2004年08月26日
「鋼の錬金術師」と物語の面白さ
仕事の参考にと「鋼の錬金術師」を観る。
原作と少し話が違うのだがTV版の方がストーリーに影があって面白い。錬金術が存在し自在に物質をつくりだすことができるが生命体だけはつくることができない。
主人公は錬金術が使えるのだからどのような敵に対しても何でもできるはずだがこれが案外と使えない代物を呼び出しそれを利用した格闘によって決着をつけていく。このドラマでは錬金術というアイテムがドラえもんに出てくる「もしもボックス」と同等な位置づけになっている。そのため万能なはずの錬金術が肝心な場面では役に立たない場合が多い。
この物語の面白さは錬金術というアイテム、世界観にあるわけではない。それらの設定は面白さを引き立てる役割を担っているが本質ではない。ではこの物語の本質はどこにあるのか?
一つはキャラクターである。それぞれ性格の異なる登場人物が織りなす人間関係の面白さ。主人公とその弟を核にしながらも登場人物はそれぞれに特異な過去を背負う。話の要所要所で彼らの過去が明かになっていく。そのため登場人物が徐々に自律的な存在として物語に関わってくる。観ているとこのキャラはこんな過去があってこういう人間でというのが頭の中にできあがっていき、前の回を観てそれを知っているからこの場面ではこうなんだとと観る側が解釈をしはじめる。
こうなるとそれぞれのキャラが画面ではなく観ている自分の頭でも常時存在し活動しはじめる。そして物語は深みを増していく。これは続きものや連載、大河ドラマの持つ連続性のダイナミズムが引き起こす面白さである。
もう一つの面白さは「謎」である。これはおそらく人の本性なのだろう。人は「謎」に対して無関心でいることができない。
「ま、まさこれは?!」とか「例の計画」「その腕の紋章は?」などのセリフによって謎かけをされるとそれが何かを知りたいと思ってしまう。だからそれが明かになるまでは物語に集中せざるえない。こうした「謎」が物語の随所にちりばめられている。そしてそのバランスが絶妙なのである。あまりに哲学的な謎の場合、答えは形而上学的なものになってしまう。そうなるとドラマとしては成立しない。かといってそれが明らかになったとき全く頭を使わなくてもそれがなんであるかわかるような答えのあるような謎では面白みに欠ける。
ある程度の哲学性があり「そういうことだったのか」と感心できる「なるほど感」のバランスを持つ「謎」がポイントなのだ。鋼の錬金術師という物語にちりばめられた謎はこのバランス感が絶妙なのである。それだけ脚本がよくできているということなのだのだが連載という体裁にはひとつの欠点がある。
このシリーズにおいてもその欠点が少しづつ見え隠れし始めている。本来、謎はストーリーの必然として存在しなければならない。しかし盛り上げの為の謎になってしまうと回を重ねるにつれて謎も敵もより巨大・強大化していってしまう。末期のドラゴンボールや幽々白書などその好例で後にいけばいくほど敵は宇宙規模の強大さへと向かっていく。こうなると中期の熱気とスピード感や意外性は姿を潜め徐々にネタ切れ感が強まってきてしまう。
この問題はいつか終わらなければならないという物語という形式の持つ欠点(或いは利点)なのだろう。
未だ答えはないのだが鋼の錬金術師の場合は現在までのところ段々と深まる謎、深刻化する世界との関わり、哲学的な問題への発展、などなど大人から子供までそれぞれの理解に応じて楽しむことのできる良質なつくりになっている。
スクウェア・エニックスのアニメとあまり注意していなかったがいざつくろうとしたらこう上手にはつくれないだろう。他のアニメや作品にもいえることだが内容が薄いとかちゃらけている場面があるとか深みがないなど批評するのは簡単である。しかしこれをつくるとなるとそう簡単ではない。
批評家は自身はつくらないからこそ批評できるのだと思う今朝であった。
追伸:そうそうもう一つ、物語の核となる面白さとして「ヒロイズム」がある。キャンベルがいうようにそこにどんな意味があるかとは無関係にヒロイズムは人をひきつける。
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投稿者 TKM : 05:02 | コメント (0) | トラックバック
2004年08月17日
当世コンテンツ事情 2.コンテンツと味覚の類似性
何がどういうわけではないのだが世に溢れるコンテンツ群に対する違和感が日に日に強まっている。
「時代を開く」とか「新しい枠組みをつくる」という言葉はどことなく空虚だ。その言葉を確かめるべく「どれどれどんなことが時代を開くのだ」とみてみると「着メロ」であったり「ゲーム」であったりする。
狐につままれたような感覚に陥る。
「それが受け入れられていて儲かっているのだからそれでいいじゃないか。」
という意見もある。けれどコンテンツ全般の質感はもの凄い勢いですり減っている。数年後にはそんなものがあったことすら記憶から消え失せているだろう。それも流れなのだろうけれど。
コンテンツとは消費されるものである、という認識の方が一般的だ。しかし消費を目的につくられたコンテンツは人を掘り起こすことがない。記憶に粘らない。
自分はコンテンツを体験し、それが何なのかを脱構築するということをずっと繰り返してきた。その経験からわかったことは優れたコンテンツはユーザ、視聴者、読者の「参加」を強いる。記憶に粘らないコンテンツに価値はない。それらは消費され消えていくのみでユーザの感覚を掘り起こすことがない。
商業的に成功しているか否かはコンテンツの成功をはかるひとつの指標である。
良いコンテンツだけれど商業的にはそれほど成功しなかった、という言葉を時々耳にする。これをもってコンテンツの出来不出来を論じることは間違いである。商業的に成功しなかったのは単にマネジメントのミスである。マーケットサイズの読み違えが商業的不成功の理由の大半である。
メガヒットは宿命的に「薄」を伴う。これはコンテンツの宿命でもある。濃さはニッチに向かわざるえない。日本で一番美味い寿司屋よりもファミレスの方が商業的には成功しているだろう。美味い店と売れている店は一致しない。美味さを感じるには豊富な味の経験が必須である。コンテンツもこれと似ている。
子供の頃から様々な味のコンテンツを味わうことなしに本当のコンテンツの味を感じることはできない。味覚とコンテンツの価値を判断する感覚は近い。やまけんにきいたのだが脂と甘さに対する味覚に関しては経験がいらないそうである。だから子供は脂か甘さが好きなのだといっていた。例えば鮎の肝を食べて「ウマイ」を感じるにはそれ以前に様々な味を経験することで味覚を育てていく必要があるのだそうだ。
この点はコンテンツも似ている。経験がなくともアクションの生み出す爽快感、場のすべりが生み出す笑いのようなものはある程度は理解できる。けれども「ミレニアムマンボ」のような平坦な場面描写や時間の流れの総体として観ている間ではなく見終わった時に完成するタイプの映画などの場合はそれが指し示す言語化の不可能な「感覚」「質感(クオリア)」の経験がないとその良さを感じることはできない。
経験の必要とされない刺激としての映像情報作品がヒット作の大半を占める。しかし劇場というフィルターがかかっている映画の場合、マーケットサイズを読み違えなければサステイナブルな形で良質のコンテンツが生き残る可能性は高い。
近年の日本映画の盛り返しなどをみているとそう思う。
ネットやケータイの場合は末期状態といってもいい。ある程度のリーチをもっているサイトは例外なく「スカ」である。初期においてはネットとはニッチを狙ったコンテンツが存在できる可能性がある最後のメディアである、というような言い方がなされたがそれは幻想である。
ネットという場では相手に思考を強いるコンテンツは商業的に成功しない。大きなリーチを得ることもない。これはメディアの特性である。
ネットという媒体に対峙するとき人は集中力を維持できない。同時に多数のことが並行で行われる為、意識がバラつくのだ。だからネットのコンテンツはTV以上に「薄」に向かわざるえない。少なくとも現状では。
僕もそうだしクリエイター達もそういっているがIPリーチャブルな環境(オンライン)だと自分の内部を掘り下げていく作業はやりづらい。創作においてはどうしても外部と自分を切断する必要がある。話ながら書くことはできない。編集しながら書くこともできない。
しかしオンライン状態では完全な没入は難しい。つながっていることによって外にひっぱられる。それが全て悪いことだとは思わない。しかしある場面、例えば完全に自分が独りで思考あるいはイメージしなければならない場面においてはマイナスである。
おそらくバランスなのだとは思うがまだネットは人の創造性をドライブさせる有効な方法として機能していない。便利さと創造性のドライブは別ものである。コミュニケーションはきっかけをつくることはできるが創造自体は自分がやらなければならない。
と自分はいまいっているけれど全てはバランスの問題である。
どう使うことによって加速するのか。
使い方の問題なのだ。
それがまだわかっていない。だからコンテンツ、特にネットで商業的に成功するコンテンツをつくるならば「薄」の方向に向かわざる得ない。短期的にはこの傾向は顕著である。
が、僕が観ているのはその先なのだ。
その先にあるものは何なのか。
それが知りたいのだ。
それは人をどうするのか。
自分の感情体験をより豊かにするにはどうしたらいいのか。
自分が探すものはそこなのだ。
ケータイのコンテンツもいい。
ネットのコンテンツにも面白いものはたくさんある。
が、それで泣くことはあるのだろうか。
心に響く体験をすることはあるのだろうか。
おそらく現在それを提供でいているのはメールくらいだと思う。
メールとはあなた個人にむけてつくられたコンテンツだ。
それは他者にとってはノイズかもしれない。
でもそれを読んだあなたの心は揺れたかもしれない。
そうした体験は誰しもあるだろう。
メールだろうと心に響くことはある。
ここに本質的な問題があると思うのだ。
日々、様々な情報がネットからTVから押し寄せてくる。しかし自分に宛てられたメールや友人や恋人との時間、人と会い、場に出向き体験する、など自分との関係性や体験以上に価値を持つ情報があっただろうか?
現在のコンテンツには大きな何かがスッポリと抜けている。
ネットに限らず「今」のコンテンツの多くはは自家中毒に似た症状を引き起こす、ように僕は感じている。どこかで読んだのだが無人島に一本だけ映画をもっていっていい。でも生涯その映画しかみられない。だとしたら何をもっていきますか?という質問にその人はこう答えていた。
「映画は一本だけでもかまわない。ただし一つだけ条件がある。映画を観るときだけは他の観客と一緒にみせてくれ。」
最初、その意味がわからなかった。独りでみようとまわりに観客がいようと映画の価値は変わらないじゃないか、そう思っていたのだがいまは少しわかる。
僕はコンテンツを考える上でその部分をもう一度掘り起こしてみたいと考えている。
投稿者 TKM : 18:14 | コメント (1) | トラックバック
2004年07月29日
当世コンテンツ事情 1.どうにもまどろっこしいネット系のコンテンツ
ウェブサービスやウェブコンテンツをみているとまわりくどいものが多くて嫌になる。
特にデザインだけエンターテイメントな雰囲気を醸し出しているサービス。
どれもこれも直球がない。
ダイレクトに響いてこない。
これよりはまだパチンコの方がましである。
玉を買って、台に座って、打ち、当たれば玉がでてお金かモノに替えることができる。
というシンプルさと射幸性がパチンコの面白さの本質である。
まあギャンブルなんだから仕方ないよと言われてしまえばそれまでなのだけれど。
でもネットのコンテンツが「堅い」のも事実。
つくっている人が優秀だからこんなことになる。
もともとコンテンツや遊びなんていうものは「仕事っつってもなあ」とかいってるメディア的には「どーしようもない人々」が開発したものだ。いまではソニーもMSもゲーム屋になってるけれどあれだってオレらがガキの頃は「ゲームばっかりやってるとバカになるぞ」と脅かされつつそれでもしょーもなくやり続けていたから今みたいになってるわけだし、いまや国策とまでなったアニメにしても子供の頃はTVでアニメばっかりみてると「あと○○分にしろ」とか「せめてニュースをみろ」とか大人にとってはネガティブな印象が強かったのであろう。それがいまや携わる人々が羨望のまなざしでみられようとは。
状況の変化や流れとはいえこうも変わるか。
さてネットのコンテンツだが。
「疲れ」てしまうものが多いのには理由がある。
自分も現場にいたのでわかるがたいがいが企業内で仕事として人材と頭とお金とをつかって開発されている。これがまずマイナスの最大要因である。例外もあるだろうけれどやっぱりコンテンツの発端というのは「遊び」とか「創る」とか「知りたい」とか「やってみたい」みたいな感情にあってそういうのはこれとこれを足すとこうなるみたいな予想可能な方法論ではなく大抵、ズレたところやほころびからはじまる。
ゲームもつまらなくなりはじめはこれは儲かるぞとばかりに様々な企業が仕事としてつくりはじめたころからではなかろうか。例外もあるので一概には言えないけれど大まかにいって大規模になりはじめて以降ゲームはコンテンツから商品に変わっていったというような印象を受けるのである。
一部の映画タイトルやゲームタイトルのように規模が巨大になり製作にかかる金額が大規模になってうまくシステムを組まないとビジネスとしては成立させることができない種類のコンテンツもあるわけでそれはそれでいいのだけれど。ただ、そういうやり方にはなんとなく先がないような気がしてしまう。
まあそれらの巨大なコンテンツも基本は「面白い映像やストーリーをみせて喜ばせる」なわけで極めてシンプルだ。
ところがネットの場合だとここがまどろっこしい。
どんな「面白さ」を伝えたいのか「何がしたいのか」がどうにも遠回りなのだ。
アダルトサイトやギャンブルサイトなどはうまくいっている事例かもしれないけれどそれらはコンテンツというよりは流通業みたいなものなわけでくくりを別にすべきじゃないかと僕は思うのだがそれらにしてもバックヤードのシステムは複雑になっている場合もあるが「魅力的な映像の提供」や「いつでも好きな場所でギャンブルを楽しむ」等のように一言でいえるくらいコンセプトはシンプルだ。
話は飛ぶけれど、ラスコー洞窟の壁画はあの時代の人にしか描けない。絵の具やら道具やら絵を取り巻く状況や人の認識等々が変化してしまっているのでいまの人があの絵を描くことはできない。まねして似たような絵を描くことはできると思う。しかし、ゼロからいきなりあの絵を描くことはできないだろうと思う。
同じようにゲームなんかもアイスクライマーやテトリスなんかができたのは技術が未熟だった背景が大きく影響していると思う。いまの技術で同じようなゲームを企画して開発することは難しいだろう。もちろん技術的な問題ではない。またどんなに完成度が高くて面白くても関係ない。ユーザがそのゲームに触れ良さを感じることができる、そういう機会をつくることが困難になってきているのである。


