2004年08月27日

キュービタル的人口のとらえ方

一日の時間は24時間と決まっている。
地球の回転速度の問題だからこればかりはいたしかたない。
これが48時間とか72時間に増えたとしてもそれだけで生産性が向上することはない。

先のエントリーの続きになるが時間の余裕と生産性、能率はあまり関係がない。
集中していれば10分で終わるものが同じことをやるのに2時間を要する時もある。
10分と2時間の違いは「やる気」である。
あとは流れと運。
こちらの方が本質に近いだろうけれど発端はやるかどうかなわけでその基はやっぱり「やる気」あるいは行動そのものであろう。

ではこの「やる気」というヤツはいったい何なのだろう。
買うことはできるのだろうか?
できないのだとしたらどうしたらベストの「やる気」をキープすることができるのだろう。ここを解決していけばいろいろと面白いことが起こる。

例えば国という大きな組織について考えてみる。
国を計る際に使われる大まかな目安はまずは人口である。
経済でもなんでも人口との比率によって決まっていく。

20対80の法則じゃないけれど20%のやる気の人々がその他80%のやる気レスな人々をカバーしている人口そこそこの国と人口は少ないが80%のやる気満々の人々が20%のやる気レスな人々と一緒にやっている国の経済規模が同じくらいだったとしたら規模は同じでもやってる内容やノリは相当に違うはずだ。

ノーマルな見方をすると80%がやる気な人々の国の方が強いようにみえる。けれど本当にそうなのかは怪しい。

20%の人々しかやる気がないのにそこそこいけてしまっている国の方は残り80%を活性化できる可能性を持っているわけで質的な転換が生じれば別物に転じるかもしれない。

とはいえそれは仮定だからいま80%の人々がやる気をもってる組織の方が発展性を持つし魅力的だ。

そうだ忘れていた。キュービタルという視点でとらえると一騎当千という考え方があてはまるから人口を単純に人の数と考えてはいけないのだった。例えば中国には12億の人がいる。数だけみると人口でこれに対するのは難しい。けれど1人が10人前の働きをすれば1億の人口でも10億の働きはできるはずだ。だからキュービタル的人口規模のとらえ方では一人がどのくらいの活動をするかを考えなければならない。

それを考えていくと前述の「やる気」と「能力」の話になっていくのだがやる気や能力というものは定量化することが難しいので「何となく」というとらえかたしかできないのである。

これはキュービタル的解法を探すうえでの課題である。

投稿者 TKM : 13:49 | コメント (0) | トラックバック

2004年06月23日

[キュービタル] 情報のヴァーリトゥードと雨のコントロール

ネットって面白いなと日々思う。
画面に向かっていると時には無駄な時間を過ごしているという自責の念に駆られる時もある。それでもゲームよりは数段に面白い。常に何かが画面の向こうに待っている、ような予感がある。

いろいろなサービスが恐ろしいスピードと加速度で日々誕生している。
こんなことは現実世界ではあり得ない。
完全に無制限というわけではないけれど物理的な制約がないというのはこういうことなのだろうか。どんなサイトをつくるのも自由だ。それが法に反するかどうかは別としてつくること自体は自由だ。何でもありのヴァーリトゥードである。

日本では法律の制約があるためネットラジオで楽曲を流すことは難しい。
しかし国が違えば事情も変わる。
先ほどmixiの友人日記で下記のサイトを知った。

http://www.digitallyimported.com/

アクセスしてオススメされていたmodern jazzを聴いてみる。
悪くない。(上記のサイトの音楽は無料である)
こんなサービスがあったら有線放送で音楽を聴かないだろうな。
と考えると優先ブロードネットワークスが早々に事業モデルをブロードバンドインフラ企業に切り替えたのは英断だったのだと思う。経営者の意志決定というのはスゴイものだ
。松井証券が店舗営業を廃止しネット取引に特化することで現在のポジションを築いたのも似ている。

企業の意志決定の方向が有効であるならそれがドラスティックであればあるほど企業の未来はユニークなものになる。

勿論、規模の問題があって数千人を要するような大企業が質的な部分でドラスティックな変化をとげることは難しい。人間、自転車、バイク、車、バス、船、飛行機などなど規模が大きくなればなるほど方向転換は大変になる。

それは企業や組織も同じで組織もでかくなると小回りがきかなくなるから恐竜化して衰退する、という意見はわりによく目にする。

企業の遺伝子という言葉がある。
製造業を主幹業務としてきた企業においてネットワーク事業が主体になる、ということは少ない。ソニーの研究者が「僕はネットワークとかソフトウェアを研究しているけれどそれがソニーという会社のメインストリームになることはないんですよ」とぼやいていた

細胞が集まって組織ができ様々な組織の集合体として人間ができている。
10年位前にはやったパラニューロンという考え方によればそれぞれの機関は脳という司令塔によって統率されているわけではなく内臓は内臓で情報を処理するなど小機関毎に意志決定が行われ、それらは脳の統率の外にあるとのことである。

我々が行っている意志決定はそうした様々な機関の意志決定と無縁ではない。
なんらかの形で影響はうけている。

ここから先は僕の心証だが「制御」という考え方で情報を処理すると規模の限界がある。
制御ではなく非制御による制御という概念で意志決定を捉え直すと組織の意志決定において大切なものが何なのかが見えてくる。
(雲を制御することは難しい。しかし制御とは別のアプローチをとるならばそれも可能かもしれない。そういえば東京都は水不足の時に雲の生成装置を導入し人工的に雨を降らせることを試み成功したとされている。詳細はこちらの東京都議会・都市・環境委員会報告を参照)

ホーリスティックな視点とも少し違う。
というのはホーリスティックなアプローチはフェノタイプ(表現型、この場合は現象という意味で)として発現するまでに時間がかかる。速効性があり、なおかつホーリスティックな結果へとつながる方法論。

統治や経営、組織、個人の意志決定への別なアプローチがあると僕はおもっている。
まずはシンプルな方法論によって概念をはずし、ソフト的に立ち位置をゼロクリアすることがスタート地点だろうか。

投稿者 TKM : 17:59 | コメント (0) | トラックバック

2004年06月20日

[キュービタル論] 夢とキュービタル

今朝も早々に目覚める。

狂った夢は相変わらずである。

論理構造あるいは関係性を時間軸をブレたままで映像として定着させたものというイメージがある。複雑なストーリーも感覚や感情の映像化なんだろうな、と思う。記号として表現できないから関係性はストーリーに置き換えられるのだが、単一のストーリーが重みを持つことはなく並行した多数世界に存在する自己を違和感なく受け入れている。これはかなり不思議な感覚だと思う。

夢の中で自分は話している。
これはこうなんだよ、ということを一生懸命話している。
しかし、次の瞬間。
自分が相手になっている。
話している相手の視点が自分の中に入り込んでくる。

それでも普通に話を続けている。
しかし相手の言葉を考えているのも自分だ。
夢の中で我々は自分の視点と相手の視点を同時に体験している。
つまり夢の中で我々はキュービタルアイを体感している。

投稿者 TKM : 08:42 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月27日

イスラエルのめがねとキュービタル再考

イスラエルの製品はどこかしら軍がらみなのだけれど実に興味深い。

例えばこれだ。
ウソ発見メガネ」。
よくこんなものを考えつく。
そして悔しいが面白い。
これなども実にキュービタル的な製品だと思う。
石井先生との対話や昨日の孫さんの話などをきいていてもものごとが同時並行的、パラレルリアリティ、なキュービタルな日常に向かっていることを痛感している。
ビジネス系の話も面白いのだが僕がなぜそれらを面白いと感じるかというとそうした話や事例の端々に情報の生命的な振る舞いや「キュービタル」的な振る舞い、実際が見え隠れするからなのだ。

キュービタルとは考え方であり、現実世界をキュービタル的視点で再構成し、より「面白く」「自然な」社会や人のあり方を追求していこうという試みなのである。

※キュービタルに関心のある方はご連絡ください。キュービタルに触れる機会、講演会、勉強会などの情報をお送りします。

◆参考URL
東京海上研究所ウェブフォーラム
http://www.tokiomarine-forum.org/index.html

投稿者 TKM : 13:54 | コメント (1) | トラックバック

2004年01月07日

コンテンツとパラレルリアリティ(先のエントリーへの補足)

※補足
簡単にいうと情報が勝手に視界にはいってくるので、本を読みながらTVをみたり人と話をしたり。TVをみながら歩いたり。文章を書きながら別の文章を読んだりといった具合に別々のことを同時にやることでより強い引き込み現象を引き寄せることにつながるわけだ。
中でも衝撃的なのは二つのコンテンツを動じに楽しむということができるというあたり。また同時に複数の視点を体験する、みたいなことに注目したい。
更にいってしまうと人の心の問題が解決してい予感がある。コミュニケーションとは情報のやりとり。そして人を苦しませたり悦ばせるのはコミュニケーション。いまは笑いながら泣くのは難しい。だから哀しい時は哀しさのループ。寂しい時は寂しいループにはいっていく。が、ここがもつれてくる、というのが僕の読みである。
コミュニケーションによって人は感情の状態を変える。だから困ったことがあると人と話したくなる。悦びも同じだ。人とわかちたくなる。まだはっきりイメージできないのだが悦びを記録できるようになり、そのアーカイブが感情のマネジメント、あるいはモチベーションマネジメントにつながっていく。
あまり注目されていないがこれが段々と重みを持っていくと思うのだ。
気持ちのよい人はより気持ちのよい人になり、豊かな人はより豊かに、悦びおおき人はより悦びおおく、というループがある。これには理由があって、それが上記の感情のアーカイブとリンクしているのだ。懐古的にではなく生産的に過去を無意識的に利用する方法がありうる、それがパラレルリアリティの一面だと思う。アーカイブとパラレルリアリティの関係はそこにある。

投稿者 TKM : 03:19 | コメント (0) | トラックバック