノ島」であった。
投稿者 TKM : 03:30 | コメント (2) | トラックバック
2004年07月27日
スネ夫をデリート
自分も時々やらかすのだが関係性をひけらかすような文章に強い嫌悪を感じる。
それをスノッブと呼ぶならそうなのかもしれないが誰と何をどうやったというような「コト」をひけらかされているようでどうにもいけすかない、という場合が多い。そうでないこともあるのだが大抵はどこかしら顕示欲のようなものが文章に漂っている。
こうした文章を目にすると筆者の歪んだ甘え或いは卑屈さが瞬時に伝わってくる。
目を通じて腐臭が入り込み少しづつ内面が腐っていく。
だから、「ンッ」、と思ったら決してそれ以上を読み進めてはいけない。
全くこれっぽっちの後悔を抱く必要もなくデリートである。
それらの気配を漂わすスカなテキスト、陳腐、軽薄なる文章に意識を向ける必要はない。
見分けるポイントは
・これみよがしな数値や額の話が多い
・これみよがしな名前の提示が多い
・メディアによる価値の担保や伝聞の価値担保を多用する
・そのくせに知ったかぶり
・自慢あるいは、まわりくどい
・自己憐憫のにおいがプンプンする
簡単にいうと
・ネガティブサイドだけのスネ夫
ということだ。
投稿者 TKM : 23:13 | コメント (0) | トラックバック
馬との対峙
一週間ぶりにキーボードに触る。
夏祭りで福島に戻っている間は世事とはかけ離れた戦国な世界であった。周りはみな馬だし、人は甲冑を着ているし、「ハイ、ちょっと持ってて」といって手渡されたのは本物の日本刀やら兜やら。
馬にもなれて「引き手」と呼ばれる馬用の道具(犬でいうところの首輪と紐のようなもの)で馬を捕り回すことも出来るようになった。暴れさせなければ馬は美しい動物だ。ただし犬や猫とは違った肉体の美しさである。祭りに参加する馬の多くはもとは競技用か競走馬である。彼らの身体は驚くほどにしなやかな筋肉でできている。
馬力という言葉があるがあの筋肉に触れるとそれが人の持つ腕力では遠く及ばないものだとわかる。
祭りは壮観であった。
しかし自分にとっては馬と対峙していたあの時間や彼らのまなざしの方が強く記憶に残っている。
投稿者 TKM : 22:45 | コメント (2) | トラックバック
2004年07月21日
スカの大群とライブ力、変通性
今日の茂木さんの日記。
自分が言いたいことを代弁してくれている。
いま売れている本の9割9分は来年はブックオフで100円だし、10年後には再生紙だ。それをよしとするメディアの論調はどこか歪んでいる。
売れれば何でもいいのか、という議論は売れるものが作れないマヌケの遠吠えだ、という意見もある。おそらく微妙なのだ。良いものが売れるわけではない。かといって売れないものがいいものであるというわけでもない。
要は「スカ」が大手を振って「どうだ」といってる裸の王様なんだけれど都合が悪くなるとコンテンツの出来不出来に商業的な基準を持ち込むからおかしくなる。何がスカで何がそうでないかは受け手の状況によるとはいえどうしようもないくらいにスカなコンテンツがベストセラーになるのはもう出版やらTVやらが終わってることの証明に思える。かといってネットのコンテンツがいいのかといったらそんなこともなく、さらにスカってるのがほとんどなのだが。アクセスの多いサイトでスカってないものはみたことがない。どれもおちゃらけかウケねらいでせいぜい「蟻」が「羽蟻」になったようなものだ。形はあっても本音はない。Voyagerの萩野さんなら「まがいもの」と一喝するだろう。
社会的なジレンマが拡大浸透している感じだ。
食も場も何もかもがそう。
中には万に一つくらいマシなものもあるとはいえそのほとんどがスカである。
たいしたことのないものだ。
それをありがたがって悦に入るのはメディアの影響なのだろうか。
本当に心底、それをいいと思ってるのか?とオレは問いたいのだが。
などといってる暇があるなら自分がベストのコンテンツを楽しめばいいのだから、楽しむ方法を考えろ、という意見もある。が、とここでことわっておきたいのはダメなものはダメっていった方がいい場合もある。自分さえ関係なければなんでもいいというわけではあるまい。
「学問のすすめ」ってほとんどがそういう話なんだけれどだとしたらあの本はたわごとまみれのあってはいけない失敗作なのだろうか。少なくともあの本はいまだに面白いし、DVDに焼き込まれた最新のソフトよりもファミコンミニの方がコンテンツ面白いのは何故だ?
コンテンツの本質はそういう部分にあると思う。
関係ないが先日いったライブもよかった。ライブという場はまだ死んでいない。
盛り上がるライブはスカではない。
ライブの場にあっては人は感覚によってスカとそうでないものを判断する。
しかも的確に。
スカなライブはそれがどんなものであっても。メディアがどんなに力を入れても。意味がどんなにあっても。パフォーマンスが悪ければ盛り上がることはない。
ここに可能性を感じるのである。
ライブ力。
今力と変通性。
そういえば教育もライブである。
投稿者 TKM : 02:09 | コメント (1) | トラックバック
二人との対話と時代に益なすベストな形
久しぶりに親友の太と話した。
明日の終業式が終わると彼の夏休みが始まる。
自分と太は17歳と31歳というコンビだが二人のチームワークはバツグンである。
もう15年のつき合いになるので当たり前といえばあたりまえだが年齢にかかわらず15年もの間、親交を保ち続けている友人はそれほど多くはない。歳が上だからとか下だからというのは関係ない。相手に見習うべきところがあるなら学ぶべきだし、教えをこうべきだ。人生全体でみたら10年や20年の差などたいしたものではない。
今年の夏もこのチームで活躍することになりそうである。
彼は乗馬の名手である。
1000年の歴史を持つ野馬追いという地元の祭事での彼と彼の父であり我が親友でもある三品真一軍者の勇姿は壮観である。今年は彼の妹と父が出陣する。
※なんとこのお祭に参加する人は参加とはいわない。いまだに戦国時代同様「出陣」なのである。ちなみに祝ののしは「祝御出陣」である。
このイベントについては写真や動画でもそのイメージを伝えるのが難しい。馬600騎による軍事演習というのがイベントのクライマックスなのだがこのイベントの本質はそのスペクタクル感ではなく、祭りの行われる3日間の間、変容する街の空気にある。朝靄の中を甲冑を着た武者と軍馬がゆっくりと出陣の儀式に向かう様のファンタジー度は映画「戦国自衛隊」の比ではない。(ちなみに、戦国自衛隊の冒頭の戦闘シーンは僕の地元で撮影された。またあのシーンに登場する戦国武士も野馬追いの参加者達である。毎年、実戦をやっている人々だから迫力があるのも当然である)
昨夜はもう一人の親友と話をした。
僕がいうのも何だが彼女は才媛である。
来月からは研究でスイスにいかれるとのことで夢に向かってひたむきに進んでいることを知って嬉しかった。いつも思うが優秀な人はみな謙虚である。石井先生もそうだし、彼女もそうだ。言葉が奥ゆかしいというかガチャガチャしていない。相手を引き出すような言葉の使い方なのである。話していると自分もこういう風に言葉を使えるようになりたいと思うのだがなかなかうまくいかない。
彼女の専門は開発教育である。
教育関連ということでこの間、参加したしんのすけの授業について簡単に説明した。
二人とも何かしらえるところがあるに違いないと思うので彼女がスイスから戻られたら二人を引き合わせたい。勘だけれどいいコラボレーションにつながるはずだ。しんのすけのプログラムが世界に広がっていくきっかけになるだろう。
あとは私事だが来月から就職活動をはじめることにした。
詳細はいずれ。
福沢諭吉の「蟻の人生」という一文を読んでから思索するうちに長年感じていた違和感の理由がわかった。茂木さんの「スカスカする日本」という論考も深く心に響いた。
楽しいという言葉や面白いという言葉でごまかされているがたいていのことはスカスカなのだ。
福沢諭吉は「学問のすすめ」で繰り返し「コンテクスト」の重要性を訴えている。
「変通」という言葉を使っているが同じ事象が時や状況などのコンテクストによって全く価値を変えてしまうことについて様々な事例を用いて論じている。
「ヒロイズムの価値は認めるけれどもどうせだったらそのヒロイズムが時代にベストな形でフィットして益なしている、っていうほうがよくないかい、それが道理じゃないかな、違うかい?」
そういわれているように僕は思った。
投稿者 TKM : 00:58 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月19日
クオリア日記
このところかかさず「茂木健一郎 クオリア日記」を読んでいる。
脳科学の研究者である茂木さんの日記なのだが日常の情景に対する茂木さんの考察にはどこか哀しみの余韻のようなものがあってそれが全体のトーンを変え作家特有の「ひき」の感覚をあらわしているのが好きだ。
金曜の講座にでるつもりだったのだが諸処の事情でかなわなかった。
自分の意志決定の未熟さが原因である。
この件に関しては改めて深く考察していきたい。
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投稿者 TKM : 11:49 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月15日
[雑記] 女子高生達と授業に参加
しんのすけの授業を観戦。
授業なので観戦とは言わないか。
完成度の高い授業に驚く。
生徒サイドのモチベーションも影響しているだろうけれど校長先生もいっていたように授業の構成の完成度は素晴らしかった。良質な参加型プレゼンテーションの基本形という感じがした。参加者の満足度を高め、相手の思考と発見、クリエイティビティを引き出していく。こうした講座はプレゼンテーションやセミナーの教科書としてアーカイブしておき、型を指導する際にかなり有効だと感じた。
講座、セミナー、授業というものは映像コンテンツとしてかなり魅力的である。コンテンツというとどうしてもアニメや映画などのエンターテイメント作品に目がいきがちだがそれは素人考えである。授業やセミナーは対人用のキラーコンテンツである。コンテンツ業界(そんなものは実はないのだが)ではここががら空きなのだ。
ゲストの金子の講義もよかった。
何がよかったかって、さすがデジタル漫画作家。
フラッシュで作成されたプレゼンシートのサービス精神とバランスはパワーポイント等の「機械」っぽさとは全く別ものであった。さらにトークも台本を読むという種類のものではなく状況をフィードバックしながらの「ライブ」感を取り込んでいて心地よかった。
両巨頭の講座(自分はプレゼンという視点でみていたのだが)をききながら企業の商品説明や記者発表などの担当者(たいてい長がつく)のプレゼンは相手への「愛情」に欠けているのだなあと思った。
商品がどれだけよくてもその良さは全く伝わっていない。先日の日立のボクサーの記者発表など特にそれを感じた。キーノートで作成されたプレゼンシートはわかったのだがそれを用いて何を伝えたいのかが全く不明瞭であった。というのも発表者から「愛情」が感じられないのだ。別な言葉でいうとライブを楽しんでいる、という感覚が伝わってこなかった。逆にゲストで登場したシックスアパートの平田さんはライブを楽しんでいるかのようにプレゼンを行っており、その楽しみ度合いがこちらも伝わってくるのであった。
さて、昨日はそんな二人の講座を堪能した後、校長先生らといろいろお話をした。その中で印象的だったのが学年によってカラーがあるという話である。東京女学館は一学年300人くらいでその中にはいろいろなタイプの生徒がいる。なのに学年毎に周期的にカラーが出るというのはどういうことなのだろう。
話をきいていると生徒達が優秀であることが必ずしもいいわけではなく、勿論、いいに決まっているのだが教師としては苦労させられたことの方が印象強く、つながりも深まるそうなのだ。勝手な推測だがその学年に存在を印象づける生徒が数人いる場合、その生徒のモードが伝播し、全体にエントレイメント(引き込み現象)が生じ、それによって系、この場合は学年という集団に空気が伝播しモードが浸透していくのだと思う。状況によって個人の人格や振る舞いもかわるのである。
こういうことは我々の生活の中にもよくあってその人といるときの自分と別な人といるときの自分では人格が異なる、という経験があると思う。親といるときの自分と恋人といるときの自分など同じ人間でも振る舞いは変化するだろう。同じように学校での自分、会社での自分、友達といるときの自分、などなど。人は環境と状況によって振る舞い、性格を変化させる。
授業を終えてからしんのすけ、金子の二人とカフェで話をした。
生徒達のモチベーションの高さに驚いたこと、みんないろいろなことを考えているんだな、ということなどなど。授業中に僕がメモした内容についても簡単に議論してみた。しんのすけの課題は「20xx年後の○○がどうなっているかを調べてくること。またあなたはそれをどうしたいと思うか。その希望も考えてくること」であった。
ある生徒が葬儀の50年後を調べてきた。
彼女の調査によると50年後に我々のお墓というものはなくなって、納骨堂のようなビルにみんなが入るそうだ。これはこれでかなり面白く、なるほどなー、と感心したのだが彼女が面白かったのはその後だ。
「私はお墓がなくなるのは嫌です。何故かというとお墓がなくなったらキモダメシができなくなります。」
何故、キモダメシ!?
正直いってヤラレタと思った。このセンスなのだ。これがあるから女の子は侮れない。ナイーブ(安易という意味でのそれであって決して感受性という意ではない)さは確かに否めないけれど感性というのはこういうことをいうのだ。
プランニングの基本もこれだ。
彼女のこの言葉こそプランニングの肝なのだ。
それをわかっていない人があまりにも多いので世の企画やコンテンツには「媚び」が蔓延するがそんなものはどうでもいいのだ。
肝試し結構。
彼女の言葉は墓というモノの本質をついた言葉だと僕は思う。
彼女の発言には墓というものに対する彼女の「コンセプト」が明確に現れている。
彼女にとって墓は「楽しい」や「遊び」の一部なのである。
これは重要で、墓まいりに何故いかなくなるか、といえばそれが「楽しさ」「面白さ」とリンクしていないからである。何もエンターテイメントである必要はない荘厳さや厳粛さでもいいのだ。ようするにそこにコンテンツとしての魅力があれば人はその場に集う。現に自分の家の墓にはいかなくても世界中の墓の前には日本人が長蛇している。
ピラミッドもなりはでかいがもとをただせば墓だし、有名どころの遺跡の多くもなんのことはない「墓」だ。(そういう意味ではピラミッドをつくった王様はエライ。何千年も過ぎてるのにいまだにエジプトの民に益を与えている)
墓というものを考え直すきっかけと未来を感じさせるコンセプトが彼女の言葉にはあった。あの瞬間、僕には未来の墓のイメージがみえた。彼女は明確なビジョンをプレゼンしたわけではない。きっかけにすぎないのだけれどその「きっかけ」が最も大切なのである。
で、3人の結論だがこの授業がとてもうまく機能している理由の一つはモチベーションの高い生徒達にあるが、それは「女子校」という特異な場による彼女達のオープン性によるのではないかということである。
男子校だったらうまくいくだろうか。
また、共学であったらならばどうだろうか。
とイメージしてみるとやはりあの「オープン性」を作り出すのは難しいのではないかと思う。また中高一貫という部分も重要な要素に見えた。学校内であったどの生徒も「退き」の感覚ではなく、オープンに僕たちに接していた。
それぞれが自分の足場をもっているような、そんな印象である。
女子校の授業ははじめてであったし、学校によって事情は全く異なるのだろう。しかし、あのオープン性は発想をドライブさせる鍵になるのではないかと思った。あのオープン性を企業や組織に取り込んだならば企業はどう変質するのだろう。まだまだ面白いことはたくさんできそうだ。
++++++
やまけんに電話すると「メロンがある」というので金子と二人でごちそうになりにいった。頭痛がひどいらしくいつもの「ヤマケン力」が全くなかった。それがもう一つのおっとりしたインパクトの薄いヤマケンを作り出しており味わい深くもあった。
お好み焼き屋につれていってくれたのだが。
やまけんはほとんど食べていなかった。
メロンは昨年同様おいしかった。
丁度、そのメロンをつくった人から電話がきたので金子と二人で感想をお伝えした。
月島についたらお祭の後の浴衣すがたの人々でにぎわっていた。
祭りだったのをすっかり忘れていた。
投稿者 TKM : 08:44 | コメント (6) | トラックバック
2004年07月14日
[雑記] 信号に縛られる人々
昨日は印象的な出来事が二つあった。
具体的に明記するのはやめておくが言いたいことをまとめると次のようになる。
・信号理論がそこかしこに浸透している
・器量の超縮小化とルールへの過度の依存が進行している
目の前で交通事故が起こったとする。
事故の衝撃で車のドアが大破し開かない。
中には小さな女の子が乗っている。
血も流れている。
事故が起こった場所はある店の前だった。
その店には工具がおいてある。
「すみません、工具を貸してもらえますか。ドアが開かないんです。」
「いやー、うちは工具の貸し出しはしてないんですよ。他で借りてきてください」
彼はルールに従っただけだという。
「工具は貸さない」というルールがあり、それに従ったまでだ、と。
一人一人は悪い人だとは思わない。
知らず知らずのうちに「それをやるとしかられる」という信号に制限されるうちに道理としてすべきこともルールや規約にないから「できません」になっていく。「攻め」と「守り」でいうと圧倒的に守りの姿勢なのだ。
現実への批判や否定は何もうまない。
それを言葉にするくらいならば自分で行動すべし、という人もいる。
「こうした方がいい」ということが自明のことであってもルールや規約で「できない」と思っていることが山ほどある。発想が逆になってしまっている。ルールや規約はそれによって社会生活が良くなる場合に限って維持し尊重されるべきであり、環境の変化に応じてチューニングされなければならない。そもそもルールは人の生活をよりよくするために設けられたものでそれが合わなくなってきているならば速やかに調整されなければならない。
様々な場所で目的と手段がいれかわってしまっている。
警察は自転車の盗難や二人乗り駐車禁止の取り締まりには熱心だが凶悪犯罪の捜査には全く不熱心なのは何故なのか。
大きな病院にいくとどんな重病人でも何時間も待たされるのは何故なのか。
どの政党が勝とうとどの政治家が当選しようと現行のシステムでは上記の問題を解決できない。
それが問題の本質だ。
リニアモーターカーによる中央新幹線が実現されない理由を知っているだろうか?
これらの根は全て同じなのだ。
企業ならば競争によって最適化が進むという考え方もある。
結果、コンビニ化に向かっているわけで必ずしもそれが良いとは言えないが必要性にあわあせて変化していった結果がそれなのだ、と考えることもできる。
それでもより「合うもの」にしていかないと消滅の危機にさらされる、という点でマーケットエコノミーの方が政治システムより機動性がある。
政治の問題は結局のところ個人が政治家を選んでいるわけだから個人の責任だ、と言われる。しかし好んで政治家になろうとする人は少ない。何故か?割にあわないからだ。
まともなことをやろうとする人がまともにやれないのが政治なのだ。
そもそもここがズレている。
政治が扱うべき問題と経済が扱うべき問題が一緒にされているのがそもそも問題なのだ。
概して既得権周辺の事業は実ユーザが不在だ。
よって評価もされないから競争も生じない。
カタチを変化させるという意志がない。
循環は失われていく。
うまくいえないのだが政治が扱うべき問題は別にあるはずだ。
方向性とか。
この人とあの人で利害が一致するかしないという問題は永遠にあってそれを政治の場に持ち込むのは違うだろう。なんかそれとは別な部分で大きな合意みたいなものはあるわけで、例えば「犯罪はないほうがいい」とか「町中にゴミを捨てる人はいない方がいい」とか「キンキンしないほうがいい」とか誰も反対しないけれど良くなったら気持ちいいことはたくさんある。
もっとベースの部分を扱わないとだめなのだ。
各論、詳細、細かいことはそれぞれもっと現場レベルでやればよくて、もっと大本の部分を攻める場があってそれらがおこなわれないと効果的ではない。かといって中央集権がどうとか分権がどうとかそういうことではなく、かなりシンプルなシステムの導入でエントレイメントが起こるみたいな。
国家100年の計とかアホなことはどうでもいいし、そんなことを言う人間がいたら信用してはいけない。そんなものはあるわけがない。無限に変動しつづける環境下でその相互作用を予見しコントロールすることはできない。
江戸時代の人も月の夢はみたと思う。
そういう100年はわかる。
しかしOSやそのインターフェイスを夢をみることができたとはおもわない。
と相変わらず散漫なのだが。
優秀な人は政治に向かわずビジネスに向かうように見える。
男女問わず。
いまビジネスの世界の第一線で活躍している人を全員政治に投入して組織からシステムからつくりかえて好きなようにやっていいから。その代わりこれとこれとこれという目標だけは達成して欲しい、と依頼したらガーっとやって全然違うマインドの社会にかわるんではないだろうか。しかもあっという間に。
そういうのがダイナミズムだと思うんだな。
あと、いろんなところで言われはじめた「既得権益に固執する老害な人々」だけれどこれだって、一部の話で中にはクリエイティブな老人もいるし、イノベーティブな人もいる。全部を一緒にし単純化するからうまくいかないのだ。「老害」はマインドの問題であって年代は関係ない。
若年であっても老人であっても賢人は賢人だし、愚は愚だ。それを高齢者は敬いましょう、というインチキくさい言葉でひとくくりにするからおかしくなる。ようは人間力の問題で。魅力ある人は魅力ある人は大切にされるし、魅力がない人はそれなりにしか扱われない。年齢など持ち出さずより魅力ある人間になるように自分を磨いていったらいいだけだ。また政治の問題も経済もおよそ人間が原因の問題はそのほとんどがコミュニケーションの問題で(「24」を観ていてもそう思った)大概はすれ違いとか互いの思惑のズレが反復増幅された結果、問題化、結晶化(秩序化)に至っている。
学問のすすめを読んだらここらに関しても福沢節が爆裂しており「殺される人と殺す人を一カ所に数日入れて腹割トークで話をさせたら何かしら通じる点はみつかる、故にその人ではなくその人の持つ怨望が問題の根なのだ」みたいな話がつづく。「学問のすすめ」は当時の超ベストセラーで300万部以上売れたらしい。で、人の持つ怨望のような目に見えないもの、「気力」(本ではスピリット)に目を向けよ、との説が様々に事例をあげて論じられている。そういえば福沢諭吉といえば戊辰戦争の時に外では刀を振り回し大砲がドカンドカンやってるという状況下で凛として経済書の講義をやっていたそうである。その時、使っていた経済書がウェイランドの「モラルサイエンス」だったのではないかと言われている。つまりいまのCRSの原点だ。
++++++
今日はしんのすけの手伝いで授業の撮影である。
金子の授業も楽しみだ。
投稿者 TKM : 11:39 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月13日
[雑記] 前進と後退
福沢諭吉の文章だがなかなか読み終わらない。当時の日本語の文語に慣れていない。ちょうど英語を読んでるのと同じスピードである。
で、諭吉っぽくてなんだが、
「世に前進と後退あり、然るに前進に向かうは人の道理にて世にそれを妨げる理なし」(加賀谷)
と強く思うこといと多けり。
投稿者 TKM : 12:42 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月12日
[雑記] 面白い人、つまらない人
濃い薄いという言い方が正しいとは思わないがとりあえず物事には濃い薄いという感覚がある。また何かをやったり、みたり、しているときに自分は「面白い・つまらない」を感じているわけだが何が面白く何がつまらないのだろうか。
面白いとつまらないの違いは一つには情報量だと思う。
つまらないもの、つまらないこと、は自分にとって有益な情報が圧倒的に少ない。
話をしていても「つまらない話」をする人もいるし、面白い人もいる。
つまらない話をする人はたいての場合、自分が重要と感じるような新しい情報を持っていない。
けれど同じ人が他の人にとってはとても「面白い人」である可能性もある。
僕にとっての「つまらない人」が他者にとっても「つまらない人」であるとは限らない。
また、言葉の内容がデータとして新しい内容を含んでいないからつまらない、ということでもない。自分が知っている物事についてであっても、その人の「モード」という情報が付加されることで全く別の印象と価値を生じさせることが多々ある。
雑誌やTVで著名人が商品を紹介するのはその人のモードによって商品自体の印象をかえるという目的もある。PRの世界はこうした手法で物やサービスを刷り込んでいく。
こういうのをパブリシティというのだけれどどんなに綺麗で派手であっても広告で宣伝される時、その商品はどこかうさんくさい。自社の商品を悪くいう広告はあまりない。ここがいいんだぞというウリをこれでもかという記号のラッシュでまとめこむ。
なので広告自体を楽しみはしてもそれで商品を判断するということは稀である。
そこで使われるのが前述のパブリシティという方法で商品を広告としてではなく記事や番組として刷り込んでいくという手法である。
この方法だと広告と違って商品の宣伝をしているわけではないから、商品を判断する基準になりやすい。例えばみのもんたがココアの効用をお昼のワイドショーでしゃべりまくったらココアの消費量と販売量が目に見えて向上した。
この場合、ココアという商品自体に革新的な改善があったわけではないがみのもんたというという著名人への信頼度によって商品の信頼性が向上したのである。勿論、ここでココアが紹介されたのは偶然ではない。ココアメーカーとPR会社の仕込みによって番組で取り上げられたのである。更に成功するPRの場合、これと同種の「仕込み」を各媒体で連鎖的に行っていく。一つが成功すれば他の媒体にもっていくときの成功事例になるので企画は通りやすくなる。
これらの企てがある程度機能的に働くとある程度のブームはつくられる。
これが本当のブームとして波及するかどうかを完全にコントロールすることはできないがメディア内部のブームに関してはある程度のコントロールは可能である。
話がそれた。
面白い・つまらないと情報量についての話だったのを忘れていた。
いや、こういうことをいま書いているのには理由があって人と会って話をしてもつまらない人が多い。それは何でだろうかと考えてみた。
自分がその人の面白さを引き出せないのか。
それともその人がもともと面白くないのか。
だとしたら何故その人は面白くないのだろうか。
と考えていくと簡単にいってしまうと「オヤ?!」がない人は概して面白くないのだ。
どんな業界のどんな職種の人でもこの法則は変わらない。
主婦でも面白い人もいるし、面白くない人もいる。
編集者でもTVマンでも広告マンでも全ての人が面白いわけではない。
つまらない人も大勢いる。
これは僕の心証なのだが「クリエイティブ」感覚のない人はつまらない。
何かしらその人の味というものがあって話であれ振る舞いであれ全てにそれが反映される。自分が相手から受け取るだけの姿勢でやってきた人と何かやってやろうと常に思っている人とでは空気が違ってくる。いろんな場面で。
TVとは人のみたいものをうつす奇妙なメディアだ。
TV番組は訴えたいものがあって創られるというケースは少ない。
人がみたいと思うからその番組はつくられる。
けれど、TVを観ているのと番組をつくるのでどちらが面白いだろう?
僕にとっての「面白い・つまらない」の違いはそのあたりにある。
というわけでかなり極論だが「創」の「エンジン」を内部に宿した人との対話は分野に関係なく面白い。
対話もいってみればある種の創造みたいなものでコミュニケーションによって場をつくっていく作業だ。すれ違うこともあるけれど初めての対話で人はお互いにどこがヒットするかその共通点を探り合う。
この探り合いのプロセスはクリエイティブ感覚といってもいいと思う。
その時、二者は互いの関係性を創造しているのだ。
人との間に対話を築くのが得意な人はそうした職業につくし、文字との間に関係を築くのが上手な人はモノを書く。
脱超能力者の清田氏に何故スプーンだったのか?と訪ねた時、彼は
「何故かスプーンとはコミュニケートできたんだ」
といっていた。同じように人々は自分がコミュニケートしやすい分野でその「創のエンジン」を発動していく。そしてこの「創エンジン」がつくりだす「クリエイティブ感」の有無が面白さを決めている。
料理でもそれは同じだ。
料理という表にあらわれたものの背景にどれだけの情報量がつまっているかが本質的な料理の価値だと思う。定量化はできないがまずい料理とうまい料理の情報量の差はパッとみただけでも明らかだと思う。
と話は散漫になってしまったがどれだけ他者を喜ばせることができるか、ということはどれだけ他者にとって価値のある情報を提供できるか、ということでもあり、恋愛や家族関係や人間関係、全ては「その人がどんな人なのか」つきつめていくと人の価値はそこに集約される。
++++++
※昨日の新庄選手のパフォーマンスがなぜ面白かったのか。
その理由はそこに「オヤ?!」があり、彼のつくりだす妙な雰囲気・空気があったからで、
その空気はあの場の関係性を通じて彼という存在がつくりだしたものだと思うのだ。
個性とは創造性とつながっており、逆説的だが多の同意を得るものは何らかのカタチで個であるが弧ではない。他者の内部にある何らかの感情を思い出させる鍵として機能する。言い換えると反応できるということはどの人の中にも同じ要素はあるわけで、それをカタチとして表出できるかどうかが「クリエイティブなモード」であるか否かを決めるのだ。(やろうと思えば程度の差こそあれ誰でもできるし、やっているとできるようになる。ようはやっていないだけ、ということなのだろう)
あと全然関係ないのだけれど「学問のすすめ」を読み進めていて、あちこちにぶっとんだ比喩が満載なので少しづつ紹介していきます。読んでいると福沢諭吉は何かしら新しいことをいってるわけではなくて、持論や正論を展開し説明するときに妙な繋がりをみつけるのが異様に上手でそのつながりの付け方が「新しい」のだ。
投稿者 TKM : 14:10 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月11日
[雑記] 金森学級、榎本君の言葉
朝、「こども・輝けいのち 涙と笑いのハッピークラス」の再放送をみた。
偶然である。
愼之介に教えてあげたかったが間に合わなかった。
既に30分が過ぎていた。
チャンネルを合わせると
「友達だからおれ守った」
と榎本君が話していた。
小学校4年生の彼の言葉はまっすぐである。
言葉が胸につきささる。
「まっすぐさ」にあこがれる。
自分をふくめ人々が彼のように信頼して言葉を話すならば世界は変わる。
彼らにまなぶべきことは大きい。
人の根本にあるカタチのない核の存在を感じる。
榎本君は僕の親友の太の小さい頃にそっくりだ。
話し方も顔つきも、心のありようも似ている。
正直に心の人なのだ。
番組の詳細については以前書いた。
最後の場面について補足しておきたい。
「つながり合う」
金森先生が最後に黒板に書いた言葉である。
人と人がわかりあうこと。
それが金森学級のテーマである。
子供にはできるが大人にはできないこと。
理解されたい、あるいは理解したい、ということは間違いないのだろうか。
と時々惑う。
簡単なことがなかなかできない。
心をひらいて話せる、自分という人間をフルで受け入れてくれる相手との関係を大切に思う。
自分には大事なものは何もないと思っていたけれど、ただ「わかってもらえる」というそれだけで人は生きようと思うし、何かしたいと自然に思う。
そう思える関係こそが本来、大切な関係なのだ。
けれどそうでない表面的な関係に振り回されていることが多い。
それがなかなか人と人がわかりあえない理由だ。
自分を見つめる、相手を見つめる、それだけのことが難しくなっている。
どの場面でもそれを感じる。
誰に対しても。
馴れ合うのは好きではない。
そうではなく「わかりあえること」の意味、価値を認める。
それだけでいいのだ。
それが「いのち」の目的だと思う。
投稿者 TKM : 10:19 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 平家物語
今朝もいい朝であった。
空の色が少しづつ黒から青へと変わっていく。
地球はまわっているのだなと思った。
昨日読んだ、茂木さんの論考に平家物語の一節があった。
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
中学生の頃に読んだ時は教科書の一ページを嫌々だったがいま読み返してみると以前とは違って言葉が一陣の風のように身体を通り抜けていく。心が潤いを帯びていく。
たったこれだけの短い言葉が世界の全てを言い表している。
投稿者 TKM : 06:06 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月08日
[雑記] 慶應大学の図書館
授業の後、電話で金子とコンテンツ企画についての話をしてから食堂に向かう。
講義棟の隣に「山食」と書いてあったのであたりをつけていってみるが営業時間は午後4時まで。明日、また来ることにして図書館に向かった。
慶應大学の図書館は卒業生ならば入館証を発行してもらえば誰でも自由に使える。三田の図書館の窓際の席が勉強しやすかったのを覚えていたのでそちらに向かう。途中、日経新聞に掲載された「新興ネット企業 M&A成長戦略」という特集を読むために新聞コーナーに立ち寄る。あいにく日経新聞は誰かがもっていってしまってそこにはない。
記事の趣旨は「新興IT企業の相次ぐM&Aだがそれらは実際にシナジー効果を生み出しているのだろうか?」という問題提起である。ライブドアによる近鉄バッファローズ買収問題など概して新興IT企業によるM&Aの事例は話題として派手であるがプラスと報じられている業績結果は単純合算による業績の向上であり、株主価値の増大にはつながっていない。
M&Aは事業を得、それによってシナジーが得られている場合において有効なわけだがそうした事例は少ないように見える。
という話はさておき。
図書館にいってみると大勢の学生が勉強している。
ベストの席を探したがあいにく埋まっていた。
窓際のはずれの閲覧席に座った。
角に配置された閲覧席は対面にすわる人との間に敷居がないので集中しづらいのだが環境としてはジョナサンの1000倍くらい快適である。
ペンとノートを取り出し作業をスタートする。
しばらくして、気づいたが、よくみると2割くらいの学生は眠っている。
2時間くらいいると2割くらいの学生が30分毎くらいで入れ替わっている。
みんな真剣に勉強している。
法学の勉強と語学の勉強をしている学生が多い。
語学の勉強をしている学生は電子辞書を机においている。
僕たちの学生時代にはあんな小さな電子辞書はなく、CD-ROMが内蔵されていた。
そうこうするうちに夜になる。
図書館は10時で閉館になる。
9時30分過ぎに図書館を後にした。
何も食べていなかったので空腹だった。
明日からはカロリーメイトをもってこようと思った。
++++++
ちなみにこの日、はじめて「学問のすすめ」の4編、5編を読んだ。
福沢諭吉の本はほとんど読んだことがなかったがかなり「イイ」。
福沢諭吉はビートたけしなど比べ物にならないくらいの皮肉屋である。
圧巻だったのは
「勉強もできて仕事もやって、しっかり働いて、家もつくって、奥さんをもらって、子供がいて、子供もしっかり教育して、という男がいる。なるほど人々は大変立派に独立している人だという。でも、ちょっとまて。それは全然違う。それだけならば蟻でもできるではないか。そんな生涯は蟻とかわらない。人に迷惑をかけないというだけで何もやってない。そういう人生を送ってはいかん!」
といきなり「蟻」を持ち出すこのセンスである。「学問のすすめ」にはこれと同種の福沢節が爆裂している。この思考の飛躍は読んでいて笑ってしまうほど面白い。学問のススメは古典・啓蒙書と分類されることが多いと思うのだが希にみるエンターテイメントな書である。
++++++
江藤先生は新入生歓迎のフレッシュマンキャンプでは必ず「学問のすすめ」の読書会をやっていたそうだ。僕は参加したこともなかったしそもそも読んだことがなかったのだが昨日感じたようなエンターテイメントとしての福沢節の面白さについて江藤先生と話さなかったことが残念だ。(簡単な話でコンテンツの根本原理について全く勉強していなかったのだ)
「人生で悔やむのはやってしまったことではなく、やらなかったことだけだ」という言葉が思い出された。
投稿者 TKM : 14:13 | コメント (1) | トラックバック
2004年07月07日
[雑記] 「忙しい」をいう人ほど忙しくない
今朝は爽快に目覚める。
日曜以降、心身ともに不調だったが復調したようだ。
「忙しい」という言葉をよくきく。
そして不思議だと感じる。
本当に忙しい人は決して忙しいとは言わないものだ。
「忙しい」と口にする人は概して効率の悪さを「忙しさ」と勘違いしている。
以前こういうことがあった。
某著名な方とお会いする機会があったので知人に声をかけた。
「今晩、暇?」
「忙しい」
「ああこれから○○氏に会うんだけれど。一緒にどうかと思ったのだけれど駄目か」
「エ、じゃあ調整する」
なるほど「忙しい」とは絶対に必要な事柄に追われているのではく優先順位の問題なのだ。
では忙しさとは何なのだろう。
この世の中でどうしてもやらなければならないことはそれほど多くはない。忙しさは何らかの強迫観念の裏返しであり、必要でないことに忙殺されている状態である。
繰り返しになるが本当に忙しい人は決して「忙しい」とは言わない。
意外だが多忙そうに見える人ほどメールバックがはやい。
また声をかけると小さなイベントなどにも顔を出したりする。
おそらく「忙しそうに見えること」と「忙しいと感じること」は全く別なものなのだ。
優先順位でものごとを決めると余裕がなくなり「忙しさ」にとらわれる。
後先順位(何をやらないかを決める)で考えればやることがたくさんあっても忙しさを感じることはない。
そういえば「オレは眠るのに忙しいんだよ」とは誰も言わない。
投稿者 TKM : 07:44 | コメント (6) | トラックバック
2004年07月06日
[雑記] ブログと火曜の午後と黒髪の女性
午後、久しぶりに六本木ヒルズを訪ねる。
昨年はアカデミーヒルズで行われる会議に出席するために月に一度は通っていたのだが今年になって訪れたのは3回目だろうか。
相変わらず入り口がどこか迷う。
日立の製品発表兼セミナーで熊坂先生の話をきいた。観念的な話が多い為、会場全体が瞬時に睡魔に襲われたように見えた。半数近くがこっくりこっくりと船を漕いでいる。終盤1時間の講演のラスト10分でSFCでのブログ活用事例紹介があった。
この時だけ会場が急に活気づいた。
プレゼンテーションのポイントをみた気がした。
人は具体性のない観念論には反応しない、何かしら自分がイメージできるものやカタチの見えるものがそこにないと脳は休憩信号を発するのだ。
今日のセミナーは日立のグループウェアの記者発表がメインである。
最近の企業の記者発表はこのタイプが多く、目玉として開発者やクリエイターなどのオピニオンの講演と製品紹介(たいていはおどろくほどプレゼン下手でつまらない)をサンドイッチにして来場者を逃がさないつくりになっている。
最近の事例だと4月にNTTがスタートさせた「AGILIT」という企業向けユーティリティコンピューティングの新商品発表にあわせてマーク・アンドリーセンの講演が行われた。
「AGILIT」ではオプスウェア(旧ラウドクラウド、マークアンドリーセンの会社)が採用されており、基調講演を行ったマーク・アンドリーセンとは関係が深いこともあって双方にとって有効なPRとなった。
今回の記者発表もこのケースと同じやり方であった。
会場に集まった多くの人はシックスアパートの執行役員である平田大治さんの講演を聴くのが目的だったと思われる。平田さんは日本でのブログ普及の立役者であり、ブログ業界では著名な方である。
今回日立が発表した企業向けブログパッケージのブログエンジンにはTypePadが採用されておりTypePadは平田さんが役員をつとめるシックスアパートの製品である。
そうした背景もあって製品発表にはさまれる形で平田さんの講演は行われた。果たしてPR担当者の思惑は当たったのであろう。最後の平田さんの話をきくまでは帰るに帰れない嫌な状況が続いた。
日立の担当者も一生懸命やっているのは理解できるがプレゼン技術が低すぎる。10人以下の相手に対するプレゼンと100人以上を対象としたプレゼンではモードを変える必要があるのだが日立の担当者の二人(平田さんへの質疑応答の前にも10分程度の製品説明がはさまれた。さすがにここまで露骨だと印象は悪い)とも「説明」に終わってしまっている。だから肝心の「メッセージ」がひとつも伝わってこなかった。
対して平田さんのプレゼンは上手であった。ブログについて全くわからない人でもブログのイメージは大まかに捉えることができたのではないだろうか。こういう人が技術担当役員というのは面白い。
これまでいろいろとプレゼンをみてきたがマクロメディアの田中さん、今日の平田さんのプレゼンは聴いていて気持ちがよかった。
マーク・アンドリーセン、スティーブ・ジョブズなどプレゼン俳優と化している人たちもそうなのだが話術が巧みなわけではない「場」をつくるのが上手なのだ。これは10人以上の相手へプレゼンを行う場合のポイントである。
それにしてもブログとは異様なスピードで成長しているのだと改めて実感した。
これまでHPなどつくろうとも思わなかったであろう熟年の社員が「ブログ、ブログ」と連呼するのをみてこれはいよいよ大きなうねりにかわりつつあるな、と思った。
帰りがけマスダさんにあった。
一年ぶりだろうか。
エレベータの前で少し話した。
最近は何やってるんですか、ときかれるが派手なことはやっていないので素直に「何もやってません。就職活動でもしようかと思ってます」といったら「エェ!」と苦笑された。
お茶でも飲みませんか、と誘おうとしたらタイミング悪く電話のようだった。
※仕事に関しては結構、本気で考えていて今日もセミナーを聴いていたら「オレだったらもっとマシにできるよな」などなど思うところが多々あったのとやはり人の集まる「場」に触れると何かしらやりたくなるのも確かだ。
相変わらず人の顔を覚えていないので話しかけるときに自信がない。
というよりも東映動画の別な人と印象がかぶってしまい脳が誤判断しているようだ。
挨拶をして美術館に向かう。
カウンターにいくと火曜は5時で閉館とのことだった。
麻布のラーメン屋ではやめの夕食にしようと向かったらここも今日は休みであった。
火曜は休みが多い。
あまりにも暑いのであきらめてバスに乗る。
渋谷までいってルーロー飯を攻めてからドンキホーテでミニモンキースパナを入手。
ブックファーストで新刊をチェックして帰宅。
『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』を立ち読みすると「もう純文学はやめた。賞とったけれど一年分の家賃にもならなかった。」という談話が飛び込んできた。そんなものかと思いつつ、そういえば「命」で柳美里も貯金60万きってた、と書いてあったたっけ、と思い出した。
別段読まなくてもいいビジネス本などがベストセラーになったりもするわけで本は急速に商品化しているんだなと改めて思った。
久しぶりに渋谷の街を眺めながら帰った。
表面的には雑多なように見えるが人々の間にはパターンがあり調和がとれているようにも見えた。雑誌のような街だと思った。「メッセージ」は希薄だけれどトーンや空気は充満している。やはり雑誌のような街だ。
街を抜け、半蔵門線で青山に向かう。
青山で大江戸線に乗り換えると向かいの席に帽子を目深にかぶった女性が座った。日本人でもこんなに整った人もいるものなのだな、と思った。身長は170cmくらいだろう。美しい顔の黒髪の女性であった。茶髪の人が多いせいか彼女の黒髪の美しさは目をひくものがあった。
投稿者 TKM : 21:29 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月05日
[雑記] 痛みの記憶
ずっと目をあけていたのだろうか乾きで目が痛い。
自転車にのっていたら突然眠気に襲われた。
そのまま眠ってしまいたいと思った。
朝、起きてロードワークに出かけた。
その直後、背中に激痛が走った。
筋肉を痛めたらしい。
呼吸が困難になった。
幸い、家のまだ近くだったのでどうにか部屋にもどった。
前傾になると心臓の近くが痛むような感じだ。
昨日から調子が悪かった。
夕方に出かけたのだが銀座の時点で予感はあった。
今朝になっても具合は悪い。
メンタル・フィジカルの両面がやられている。
常に意識のどこかに自分をうがっている破壊の余波があって。
それは月日を経ても容易には消えない。
それが自分にしかわからないのは何故なのだろうかと時々考える。
二者の間には意味の歪みがある。
人にとって最もダメージの残る記憶は「恥じられる」という記憶ではないかと思う。親が子を恥じたら子供は生きてはいけまい。同様に自分が心を開いてしまった場合、相手に「恥じられる」ことは消えることのない傷として記憶される。
それは屈辱ではなく痛みである。
それが少しづつ人を穿っていくのだ。
投稿者 TKM : 09:08 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月04日
[雑記] 再び、魚仁。友人らと語らう
今は日曜日の午前五時。
爽快に目覚める。
++++++
さっきまで夢をみていた。
山に登る夢であった。
夕暮れ前の山に某社長らと登山した。
予想に反し夢の中での彼はナイスガイであった。
その山には36の鳥居があり、それぞれの鳥居が滝を擁する。
そこを駅伝方式で我々のチームでまわるのである。
軽トラックで山道をフォローするのが常とう手段だと父が教えてくれた。
旅路の前に打ち合わせをかねて眠る。
眠りながら時々、某社長がおきあがりメンバーに声をかける。
デザイナーチームは中国での宇宙船プロジェクトを終えたばかりの二人である。
その時代、宇宙船はすでに一般的でモビルスーツに似た汎用人型ロボットの利用がはじまっていた。それらは我々がTVアニメなどで見知っているサイズの3倍程の大きさがあった。
お守りにひもを通さなければならないのでひもをさがすがみつからない。仕方なくわらじに使われている草を裂こうとすると某社長が「糸ならホワイトがありますよ。ここはひとつどうでしょう」と言うので言外の意味を理解した。裂こうとした草は竹に変わっていた。しばらくして出発の時間が迫った。
++++++
帰宅すると丁度、新日の放映時間であった。
中邑のコメントを見た後で天山のトークが相変わらずであることに辟易し電源を切ってそのまま眠った。
その数時間前。
午後10時過ぎ、寝不足で頭がぼーっとしてきたのでベッドに横になった。
しばらく休んでから京橋郵便局にいって発送作業を行うつもりで仮眠することにした。
一時間ほど眠った頃、電話が鳴った。
直前まで眠りの底にいたせいか頭の中はまだ混濁していた。
電話に出るとはたしてやまけんであった。
結婚式を終え、二次会も終わり、これからお台場を出るところだという。
「帰る前に月島によるから」とのことだった。
昨日は門前仲町にある食い倒れ党御用達の寿司所「匠」の大将の結婚式であった。
タケとやまけんの二人は乾杯と友人代表の挨拶を頼まれていた。
二人とも滞りなく挨拶をこなし、二次会の手伝いも終え、地元に戻ってきての反省会である。
結婚式についてはいつも思うが実際に手や足を動かして会をつくりあげたスタッフで行う反省会が一番面白いしなくてはならないものだ。それは会の参加者の気持ちをリセットし改めて二人の新たな門出を祝福する上でも重要なイニシエーションの一つである、というのが僕の考えだ。
結婚式の話をききながら近鉄とライブドアの話やらやまけんの話などとりとめのない話をする。歩いて帰れる距離なので焦りがないからみんな気持ちが穏やかである。時々、SFCのメンツで集まって食事をしたり話をしたりするが棘のある話をしたことはない。ふらりと集まって友人たちと穏やかな時間を持つことができる。これもひとつの幸福の姿だと思う。
今日は天王洲のT.Y.HARBORでBBQが催される。
数年前にアメリカ人の友人に誘われて遊びにいったことがある。
T.Y.HARBORは大学の同級生が運営している店で天王洲エールという地ビールがおいしい。
一緒に行かないかと誘われたが昨日の続きをやっておきたかったので今日は考察を進めることにした。
以前は迷うことが多かった。
この会合に参加すれば人生が変わるのではないか。
もしかしたら人物との出会いがあるのではないか。
そうした思いがいつもあったように思う。
どんな会合に参加し、どんな人物と出会ってもそこから創造性を導き出せるかどうかは自分の問題だ。出会いも出来事もそれ自体が特別な意味を持っているわけではない。それを活かすことができる自分がいなければどのような出来事も素通りしていってしまう。
変化を自覚するきっかけはどの瞬間にも存在する。
出来事は絶対的なものではない。
どんな自分であるのか。
それが重要なのだ。
※追記
本日午前10時からのサンデープロジェクトにライブドア社長が生出演する。メディアによる報道では新旧の対立という構造で問題を単純化しようというバイアスがかかっている。僕が提案したいのは創造性を基盤にした議論だがそうはならないだろう。AvsBという対立構造には創造性の萌芽が欠落している。同様の問題は現代の様々な場所にあって、誰もが対立と競争から「正解」を導きだそうとしている。しかし「答えを創る」という視点はすっぽりと抜け落ちている。組織などの集団レベルでもそうだし恋愛のような個人レベルでの関係性にも共通する問題点である。
投稿者 TKM : 06:18 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月03日
[雑記] 今月の予定
・「アーサー王物語」の研究
・サイトのリニューアル
・仕事をつくるor外に働きに出る
・政治関連特集記事x4本
・創造性と協調についての論考
・機械的でない時間の感覚と開発についての論考
投稿者 TKM : 20:54 | コメント (3) | トラックバック
[雑記] 月をみていた
久しぶりにバイクにのる夢を見た。
アクセルを全開にするが高域でエンジンの回転数があがらない。
心なしかハンドルが細い。
目の前にゲートがみえる。
その門は外界との分かれ目に立っている。
一緒にはしるもう一人と言葉を交わす。
3歳くらい年上の男の人だ。
視線で挨拶しゲートを抜けて坂を下りていく。
これで二人とも追われる身となる。
ヘルメットはかぶっていない。
一般道が左手に見える。
二人は舗装されていない小道を疾走した。
しばらくして同級生が迎えにきた。
ヘルメットをかぶりなおして一般道に出た。
ターンしながら3速が伸びないねと話した。
++++++
昨夜は月をみていた。
リバーシティからの帰り道、東の空に大きな月が見えた。
部屋についてからベランダに出るとトリトンスクウェアのビルの脇に同じ月が輝いていた。リラックスチェアをベランダに出して月を眺めた。少し肌寒かったので上着を着てからタオルケットをかけ、オットマンに足を乗せ何を考えるともなく月をみていた。どのくらいそうしていたのだろう。気持ち良かったのかそのままベランダで眠っていた。目覚めると月は視界から消えていた。
投稿者 TKM : 02:42 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月28日
[雑記] 好みの女性
昨夜はしんのすけの奥さんに「どんな人が好みなの?」ときかれた。
その場で考えたが言葉が浮かばなかった。
今朝、走りながら考えた。
コンセプトのたっている人が好きだ。
勿論容姿もかなり重要ではある。
が、それ以上に人間力とコンセプト。
そこに強く惹かれる。
どこで読んだのか忘れたがこんな話がある。(うろおぼえなので細部は違うと思う)
ある村では結婚する女性に男性が家畜をおくる。
だいたい村一番の美人と評判の女性で牛一頭が相場だ。
村で一番器量が悪いといわれ結婚できずにいた女性がいる。
この女性にある男性が求婚した。
婚約の日、村人は驚いた。
なんと男性は女性に牛8頭をおくったのである。
しばらくして二人を訪ねた人々はさらに驚いた。
女性は幸せと自信に満ちた村一番の美人に変わっていた。
投稿者 TKM : 08:42 | コメント (4) | トラックバック
[雑記] 鳥と意味と学問のススメ
午前5時。
目覚める。
眠った時間は短いのだがすっきりとした目覚めである。
昨日、しんのすけ宅でジンギスカンをごちそうになった。
帰りは原田夫妻に初台まで送ってもらい、矢坂さんと少し話をしてから月島に帰った。
※昨日、話題にした婚約指輪サイトブルーナイル
++++++
夢の中で原田夫妻に再会した。
「鳥はプロックなんですよ」
彼はそういって鳥の分裂について説明してくれた。それが鳥における正統な増殖の過程なのだという。一羽の鳥がネグロと呼ばれる鳥の第二段階へ変化を始めていた。最初に色合いの異なる羽があらわれる。次に反対側に同じ羽ができて対になる。コピー&ペーストの要領で鳥が二羽に増殖する。さらにその二羽がプロックを重ねると別な種類の鳥が現れる。四羽に増殖したところで彼らは飛び去った。
「わかりました?」
「うん、パターンなのか」
鳥を使った説明に感銘を受けた。鳥は言葉の別な側面を表していた。夢の中ではそれが示す対象(現象)が明確だったのに目覚めると対応がとぎれ、意味するものがわからなくなっていた。
+++++
先日、図書館で「鷲は舞い降りた 完全版」を見つけたので今朝から読み始めた。
同時に
と
を読む。学問のすすめは「読む」のではなく「聴く」方がいいように感じた。
投稿者 TKM : 06:04 | コメント (2) | トラックバック
2004年06月27日
[雑記] サーバと人と
昨夜からかれこれ4時間近くサーバがダウンしている。
メールもウェブも落ちたままである。
実害はあるのかないのかいまの時点ではわからない。
つらつらと愚にもつかない物事を書き連ねていたのが悪かったのかな。
と一瞬思ったが考えてみればそんなことで物がガタガタするわけでもない。
言葉。
人の言葉、自分の言葉。
惑うような言葉がたくさんある。
そのひとつひとつにつまづいたり憤ったり喜んだり優しくなったりいろいろである。
自分では気がつかないところで言葉は人の気持ちを害していたりもするのだろう。
ということを実感した。
書く以上は曖昧な批評はさけなければならない。
他者を惑わすものいいはしてはいけない。
それは礼儀だ。
感じたことは嘘ではない。
自分や人が何かを感じたならそれは確かにあったことであり、受け入れなければならない。問題は「逃げ」ないことだ。曖昧にして逃げることは避けなければならない。何かを感じたならそれを見つめなければならない。
悪口や陰口というのは陰でやるから陰険なのだ。
表でやればいい、という問題でもないだろうけれど少なくとも陰よりはマシだ。
オープンでやらないかぎり理解の糸口は見えない。
「巨人の星」の言葉で「打たれまいではなく、打ってもらう」という下りがある。禅寺で和尚さんに言われたこの一言がきっかけで飛馬は大リーグボール1号の着想を得る。
この思想をアレンジして日々の感情の乱流のコントロールに応用すると「ああしなきゃ、こうしなきゃ、ではなく。そうなっていただく。」とでもなるのだろうか。たいした意味はないのだがそう考えるだけで心はぐっと楽になるような気がする。
何か嫌なことがあった。「ああとっても嫌でした」これでは何も始まらない。
自分はそれも一つのチャンスだと思う。
そこに自分が反応したということは何かがあるのだ。
その何かが何なのか。
それを見つめない限り自分というものが見えてはこない。
(いろいろと見なくていいものを見てしまうのはオレの立ち位置が悪いのかもしれないが)
勿論、嫌なことなんてない方がいいに決まってる。
けれど生きていれば何かしら「ムっ」とくることはある。
問題はそこから先なのだ。
そこで気分に走って「ムカついた」だとそれで終わってしまう。
いいことも悪いこともどちらもきっかけとしては有効だ。
それは何かを示している。
と僕は思うのだが。
++++++
とここで矢坂さんと朝からナイスブレストをやってキーワードが出たタイミングでサーバが直った。
なんというタイミング!
投稿者 TKM : 09:32 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 戦争について考えた
夜。
つらつらとプランニングノートをつけていたらいつのまにか政治についての考察に変わっていった。国とは何かとか日本とか人とか。日々感じる物事についてメモをとる。図式化する。それを続けていく。
ログをとってあるので自分のサイトにどこからアクセスしてきたのかを知ることができる。2ch掲示板からのアクセスがあったのでどこでどんな風に扱われたのかを確認すると格闘家の山本“KID”徳郁について自分が書いた記述があたかもその人の発言であるかのように無断で使われていた。
自分が書いたテキストに対して二つのコメントがあり、両方とも否定であった。ちなみに引用されたテキストは下記である。
思わずそう叫んでしまった。山本の身体を覆う筋肉の鎧は決してゴツゴツしていない。全盛期の佐藤ルミナを彷彿とさせるが更に強化され、しなやかさを付け加えたようなこれまでみた格闘家の中でも類を見ない強さと美しさを感じさせた。
この一文だけを取り出して批判の対象とされることは全く不本意である。自分は文脈の中で上記の言葉を使っておりそれが無断で宴曲されることにいは強い憤りを感じずにはいられない。更に引用者は否定されると同時に出展を明らかにして「逃げ」にまわっていた。反吐がでる。根性がないとか精神論を展開するつもりはないが全てが安易なのだ。発言もそれに対する批判も全てが屈折している。スケールが小さい。
何もかもを褒めればいいというわけではない。しかし批判は自分の立ち位置を明確にした上で行われなければならない。思想の違いは合って当然である。好みにも違いはあっていい。大切なのは自分はこう思う、それはこうだからだ、という意見だ。
それが決定的に欠落している。
これは掲示板の世界だけの話ではない。
自分のアイデンティティが明確でない場において、人は傍若無人に振る舞う傾向にある。
僕がわからないのは「訴える」や「警察沙汰」を持ち出すことで己が権力と一体化しているかのように振る舞う輩の存在である。馬鹿かといいたい。
何度も繰り返しになるが切り捨て御免の世界だったら巷にあふれているようなくだらないいざこざは起きない。そんなことをやっているまに死んでしまう。本気になるべき対象がズレてきている。そんなことどでもいいだろう。もっと別なことに熱くなるべきだろう、と思う場面を目にすることが多い。
しかしその理由をコミュニティの崩壊だとか家庭に見いだすのは安易である。
同じ環境でも全く違う道に進む人も多い。
おそらくメディアの影響、という考え方も間違っている。
同じようにメディアに触れていても影響を受けない人もいる。
話を掲示板に戻す。
僕は自分のテキストが思わぬ使われ方をしているのをみて、さらにそれが理由なく否定されているのを見てかなり絶望的な気持ちになった。こんなことはしょっちゅうあるがそれが何度目であれ気持ちのいいものではない。真っ向からきてくれよ、と思うがそれはあり得ないだろう。
こうやって匿名の影に隠れての発言しかできなくなることに強い危機感を抱いた。
ある種の警察国家的な空気、密告社会、強い閉鎖感を感じた。
これらの心ない発言は自分が何かを発言しようとするときに心理的なブレーキとして働く。意識していなくとも必ずどこかで「媚びる」ような言葉を発信してしまう。そうでなければ自己を防御した形のテキストを「つくる」ことでリスクを回避しようとする。
よくみてみるとわかるがこれだけブログが増加しても自己を明示し、さらに自己の考えを発信しているサイトは驚くほどすくない。そのほとんどはごまかしである。アクセスが多いサイトのほとんどは自己の立場をぼかしちゃらけることでリスクを回避している。
これも自己防衛のための自然発生的な現象なのだとは思う。
僕が危惧するのは本来オープンなハズのネットワークという場にさえこうした管理社会的な機能が自己生成的に備わってきていることである。おそらくこの傾向は誰も止めることができない。一方では権力の嘘を正す正義の衣をまとい、もう一方では自らが権力として振る舞う。権力を否定しながら、権力への依存を望む。この矛盾点に強い危機感を覚える。サイレントマジョリティがネットワークというチャンネルを持つことで発言権を得た、というよりは、実体権力が管理しやすい密告社会が現実化している、ように見える。
ネットワークは素晴らしい、と思う反面。
反オープンな群体、管理社会の暗い影が見え隠れするのも事実だ。
個人が特定されることはネットワーク上で無名と対峙するには不利な条件でしかない。
数の上でもリスクの上でも明示されている側が圧倒的に不利だ。
全く勝負にはならない。
両者が「無名」である場合、あるいは内容が「無害」か「無意味」な場合はコンテクストが変わりカーニバル的な展開をみせる場合もある。
こうしたテーマの寄り方は最近のTV番組と似ていなくもない。
というようなことをずっと考えていた。
こうした傾向は日本に固有のものなのだろうか。
それとも全世界的なものなのだろうか。
などなどやっていたら時間になったので鈴木vs健介戦を見るために帰宅後観戦。
その後、何故かディベート・討論会の番組に目が止まる。
「戦争反対vs仕方ない」という議論であった。
戦争反対を片側にもってくるならば戦争賛成をもう一方に据えなければ議論は成立しないように思ったが予想通り議論はかみ合っていない。片方が感情論に訴えれば片方は理論で応戦する。最終的には議論・論戦には展開せず発言力の大きい発言者(この場合はオピニオン)の言葉に全体が流されていく。議論の最後は「命を大切に」で終わっていた。(それ自体はとても大切なテーマだし。亡くなった橋田さんの講義風景には心を打たれたがどうも意図的にまとめた感が強くて気になった)
議論自体は面白いのだ。たとえかみ合っていなくてもそこにはある種の本音は出ている。編集によって巧みにつくられてはいるがそこに集まる人々は典型的なパターンを代表しているように見えた。戦争反対を叫ぶ人はデモの必要性と感情論を持ち出す。戦争によって引き起こされる「悲惨」はあってはならない、というのが彼らの立場だ。
僕は戦争には全く反対である。しかし論戦はあってしかるべしだと思っている。「争い」そのものが悪いのではない。それによって引き起こされる物理的な破壊や死を作り出すのが問題なのだ。会議でも議論はある。白熱した論戦を展開させる場合もある。それはクリエイティブの場でも同じだ。何もかもが論戦なしに進むわけではない。主義と主張は常にぶつかり合う。問題はそれが別な場にも持ち越されてしまうことだ。
僕はデモを良くも悪くも思っていないが行進することと実際の政治的な効果には関連性がない、と思う。
デモが成立するならその人たちで組織票をつくって国会に代表を送りこんだ方が効果的だと思うし、なんなら超党派で非戦党をたちあげたらいいと思う。
が、そうはならない。
イラク戦争の戦死者数は明らかにされていない。
あるデータでは少なく見積もって一万人のイラク兵が死亡した、と言われている。
戦争の是非と死者数に関係はない、と言われるかもしれないが。
ここで僕はふと思う。
日本では年間約3万人が自殺している。(2002年度のデータでは29,949人となっている)これは阪神淡路大震災での死者数6,433名の約4.6倍である。
ニュースバリューの無い死はその存在そのものが最初から存在しなかったように扱われるが数字だけをみるならば戦争よりも遙かに大きな悲劇がここにもあるとはいえないだろうか。
自分も戦争に対しては反対の立場をとる。争いならば論戦でやればいいし、フィジカルな問題に発展させないことが文明だと思っている。
ではこれは何なのだろう。
戦争で死にゆくよりも多くの人が戦地ではないこの地で死亡している。
※一般人口統計(2002年度のデータ)によれば年間死亡者数は982,379人であった。
投稿者 TKM : 04:09 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月26日
[雑記] ランナーズハイと1000万円の命
昨日に続いて今朝も川沿いを走る。
快調にとばしていく。
おじさんに「おはよう」と声をかけられる。
月~金の朝7時~12時くらいまでは街を歩いている人の顔はほぼ死人、ゾンビである。築地の人々はパワー全開だが他はだいたい1984モードである。
朝の出勤をやったことがないがたまに朝帰りの電車で人々を観察するとその多くはうつむきゾンビ状態でしかめっつらか唇がへの字である。ところがこの人々が会社に入った途端に活き活きとするから不思議だ。
そうか電車がダメなんだなきっと。
などと思いながら今朝の音に耳を澄ます。
静かだ。
土曜と日曜の都心の朝は静かで心地よい。
通勤してくる人々がいないからである。
かの人々がいないとこの土地も過ごしやすい。
通勤の存在しない世界をつくりたいものだ。
と思う人はマイナーな存在だ。
会社に限らず何らかの場所に出向くことは案外楽しい。
短期の助っ人で会社につめるときなど段々と関係性ができあがっていき自分がそこにいることに違和感を感じなくなってくると逆に場への依存が生じ始める。何故にこれだけ多くの人が会社・組織に勤めてサラリーを貰うという生活をしているかといえばそれは決して賃金の為だけではあるまい。場の力が作用していると僕は考える。
試しに明日から3ヶ月くらい場と仕事を完全に放棄してどこのくらい持つかやってみるといい。以外にすぐ限界がくるのではないだろうか。
++++++
川沿いを走っていると段々と身体の感覚がぼやけていくのがわかった。
手足が軽くなり力がはいらない。
疲れているのではない。
身体は動いているが感覚がない。
これが噂に聞くランナーズハイか、とそのまま走り続けてみた。
気分的にはこのまま40kmくらいいけそうだったが感覚がないくせに右の足首の動きがおかしい。痛みはない。身体は全く疲れを感じさせない。というよりももう自分の身体ではない。腕と足が勝手に動いている。
麻酔を打たれた時の感覚と似ている。
橋まで走ったらとりあえず止まってみよう。
かちどき橋のたもとで足を止めた。
と、その刹那、意識から切り離されたように身体がフワフアと浮いている。
アレ、っと思うのだが苦しくはない。
身体を動かそうとするがいまいち伝導が悪い。
あー、このまま倒れたら気持ちいいだろうな。
と思ったがなんだかそれはマズいような気がしたので歩いて橋を渡った。
歩いているのだけれど気持ちは「倒れたい」といっている。
そもそも身体に力がはいらない。
どうやって歩いているのかもよくわからない。
気力で歩くというのはこういうことなのだろう。
気が遠くなる。
わたりきったところで大理石に腰掛けて休憩した。
座ると身体から力が抜けている。
何もしたくない。
でも苦しくはない。
気が遠くなっていくだけだ。
わずかな時間だと思うが落ちた。
時間にして1秒から2秒だろうか気を失った。
ハッとして歩きはじめた。
家までつけばどうにかなるだろう。
残り500mが恐ろしく遠い。
死ぬときの感覚はこんなだろうか。
死なんて案外あっさりとしたものだ。
とかそんなことを考えながら歩いた。
1時間後。
月吉で朝食を食べていたら。
朝のニュースである会社員の殺人について報じていた。
東急エージェンシーの社員が殺された話しだ。
その事件について知らなかったのだが概略はこうだ。
犯人はある印刷会社の社長で殺害された社員と何人かで印刷会社を立ち上げた。
東急エージェンシーの仕事を請け負う為の会社である。
当初はうまくいっていたのであろう。
ところが最近になって仕事が激減した。
被害者は印刷会社社長に自分が貸したお金を返すように迫った。
どのように迫ったのかをニュースは伝えていないがおよそ気持ちのいい迫り方ではなかったのだろう。しばらくして、その社員は姿を消した。殺害されたのである。被害者が犯人に貸した金額は1000万円だったそうだ。
被害者の命の値段は1000万円だった、ということなのか。
1000万円やるから命をください。そういわれて「ハイ」とは言えない。じゃあ、10億あげますからあなたの「眼」を下さいと言われても「ハイ」とは言えない。
100年くらい前までは畑を耕したり魚をとっても人は生活できていた。
何故いまだとできないと思ってしまうのだろう。
結構でかい問題だと思うのだ。
川沿いを走る時、以前は川のすぐ脇のテラスを走っていた。
いまは聖路加側のテラスは走らない。
ホームレス村ができており、景観が変わってしまった。
以前は得られていた爽快感はもうない。
彼らの人格は否定はしない。
しかし何かは間違っていると思う。
図書館に集う人々と職安に集う人々が似ているのは何故だろう。
あれも何かが間違っていると思う。
一度中央区の図書館にいってみて欲しい。
あれは高校生や大学生が勉強できる雰囲気ではない。
何が起こっているのだろう。
何かが起こっているに違いないのだがそれがわからない。
メディアがいうような二極化という単純な問題ではないと思う。
そもそもメディアは広告媒体でしかない。
そこにはメッセージはない。
あるにしてもほんの少しだ。
本音はない。
会社員が書く記事が面白いわけがない。
かといってジャーナリズム云々という不毛な議論をするつもりもない。
全ては流れの中にある。
そして流れはどこかに向かっている。
自分はそれが知りたいのだ。
安易なポジティブシンキングの礼賛は絶対的な現象の前では無力だ。
ポジティブシンキングはそれ自体は全く意味を持たない。
問題の根本は個人の思想だ。
前向きであろうと後ろ向きであろうとエネルギーのない思考には意味はない。
ゼロポイントにおいて思考の方向性は重要ではない。
まずは思考の位置が問題なのだ。
力がゼロならそれがどの方向に向かっても力はゼロだ。
エネルギーがあるから方向が問題になる。
根本はそこだ。
どうやってエネルギーをつくりだすのか。
そこが全てのはじまりなのだ。
投稿者 TKM : 07:55 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 稲妻 from USA
友人の山川から稲妻の画像が届いた。
彼の住むピッツバーグの夏は上記のような雷を伴う雨が多い。前にも凄まじい写真を送ってもらったことがある。今回の雷の画像は以前のものよりもはっきりしている。
雷とはプラス電荷とマイナス電荷が引き合いことによって生じる空中放電(ショート)である。電池を直列につないで電極を近づけるとチカチカと火花が散る。あれの規模をとてつもなく巨大にしたものが雷と考えればいい。
通常は雲の中で放電が起こりこれを雲放電と呼ぶ。山川の写真などがその例だ。
放電が地上との間で生じると落雷になる。
雷をよけるにはゴム製品などを身につけると良いとされているがこれは間違いである。また木の下での雨宿りなども危険である。
また時計などの金属製品を身につけていると危険だ、とされているが突起として身体から出っ張っていない限り無害である。
投稿者 TKM : 02:55 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月25日
[雑記] ベジャール(2)/小学校の作文
■作家と言葉
「作品で大切なのは何を基にするかだ」
ベジャールの創作は作品の「基」を決めることからはじまる。
恋愛であれば二人の関係性を基にする。言葉を基にする場合もあるし音を鍵とすることもある。「リュミエール」ではその言葉が示す通り「光」が作品の基になっている。
光とは何か。
「リュミエール」ではそれを問うことから創作がはじまったそうだ。
僕はアーティストの使う言葉が好きだ。彼らの言葉は難解ではない。(かといってわかりやすいわけでもないが)しかし響いてくる。剣に例えるなら「ただ一撃の為に」とでもなるだろうか。打ち込むべき一点を的確に打ち込んでくる。
ある命題に意識を向けることはできてもその問題意識を維持することは難しい。
どうして彼らは探求というモードで思考を維持できるのだろう。
そしてこう続く。
「私はメモはとらない。準備したものは嘘だ」
この言葉にはしびれた。
と同時に「私はメモはとらない」という言葉をメモしている自分とは何なのだろうと思った。自分の内部で言葉の意味が反転していく。「メモをとらない」という言葉をメモする自分は嘘なのだろうか。
++++++
自分は思うままに書いているだけだ。
何かを伝えようという思いはない。
先日岸崎さんと書くということについて話をした。
自分は書きながら考える。
画面に浮かびあがる文字を「読み」ながら「書く」。
PCで書く時の感覚は「書く」よりも「読む」に近い。
楽しいとか面白いという感覚とは少し違う。
言葉をツールとして使った思考である。
だから原稿を書く時のライティングとは全く違う。作文とも違う。エッセイでもない。おそらく何でもない。
■フィードフォワード
リュミエールの創作過程をみていたらフィードフォワードという言葉が思い浮かんだ。
少し先の未来があってそこから今を引き出している。
再現ではない。
再現が不可能な時間の連続。
モードあるいは気配といった固定できない感覚の再現なのだがそれは再現ではない。
固定しないことによるパターンの伝承のような外側の概念をつかった固定。
先日もエントリーで書いたが「非制御による制御」のイメージと重なる。
話はリュミエールからそれるが自分はある物や現象をみて全く別なことを考えるのが好きだ。目の前にある現象はその背後にある全く別な物事を考えるきっかけである。コンテンツをみる時は常にそういう視点にたつ。感想とは異なる。このやり方は小学生の頃から変わらない。夏休みになると読書感想文を書く宿題がでる。しかし本についての感想を書いたことはない。本を読んで自分が考えたことを書いていた。
小学校二年の時のことである。その当時の担任は森田先生という50歳くらいの女性だった。ある日、視聴覚室で「チビデカ物語」という短編映像をみせられた。身体の小さい少年と身体の大きい少年の冒険談みたいなものだった。視聴後に感想を書くように言われた。何年か前に家に帰ったときに過去のノートをみたらその時の感想文があって読んだら面白かった。
「ちびデカというから刑事が登場し、事件を解決するものと期待していたら全く予想に反して学校の物語だったのでつまらなかった。最初のシーンで壁をやぶらないのは何故なのだろう。意味がない。あのまま学校を飛び出し、二人が逃走の果てに何かをみつけるのかと思っていたのに。」
だいたいこんなことが書かれていた。先生のコメントは確か「あなたが作品とは全然関係ないことについて書いてあってとても残念です」だった。
あのころの感想文や作文をいま読んでみたいがもうなくなっているのだろうな。これから先の学校の授業で書いた作文は全部デジタル化してアーカイブにしておいてもらいたい。あるいはPCで書いてウェブにアップするなどの方法で共有するのもいい。小学生の頃の作文をいつでも読めたら何かが変わるかもしれないし。個人の創作物のアーカイブがあったらそれがどんな作品や作文であっても自分にとっては価値がある。小学生の頃に書いたテストの答案や自分が書いたいろんなもの全てをもう一度みてみたい。
※驚いたことに「ちびでか物語」をネットで検索してみたらいくつかでてきた。解説があったので引用しておく。
投稿者 TKM : 06:38 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月23日
[雑記] 神取忍の手
昨日の出来事。
■新宿でミスター女子プロレスこと神取忍さんと遭遇。握手をした。
神取忍は選挙のプロモーションで少し疲れているように見えた。リングでの戦いは肉体的な負荷との戦いだが政治の場では精神面で負荷が高まるのだろうか。握手をした手に力がなかった。
「御輿に乗る」という言い方があるけれど昨日の神取は御輿(仕掛け)の重強い空気に押され吸収されているような印象を受けた。
神取の気も気政治家にありがちな「ウワッ」っとしたものではなくちょっと押したら倒れてしまいそうな線の細さを感じさせた
■将棋公式戦(NHK杯)で「the most scarcely to happen」な勝ち手。「二歩」の瞬間を見た
もう10年以上、将棋を指していないのだがこの映像には驚かされた。プロでもこんなことってあるのだ。冗談かと思ったが思わず地声で「打っちゃったよ、打っちゃった」と声を上げる解説者や対戦相手のやり場のない表情を見るとドッキリではなく実際の試合であることがわかる。
羽生や一部の高名な棋士の名前は知っているがほとんどのプロ棋士の名前を僕は知らない。しかし「豊川孝弘六段」の名前は当分は忘れないだろう。将棋素人の自分でも豊川氏の打った「二歩」は将棋史上かなり稀な出来事だということはわかる。
ここ数ヶ月でクオリティ・成績ともに驚異的な成長を遂げているやまけんだがこの人の食いっぷりもなかなかの「食い倒れ者」(歌舞伎者ではない)である。さりげなく二つのメニューを攻めるあたりはやまけんにも共通する「食い」だ。さすがにTVチャンピオン優勝の看板は伊達ではないなと思った。
投稿者 TKM : 06:01 | コメント (1) | トラックバック
2004年06月22日
[雑記] 仕事とチーム
痛めた手首は完治とはほど遠いが多少は良くなってきた。
友人・知人からブログについて質問されることが多い。
初めてブログをやる人にはロリポップを運営しているpaperboy&co.のブログサービス「寿限無」を紹介している。「寿限無」は後発のブログサービスだが優れたユーザインタフェイスとセンスが俊逸だ。
「寿限無」のメールマガジンではジュゲムで運営されているサイトをいくつか紹介するコーナーがある。そこで紹介されていたサイトをみた。
世の中には文章の上手な人というのがいるものだと感心した。
自分には書けない種類の文章だ。
やまけんの文章も面白いと思うが上記のサイトのように抑制のきいた文章も好きだ。
今日は新宿でミーティングが2本。
部屋ではバシ師匠が布団に突っ伏して眠っている。
バシ師匠はオレの兄貴分でクールではないが優しいナイスガイである。
昨夜はバシ、オレ、タケ、やまけんというメンツでおそくまで盛り上がった。
こういう夜は月島に住んでいて良かったなと思う。
タケはいまごろは株主総会の準備で忙しくしているだろう。
やまけんは原稿を書いているだろうか。
あるいは昨夜貸したPRIDEのビデオを観ているかもしれない。
「誰と仕事をするか」が自分にとっては大切だと前に書いた。
もうひとつ大事な要素がある。
自分のモチベーションについて考えていたときに気がついた。
僕は単独で仕事をするよりも「チーム」で仕事をすることが好きだ。
「チーム」といっても仲良しクラブではないが。
投稿者 TKM : 09:39 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月20日
[雑記] イスから転倒~図書館のスラム化が進んでいる
エアコンの掃除をしようとして「イス(足がキャスターになっている)→机」の順番で登っていったら机に右足をかけたところでキャスターが滑って豪快にイスから床に落ちた。高さにしたら1m弱とたいしたことはない。受け身をとったのだがおいてあったリラックスチェアーの足に右手首をしたたかに打ち付けた。
昨年末に右肩を骨折して以来の痛みにしばしのたうち回る。
手首をやってしまったらキーボードも打てなくなるので暗鬱とした気持ちになるが一拍おいて脳に届いた痛みが意識を現実に引き戻す。肘も同時に打ち付けたらしくスリキズがあるが骨は大丈夫なようである。
手首をチェックしてみると外側の筋はかなりのダメージをうけている。手のひらをついて後ろによりかかるというような動きをすると鋭い痛みが走る。甲を内側に向ける運動をする分には大丈夫だ。筋の損傷だろう。とりあえず炎症用の湿布を探してきて応急処置をした。
「北の国から」の何回目だったかで邦衛が屋根から落ちるシーンがある。
落下しながらあのシーンを思った。
頭で考えるよりも早く身体が反応した。
受け身がとれなかった場合は重量の思い頭部から落下していたのだろうか。
ともかく運が良かった。
その30分前、図書館に本を返しにいった。
日曜の図書館はいつもにもまして図書館人(虚ろな目で図書館に滞在している気配の薄い人々)が多い。同じ場所にいると陰鬱な気分が伝播してくる。彼らはあそこで何をしているのだろう。早々に退散した。
図書館はインフラ面ではなく人的なアメニティを最重要課題の一つとして検討すべきである。あれでは図書館ではなくスラムだ。
ラース・フォン・トリアーの「キングダム」にでてきそうな人々が虚ろに時を浪費している。
図書館のスラム化が進む背景には街のスラム化も関連しているのだろうか。
中央区の隅田川沿いテラスにもここ3年でホームレスのテントが急増している。僕が引っ越してきた10年前にはあの界隈にホームレスは皆無だったことを考えると絶対数が増加しているのだろう。
コンビニ化とスラム化の度合いには関係があるように思う。コンビニ化が進むとコミュニティの重要性が薄れるから街にはスキ間ができる。スキ間が文化や遊びをつくる場に向かえばいいが大抵はスラム化の温床となる。スラムは街のグレイゾーンに沿って拡大している。こうした動きは生物的だ。制御はないのに全体では統制がとれているかのようだ。散逸的である。
投稿者 TKM : 13:12 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月19日
[雑記] 「お得意」って誰?
気になる言葉があるのでメモ。
広告業界に特有の用法なのかもしれないが、
「いやー、お得意が○○○」
「でも、お得意が○○○」
「お得意の意向で」
広告関連の業務に携わる人は上記のような言い方をする人が多い。
ここでいう「お得意」とはクライアント・依頼主なわけだが広告業界では何故か上記のような言い方が一般化している。
上記のような婉曲的な言い回しを好むのには特別な理由があるのであろうか。
NDA(Non-Disclosure Agreement)など契約上の理由で相手企業名を明示できないのであればわかるのだが。そうでない場合は少なくともチーム内で「お得意」という匿名性の高い用語を使う理由は皆無だ。
相手の企業がトヨタならばトヨタと言えばいいしソニーであればソニーの担当がと言えばいいではないか。不利益にならない限りそれが道理だと思うのだが。
何故、曖昧な言い回しで表現を試みるのか理解に苦しむ。
極めて特殊な日本語の使い方だと思った。
投稿者 TKM : 18:35 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月18日
[雑記] コンビニ化する世界
梅雨はどこにいったのかいきなりの夏日よりが続いている。
昨日は父と妹を交えて酒席。
退職後はボランティアで母のやっている図書館の仕事を手伝うとのことだった。
週末は福島で送別会があるのだが僕は参加できないのでかわりに妹が行くことになった。
父の送別会が行われる店の名は「ペペ」。
赴任してはじめていった店で父は13年間も通っている。
2月に帰郷した際、五年ぶりくらいに顔を出した。
前の店でたくさん食べてからいったのだが「トモ君、お寿司とってあるから食べてってね」と言われて断るような無粋な真似はしない。
食い倒れ党員として外せないポイントだ。
昨日は宿泊しているホテルが品川とのことだったので品川を攻めることにした。
そんなわけで久しぶりに訪れた品川だが以前は「駅」という感じだったのがいまは巨大な「ステーション」というべきだろう。中央改札を抜けるとだだっ広い広場になっている。ずっと工事中だった駅の東側には駅ビルが完成していた。
広場にはものすごい数のサラリーマン風の人々が行き交う。
ほとんどの人が勤め人に見える。
オフィス棟からワサワサと人がはき出されている。
妹が店を探しておいてくれる手はずになっていたので連絡してみるとどこも一杯で入れないとのことだった。最近は木曜日になると人々が飲み屋に殺到するらしい。合流して相談することにした。
品川で入る店がないとは笑ってしまう。
笑ってしまうがどの店も並んでいる。どんなにショボいチェーン系の店でも入り口にはネクタイ姿の人々がウロウロしている。ため息をつきたい気分だ。アホらくしなったので別な町に移動しようと提案する。タクシー乗り場に向かう途中に通りかかったビルにも商業施設が併設されていた。
妹が空き状況を確かめにいった。
15分くらいで空くとのことだったので2階のカフェで一休みしてから店にいくことにした。汐留や六本木もそうなのだがそれらのビル街は表面的には先進的で綺麗だ。しかし中身はコンビニという印象がぬぐえない。
どの店もサービス、味、ともに「コンビニ」な感じがするのである。
心がないというか。
人がないというか。
それが絶対的な理由というわけでもないが小ぎれいなだけの店はどうにも好きになれない。グローバルダイニング系の店とかゼットンとかキリストンカフェとかダイニング系の店は総じて「コンビニ」っぽいというかインチキくさい感じがしてダメなのだ。
と話はそれたが品川の街も六本木や汐留と同じで「コンビニ」であった。
日本全体が「コンビニ化」しているのだろうか。
コンビニそのものは素晴らしい発明だと思うのだがあのトーンがあらゆる店に適応されるのは全くうれしくないな。
投稿者 TKM : 15:06 | コメント (4) | トラックバック
2004年06月17日
[雑記] 気持ちのいい朝と幸せな夢
久しぶりに夜に眠って早朝に目覚めた。
気分はよい、旅館の朝みたいだ。
しかも今晩はうちの父と酒席である。
ブログの更新も滞っていたので起きてすぐ何かメモしておこうと画面に向かうと
何故か尾崎豊のOh my little girlの歌い出しが頭の中で流れる。
「こんなーにもー」
そう「こんなーにもー」な気分なのだ。
鳥がチュンチュン鳴いてるし、朝がこんなにも気持ちがいいのも何だかなあ、という複雑な気持ちだ。いつもはこの時間はまだ帰宅していない。どこかで本を読んでるのが常だ。
夜に眠った効用は他にもあって夢が心地よかった。
僕は割にしっかりと夢の中身を覚えている方で今朝方に見た夢は10人くらいの人が登場した。夢の中でも眠っていた。大きな部屋で10人くらいで眠る。みんな友達でいろいろ話をしながら眠った。
寒かったので隣の子に腕枕をしてあげると少し暖かくなった。周りからは優しい気配がする。
「寒いのかい」
友人に訊かれた。みんなでサッカーの試合をしなければならない。場所はうちの庭で四角いコートではない。いまはなくなってしまった昭和か大正の頃のゴミ捨て場の穴(3メートル四方)をよけて試合をしなければならない。
その少し前に船に乗っていた。
船は港の近くで氷に包まれた。
マリオブラザーズのように一人を振り回して氷を滑らせて向こうにぶつける、ということをやっていたら電車を降りた朝のラッシュのように乗客が乗り込んできてぶつかって飛んでいきそうになった。みんな怪訝な顔をしているがこちらは海賊なので何をやっても赦される。
再び10人くらいで眠っている。
心地よくみんなの寝息に包まれている。
そして目覚めた。
「ダ・ヴィンチ・コード」についていくつかコメントをいただいた。
作品についてのコメントを書いていなかったので朝のトレーニングから戻ったら書いておこう。その後で「天使と悪魔」も読み進めることにしよう。
気持ちのいい夢のおかげで旅行先の旅館ばりにいい朝を迎えている。
投稿者 TKM : 04:51 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月14日
[雑記] 夜の残骸、久しぶりに侠をみた
誓いには力がある。
言葉には力がある。
世の中には間違ったこともある。
築地のローソンの前に少年達が4人地べたに座ってラーメンを食べていた。
時刻は午前2時。
彼らはジョナサンへとつづく階段の前に座っていた。
ローソンで用事を済まして外に出ると彼らの姿は無かった。
彼らがいたあたりにカップラーメンの残骸が見事に散らばっていた。
二つの器は乱雑に重ねられ、二つはアスファルトの上にひっくり返っていた。
乱雑に飛び散った割り箸は彼らの心象風景のように見えた。
自分がナイーブなのだろうか。
僕はこうした風景をみるといいようのない感情につつまれる。
何故かれらがそうするのか、本当に自分にはわからない。
安易さが理由なのだろうか。
こう考えること自体が自分の安易かもしれないがその風景をみていると「病んでいる」と感じた。
外国の街は綺麗なわけじゃない。
アジアには薄汚れた街もある。
けれどアスファルトの上に散らばった割り箸とカップラーメンの残骸はそれ以上にとてもすさんで見えた。
何が正しくて何が間違っているかはコンテクストによって異なる。
目の前に散らばったゴミや残骸は生きるか死ぬかという問題に比べれば些細だ。
けれど、これは間違っている、そう思った。
考え事をしながら帰り道。
家の前にある小さな橋の丁度真ん中にさしかかったところでふと空をみあげた。
北東の空に細い線のような月が顔をのぞかせていた。
それは黒い紙に引かれた切れ目のようだった。
橙色の光が静かに輝いていた。
++++++
朝を迎える少し前の午前2時30分。
AERAの記事を読んだ。
愛読している「現代の肖像」を読む。
今回は丸山健二であった。
丸山健二を初めて読んだのは20歳の頃だった。
その頃はどんな人なのか知らなかった。
アエラの記事は俊逸であった。
久しぶりにいい記事だなと思った。
丸山健二が高校生の頃はチェーンをもって喧嘩ばかりしていたとは知らなかった。
「作家になっていなければ極道になっていた」とは本人の弁だが掲載されている写真のせいだろう「確かに」と納得した。
それにしてもカッコいい記事だった。
忘れずに図書館でコピーしておこうと思った。
まだ最初の数分しかみていないが義家弘介さんのドキュメンタリーを見た。
彼の姿をみた瞬間に「こんないい男がいたのか」と思った。
ボクサーの畑山を教師にして真田広之のトーンをかぶせて侠にしたようないまの時代に全く出会ったことのない凛とした人であった。
彼が過去を振り返り恩師とのエピソードについて語る場面があるのだがその場面を見ていたら感極まって泣いていた。人はなんの人であってもいいけれど心の人であるべきだと思った。心に素直に生きること、それを誓った。心のうちにあることや普段は言葉にできていなかった奥にある思いを話しながら涙で濡れた顔をあらった。
投稿者 TKM : 04:07 | コメント (5) | トラックバック
2004年06月13日
[雑記] 理解の意味
いい小説を読むことは人生最良の時間の過ごし方の一つである。
今朝はそう思った。
夜。
友人から電話があってバーで話す。
ワーっと話したいが久しぶりに酒を口にしたせいか頭の回転が鈍る。
訪ねられて少し考える。
「つき合ってる人っているの?」
男の人にも女の人にも年代を問わずいつも訊かれる質問である。
大抵は答えない。つき合ってる人がいたら何がどう変わるのだろう。
自分にはわからない。何かを張れるとかそういうことなのだろうか。
そういう意味でいったらおそらく対象が誰であろうとその場でそうしたいと思えばそうするし、心が動かなければ相手が誰であっても何もしない。つき合う?この言葉だけは中学の頃からいまだに意味がわからない。買い物につき合うし、飲みにもつき合うが。もっと正確にいきたい。外国語で話してる時はこんなの何も考えないので不思議だ。「つき合う」って英語あったっけ?
(’私事でなんだがオレはずっとこんなどうでもいい話をしているのが好きだ。まあ全うな職は向いていない性格だと思う)
意味はわからない。
それはオレにはつき合ってる人はいない、ということなのだろうか。
想われたいと願うし、自分も想うことはあってもそれは「つき合う」とは全く無縁だ。
同様に親密さや仲の良さも「つき合う」という曖昧な関係性とは別なものだ。
全然、これとは関係ないけれどオレが思う一つのキーワードは「理解」という言葉だ。
人はいつも誰かに理解されたいと願っているし、理解(されていようといまいと)されたと感じるときに安らぎを感じる。少なくともオレの場合はそうだ。なのでオレはこれが大切なことだと思っている。人が憤るのはたいてい事実がどうあれ本人が理解されていないと感じる時だ。
++++++
ある晩、といっても午前2時過ぎ、北京から東京に来ているという中国人の青年に道を聞かれた。彼はタバコを差し出して僕に道を聞いた。それだけの関係だが彼と飲みたいなと思った。彼もそう思ったそうだ。二人で飲みに行った。彼は翌日の飛行機で北京に帰るという。上野駅まで一緒にいった。
「日本に来て友達ができた。本当に友達が出来た。必ず北京に来て欲しい。北京には家が三つあるから絶対に不自由はさせない。北京に来て欲しい。」
そういって彼は堅く僕の手を握った。
彼は特急がホームから去るまでずっと手を降り続けていた。
国民性が云々とか国や文化がどうこうというが。
人対人でやる場合、そんなものは関係ない。
アメリカ人でも中国人でもタイ人でも友達は友達だ。
逆に日本人でも嫌いな奴はとことん嫌いだ。
人との関係というのはそういうものだと思うのだ。
僕が思うのは自分達たちはいつか死ぬということだ。
どうせいつか死ぬなら優しくいたいと思う。
いつか終わるこの命なのだ。
どう終わらせるにせよ、それだけは守りたい。
人を傷つけるのは簡単だ。
自分のエゴをぶつければいい。
他者が自分の思うように動かない時に皮肉を言えばいい。
文句を言えばいい。
人を傷つけることは優しくすることに比べれば驚くほどたやすい。
しかし、たやすいことをやっても仕方がないだろう。
簡単には出来ないことをやるから面白いのだ。
いいじゃん、どうしようもなくダメに生きててもさ。
死にそうになっても優しさを失わないなら、迷わずオレは買うね。
バリバリにエネルギッシュでガンガンいってる、でも、優しさはないよって人は死ぬときにみんなに思われる「ああ死んでよかった、一安心、一休、一休」って。
まあうまく言えないのだけれど。
いろんなものを全部とっぱらって、家だとか、ポジションだとか、そういうのを全部とっぱらったときに何が残るのか。その時に残ったもので人を見たらいいと思う。これはオレの考えだけれど相手をどれだけ想えるか(同性、異性、年代に限らず)そこに人があらわれるとオレは思う。それ以外に何かあるだろうか。
現実?
アホじゃあるまいし、この日本で心で生きて生きていけないことはない。
そのくらいの余裕はできてるはずと思ってる。
みんな道に迷うと何で外国や沖縄にいきたがるのか。
ずっとわからなかったけれど沖縄や外国にいった人の気持ちも少しわかるようになった。陸続きじゃない外にいくと多少は優しくなれる確かに。緩いけれど、ゆるくてもいいのかなとも思う。何がよくて何が悪いのかなんて絶対的なルールはない。メディアがぶっこわれて、マネーシステムもぶっこわれて、というか無くなったらまたドンガラガラいろんな関係が変わっていく。
そういえば小学校の教室の権力構造にはマネーシステムはあんまり影響してなかったな、うちの田舎の場合は。
とりとめもない雑記であるが物事は案外とシンプルなのだと思う。
おそらく違いっていっても肉体があるか無いかとか、根本はその程度の違いだけだ。
投稿者 TKM : 03:24 | コメント (2) | トラックバック
2004年06月12日
[雑記] 野球がやりたければ天気を嘆くよりもドームをつくればいいし、冬が嫌いなら夏と一緒に移動すればいい
改めて書くのでとりあえずメモとして。
KNNにプラグインが素晴らしいとあったので今朝はじめてlivedoorブログを使ってみた。メジャーポータルの比較レポートを作成しているので各ポータルのアカウントは持っている。
ASP型のBlogサービスとしてはココログやjugem、myprofile、はてなダイアリーを試していた。ライブドアはまだだったので雰囲気をみておきたかった。
ブログサービスならどれを使っても大差はないのだろうと思っていたのだが予想外にサービスによってそれぞれ特徴があることがわかった。
結論からいうとライブドアブログは良くできているが僕の好みではない。
表面的なことだがテンプレートのセンスが自分の思想とは決定的に合わない。もう少し細かくいうとデザインを含めたインターフェイスの楽しさの方向性が自分のセンスとは異なるのである。(逆にjugemのインターフェイスのセンスの良さはバツグンでその俊逸さが際だつ)
一群のテンプレートが企業としての遺伝子に起因するフェノタイプなのかどうかは推測するほかないが僕の心証は「YES」である。が、「逆も真なりと申しますか。ブーイングもある意味人気のあらわれなんだよね」という猪木の名(迷)言にもあるようにアクの強さはそれを良しと捉えるならばプラス要因ともとれるし、あのセンスに同意する人々も多数存在することもまた事実である。
話は飛ぶがPCにおけるMacのシェアは3%くらいだときいた。
たった3%のシェアでもあれだけ巨大なビジネスが成立するのかととても感心した。
ならばBlogサービスでもそれは同じだろうと僕は思うのだ。
問題の本質はシェアの大小ではなく、マーケットサイズの認識の仕方である。
マーケットサイズによってとられるべき戦略は異なる。
Blogとビジネスの関係については今後様々な議論がなされ、実践されていくだろうがポイントは変わらない。的確な状況認識に基づく適正な意志決定をしていくという実に当たり前のことができるかどうか。ポイントはそれにつきる。
僕は99%、つまりほとんどポータルというサービスを利用していない。一方でポータルを利用する人々はまだ存在するし、おそらくいつまでも存在し続ける。割合が変わるだけで消えることはない。
ASP型のBlogも今後増えるし幾つかのメジャー系に集約されてもいく。
ユーザは自分のセンスに合致するサービスを選択するし、それをつかって企業が何をやるかは各企業の戦略によって異なる。
僕が好きであろうとなかろうとライブドアBlogを使う人もいればはてなダイアリーを使う人もいる、それらのサービスを利用する人々は必ず存在する。そういう風にできている。割合が変動するだけなのだ。
僕はほとんどTVをみない。特に昼間の番組、ゴールデンタイムの番組は全く見ない。けれどいまだにその時間帯には何百万人もの人々が四角い箱の表面を眺めることに時間を費やしている。膨大な数の人々が来る日も来る日も2次元の板の表面を眺め続けている。その人々はいつか消えるのか?否、消えない。割合が変わるだけで決して、消えることはない。またそれを嘆くことも間違いである。それは地球の回転方向にけちをつけているようなものだ。
政治にしてもそう。現状を変えようとする人々がいる一方、現状を維持したい人もいる。「どうして日本はこうなんだ」と憤る人もいればそう感じない人もいる。けれどそれもいたって正常な状態である。
意見が一つに統合されてしまうことはない。
どうしたって存在するものに文句をいってもはじまらない。
妙に憤る人々は解決法とポジションを間違えている。
ポイントはそれが必ず存在するということである。
抽象的な言い方になるけれど、例えばどうしても野球をしたいとする。雨の日だろうと風の日だろうと野球がやりたい。けれど、いまはまだ天気をコントロールする方法がない。だったらなら天気を嘆くなんてことはやめてドームをつくったり、自分が晴れの場所にいけばいい。
解決法ってそういうものだと僕は思うのだ。
晴れを作り出す方法はひとつじゃないし、雨を否定することでもない。
雨にだって何かしらの関係性がある。
そこには原因がある。
現象はなんらかのフェノタイプであり本質は別なところにある。
僕がいいたいのはそこなのだ。
嘆くよりはドームをつくればいいし、冬が嫌いなら夏と一緒に移動すればいい。
物事はやり方次第でいかようにでも遊べる、というのが僕の提案である。
投稿者 TKM : 15:30 | コメント (1) | トラックバック
2004年06月07日
[雑記] プランニングからみる仕事とコンセプトと
仕事について思うことをメモしておきたい。
これまでプラニング・ディレクションという立場でネットワーク関連、コンテンツ関連の仕事を中心にやってきた。自分には結構向いている仕事ではあったと思う。
しかし、先週やまけんから貰ったメールをみてふと気がついた。
実は自分は「仕事の内容」にはほとんど興味がない。
自分にとって一番大切なのは「誰と仕事をするのか」という部分なのだ。
企画にたとえるとこれはコンセプトにあたる。
コンセプトがたっていないと衝撃や事件があるたびに企画の方向性がブレる。
ここがぐらぐらしていると企画という虚像を実体化させることは難しい。
またできあがったモノやサービスに勢いをつけることができない。
企画におけるコンセプトの役割は「信頼感」の創造にある。
これがないと人は動かないし、動けない。
人が何かを面白いと感じる時、そこには理由がある。
大切なのはそこだ。
それが企画を走らせるエンジンになる。
仕事をプランニングにたとえると僕のコンセプトは、
「人と仕事をする」
これに尽きる。
投稿者 TKM : 17:36 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月06日
[雑記] 人のつながりとチェロの音
連日、イベントが続いている。箇条書きでメモしておこう。
・電通の及川さんへもろもろヒヤリング。話がリンクしていきいろいろとインスパイヤされる。本もいいのだが人の話を聞くのが一番勉強になる。
・電車男を読む。
・夜にやまけんらと韓国料理の会。プルコギを堪能したあとアイリッシュパブにいく。美人チェリストと知り合う。カッコいいね、といったら笑って演奏してくた。深夜のバーにヨーヨーマの曲が流れた。
・次の日は銀座。みんなの始発を待つ間、時間をつぶすのにビックエコーに入る。ここで衝撃が走った。なんと羽賀のネバーエンディングストーリーがDAMに登場したのである。はじめての体験だ。ここ数年の音楽体験で一番のインパクトであった。羽賀バージョン、素晴らしすぎる。
・下妻物語を観る。これまた素晴らしすぎる。土屋アンナがいい。ひさびさに惚れた。3カ所くらいセリフが痛い場所があったがそれ以外は最高であった。
・「ナップスター狂想曲」を読み始める。ナップスター騒動の背景を初めて知った。ショーン、いい男だわ。日本との温度差に少し愕然とした。
・直子さんの手伝いで祖師ヶ谷大蔵。ご飯がウマすぎる。久しぶりに和食三昧を楽しむ。うまかったので炊き込みご飯と各種煮物を頂いて帰路。大江戸線の最終は六本木に向かう外国人と日本人で混み合っていた。六本木で車内の9割の乗客が降りていった。
先ほどいただいたおみやげを夜食に少しつまんでみる。
ウマすぎる。レバーの煮物が最高である。
梅田さんのブログをみたら鈴木健君のことが書かれていた。
彼は伝播貨幣という新しい概念の貨幣を研究している。
鈴木君とは何度か飲みに行ったことがあって、毎回いろいろバカ話をして盛り上がった記憶がある。
こんなところで糸はつながっていたのか。
彼のブログもぱらぱらとみてみる。
すると安斎さんと中村さんというアーティストとの会話について書いてある。この二人とは僕の師匠の野知さんがつながっていて、野知さんは中国にいた頃から二人とは友達である。
と、実はいろいろなところでリアルな人々がつながっていることがわかってきた。
ソーシャルネットワークサービス(GreeやOrkut)とは違うカタチでストーリー的に関係性が顕在化していくこのプロセスはとても面白いし興味深い。
回線、ポータル、検索、P2Pと来て次はこういう「リアルインターネット感覚」へとトレンドがシフトしていくんだろうな、とぼんやりと思った。
投稿者 TKM : 03:12 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月02日
[雑記] エッジとエリック・ホッファーと藤原惺窩
僕たちが使っている物や事、テクノロジー、技術もあと10年もすれば使い物にならなくなっているのだろうな。
どの時代であれ先端をかすめていられたらいいと思っているけれど日常が介入してくると途端に意識が分断される。ここでも信号理論が猛威をふるう。
先端てどんななんだろうと少し考えてみた。
ネットの世界の10年後はどうなっているのだろう。
ブラウザはまだあるだろうか。
携帯電話はどうなっているだろう。
ボタンはまだついているだろうか。
ある人からもらったメールに思いがけず「エリック・ホッファー」の名前を見つけた。
久しぶりに「魂の錬金術」をパラパラとめくってみた。
開いたページの最後にあった一節を引用したい。
生活に必要とされるものがフリーになる世界はいずれ訪れるかもしれない。
しかし、創造には必ずコストが伴う。
それは金銭という意味でのコストではなく労力という意味でのコストであり、何かをつくり出すためには己の能力を引き出さなければならない。
辛いわけではないが「楽」とも違う。
「楽しさ」を求めよ、という思考とも異なる。
自分との対話、あるいは個と弧の向こう側といったらいいだろうか。
創造の場では他の誰かではなく自分との対峙が強いられる。
アスリート、アーティスト、仕事人、ビジネスマン、親、どのようなコンテクストにおいても何かをつくるという場では必ず自己との対峙が強いられる。対峙を避けることは容易い。しかし対峙しなければ得られないものがある。創造とはそういう種類の悦びだと思う。
踏み出すときはいつも怖い。
いまだに知らない人に声をかけるときは臆する。
人に心を開くとき自分は無防備である。
拒絶は死に値する。
それでも勇気を振り絞り人と話す。
自分は社交的な人間だと思われているかもしれないが常に臆している。
人と交わることは底のない虚空への飛翔である。
藤原惺窩を論じた江藤先生の本にあった一文である。
その一文と江藤先生のゼミにきていたアメリカ人の学生が亡くなった時に先生が書いたエッセイのことをいまでも時々思い出す。
自分にとっても人と交わることは虚空への飛翔である。
だから人といい加減につきあうことができない。
話すなら理解できないまでもその手前までは話したいし、知り合いたい。
どこまで踏み込んでいいものなのかいつも迷う。
外国人の友人と話すときみたいにはいかないのは何故なのだろう。
これは自分の勝手な考えだが。
学びたい人は自由に学ぶだけでいい、という世界ができればいいと思う。
江戸時代には儒学者という職業がなりたっていた。
それも一つの先端だったのだろうし、この世界が生者の世界である限り常に先端なのだと思う。
◆藤原惺窩
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P321C100.HTM
投稿者 TKM : 07:27 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月01日
[雑記] 信号理論
なんてことはないのだが「自在でいたい」といつも思っている。
あれをしてはいけないとか自分はこうあるべきとか大体の前提やら枠、規定というものは実体を持たないし思ったほど強固ではない。
「いまからこうしよう」
そう思えばそれで消えてしまう、という程度のものでしかない。大勢が枠や規定を共有しているから強固に見えるだけでなんてことはないのである。と、そこで考えてみると多くの場合、「あーあ」なんてため息をつくのはそうした実体のない枠への確執だったりするわけで、なんてアホらしい時間を過ごしてきたのだろう、と思うわけだ。
ちょっと先の未来を前提に生きているけれどそれだって定かではない。
だから何ってことがあるわけじゃないけれど。
昼間に街を自転車であるいているとやたらと信号機で止まる。
加速しては静止。
その度にもう一度こぎ出す。
これを繰り返す。
信号がなかったら一度こいだらその流れのままずーっと進んでいくのだが。
オレは勝手に「信号理論」と呼んでいるんだけれど、人の頭の中にもこうした信号みたいなのがたくさんあって、何かしようとすると信号で止められてまた加速、というのをやらなきゃいけない。これじゃあ疲れてしまうし、効率もよくない。
というわけで頭の中の信号機を取っ払って、車や人混みもとっぱらって、爽快なドライブ空間をつくってやる、という作業が必要なんではないかと思うのだ。それも定期的に。
というか歩行者と自転車だけだったら信号なんていらないよな。
海には信号がないし、空にも信号がない。
宇宙にも信号はない。
サハラ砂漠やアマゾンのジャングルにもないな。
投稿者 TKM : 17:54 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 面白い時間の使い方とバイチャンス理論
人にディレクションを任せるとロクなことはない。
久しぶりにブチ切れそうになる。
しかしこれもタケザワのバイチャンス理論を適用すればプラスであろう。
プロ以外とは仕事してはいけないのだ。
プロとの仕事には緊張感がある。
それはマイナスではない。
緊張感が薄いとどこかで取り組みや姿勢が緩くなるので面白さも消える。
結果として時間・精神的なコストが高くなる。
大体、仕事がつまらないのは自分が能力を最大限まで使わないからであり、そもそも100%の力を使わなくてもこなせる仕事をやっているからこうした不経済が発生する。こうしたマイナスのコストは極力避けなければならない。
自由な生活を1年やってみたが得たのは「暇」自体には価値がなく「面白い暇の使い方」がポイントでその知恵は「暇をつくること」の1000倍くらいの価値があるということだ。それは行動や思考のベースになる自分というコンテンツのフレームの構築であり、面白い人というのは自然体でこれが出来てしまっている人、という気がする。
「面白い時間の過ごし方」は静止からは生じない。
何らかの「動」や「流」との接点を持ち、それを取り込む必要がある。
ここでも大切なのは関係性だ。
あとはメモ。
人を使うのが下手な人は相手にやって欲しいことがわからない。
人を使うのが上手な人はやって欲しいことを伝えたうえで相手がやりたいと思う状態をつくる。
つまり一方は結果を含めた関係性をつくることに重点があり、もう一方は分断された結果だけをみる。
業種、業界、人種に関わらず人を使うのが上手な人はこのあたりのバランスがうまい。当たり前だが仕事をして気分が悪くなるよりは気分が良くなる方がいい。
こうしたことを無視して「どんな仕事でもよろこでやりましょう」というバカげた考え方をよしとするのは間違いである。仕事をしていて精神的なコストが高いようならそれはやり方のどこかに間違いがあるのだ。
投稿者 TKM : 16:37 | コメント (7) | トラックバック
[雑記] 先生と雨
晴海通りに面した築地のマンションの一階に警官が10人くらい集まっていた。
更に続々と集結しつつある。
パトカーも次々と到着する。
入り口で事情聴取が行われていた。
学生服の少年、40代の男性、同じく40代前後の女性、OL風の女性。
彼らの表情から察するに傷害事件ではないと思う。
強盗、もしくは窃盗団だろうか。
男性が身振り手振りで状況を説明している。
「築地はピッキング系の空き巣が多いんですよ」
以前、築地で鍵師を営む男性に話をきいたときにそういっていた。道具さえあれば時間はかかるがほとんどの鍵は解錠できるのだそうだ。
「だから鍵を変えるのは時間稼ぎなんです。泥棒は時間がかかる鍵は敬遠しますから。時間がかかればそれだけリスクが大きくなる。短時間にやれるところから狙うんです。」
鍵穴の方向が縦か横も重要なのだといっていた。
またドアが外開きか内開きかでも違うそうである。
内開きの方が安全らしく外開きだとバールなどをつかって物理的にドアを破壊するケースも多いらしい。
夜中でも朝方でも事件が起こると必ず鍵師が現場に呼ばれる。
「喜んでいいんだかなんだか。毎日出勤です。」
といって笑っていたがそのくらい中央区内の窃盗事件は多い。
以前、知り合いの会社の女性社員が帰宅途中の駅までの道でバイク強盗にあった。
暗がりといっても長屋や民家がならぶ下町の小道である。
まさかこんな場所で強盗にあうとは予想できない。
歩いていると後ろからきたスクーターの二人組が彼女の鞄を奪った。
相手はスクーターなので引きずられるように彼女は転倒し怪我をした。
数ヶ月してから犯人は捕まった。
余罪件数も多かった。
彼女は事件以来、後ろからスクーターの音が近づくと恐怖にさいなまれるという。
++++++
刀がまかり通った時代の切り捨て御免がいいとはいわないが犯罪に関してはやられる側だけにリスクが偏りすぎている。犯罪者は自由に犯罪を選べるが受け手である我々には防衛の手段が存在しない。コトが起こるのを待つだけである。
では銃で武装すれば犯罪件数は減るのかといえばそこに相関関係はない。
逆に犯罪件数は増えるだろう。
犯罪の原因の根本部分を解析していかないかぎり解決には結びつかない。
現象があって、それを押さえ込む、というのが現在の治安維持、防衛のやり方だが管理による抑制は恐怖社会しか生まない。逆のアプローチがあるはずだ。
犯罪の根本部分に根ざしているのは感情とお金だと思うのだが。
「悪い奴ほどよく眠る」という黒澤明の映画がある。
映画の中で夜もぐっすり眠れる悪人が登場するのだが現実に幸せな犯罪者は存在するのだろうか。
根元的な不安と恐怖が犯罪の発端にはある、という言い方はできるのだろうか。
犯罪は関係学的な出来事だと思う。理由は一つではない。様々な関係性によって引き起こされる。
昨夜、コンビニで江藤先生の最後の著作を見つけた。
石原慎太郎が寄せた一文を何度か読み返した。
先生の通夜の席で石原と江藤先生の共通の友人がぼそりとつぶやいた。
「あの雨さえなかったらな」
先生が亡くなる数日前、鎌倉に大雨が降った。
はじめてみるような大雨であった。
雨はいつやむともなく降り続けた。
そして先生は命を絶った。
数日前、先生は再起を誓う手紙を石原に送っていた。
だから石原も安心していたのだ。
石原の文章を何度か読み返してから外にでると雨がぱらぱらと降り出した。
■関連図書

人と心と言葉
江藤 淳

妻と私
江藤 淳

こころ
夏目 漱石
投稿者 TKM : 13:15 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 巡視船と月島ともんじゃとアンナ・クロニコワ
先週はあっという間に過ぎていった。
水曜日。
退職する父に手紙を書いた。
何年ぶりかで書く手書きの手紙である。
それにしても自分でも嫌になるほど字が下手だ。
木曜日。
スターウォーズ展。
金曜日。
Appleストアのライブへ。
土曜日。
梅田望夫さんのオフ会でお話を聞いた。
声優にスカウトしたいと思うくらい声優声であった。
質問しようと思っていくつか問いを考えたのだが気分が昂揚しない。
話しかけたくなるような人がいなかったのは自分の問題なのだろうか。
いろいろな場所でいつも感じるのだが何かが違うのだ。
明けて日曜日。
海上保安庁の観閲式に参戦した。
海上自衛隊と勘違いしていたので巡視船の白い船体をみて「へえ、人を乗せるようの白い船もあるんだ」とナイーブな感想を持ってしまった。何のことはない自衛艦ではないのだから当たり前である。
洋上でのイベントは予想に反して面白かった。
海賊船を拿捕する演習や海上火災の消化訓練、賊を追う海上チェイスなどなどアクション映画系の訓練が続く。訓練中、女性のナレーションが入るのだがこれがセリフ棒読みそのままで逆にツボにはまっている。シナリオや演出のチープさと巨大な船と海のロマンが一体化し独特のエンターテイメントワールドを作り出している。
訓練観戦を終え帰港するまで海上保安庁の職員だった方の案内でブリッジをみせていただく。
ブリッジは5階建てのビルくらいの高さがありそうだ。
登っていくとそれまで観ていた風景とは別世界に爽快な視界が広がっていた。
ブリッジから眺める海はロマンを感じさせた。
晴海埠頭に帰港してからみんなで魚仁を攻める。
魚仁デビュー戦のしんのすけ・金子の両名も豪快な盛りと海の後のビールにご満悦の様子であった。
その後、しんのすけと分かれて男3人で銭湯へ。
やはり銭湯は仲間といくと面白い。
海風でべたついていた身体を洗い流し一気に爽快モードになる。
その後、第二ラウンド。
元プロテニスプレイヤーのまどかさん、老舗の呉服屋の看板娘のハナを迎えて月島でモンジャの夕べが開催された。
まどかさんは10代の頃にアンナ・クロニコワと練習したことがあるといっていた。
こんなところでつながるとは。
1年くらい前にTIME MAGAZINEのオメガの広告に出ているアンナ・クロニコワをみたとき「どうせならアンナ・クロニコワと知り合いになれるようなことをやりたいよな」と思ったのだがかなり細いが糸は少しだけつながったようである。
宴の後、ふらふらになってやまけんが「カガヤー、ほか弁買っていいか」というので「やめときなさい」と一喝。今日、二度目の魚仁で反省会となる。食い倒れパワーで兜煮やらいろいろやまけんが注文してくる。
「やっぱり電車がなくなった」と金子から電話があった。
その後、戻ってきた金子とサッカー観戦中のタケも加わった。
長い一日とにぎやかな月島の夜が暮れていく。
投稿者 TKM : 01:57 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月28日
[雑記] 久々に雑記・雑記・雑記
■雑記開始
ここ数回、勝手にテキストの練習をやっていたが今日は少し休憩して普通に書いてみよう。普通に書くとどうなるかというと何も考えずに書くことになり、かなり楽であり、意味もなく、誰にわかりやすく書く必要もなく、読む必要もないわけなのでこのテキストは読む必要がない。
夜中に退職する父に手紙を書いて京橋の郵便局(24時間やってる)で出すつもりがあっさり忘れて帰ってきてしまった。そもそも何故、午前1時に虎ノ門だったのか。
スターウォーズ展は予想を遙かに超え充実の時間を過ごせた。
しかし自分が観ていたのは単体の展示物ではなくスターウォーズという言葉の向こう側に広がる何かであったように思う。
一言だけ感想をいうと「モノ力」はすごいという一語に尽きる。
詳細はあとで書くとしてこれだけはメモっておきたい。
虎ノ門からの帰り道、午前6時過ぎだが、スターウォーズは映画としては全く面白くない。しかしそれは映画という視点で考えるからそうなるわけで、たった数百分の映像が産業として成り立っていると考えると別な印象を受ける。エジプトのピラミッドが建てられてから随分経つのにいまだにエジプトに利益を生み続けているのと同じ、というか、グラハムハンコックや不思議主義者がいうようなトランス近代社会で神秘主義的な意味付けよりいっちゃあなんだがただの墓がいつまでも利益を産んでいるというそのことがすごいことだと思う。ピラミッドが地球の龍脈やら宇宙的な意味を持ってるかもとかそんなことよりもあれが観光資源としてエジプトの人々の役に立っているというその部分の方がよっぽどアメージングだ。
■スターウォーズは実体のない情報
スターウォーズもいってみれば現物のない映像の帯なわけでそれが産業規模にまで発展しそうな価値を持っているという事実がすごい。スターウォーズという世界観や概念は実体のない映像情報でそれ自体は食ったり飲んだり、気持ちよくなったり、叩いたり、伸ばしたりできるわけではない。
世界というのはある程度、満ち足りてくるといきなり価値がシフトして情報に向かっていく。これはもう鉄則みたいなもので、現物が足りると次は必ず情報価値に向かう。「食い倒れ」にしたって同じだ。うまいまずいは食が足りてのこと。食が足りなければうまいもまずいもない。喉がカラカラならどんな食い物よりも水のほうがうまい。ようは「食い倒れ」も情報価値というわけだ。
あと思うんだけれどうまい店は理解できる。問題はだ、まずい店があることだ。まずいものでも食べる人がいるからどんなにマズイ店でも成立しているわけだが。じゃあ、明日からいきなり全員が「マズいものはやめます」と宣言したらどのくらいの店が消えるのだろう。と、オレがいいたいのは問題の本質はうまいものを知っているとか食っているということじゃなくて、マズイものが何でそこに存在できているのかというそこがポイントだろうと思うわけだ。ウマイマズイにも市場経済が機能するならマズいものは消えてしかるべきじゃないのか?
市場経済ってのは情報がフラットに存在していてはじめて機能するけれど、そもそもの情報が偏向していたら機能するはずがない。で、問題は情報が偏向しているということだ。
せっかくなんで更にメモしておこう。
近代社会と経済についてちょっとだけ勉強していたら社会というのはガラガラガラガラといつも天変地異ばりの変化をしているのだなあと思った。
■インフレで債務超過が消える
国が債務超過になる→通過を切り下げる→インフレになる→債務が消える→新通貨を発行して旧通貨を廃しする→お国双六のふりだしに戻る
というサイクルを繰り返している。江戸時代、いや室町の頃から日本はこれを繰り返している。徳政令なんてバンバンやっている。年に13回もやった頃もある。江戸時代にも「相対済まし令」なんてのを発令していきなり民事不介入である。
その頃には公事士という民間の弁護士みたいなのが金銭問題の公事を代理していたというのだから驚きである。現代とは比べモノにならない法律社会である。
外貨貯金や外国株取引なども知れば知るほどにアホくさくなる。日本の金融機関を通じてんなことやっても結局、最後は全部円換算なわけで為替リスクを考えたら半分サル仕事である。現地で口座もって、現地の通貨で現地で使わない限りやる必要はない。
金融知識、マネーリテラシーは最低限必要だとは思う。
けれどそれは手段であって目的ではない。
そもそも日本のお金システムの基盤がどこにあるのかを考えると現在、日本円を支えているのは何らかのモノではない。製造力とか生産力である。お金はそれが何か他のものに裏打ちされているから価値を持つわけで戦後はそれがずっと土地だったわけだ。で、それがいまは製造力、生産力に変わって、いや変えられたのだけれど、それが円のバックボーンになっている。
しかし、だんだんと金融寡頭支配が台頭してきているのでこれもあやうい。
製造力、生産力が外国にガンガン買われていく。
そしたら円はどうやって価値をキープをすればいいのか。
心とかいったって、心もすでに空前の灯火というのが実情だと思う。
■消えた笑顔
今朝だって、築地を通ったときに外国人のおばさんは笑顔でさっと道をあけてくれたけれど、日本人の観光客なんて「農協月へいく」(筒井康隆)そのままだし、まー、なんでかしらないがとにかくみんなつまらなそうな顔をしているのは何故だろう?
具体的にそれで頭が痛くなったり足が痛くなったりするわけじゃないから、問題としては後回しになっているけれど、笑えない人々の大量生産はヤバイだろう。
スターウォーズとは関係ない話になってしまったがもう一点だけメモ。
個人と社会を同一視すると流れを間違える。
個人が流れをつくろうとしてもそれは無理。
流れはそもそもがそこにあって、何かをつくろうとしてそこにできるわけじゃない。
アメリカが云々とかいろいろ言うけれど国といったところで実体があるわけじゃない。
個人は国とは別ものだし「国家百年の計」といった寝言は45年後の年金を期待してるのと同じ。100年の計でインターネットがつくれるかっての。ビル・ゲイツですら「2年先は全くわからないって」いってるところに100年の計もねえだろう、と思う。んなもんはつくろうと思ってつくれるもんじゃない。
国家存続とか繁栄とかいってる間に「なーんもないよ」(by 長州力)だ。
そういう理論が、いや、理論ですらないが、もう全然ズレまくっているのだ。
■そして世界
年金問題といったところで結局解決法は皆無。
どうあがいてもネズミ講よろしく永久に加入者が増加していかなければ存続不可能な制度が成立しつづける道理はない。全盛期のクオォンタムファンドなみの運用成績で驀進しない限り(つまりありえない)崩壊は必至。徳政令をかまさないとしても、切り下げ→インフレ→債務帳消し、とかするしかない。
と、悲観的なことばかり書いてもしかたないのだが、というか、何が起こっても社会的な依存なしに生きている自分にはほとんど影響はないのだが。そもそもこういうことを書いても何も意味はない。流れはでかすぎてもうかわるのかわらないのというレベルの問題ではない。
国システムとか国際関係とかそういうったものがいまのままありつづけるということもないわけで。そうそう、さっきふと思ったんだけれど、ネットワークとか情報社会とかWebサービスとかそういったものは日本で成功しているやつは大体が日本語のサービスで日本語という壁のこっち側にいて、そこで勝った負けたとやっているけれど、仮に30年後はみんな英語が日本語並みにできるとしたら、そしたらどっちを使うのだろう。
言語がどっちでもよくてとなったら日本のサービスを使う必要はなくなるよなあ、などなど。更に一つの国に住む、というそのスタイルってまだ続くのだろうか。全世界をカバーする社会保障制度を持つ新国家あるいはサービスがバーンと出てきて、そこに登録(税金も払うか)だけすると医療と個人の照会やらパスポートや免許なんかが保証され、となったらあとは好き勝手に住みたいところに住む、と思うのはオレだけだろうか。
あとはエネルギー問題が解決すればこれだって絵空事じゃないと思うのだが。
投稿者 TKM : 08:30 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月27日
[雑記] スターウォーズ展
これからスターウォーズ展にいくことにした。
金子にすすめられていたのだがまだいっていなかった。
閃きは即実行が効果的。
詳細は後ほど。
■関連資料

スター・ウォーズ トリロジー DVD-BOX
投稿者 TKM : 15:14 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月17日
[雑記] コタロウ君の瞳
昨日はしんのすけ亭で室内ダッチオーブン大会であった。
最初は三浦半島のながしま農園で実施の予定だったが雨の為、中止。
急遽、ダッチオーブンの使い手たちが本城家に集結して室内大会を実施することになった。
ダッチオーブンや料理も最高だった。
料理については党首のページにのっている。
会がはじまった頃、本城家の長男、コタロウ君をあやすように頼まれたので久しぶりに赤ちゃんを抱いてみた。熊谷家の長女のいろはちゃんを抱いていらいだから赤ちゃんを抱くのは数年ぶりだった。
コタロウ君は聡明そうな目をしている。
目の奥に我欲が無いように見えた。
キラキラしている。
いい目だなあと思った。
媚びているわけではないのにメッセージが伝わってくる。
こんないい目をした子供もいるのだ。
荒濱さんの名言集で
「社長、どうして僕を採用したんですか?」
「目をみればわかるんだよ」
というのがあるがコタロウ君の目もコトバ以上の何かを語っていた。
環境が人をつくる、ということは十分にあり得る、と思っていたがコタロウ君をみていたら人が生まれつき持っている特性も同じくらい大きいのだと思った。
++++++
前場、後場を通じて市場は暴落とはいわないまでもIT関連はストップ安まで出ている。
株のランダムウォークは自分が介入していない限り、研究対象として興味深い。
業績や能力とは関係ない期待値で実体価値が変動している。
ではそれは何なのだろう。
まるきりの虚像ではないにしても全くの実体でもない。
物事はおそらくそういう風にできている。
これはこういうものなんだろうな、という程度の揺らいだ枠によってしか定位でいない。
あるものが「いい」とか「わるい」というのもその場を構成するコンテクストによって決まる場合がある。モノの本質的な方向性はある程度は決まっているがそれらが現実世界で認識されるその時点ではコンテクストが決定権を持つ。
価値とは大まかな幅のようなものである。
ものすごく大きな川の流れがあって、そこにモノを流し、流れ方を自分で制御することはできる。しかし、流れそのものは制御の向こうにある。
でも流れに飛び込まなかったらどこにもいけない。
投稿者 TKM : 14:02 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月16日
[雑記] 帰宅
ようやく帰宅。
明日は党首からの誘いでダッヂオーブンのデビュー戦。
しかし雨は降り続ける。
雨天決行との宣言があったように記憶している。
ハナマサ、ダイエーとはしご。
24時間あいている店があって良かった。
あとはメキシコ空軍が発表したUFOの写真が気になるところである。
投稿者 TKM : 02:45 | コメント (1) | トラックバック
2004年05月15日
[雑記] 未来から流れる時間
朝、目覚める。
爽快である。
夢は忘れた。
いい夢も悪い夢も朝になると忘れる。
身体が重い。
昨夜の挑戦状に答えるべくトレーニングを再開した。
軽く川沿いを走る。
いい天気である。
いつもは聖路加の方に抜けるのだが今日はリバーシティーの方にまわってみた。
犬をつれたおじさんやおばさんが多い。
いい走りをしているのはたいてい外国人のおじさんである。
彼らは服装も似ているのでわかりやすい。
必ず短パンにジョギングシューズ、帽子、サングラス。
そんないでたちである。
プロっぽい走りをしている人がたまにいる。
マラソン中継にでてくるようなユニフォーム系の服装でランを決めている人もいる。
川沿いを抜けて清澄通りに出た。
坂をくだっていくと自転車のおじいさんに声をかけられた。
「走るのいいよね。身体にいいでしょ。オレもねやろうと思ってるんだよね、足がちょっとさ鍛えたくてさ。がんばってよ。いいよね。」
談笑してわかれた。
何年も走っているがおじいさんに声をかけられたのは初めてだ。
多少なりとも雰囲気が変わってきたのだろう。
以前は自分以外の世界に対していつかつぶしてやろうという気持ちが強かったがいまはそれもあまり考えない。
前はギスギスしたり人や物に当たったりすることが多かった。
自分の感情や意識を安定状態、気持ちのいい状態へどうにかもっていきたいという足掻きだった、と思う。
いま興味があるのはパフォーマンスの最大化である。
人にはその人の持っている基礎能力のようなものがある。
これを最大化すればあらゆる分野で人はある域まではいける。
最大化できないでいる最大の理由は感情と意識である。
何かをしようとする時にできないのは「やれない」のではなく「やらない」からなのだがその理由は物理的にできないわけではない。感情的にできない。意識的にのらない。というのが理由だと思う。
人間の意識や感情には量がある。
今というこの瞬間に持つことができる感情量は一定である。
パフォーマンスの最大化の実現にはこの法則を利用する。
話はそれるが最近おもしろい考え方を知った。
僕たちがやっているキュービタル研究会はキュービタル(量子的)という思想について考える会である。この会はもともと大学時代に石井威望先生に縁のあった人たちがあつまり先生の話を聞いてともすれば日常に埋もれがちな生活に喝を入れる、というものだった。
昨年、やまけんと知り合ったのをきっかけに僕も会での活動を開始したのだがキュービタルという考え方は現象としてまだ実体化している部分が少ないので言葉で説明することはとても難しい。そういう意味では体験的である、ともいえる。
世界ではパラレルに物事が進行しており、未来も過去も同時に存在し、いまの自分とそうでない自分がここに存在する。というような考え方なのだがこの考え方と似た考え方を昨夜見つけた。
チベット密教の考え方である。
チベット密教では時間は未来から流れてくるものとされている。
今をつくっている原因は過去ではなく未来にある、という考え方である。見つけたとき
「これってキュービタルだろ」
と思わず声を上げた。
キュービタル的には時間は未来からもやってくる。
今が未来をつくるのではなく未来が今をつくっている、と考える。
未来とは最大の情報である。
希少だから価値がある。
時間の概念を再構築していくことで感情と意識のマネジメントができるようになり、個人のパフォーマンスを最大化することへとつながる。
感情や意識が行動のブレーキとして働くのではなくドライブさせる方向にシフトすると個人のパフォーマンスはあがっていく。
時間の概念と意識のブレーキはリンクしている。
もう一つ自分が注目しているのが人間関係である。
人間関係を人と人がある特定の関係状態に安定することとして考えてみる。
友人関係、恋愛関係、家族関係、仕事関係、様々な関係性が存在する。
生活を構成する関係性は主に友人、恋愛、家族、仕事であろう。
この4つの関係性の状態とコンビネーションによって人は幸福を感じたり、不安を感じたり、不幸を感じたりしている、ように僕には見える。
この4つの関係性を良好な状態にしていくこと。
人の幸福とはそういうことではないだろうか。
(以下項目案)
・それぞれの関係性のポイント
・それぞれの関係性とパフォーマンス
・未来との関係
・どこに向かっているのか
・最後はコミュニケーション
・コトバの役割
投稿者 TKM : 08:39 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 24時間マラソンに参戦
しんのすけからの誘いで7月に行われる24時間マラソンへの参戦が決定した。
決まったとなればあとは練習あるのみなのでさっそくトレーニングを再開した。
自分でも笑ってしまうのだが決まった途端にやる気になった。
実は根っから走るのがすきなのである。
長距離は苦手意識があったのだが7月までには10kmを走れるようにしたい。
体重も10kgほど落とすことにした。
仕事もやることにした。
仕事である。
仕事をである。
快挙といってもいい。
++++++
やまけんと分かれてからH"の端末を機種変更しようとビックカメラに向かった。
入り口は人でごったがえしている。
一番目立つ場所に新しい端末のブースが設けられていた。
もしや、と思って確認すると京セラの端末は売り切れであった。
新しい端末はQVGAのディスプレイとフルスペックのWebブラウザを搭載している。
試してみたかったのだがしばらく待たなければならない。
こうかいぼうの味を身体が求めている。
そう感じた。
やまけんにもらったウドの苦みを思い出しつつ門前仲町へと向かう。
時間は午後7時40分。
店の前につくと今日ははやくも閉店であった。
おそらく30分の差であろう。
築地のなじみの店で夕飯を食べることにした。
以前は月に一度は顔を出していた店だが最近はきていなかった。
食事をしていると店の女の子が奥からでてきた。
主と話をするともう6歳になったのだそうだ。
もう小学生なのだそうだ。
以前、店にきていた頃は彼女はまだ2歳くらいだった。
あの子がこんなに大きくなったのか。
時の流れを感じるよりも幼少期の人間の成長がいかに急速であるかを思い知った。あの成長力を常にキープできたら人はどこまでいけるのだろう。
食事を終えて、談笑してから新橋に向かった。
本を探していた。
新橋に向かう途中、いつもと違う道を通った。
汐留の交差点は入り組んでいて自転車でいくと新橋側に渡ることができない。
だからいつもは晴海通りを通って新大橋通りを渡ってから新橋方向に向かう。
今日は何故か汐留側からいった。
遠回りだがたまには迂回して電通ビルの前を通っていくのもいいではないか、そう思った。
しばらくいくと警官が路上で人と話をしていた。
3人くらいの人が集まっている。
タクシーも止まっている。
道ばたにも3人くらいの人がたっていた。
事故だろうか。
タクシーをみるがキズはない。
破損したくるまも見あたらない。
接触かなにかか。
通り過ぎようとしたその時、僕の視界に倒れた人の姿がうつった。
ヘルメットをかぶった人がうつぶせに道路にそって倒れていた。
ピクリとも動かない。
手も足も何もかも微動だにしない。
フルフェイスのヘルメットが路面に密着している。
足はやや開き気味にでも片足がゆがんでいた。
左腕は身体のわきに手のひらをしたに肩のあたりにそえられるように、右手は投げ出されている。革ジャンが見えた。
視線を移すと植え込みにトリコカラーのカワサキZXRがつっこんで大破していた。
女性が「がんばってね」と声をかけている。
しかしライダーはぴくりとも動かない。
警察官は焦る出もなく何かをメモしている。
タクシーの運転手も何をするでもなく見ている。
そこにいる誰もが何をすることもなく見ている。
すぐ脇を車とタクシーがすごい勢いで通り過ぎていく。
バルチックカレーのあるあたりの交差点でバイクがクラクションをならすのが聞こえた。
続いて爆音。
車とバイクがふっとんでいく。
そして目の前では何もかもが止まっている。
駐車していたバイクをとりにきたカップルがバイクにまたがろうとしてこちらに気づいた。彼らはバイクから降り、しばらく何をするでもなくこちらを見ていた。自分を含めそこにいる人すべてが通りかかった人すべてが何をするでもただそこで見ていた。
投稿者 TKM : 00:52 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月14日
[雑記] べくはいTVとかっこいい言葉
友人のデジタル漫画作家金子とムシキングの調査に出かけた。
銀座博品館にムシキング広場があったので実際にプレイしてみる。
実によくできている。
じゃんけんとカードゲームをうまーく組み合わせてある。
金子の話だと子供達の間ではやっているとのことだったが博品館のムシキング広場に集っていたのは40代の男性ばかりであった。資金力があるのでそれぞれがもっているカードは束のようになっている。子供の遊びの領域を完全に逸脱していた。
外国人の親子がムシキングにトライしている。
日本語がわからないようで何をすればいいのかわからないようだ。
金子が通訳をしてあげるが子供はグーチョキパーボタンを連打している。
調査ついでに「塊魂」もやってみる。
これまたよくできたゲームだ。
操作がシンプルなのがいい。
「やっぱりねシンプルじゃなきゃだめなんだよ。これはアイディアはあったけれどハードが追いつかなくてこれまでできなかったゲームだね。」
と解説をききながらやってみる。
隣に最新版のソニックがあったのでそれもやってみる。
「いい浮遊感でてるな~」
との談であった。
調査を終えてから、スターバックスで会議。
いろいろと企画がもちあがる。
全然違うところから話がすすみ「べくはいTV」つくろうか、という話になる。
プロの音楽家もいるし、党首も悦んで出演してくれるだろうから、まずは2分程度の番組をつくる、ことになった。誰に見せるというわけじゃなく、オレらがアソブ為につくるわけなのだが「べくはい」の普及活動においては重要なコンテンツだ。
ついでに食い倒れ党のプロモーションムービーもつくることにした。
これまた党のプロモーション活動において重要な役割である。
そうだ忘れていた。
「任天堂はこれまでずっと、ゲームのための会社だった。他社が新機能や新ハードウェアのプレゼンを、どれだけセンセーショナルにするかを話し合っている間にも、我々はゲームを面白くすることにフォーカスしている」
という言葉がカッコ良かったのでメモしておこうと思ったのだった。
投稿者 TKM : 14:21 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 仲間と
久しぶりに朝帰り。
仲間と語らう。
悪くない。
これはまた全然違う話。
綺麗な人に会った。
世の中には綺麗な人もいる。
視線で挨拶を交わした。
いいものだな、と思った。
友人達はみんないい女だ。
自信を持って言える。
これはすごいことなのだ、と帰りの電車で思った。
あらためて思うがいい女ばかりよくも集まったものだ。
これも関係ないが最近といわずまえからだがやたらとついている。
こわいくらいなのだがこればかりは仕方がない。
引きが強いというか運が異様にいい。
きてるなー、という感じである。
なんとかしてほしい。
投稿者 TKM : 07:31 | コメント (4) | トラックバック
2004年05月13日
[雑記] 雑多な一日
振り返ると雑多な一日だった。
朝まで仕事をして眠って起きて、某社に人を紹介し、車中で人材派遣の人のことや今日、互いの思いこみによって生じてしまった時間のロスをつくってしまった自分の甘さというかミスについて考察しながら大学にいって先生と打ち合わせをして、池袋を探検し。そうだ宮島さんに電話しよう、と、したのだが夜だったのでやめて、新宿で麺通団を攻め、本を読んでから、もうやんカレーを攻め「MONSTER」を2巻まで読み。気持ち悪くなって思いっきり戻し。築地に戻って、オリオンビールを見つけ、それから新富町まで歩き、新橋にいって続きの16冊を読み始めて間に「勇牛」を読み、朝に築地を抜けて帰宅。
「MONSTER」の一気読みで頭がかなりトリップ状態になった。
新橋のビルの7Fでオットマン付きの椅子に座っている自分。
見えないけれど周りはおっさんとリーマンがたくさん眠っていてガラの悪いことこの上ない。あるおっさん、いやそいつは若いのかもしれないがスゴイいびきであんまりひどいので席をかえてもらった。
何故にこの人々は家に帰らずここで眠るのか。
寂しさを通り越して不可思議さを感じた。
ガラの悪さと書いたが、正確にはガラの悪さではなく公共性の欠損と品のなさといったらいいだろうか。大声で話す店あがりのおばさんとか目がうつろなおっさんとか、この世界にはこんな人々もいるんだ、と変に感心していた。
普段の生活では交差することのない人々と同じ空間にいる。
そんなことを考えていたらどことなく異国にいる気持ちになった。
イスに身を沈めた感じがアジアでよくいったマッサージ屋に似ている。
(足裏マッサージ屋にあるようなグーっと沈み込む感じのイスとオットマンがおいてある)ヨーロッパが舞台の漫画をずーっと読み続けていたせいか頭の中はドイツと東欧に染まっている。妙な没入感のせいでどこからどこまでがいまでどこからどこまでが本の世界なのかが瞬時に切り替わらなくなってきているのがわかった。
ストーリーの持つ力はすごい。
金子からメールが入っていて任天堂の新型携帯ゲームマシンの発表があったことを伝えていた。画面でチェックするとなるほど「キュービタル」なマシンであった。
思考を切り替えて自分の中身を分解していくように感情や感じることを切り分けていった。断続的に訪れる思考の波を少しづつ棚に入れていく。思考の波が意識を覆っていきそうになる。砂浜につくった砂の城が波で崩れていくように棚から感覚や感情が落ちきては流れていく。それでも地道に棚に入れていく。それをしばらく繰り返す。ゲームみたいなもので同じ思考を何度も何度も棚にいれてとやっているうちに少しづつ要領がわかってくる。
しかし目的がないせいか作業に切れ味がない。
どうすればいいのかという部分に確信がないのが原因だ。
二つの思考が巡る。
こうすればいい。
いやこうしてもいい。
どちらがいいのかはわからない。
だから棚にいれては波にさらわれる。
これを繰り返す。
思考はいくらやってもやり直せる。
だからもういちどやってみる。
繰り返し繰り返しやってみる。
「優しさ」とか「思いやり」「気づかい」は悪いことなのだろうか?
半端だから駄目なのだ、と先日、あるおじさんに言われた。
初めてあった人だが1時間以上話込んだ。
その人がどんな人なのかを知りたいといつも思っている。
だから話を聞くのは嫌いではない。
自分がありながら自分を消せればいいのに、と思った。
そういえば「勇牛」に禅問答が出ていた。
懐かしかった。
投稿者 TKM : 06:42 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月12日
[雑記] イチローの作文と朝の机
仕事を終えて3時頃に外に出た。
角を曲がってコンビニで買い物をしようとしてふと見上げると高層マンションの向こうに三日月がおぼろに輝いていた。
ビルとビルの間からみる月は藤田先生の描く表紙の絵に似ていた。
藤田先生は仕事でお世話になった会社の社長さんの旦那さんである。
スティーブンキングや宮部みゆきの本の表紙のイラストを数多く手がけている。
みんなで代官山の焼鳥屋に連れて行ってもらった。
その店は偶然はいったのだが雰囲気がモダンでおちつく。
バシ師匠とも一度いったが師匠も絶賛であった。
東京の焼鳥屋では新富町のさくらやとその店がお気に入りだ。
よく雑誌や本に載っている店にはいったことがない。
飲食店に限らずお店がメディアに取り上げられるとサービスの質が落ちていくように感じることが多いのだが気のせいだろうか。
ビジネスや投資は料理店を選ぶのと似ているように思う。
どんな地方にいってもおいしいお店がある。
しかもそれらのお店に派手さはない。
ひたむきに美味しい。
僕はそういう店が好きだ。
月をみていたら「この月にはかえられないな」という気持ちになった。
何にかえられないということはないが午前3時に月をみて「いいなあ」と思えるのは幸せだと思った。
朝方、午前6時。
聖路加タワーの前にある机で勉強した。
生まれて初めて朝に空の下で勉強した。
こういうのもいいもんだな、と思っていたら鳩が二羽飛んできて周りを歩き始めた。
少し肌寒くなったので部屋に戻った。
今日は水曜で築地は休みなのだが道を走る車の音が耳についた。
うるさいのは回転するタイヤと地面が接触するの音なのかエンジン音の方なのか。
音のない車をつくりたいと思った。
「日本の車は音がしない。」
そんなだったら面白いだろうに。
そしたら世界は変わるだろうか。
昨日、安岡正篤の本をぱらぱらと読み返したせいだろう「何もかもを取り去った後に残るもの」という言葉を何度か思い返している。
しんのすけのブログにイチローが6年生の時に書いた作文が載っていた。
負けた、と思った。
世界のイチローはすでにこの時にはじまっていたのだ
投稿者 TKM : 07:09 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月09日
[雑記] ベンツの男(Iみつ氏ではない)に10人強の警官がつめよっていた
新幹線を降り、やまけんと別れて東京駅から自転車での帰り道。
リバーシティにさしかかるあたりで警官が10名ほど集まっていた。
パトカーも3台くらいきている。
奇声も聞こえる。
空気が少し殺気立つ。
負のカーニバルの予感がする。
黒いベンツが止められている。
警官5人がトランクをあけて職務質問をしている。
短パンをはいた30歳くらいの男性が奇声をあげている。
少し茶色い髪は短く刈り込まれている。
助手席の女性が降りてくる所だった。
男性は大声で「おまえらの給料はさ、俺らの税金だろ。何なんだ。何をしたっつーんだ」と警官に食いかかる。確かに彼の言う通り。彼は車でそこを走っていたに過ぎないのだろう。過去にはあったかもしれないがいまは何もやましいところはない、ように見える。
たった一台の車相手に10人からの警官と3台のパトカーとは大げさに思える。
ある晩、かちどき橋をわたっていると酔っぱらいがとびかかってきた。
彼は自転車に乗ってその場を通りかかり、パトロール中の警官に職務質問をされていた。
僕は結婚式の帰りだった。
職務質問の様子を見つめた際に目があった。
職務質問をされたことへの憤りがそうさせたのだろう。
男はこちらに向かって猛烈な勢いで突進してきた。
警官は羽交い締めにして彼を押さえこむ。
しかし酔っぱらいのバカ力は半端ではなく、羽交い締めにしていた警官はあっさりと引きはがされた。ステップで避けたが驚愕はそこからの警察組織の機動力であった。通常、パトロールは二人でまわるのだろう、もうひとりが応援を要請しているのが見えた。それから1分もしないうちにパトカーが3台くらいが勝ちどき橋の真ん中に集結した。一瞬の出来事である。
築地と勝ちどきの交番から自転車も5台くらい集まった。
気づけば僕と酔っぱらいの周囲を10人以上の警官が取り囲んでいた。
これはやられたことがないとわからないと思うがなかなかの威圧感である。
酔っぱらいは結局、身分を証明する術がないのでそのまま連行されていった。
手際の良さに拍手を送りたい気分だったがその時、僕はあることに気づいた。
あとから応援にきた警官達は全員が全員、めちゃくちゃに楽しそうだった。
「やったるぞ」みたいな空気がバリバリ伝わってきた。
人が喧嘩するときは感情と感情のぶつかりあいがあるわけで、何故か楽しい、ある意味アトラクションのようなものだ。
警官達も全くそれと同じ感覚で僕たちをみていた。
そういえば昨夜のリバーシティのたもとの騒動でも近くのコンビニの前でそれを眺めてコメントしている人がいた。
事件はそれが自分にとって直接の害がないかかわりかたをしている限り、最高によくできたエンターテイメントなのだ、と思った。
投稿者 TKM : 01:18 | コメント (3) | トラックバック
2004年05月05日
[雑記] 10 years 渡辺美里
中学生の頃、渡辺美里の曲をよく聴いていた。
今朝、スミノフを飲みながら10年ぶりに「10 years」を聴いた。
暗いような明るいようなナイーブかつ健気な歌だと思った。
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僕の敬愛する人に電設会社の社長がいる。
二人でビールを飲んでいるとよく「22歳の別れ」を弾いてくれた。
違う歌だが同じ空気を感じた。
モードが共通しているのだろうか。
投稿者 TKM : 06:12 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] タコ焼きと黙示録
雨が降る。
雨が降る。
四谷のジョナサンで本を読んでいたら午前3時だった。
外にでると小雨がふっている。
夜、出かけるとき、皇居の前を通りながら帰りは濡れて帰りたいと思った。
現実として雨に濡れてみると思っていたよりも冷たかった。
数日前、タコ焼きをつくろう、という話をしていた。
帰り道。
ドンキーでタコ焼き器をチェックすると狙っていた鉄板単独タイプはなかった。変わりにコンロと一体化したタコ専門器がおいてあった。
雨はまだ降り止まない。
カマンベールチーズを発明したのは誰なのだろう。
家にかえってシャワーを浴びてチーズを食べながら考えた。
やまけんにきけば知っているに違いない。
友人の中にあきらかに人生の達人とおぼしき人々がいる。
やまけんとしんのすけはそのひとりだ。
もうひとり、我が心の師は異国の空の下で今日も笑顔でいるのだろうか。
迷うとき、困ったとき、心細いとき、その人を思い浮かべる。
かの天才は何も考えることなく行動するだろう。
そういう人だ。
自分に師と言える人が何人くらいいるのだろうかと考えてみた。
考えながらカマンベールチーズを囓る。
この味を言葉で表現することは不可能だろうか。
夢の中では味も再現される。
記憶として定着させることができる感覚や感情ならばそれらは同時に再現も可能だと僕は考える。
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「薔薇の名前」という小説のことを思い出した。
映画ではショーン・コネリーが主人公の修道僧を演じていた。
言葉という単語でウンベルト・エーコを思いだしたせいだろう。
言語学者が書いた小説が世界的なベストセラーになったというのが興味深い。
「薔薇の名前」の細部は忘れたがミステリーとしてよくできた話だった。
この小説の中でストーリーの核になるのは「ヨハネの黙示録」という予言だ。
黙示録という言葉は日本ではあまりなじみがない。
五島勉の予言書シリーズではよくでてきた言葉だが1999年以降、五島勉とともにどこかに消えてしまった。
投稿者 TKM : 05:34 | コメント (3) | トラックバック
2004年05月04日
[雑記] さらばヘルメット、答えは「ノン」
「敵を愛しなさい」
昨日みた「パッション」の中のセリフである。
買い物を終えて帰ってくる途中、上記のセリフがよみがえった。
「敵を愛しなさい」
言葉は知っていたが知っていることとあの映像の中で語られるのとでは聞こえ方が全く違った。
++++++
キリスト教についての映画はいくつか観たことがあった。
「最後の誘惑」は好きな映画の一つである。
「ベン・ハー」のオープニングもキリストの誕生から始まる。
「第7の予言」もキリストが登場する。
「インディージョーンズ」もキリストの遺品を巡る冒険である。
しかし「パッション」が描くキリスト像はこれまでみたどの映画とも異なっていた。
観ながら映画とは何なのだろうと考えた。
2時間弱を椅子に座って過ごす。
人々を眺めた。
画面を見つめる人。
子供を連れている人。
この場所に集う人々が互いに知り合うことはない。
それぞれはそれぞれの世界を生き、それぞれの世界で死んでいく。
映像と音を椅子に座って見続けていた。
その後、夜の街を自転車で過ごした。
皇居から見上げると雲のない空に月が浮かんでいた。
明日は雨だ、と予報ではいっていたが月をみていると予報が本当だとは思えなかった。
12時過ぎに岡田の家にいって試合を観た。
しばらく話をしてから帰った。
かちどき橋までくると明け方の空が少し明るくなってきた。
++++++
目を閉じると雪が舞うのが見える。
さっきみた映画のせいだろう。
独特の言い回しはフランス語のせいだろうか。
アニメでもセリフは難解だった。
いっさいやる気が起きないのは不健全なことではない。
方向転換の指示が出ているだけだ。
少し考えてみた。
仕事については大まかな答えは出た。
生活についても自分の向き不向きはわかった。
夢を見はしたがそれは夢である。
「ノンはいい言葉だ」
とさっきの映画のセリフにあった。
この世界はスパムメールと似ている。
ヘルメットをかぶって暮らすなら信号の日々だ。
だから「ノン」というわけだ。
投稿者 TKM : 22:47 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月28日
[雑記] ドンキー・ひとりになりたくて朝を歩いた
銀座にドンキホーテができた。
店舗は広々としているがテイストはドンキーである。
違和感はない。
ハナマサとの共闘のせいか充実した食料品の品揃えである。
二階では店のチンピラ風の男達が金物(といってもブリキ系ではなく時計などの貴金属)を物色している。深夜にはホステス風の女性も多い。
通路が広めにとってあるのとフロア毎の店舗面積が広い。
二階建てだが品揃えは渋谷や新宿店よりも充実している。
上り下りの必要がないのと通路がゴミゴミしていないので都内のドンキーの中では快適度はNo.1に良い。
数日前の夜に発見した。
同日、タケに教えてもらった「矢場とん」も試す。
とんかつは東京の方が味があって美味しい。しかしみそとの相性でいえばあの厚さとわりに味のすくない肉がスナック的でいいのかもしれない。きけばお客さんの多くは名古屋ゆかりの人だそうだ。そういう市場の開け方があるのかと感心した。柿安は地域によって味をかえるといっていたが矢場とんの場合はどうなのだろう。(補足:店の対応に「やる気」を感じた)
++++++
昨夜は新宿から銀座まで歩いて帰った。
終電を逃したわけではない。
風にふかれて話したかった。
だから歩きながら話した。
銀座につくころには足が張っていた。
久しぶりに新宿から銀座まで歩いた。
銀座から月島までの30分が長かった。
かちどき橋にさしかかる頃に向こうの空が薄いブルーに染まっていくのが見えた。
空をものすごいスピードで雲が流れていく。
ありがとう。
空をみながら歩いた。
投稿者 TKM : 15:42 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月27日
[雑記] 玄の玄
午前7時頃に電子音で目覚める。
発信源を探すが見つからない。
二日連続でこの電子音で目覚めた。
その為、睡眠時間は極端に短い。
午前7時頃に電子音で目覚める。
発信源を探すが見つからない。
二日連続でこの電子音で目覚めた。
その為、睡眠時間は極端に短い。
見つからない発信源はどこかにあるのだろう。
ガスが漏れているのか。
あるいは何かが故障しているのか。
いずれにせよ問題の本質ではない。
今日は午後7時からPRIDEの放送である。
日曜の試合で人生が変わった格闘家もいる。
日々とはそういうものだ。
何が起こるかはわからない。
しかし結果があるならそこには原因もある。
「原因と結果の法則」という本が売れまくっている。
いつのまにか3巻まででている。
ベースにあるのは「物事には原因があり結果がある」というシンプルな考え方である。
良いことも悪いこともそれら全てに原因がある、か、なるほどうまいことをいう。
玄の玄だったかな、確かそんな言い方があった。
無は虚無の無にあらず、という話なのだが、以前、先生にきいた。
話をしたい人はみんな逝ってしまう。
先生も友達も。
投稿者 TKM : 11:26 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月25日
[雑記] 人の核(コア)と音のない街
「KILL BILL vol.2」と「キャシャーン」を連続で見終えると外は明るくなっていた。朝である。誰もいない朝を帰る。
銀座の街から音が消えていた。
タクシーもいない。
空気の肌寒さが心地よい。
そのまま自転車で晴海通りを海の方へと帰る。
かちどき橋にさしかかるとリバーシティーとトリトンスクウェアの間の空に太陽が見えた。空が広がっていた。東京の狭い空がどこまでも広がっているように見えた。見上げると薄いブルーが天球を覆っている。
いいな、と思った。
幸せなんて簡単で些細なものだ。
空を見上げている時間は短かかったけれど幸せは心に浸透していった。
先週の土曜日は川崎にいた。
やましんと話していた。
心が穏やかになって人に優しくしたいと思った。
今朝も同じだった。
物音が消えた東京の街で空をみていると人に優しくしたいと思った。
町ゆく人々も生きてるんだな、と思った。
自分が観ている光景はここにあるけれど100年後には違う光景がこの場所に現れるのだろう。いま自分がみているモノはうつろい消えていく。時間が存在するかぎりこのルールは変わらない。
だとしたら。
と、そこで考えた。
だとしたら、何がいまで何がここで何が何なのだろう、と考えた。
昨夜の午前1時30分のことである。
人は人であり人の人的なものとは何なのか。
それを考えた。
様々な事柄に思考は影響を受ける。
機嫌がよくなったり、悪くなったり。
人に嫌悪を感じたり、焦燥に駆られたり、僻み、妬み、渇望することもある。
愛を求めるのではなく愛されることに執着する。
コミュニケーションのズレから引き起こされる様々な違和。
それらは人の感情の本質とリンクしている。
人は何故。
それを考えること。
それ以外の目的や夢は代替できる。
けれどこれだけは消すことのできない本能的な欲求だ。
キャシャーンでセフィロートが使われていた。
それが登場するとは思ってもいなかった。
セフィロートをみた時に生じた心の震え。
それは作品とは関係のない感情である。
しかし自分の最も奥底にある感覚でもある。
現象が記号化される。
或いは記号が物質化する。
言葉とはモノなのか。
これは何なのか。
昨日はじめて3G携帯を使った。
それ自体は機械であり一般化しているのだが使ってみると幾つかのイメージがフラッシュした。未来が観えた気がした。それは機械の未来という意味でもないし、先端という意味での未来でもない。人の世界の一つの方向性が感覚として広がったのである。
朝の帰り道で幸せが降ってくるイメージが見えた。
サービスや商品はビジネスという言葉で固定されるが人の世界の根本部分には人がある。
人は幸せになるためにここにいる、と自分は考える。
人は人に還る。
思考としての宗教ではなく人へと還る。
人は思考ではなく人に反応するのだ。
では人とは何か。
その人が人としてあることの根本は何なのか。
何がその人なのか。
身体なのか。
声なのか。
色なのか。
言葉なのか。
それら全体なのか。
どの時点での人が人なのか。
昨日なのか今日なのか明日なのか今なのか。
では一昨日は昨年は別な人なのか。
連続しているなら時間はどこに消えていくのか。
昨日はどうしてここにないのか。
明日もどうしてここにないのか。
人とは関係性の生物である。
ポジションと関係性がコンテクストによって意味をつくりだす。
人には核がある。
一緒に休日を過ごしたいと思えるような政治家はいるだろうか?
いないとしたら何故なのか。
最後に人に向かうなら最初から人に向かってもいいはずだ。
やり方もわからなかったし、立ち位置もわからなかった。
が、自分をつくっているものの核(コア)がどこにあるのか。
そこなのだ。
そこがポイントなのだ。
目が持つ意味を想う。
目の持つ記号性とキュービタル性。
目があれほど多くの意味を持つのにはわけがある。
目はみているが同時にみられもする。
勇気は決断と同意だ。
投稿者 TKM : 07:31 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月19日
[雑記] armory showとナイキの靴
armory showの映像をみていた。
あれだけガヤガヤした中を歩き回ると半分は仕事だ。
週末のデパートみたいで見ているだけで足が痛くなった。
はじめてナイキの靴をはいた。
靴底の堅さがナイキを主張していた。
不思議な靴メーカーである。
高いのかやすいのかカッコいいのか悪いのかわからない靴だ。
良くも悪くも自己主張が強い。
サイズは余裕をもって28cm。
しかしまだ窮屈なのは靴の形のせいなのか自分の足のせいなのか。
カスタムメイドの靴が欲しい。
自転車のブレーキが壊れたので修理した。
自分で修理してみる。
基本的に機械の修理は面倒である。
その瞬間は面倒だなあという思いが先にたつ。
しかし「創る」という側面があるからだろうかやっているうちに楽しくなる。
機械の修理に限らずなんでもそうなのかもしれない。
脳がそのモードにスイッチすればやっていることは苦痛ではなく楽しさにかわる。
投稿者 TKM : 21:11 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月16日
[雑記] いろいろとエゴラッピン
知り合いに話しかけられた。
「5月3日にエゴラッピンのイベントがありますけれど、いきますか?主催者と知り合いなんで」
「場所は?」
「恵比寿ガーデンホールです」
そうか。
あそこか。
久しぶりにいってみるのも悪くない。
銀座の店で別な銀座の店の方と話をする。
裏の世界の話であった。
話の方はダークといえばダークだが彼はきわめてナイスガイである。
カッコいい紳士という言葉がぴったりあてはまる。
知り合いには少ないタイプだ。
艶があってダンディで少し危険な感じだ。
銀座の知り合いにはこのタイプの人が多い。
昨夜の遅くに携帯に着信があった。
相手とはそれほど話したことはない。
一度ごちそうになったくらいだ。
折り返しかけてみたが留守電だった。
何か用事があったならこちらの留守電に入っているだろうからたいした用事ではなかったのだろう。
明日はライターの友人達と会合である。
皆んなとは久しぶりに会う。
著名な雑誌で書いている人たちだ。
と、書いて思ったがどんな雑誌に書いているかということと個人や文章にどれだけバリューがあるかということは全く別だ。
先日捕まった植草教授も何をやろうがそれを上回るバリューがあれば扱いは別なものになっていただろう。評論家は一度落ちたら終わりだが作家なら泊がつく。このあたりは人間の心理の問題なのだがかなり基準が曖昧で不思議だ。戦争での殺人は英雄だが日常なら重犯罪である。行為自体は同じでも意味が異なる。
昼間は友人のデジタル漫画作家の金子とブレストをした。
内容の濃い話ができたと思う。
当初はコンテンツの話をするつもりだったが予定を10倍くらい上回り世界を巻き込む壮大な計画に発展した。ポイントをつめていけば実際にそうなるであろう。金子のセンスもいいなと思った。話していて感覚がドライブするミーティングやブレストは気持ちがいい。エンターテイメントといってもいい。
その後、いろいろ話をした。コンテンツの話だけでなく世界中の国々をめぐってきた金子の視点で今をどう思うかについていろいろきいた。ひとつ言えるのは金子はその芯に熱さをもっているということだ。熱い想いをもっている人間はそれほど多くない。仕事を理由に熱さを押し込める人が多い。しかし金子にはそれがない。だから気持ちがいいのだろう。
その2時間前。
野知さんから突然、連絡があった。
こちらもまたいい感じにノリのいい企画の話だった。
実現がどうこうということは問題ではなく。
流れとしては数年後にはこうなるだろうな、と思った。
10年前。
誰もオンラインゲームをイメージできていなかった。
ソニーにしても「は?!」であった。
いまだ日本ではそれほどメジャーではないかもしれない。
それでもポジションは確立されつつある。
10年後にはネットにつながっていないゲームはなくなる。
バルーンファイトでもボンバーマンでも一緒だ。
ゲームがどうこうとうことではなくどこかでネットとつながる。
この世界の無駄はセコさで代弁される。
「セコっ」と感じるならそれは道理とずれている、大半は。
価値とは未来なのかもしれない。
未来のイメージはそれ自体が宝物である。
それを失えば衰退しかない。
投稿者 TKM : 01:00 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月14日
[映像] イラク人質事件の未公開映像を観る
イラク人質事件の映像を観た。
TVで放送されていないと思う。
http://www.spiegel.de/video/0,4916,2549,00.html
実際にあの場所にいる人以外には人質になっている人がどんな気持ちかとか相手がどんな人なのかなどはわからない。ニュースバリューがあればなんでもコンテンツ化してしまうのはメディアの問題なのだろうか。それとも観る側の問題なのだろうか。画面にのった瞬間から現実との乖離が進んでいく。
現実との乖離といえば先日、スカートのぞき現行犯でつかまった野村総研の植草教授の話を一度きいたことがある。講演慣れしており話は面白かったが心はなかった。話が面白いという部分について補足しておくと。話の内容が独自で面白いというよりは経済の話をわかりやすい事例に置き換えて説明するのが上手であった。
これまで数多くの講演を聴いてきた。
誰が一番という順位はないが印象的だったのは。
・横尾忠則さん
・安藤忠雄さん
・利根川進さん
他にもいい話をたくさんきいたはずだがすぐに浮かんだのはこの三人だった。
安藤さんと利根川さんは友人らしく、利根川教授の講演にいったら安藤さんもいた。
対談ということでいえばダントツに話の運びが上手だったのは糸井重里さんだ。
専門の研究者や競技者、ビジネスマン、どのような人が相手でもその内容を誰でもわかる言葉に置き換えるその技はプロの対談者と呼ぶにふさわしい。
ひとり忘れていた。
・立川談志
額に巻いたバンダナ。
グリーンのフィッシングベスト(ポケットがたくさんついていたのでそう思うのだが)にスニーカー。
という出で立ちであらわれ憎まれ口でカーっと話すと去っていった。
おそらくバンダナのせいだろう。
随分昔にビデオでみた野村秋介の姿を思い出した。
ビデオのタイトルは『ドキュメント・風と拳銃・野村秋介の荒野』。
(現在アマゾンでも買うことはできない)
投稿者 TKM : 15:58 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月12日
[雑記] インディージョーンズと川辺のBBQ
昨年公開された「あずみ」だが続編が決まったことを今朝知った。
監督は北村龍平から金子修介に変わる。
金子修介の映画はゆるいという印象がある。
ゆるさがどう活かされるのか気になるところだ。
イノセンスはメディアへの露出ラッシュが終わり取り上げられることも少なくなった。
興行成績はどのくらいだったのか。
イトイ新聞がタイアップしていたがと思ってイトイコムをみてみる。
Tシャツの広告がトップにおいてある。
気になる人物の写真があったのでクリックしてみる。
水道橋博士だ。
イカした人選だなあと感心しつつページをめくると
「??」
僕が水道橋博士だと思った人物はスチャダラパーという人で別人であった。
以前タドがいっていたがイトイコムは基本的に糸井重里さんの企画した商品広告を読まされるサイトだ。面白いようなゆるいような微妙なラインだがこれも味なのだろう。
それよりも何よりもスゴイなと感心するのはこのサイトにいまだにたくさんのアクセスがあるということだ。オレは読まないな。読むとまわりくどくて疲れる。でも、糸井さんの話は面白い。このおもしろさは評論と似ている。自己が情報を発信するというよりも情報を料理するのが上手なのだ。
ところで昨日「伊豆の踊子」を読んだ。
伊豆青春ストーカー物語、といった内容だったが美しい日本語だった。
小説家というのはスゴイなあと思った。
あのストーリーで読ませるテキストをつくるというのは凄まじい作業である。
朝、家をでてコンビニに買い物にいく、というだけのストーリーでも十分に世界に通用するテキストとして構築してのけるだろう。恐るべし小説家。小説力とういものがある、と思った。これは物語力とは別の力である。対応でいえば絵力に相当する。芸である。
昨日、河原でBBQパーティが行われた。
主催は姉貴分の直子さん。
総勢16人くらいだろうか。
朝11時から夕方まで予想通りノンストップでの宴となった。
後半。
兄貴分のバシとやまけんも参戦してくれた。
この二人がいいアクセントとなって宴を盛り上げてくれた。
オレはといえばそうそうに眠ってしまった。
疲れがでたのだろう。
昨夜、家に戻ると悪寒がした。
危険な兆候だった。
眠っていると悪夢を観た。
いつまでも取引をしていた。
相手は誰だろう。
午前8時。
目覚める。
PCに向かうとメッセンジャに直子さんのアイコンがあらわれた。
原稿を書くといっていたが終わったのだろうか。
冷蔵庫をあけると先日のマークアンドリーセンの講演会でもらったミネラルウォーターが入っていた。石井のミートボールを白米にのせて食べた。こんな食事は学生時代以来だった。予想通りチープな味だったが空腹感は消えた。
昨夜、帰宅前に自宅の前の道路の遙か上空。
トリトンスクウェアのビルの脇あたりに黄色い月が浮かんでいた。
大気がレンズ化し月はいつもよりもふくらんで見えた。
あわい光をみていると幸せな気分になった。
おとといの夜にTSUTAYAにいったのだがインディージョーンズシリーズのDVDがおいてあった。学生時代に青木&山田の三人で高校生クイズの帰りに仙台の劇場でみたのを思い出した。
投稿者 TKM : 09:19 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月11日
[雑記] 尾崎豊トリビュート
TSUTAYAで尾崎豊トリビュートアルバムを2枚借りる。
この2枚はレーベルゲートCDになっていてだとそのままエンコードできないのだが実はMacだとエンコードできる。
さっそく聴いてみる。
尾崎が現代になっている。
斉藤和義が歌う「闇の告白」がもの悲しくやさぐれていてなんともいえず「かぐや姫」っている感じだ。
と思っていたらなんと岡村靖幸も歌っている。
曲は「太陽の破片」。
「路上のルール」「Freeze Moon」などなど好きな曲をきいているうちにやはり本物だろうということで尾崎豊の曲を検索してiTuneで聴く。
アレンジは古いが声の持つパワーが圧倒的に違うものだな、と思った。
野知師匠は生前、尾崎が亡くなる数時間前まで飲んでいたといっていた。自分とは直接接点はないが自分の友人が尾崎と酒をくみ交わしていた、と思うと距離感がメディアの向こうの人からこちら側に近づく。
同時代に生きる人はそれが誰であれ、同じ時の流れに今を過ごしているわけで、遠いとか近いとかそういうことに意味があるのかな、と思ってしまう。
ソーシャルネットワークというサービスがこの感覚を実装できたならば世界は少しづつ変わっていくのだろうか。
++++++
どんなアーティスト、音楽が好きというのはこれといってない。
優しい歌声が好きだ。
今回聴いた2枚だと
「ドーナツショップ」
が「ああこの感じって好きだな」と思った。
それから尾崎の原曲を聴き直してみた。
尾崎の曲だと「風に歌えば」というアルバムが一番好きで。
このアルバムの尾崎の声は繊細で優しい。
強くはないがひたむきである。
他のアルバムにも入ってるけれどこのアルバムの「ダンスホール」は全然別物だ。
投稿者 TKM : 03:17 | コメント (2) | トラックバック
2004年04月10日
[雑記] 自転車野郎
世の中いろいろな人がいる。
友人の金子のように世界一周の旅をする人は多くないにしても身の回りにはいる。
自転車で世界一周という人もいるにはいるだろう。
冒険投資家ジム・ロジャースのように車やバイクで世界をまわる人もいる。
しかし...。
二人乗り自転車とは....。
投稿者 TKM : 20:10 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月09日
[雑記] 選挙と位相空間と
外からがなり声が聞こえる。
近くではないがこちらまで聞こえてくる。
選挙の演説のようだ。
この声を聞く度に政治は終わってるという念を強める。
どの演説も似ている。
問題を声高に訴えているといえば聞こえはいいがやっているのはグチに過ぎない。
「こういうことをやりましょう」という提案が皆無なのである。
こんな面白いことがあるですけどやりませんか。
という話をききたいのだが聞こえるのは「がなり声」。
政治。
三流であるとかないとかそういうレベルの話ではない、と思う。
システムの問題、でもないと思う。
実体がこうなのだ、というのが僕の考えである。
ベースが変わらないなら実体も変わらない。
ゴミ。
街をあるけば必ずゴミが捨ててある。
空き缶、ペットボトル、食べ終えた弁当がはいったコンビニの袋。
そこら中に捨ててある。
制度を変える。
ゴミ箱を増やす。
というのはシステム側からのアプローチである。
けれど根本的な解決はもっとシンプルである。
「ゴミを捨てない」
これだけだ。
たったこれだけの簡単なこと。
しかし実行できる人は驚くほど少ない。
全ては関連している。
些細なことも大きなことも何らかの形で人が反映された現象だ。
昨日、奇妙なものをみた。
食事を終えてその店をでようとすると、背中に「イラク派兵反対」とフェルトで縫いつけられた黒い長尺のベストをきたオバサンとその集団が入店してきた。彼等は彼等の荷物を方々において陣取った。でも4人しかいない。二つのテーブルはいらないよな。4人ともひどく顔に精気がない。しぼんでいる顔である。ジョナサンの妖怪みたいだ。(築地にジョナサンに現れる妖怪のようなオバサン。土曜の深夜に入店すると必ずいる。必ずである。)この人たちをみて心底コワイと思った。佐藤愛子風にいうならこの人たちは憑かれている。
犯罪者や異常者の怖さとはことなる種類のコワサである。
映画「もののけ姫」に出てくる、
「おまえ達破滅連れてきた。生き物でも人間でもないもの連れてきた」
というセリフがよぎった。現代は微妙に原始の影が薄れているけれど人は人でどこまでのこの種のコワサ。薄ら寒い淀みや澱が無くなることはない、ということなのだろうか。
偏執狂、異常者、変な人。
それらに共通するのは自己を客観視する能力の決定的な欠落である。
故に彼等は公共性を持たない。
経済的な二極化と人間のソフト面での二極化が急速に進んでいるように見える。
そしてソフトの二極化はパラレルに進む。
だから関係性はより複雑に絡み合いもつれ合う。
分類からのアプローチだとそうなる。
が、それを超えた部分でフィーリングとしての二極化も存在し。
それは「むこう側とこちら側」といった抽象的な言い方しかできないのだが2010年頃にはこの傾向がより強まるのだろう、と思う。いろいろな位相でこれが生じた結果、総体として大きな流れができていく、という感じだろうか。
銀河のように渦まいているイメージがちらつく。
投稿者 TKM : 13:31 | コメント (0) | トラックバック
2004年04月06日
[雑記] 太の夢 ~高速煮魚~
オレ:どんな夢をみんのかいってみ?
太:タドコロにいちゃんがスゴイ勢いで煮魚を食ってる。はじめはカレイの煮魚を食ってる。お酒のみながら。次はアンコウの煮付けがでてきて、うちのとおちゃんが「これおいしいんだよ」といったら。「グロイですね」という。「まー、いーから食べろ」ととおちゃんがいったら。食べ始めて満面の笑みでアンコウにしゃぶりついて「うまいですね!!コレ」っていった。箸は速い。ふつうにはやいんじゃなくて、見えないくらい速い。漫画みたい。
その脇でアヤとノゾミは喧嘩している。タドコロさんは結構でてくるよ。
投稿者 TKM : 12:46 | コメント (2) | トラックバック
[雑記] スケートボードで日が暮れて
日曜日、突然、太から連絡がきた。
日曜日、突然、太から連絡がきた。
「あ、おにいちゃん、今日東京にいくからヨロシク~」
その日は仕事で夜まで留守だったので柏に住む太の従兄弟のところにいってもらった。聞けば家業である電設屋のアルバイトをし、春休みの最後を東京で過ごすことにしたのだそうだ。
勝ちどきの駅までこれるかと聞くと大丈夫だという。
途中、茅場町の読み方がわからないとかパスネットのこととか2度くらい電話があった。しばらくして、「ついた!」と電話があったのでいってみると姿が見えない。
目をこらすのだがそれらしき人影がない。
スケートボードを持ってきているはずなので見間違うことはないのだがおかしい。
ん?
目の前にいるスーツの男が手を振っている。
アホかー。
なんと太はスーツで登場していた。
洒落た帽子は古着屋。
スーツはおとうさんのを着てきたとのこと。
また背が高くなっていた。
部屋について話をきくと
「あのねー、来る途中の電車でさ、変なおばさんに話しかけられた」
「何だそれ。どんな?」
「うーんと。あのー、ホストの方ですか?とかいわれたんだよ」
確かに。言われてみればその出で立ちはホストだよ、お前!
部屋につくなりジーンズに着替える太。
社長のスーツ(おそらく高いよな)は部屋につくなりしゃくしゃになった。
ハンガーに掛けろと命じるがスーツなど着たことがないのでズボンのかけ方が通常の逆になっていた。ジーンズをたたむようにわざわざ折り目の線をつぶすようにかけてある。
「おまえ、もうおとうさんに貸してもらえないぞそれじゃ」
といってかけ方を教える。
「なーるほど」
などといって喜々としてハンガーかけをやっている。
スケボー場が目的だというので調べてやるが新宿にある強烈なスケボー場はあいにく休みであった。
散歩をしてみたいというので二人で川沿いのテラスにいった。
ボードで爽快に滑る。
ただし路面が荒いのかガラガラガラガラと結構な音である。
勝ちどきばしの方を見ると空がオレンジ色にかわりつつあった。
夕暮れが迫っていた。
どうしてもやましんに会いたいというのでメールをおくると「24:00まで仕事やわー。スマンノー」との返事だった。
投稿者 TKM : 06:35 | コメント (2) | トラックバック
2004年04月04日
[雑記] 桜と俄
空に雪が咲いていた。
自転車で聖路加タワーの前を通る。
まだ朝はやい時間なので人影はない。
桜並木を見上げると枝の先で花が重なり合い豊かに空を彩っている。
空に雪が降り積もったらこんなだろうな、と思った。
しばらくそこで桜色の雪が舞う空を見ていた。
昨夜は門前仲町でやまけんのブログ「出張食い倒れ日記」オフ会が開催された。
総勢14人。食い倒れの集いである。
同日、同時刻に別な場所でも矢坂組の花見の会が催されていた。
桜といえばかちどき橋のたもとに桜の木がある。
コンクリートで造成された広場の片隅にその木はたっている。
今朝、橋を渡るときまでそこに桜があることに気が付かなかった。
ニチレイビルの脇に立つその桜は僕が今年みた桜で一番立派に見えた。
その木はたった一本でそこに立っている。
何者にも媚びず、迷うこともなく、ただ咲いていた。
風に花びらが舞っていた。
「風に散る はなたちばなを袖に受けて きみがみあととおもいつるかも」
定かではないが万葉集にこんな歌があった。
この歌だけ覚えていて桜の季節になると思い返す。
先週、仕事に関してある法則を見つけた。
自分の仕事ではネゴシエーションを避けることは難しい。
いかにいい条件でいかにいい仕事をいかに気持ちよくやるか。
それをつくりだすのが自分の仕事である。
これまでは仕事というと迷うことが多かった。
しかし先週、ある方法を見つけた。
それで迷いがなくなった。
同じことは人との関係においてもあてはまる。
「俄」
この世は俄みたいなもの。
人はその人の俄をやっている。
我が出ると急に興ざめするのは我が道理に合っていないからなのだろう。
我と道理が合致すると世界は動き出す。
まあ、それを我とは呼ばないのだろうけれど。
++++++
昨夜、矢坂組の花見に合流しようとして部屋に戻って着替えセットを用意した。
出かける前にリラックスチェアーに座ってひといきついた。
時間にして1分から2分くらいである。
目を閉じて身体を楽にした。
気がつくと1時間近く時間が流れていた。
眠ってしまったのだ。
今朝は5時頃に目が覚めた。
夢の中でタケと病院の入り口にあるタッチパネル式の自販機で投資信託を買っていた。
「最近はここで買うんだ」
とタケがいう。そろそろ電車の時間だった。
++++++
人の悦びは自分の中からは生じないんじゃないだろうか。
悦びは関係性による。
関係性はホスト力から生じる。
時折みせる子供のホスト力は真似できない。
この世は「俄」である。
とまた思った。
投稿者 TKM : 10:14 | コメント (3) | トラックバック
2004年04月03日
[雑記] 雷の鳴る前にWindows
Windows二日目。
まだ慣れない。
特にエディタの感覚が違うのが大きい。
記憶では秀丸エディタがMacのJeditのような位置づけだったはずだ。
早速ダウロードして使ってみる。
キーバインドに関してはやまけんのアドバイスでKeymacsを導入したから無問題。
エディタも設定を少しいじったらマシになってきたが使い勝手とスマートさはMacの比ではないなあ、と感じてしまう。
Windowsだとどうしても「マシンを使っている」という感覚が強い。
この感覚は抽象的だけれどMacだと「道具」というイメージなのだ。
それにしてもKeymacsの出来はすばらしい。
アプリケーション毎にキーバインドが割り当てられる。
昨日、Windowsの欠点はコマンドキーがないことだ、と書いたがこの欠点を補って余りある面白さがKeymacsにはある。
どうしてMacとWinのいいところを組み合わせてベストをつくれないのだろう。
MSとAppleが協調してもいいんじゃないの、と昨日、ヤサカ師匠にきいたら「それは独禁法があるから難しいね」とのことだった。確かに、そんなものができた日には他のOSは追従は無理だな。などと書くと久保君が嬉しそうに「カガヤさん、Linuxですよ」とにんまり電話してきそうだ。
++++++
昨夜は雷の音がした。
4時過ぎに耐え切れず眠ってしまった。
夢を見続けていたけれど忘れてしまった。
さっきお茶を入れるときに洗濯機の上にある窓から外が見えた。
「空が曇っているからといって心を曇らせる必要はない」
という言葉が浮かんだ。
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投稿者 TKM : 00:38 | コメント (2) | トラックバック
2004年04月01日
[雑記] Macはよくできている
予想よりも早くDellのマシンが届いた。
箱を開きセットアップを開始する。
作業を開始して早々にユーザビリティの悪さを痛感する。
Appleは実績こそWindowsマシンに及ばないものの商品としての完成度、質感の高さは抜群である、と気づいた。
とはいえコンピュータの本質はソフトにあるわけで、例えばこのテキストは先日、やまけんに教えてもらったxKeymacsというキーバインドemacsと同じにするソフトを使って書いている。これだけで入力が驚くほど快適になる。
ウィンドウズマシンを使ってみてわかったがアップル最大の発明のひとつはコマンドキーだ。コマンドキーがあるおかげでマックではemacsキーバインドと他の操作が両立している。
更にこれも興味深いのだが実際にこうして書くまで気づかなかったこと。
書くときのモードがウィンドウズとマックでは随分違う。
慣れの問題でもあるのだろうけれどフォントが違うだけで書くときのモードが75度くらい変わるのである。
フォントの問題なんだろうな、と思いながら作業を続けていたら夜になっていた。
++++++
午後1時頃、あんまり天気が良いのでベランダにリラックスチェアーを持ち出し、Macの箱をテーブルに昼食を食べた。閃きで今日はアンチョビのパスタにした。音楽がないとつまらない。iPodをスピーカにつなぎ久しぶりにOriginal Loveを聴きながら食べ始めた。
外は4月に相応しく暖かい。
太陽の下でご飯を食べていると気分が大らかになっていくのがわかった。ハッピーであるなあ、と実感した。
しばらくそうしていたら段々熱くなってきたのでシャツを脱いだ。
Tシャツで丁度良いくらいである。
外を眺めながらお茶を飲んだ。
投稿者 TKM : 22:22 | コメント (1) | トラックバック
2004年03月31日
[雑記] コンテンツの核は…
夜更け過ぎ。
仕事を終えて野知さんのブログを観ると宇宙開発についての考察があった。
スクロールさせていくとコメントの投稿があった。
な、長い…。
本文よりも長い…。
スクロールが終わらない…。
これは勝手な思いこみだが、と断った上でいうのだけれど長いコメントをみていると言葉が本人のアクションとリンクしていないような印象をうける。自分はこうしています、だからこう思います。というスタンスになっていないので自分の弁護に聞こえてしまう。だからどんなに文章が明快で鮮明でもあまり心に響いてこない。
自分が議論の為の議論が嫌いなので特にそう思うのだろうけれど。
体験をベースに書いている人の文章は上手でなくとも響いてくることがある。
旅行記や旅日記などときどきハッとさせられるものがある。
自伝も面白い。
といっても、その人が面白くなければ旅行記も何も面白くないのではあるが。
コンテンツの核は「人間力」ということなのだろうな。
投稿者 TKM : 03:21 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月29日
[雑記] オリハルコンの糸巻き
連日の睡眠不足の為だろうか昨日、日曜日の午後にバタリと倒れるように眠り。
目覚めると午後8時であった。
たくさん眠って血が循環したのか頭がスッキリしている。
たかのてるこ「モンキームーンの輝く夜に」を読みはじめる。
なんとなく外にでたくなる。
銀座の外れにあるカフェは夜11時までやっているのでまだ1時間30分くらいはあいている。
読み始める。
脳内に広がる風景は東南アジア。
言葉の力を感じながら読み進める。
たかのてるこの文章は決して難解ではない。
話すように書かれているからだろうスラスラと頭の中に入ってくる。
言葉とは本来こうあるべきなのではないだろうか。
難解な言葉も通じなければ意味はない。
インターコミュニケーションのテキストは洒落ているが全く心には響かない。
勿論、記憶にも残らない。
洒落た雑誌のテキストは言葉ではなく幾何学模様のようだ。
スラリとしているがそれだけで言葉が響いてこない。
ほとんどのテキストはカタチだけなのだろうか。
午前1時。
部屋にもどり明日の仕事の準備を始めた。
準備の合間、思いついて、机の上においてあったアロマキャンドルに火をつける。
ゆったりとした灯り。
部屋の雰囲気が変わっていく。
リラックスチェアに腰掛けてお茶を飲む。
ゆっくりと呼吸しながら考えるのを徐々に止めていく。
何も考えない。
やってみると難しいものだ。
午前2時30分。
準備が終わった。
ベッドに横になる。
夢の中に落ちていった。
朝。
6時に目覚める。
夢をはっきりと覚えていた。
崖を滑り降りていた。
スキーの滑降ではない。
手には強度の強い針金のような細い鉄棒を二本握っていた。
先端は90度に折れ曲がっている。
細棒をつかい滑走する。
ほぼ垂直に切り立つ崖を滑り降りる。
不安はない。
背後に人の気配を感じた。
知っている人間だが彼はすでにこの世の人ではない。
彼は何故にそこにあらわれたのだろう。
ぼんやりと考えた。
疾走は止まらない。
崖は永遠に続く絶壁である。
落下していく身体を細棒で支える。
エッジを効かして雪原を滑走するかのように垂直に滑っていく。
崖はまだつづく。
絶壁の岩を削り落としながら落ちていく。
しばらくして鉄柵にたどり着いた。
そこが底である。
門は閉ざされている。
よじ登りながら、飛び越えた。
前転をしながら着地する。
目の前には門がある。
門は閉ざされているが開き方は知っていた。
気配は消えていた。
門を開く。
鉄柵の上端に釣り糸のホイールのような黄金の物体がかかっていた。
一緒に肩掛け鞄と紺色のランニングパンツがつり下げられている。
糸巻きに触れようとしてためらった。
ペンチがあったのを思い出してペンチで糸巻きをつまんでみる。
糸巻きは変形し平たくなっていく。
同時に防具が自分を包んでいく。
旅の仲間なのだろうか35歳くらいの異国の男性があらわれた。
彼の顔をみていると鼻から下を5cmくらいの白い円錐状の渦巻きが取り囲んでいく。
渦巻きは全身を覆っている。
刹那、彼の身体は鎧に包まれていた。
鎧は躍動している。
彼の顔の前だけが透明度を30%にしたレイヤーのように薄く向こうが透けてみえた。
ぼんやりと渦巻きも見える。
彼は金色の糸巻きを示し
「オリハルコン」
といった。
超古代物のSFにありがちな名称だな、と思った。
しばらくして仲間は3人に増えた。
出かけることにした。
行き先は未定だった。
投稿者 TKM : 08:33 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月28日
[雑記] 朝の桜
午前6時。
目が覚める。
空は静かである。
太陽に照らされてうすい青に変わっていく。
外の空気を吸いたくなった。
iPodをポケットにいれ自転車でリバーシティを散歩した。
メルキート聖歌を聴きながら桜並木を下から見上げた。
通り過ぎていく桜の花々の向こうに空とリバーシティの超高層が見えた。
中央大橋をわたるとき。
見上げると橋桁へとのびるワイヤーがどこまでも続いていた。
山種の倉庫の向こうに太陽がのぼってくるのが見えた。
何もいらないな、とおもった。
投稿者 TKM : 09:25 | コメント (1) | トラックバック
2004年03月25日
[雑記] 朝の築地
今朝は早々に起きて6時過ぎに朝食。
築地でマグロ丼。
大和を攻めようと思ったのだが6人ほど並んでいたので却下。
並んでいるのは20代の若者達である。
大和はTVや雑誌への露出が多いので土曜日は行列が必至である。
しかし平日の午前6時はたいてい並ばずに入れる。
今日の混み具合は春休みで観光客が増えている為だろう。
「あっちの人がお父さんでこっちで握っているのが息子さんなんだよ」
と20歳くらいの女の子が友達に説明しているのが聞こえてきた。
5人くらいの外国人のグループが人や車でごったがえす市場の中を一列になって歩いていく。
ターレットにも全く動じない。
マグロ丼を食べ。
お茶を飲みにジョナサンにいく。
なんと、築地にもジョナサンができたのである。
このあたりには24時間あいていてお茶が飲める場所がなかったので朝は築地で働く人でにぎわう。フロアは中央のレジを境に左右わかれている。それぞれ禁煙席、喫煙席になっている。
やまけんのブログをみるとオフ会をやるとの告知があった。
楽しみである。
さっそく「Best of 食い倒れエントリー賞」実施の提案をしておいた。
明日は編集会議である。
投稿者 TKM : 13:03 | コメント (0) | トラックバック
2004年03月24日
[雑記] 今朝の時刻は7時25分 TOMAS・戦う学習塾 ~高田延彦が「おまえら出て来いヤー」と叫んだ時、オレとバシとヤマケンとヤマシンはドームにいた~
夜。
高校時代の同級生からメールがあった。
「入院するので。退院したら飲みに行きましょう。」
とのことだった。
この間、バレーボールの試合を一緒に見に行った時に膝を痛めているといっていた。
悪化したのだろうか。
退院する頃には桜は散っているかもしれない。
それでも花見に行こう。
花びらの一枚くらいは残っているだろうから。
++++++
夜、録画しておいた「ガイアの夜明け」を観る。
学習塾の特集であった。
僕は予備校も学習塾もほとんどいっていない。
二つも学校に通うと疲れそうだが小学生も高校生もみんながんばっている。
カメラは算数で落ちこぼれた5年生の生徒を追う。
彼は個別指導で有名なTOMASという塾に通い始める。
(そんな塾があることを知らなかった!有名らしい?!)
驚いたことにカメラは5ヶ月も彼を追う。
こうなると執念だ。
TOMASの先生は現役の大学生や大学院生。
それが個室でマンツーマンで指導













一部ネタバレのレビューです








