2004年10月18日
「情熱大陸・高橋邦弘」 蕎麦打ちという表現
笑顔のカッコいい人だなと思った。
蕎麦打ちだろうとなんだろうとその道の先端にいる人は独特の空気を持つのだろう。
以前、別のドキュメントでも高橋さんの姿をみたことがあった。
確か蕎麦の神様とされる人物の姿を弟子たちのインタビューによって浮かび上がらせ、その実像にせまっていくという番組だった。
今日の番組の中でグっと引き込まれたのは名人と呼ばれるほどの高橋さんがいつも笑顔でいることだった。蕎麦を打つ姿をみているとなるほど「職人」とはこういうものなのかと思った。分野に関係なくある域にまで到達した人たちの動きは「美しい」。無駄がないといったらいいのだろうか。「舞」とは違うのだが動きに引き込まれる。
学生時代に建築現場で大工さんの仕事ぶりをみていたときも驚いた。どこかのとっつぁんにしかみえないおじさんがカンナやノミを手にカンカンやりはじめる。これをみているのがとても楽しいのだ。動きに無駄がなく、遊んでいるようにもみえるができあがってくる仕事は見事である。
今日の番組終盤で蕎麦を打ちながら高橋さんがいう。
「私は駅のたちぐいそばおいしいと思うひとがいれば駅のたちぐいそばだっていいし。それぞれお客さんを満足させればいいと思うんですよ。それが自分の蕎麦やってる蕎麦以外は蕎麦じゃないって偉くなっちゃうとそれは違うぞと。オレの蕎麦くってみろとか、お客さんに食べ方まで指導するとか。蕎麦ってそんなに偉いの?って」この感覚なのだ。物事というのはそれ自体が独立して価値を持つのではなく関係性の中で価値を持つ。蕎麦もそれを食べる相手があってはじめて成り立つ。
僕は店でうんちくをきかされたり、講釈されるのが好きではない。
それは職人同士、料理人同士でやればいいことでありお店の問題だ。
お店というものはお客の満足を最大化することに注力すべきだと思っている。
何をもってにお客に対する「気持ち」とするか。
それが店の個性であろう。
店もそうだが僕が苦手なのはしたり顔の客である。
蕎麦が「うんぬん」を言われると腹立たしくなる。たかが蕎麦で偉そうにするな、と。
うまければ満足し悦びを味わえばいい。
それ以上の何かが必要だろうか?
こちらはプロの客でいつづければいい。
仮に自分の好みと店の方向性が違っていたとしても、自分が味を知っていようが知らなかろうが、その店や相手が本気かどうかという気持ちは伝わるものだ。
プロの客に必要なのはうんちくではなく相手が本気かどうかを感じ取る心。
それだけだ。
高橋さんに限らずいくとろこまでいった人は総じて謙虚である。
そういう人のもとにはやはり良い人が集まるのであろう。
ダメな店にはダメな人が集まる。
いい店にはいい人が集まる。
ネットでも現実世界でも似ているな、と思った。
◆関連リンク
翁達磨(高橋邦弘さん)
補足:別のドキュメント番組のタイトルがわかった。NHKにんげんドキュメント「おれの師匠~そば名人の心をうけつぐ」であった。偶然この番組をみたのだが心にひびく番組だった。高橋さんもこの番組でとりあげられた片倉康雄氏に師事されていた。
投稿者 TKM : 01:17 | コメント (1) | トラックバック
2004年10月01日
衝撃のボディー&ソウル
人の身体とは一年間でこうも変わるものなのか。
この映像をみて欲しい。
http://www.johnstonefitness.com/images/1ya.gif
たるんだ身体が徐々にグッドシェイプに変わっていく様子が連続写真で確認できる。
この人のサイトには
フードログ
http://www.johnstonefitness.com/php/menus.php
もあって確認すると一年間で体脂肪率が23%から9%に落ちている。
こういうのをみるとビジネスでの成功や強運やらとは全く違った部分で人生を変えている人もいるのだと感心ひとしおであった。
こちらが
写真アーカイブ
http://www.johnstonefitness.com/php/pictures.php
人間の身体というのは潜在能力を秘めているんだな。
写真をみるとやればやっただけ変わっていくことが一目でわかる。
三ヶ月に体型が別人になっている。
スゴイよこの人。
スゴイよ人間。
レシピやトレーニングメニュー、自宅にあるジムの写真なども公開されている。
が、読むべきは
About me
http://www.johnstonefitness.com/php/why.php
であろう。わかりやすい英語で書かれているのでサラリと読めるはずだ。
キッペイの言葉じゃないが「気持ちだよ」ということだろう。
吉本ばななもいってたが「人間は身体があるから人なんだ」と思った。あまりにも自明なことなのだけれどここに本質があるんじゃないだろうか。何がその人かといったらこの世界にいるということがその人の存在なわけで、言葉も人であるけれどそれだって身体がなかったらこの世に発することはできない。身体とソフトとその両軸でまわってるんだなと実感する今朝であった。
投稿者 TKM : 12:41 | コメント (0) | トラックバック
2004年09月05日
悪戯と転と展の流儀
夜。
雨が止んだのをみはからって出かける。
帰り道。
すこし力が戻ってくる。
雨はまだ降り続いている。
築地を過ぎたあたりで傘をたたむ。
酔っぱらったおじさんが傘をクルクル回しながら歌を歌って帰っていく。
自転車で脇を通り過ぎようとしたらこちらの方によってきてぶつかりそうになった。
「おっと。スンマセン」
「いえ大丈夫ですよ」
おじさんの声には人の温かさがあった。
空を見上げると雲の切れ目から夜空が見えた。
オレも誰かに必要とされるだろうか。
少しゆらりときた。
もし自分に対して「かわいそう」を感じるようなら注意が必要だ。
それは自分の持てる力を使っていない証拠だし、なまくらに生きているということだ。
倒れるくらいまで力を使い切るようにして毎日を生きていれば円運動の法則によって振り子は一回転して忘れていた躍動が戻ってくる。
人生の秘訣は自分が円運動のどこにいるかを認識し、次の極(ポール)まで生き残る知恵を絞ることだ。なんだっていい、ずっと続くものなどない、ということを時々思い出すことだ。いいときもあれば悪い時もある。それが1年でも2年でも3年でも4年でも円運動の法則はミクロにマクロで機能しつづける。
人というのはそれを時々忘れてしまうのだ。
以前は「今」を変えたくていつもカンフル剤を注入するかのように自分を取り巻く人々や関係性にむかってやり場のない感情のエネルギーを咆吼のように放出していた。時にそれは勢いとうつることもある。けれど実際には絡まってしまい行き場がわからなくなったエネルギーの無駄な発露でしかない。
僕の場合は思考するというよりも書くことで調子が戻ってくる。誰かとの対話でもいいのだがそれができないときはとにかく「書く」。書くことがあってもなくてもこうして書いていると自分の調子、基本に立ちかえってくる。
男女差や個人差もあると思うが自分の基本形にコンディションをもどす方法は幾つかある。ベストは対話である。これが一番はやいし心地よいし転と展を同時に行うことができる。更に両者が開けば相乗効果が生じる。
問題は常にそれができるわけではないことだ。
常にそれができるような人間になりたいと思う。
音楽、絵、移動、場の要素を組み合わせることでも気分は大きく転じる。
簡単なのに人はこれを忘れてしまう。絶え間なく変わり続けるもの。それがこの世界である。そこで生きるには変化に大してオープンでなければならない。揺らがないというのは揺れがないのではなく自らも揺らぎを内包していることだ。
バイチャンス理論もその手法のひとつだ。
的確に使いこなせば毎日は俄的へと変わる。
それもまた愉快な人生だと思う。
世界は変わり続ける。
いや、簡単に変えられるから面白い。
何だっていいのだ。いきなり会う人みんなと笑顔で話をしていったら三日もしたら別な人生の扉が開き始めるだろう。そのくらい物事は柔軟にできている。
物事を避けるのではなくバイチャンス化していくこと。
それ以上の遊び、俄はない。
正しいと正しくないで物事を分類するとおかしくなる。
という話をどこかで読んだ。
確かに「悪戯」のマインドがないのにはロクなのがいない。
投稿者 TKM : 01:49 | コメント (0) | トラックバック
2004年09月03日
コミュニケーションの基本
今朝は遠くの夢をみていた。
面白い夢だったが詳細は忘れてしまった。
正午前、電話があった。
PCの使い方についての質問だった。
こうした質問をされることが多い。
僕に尋ねるのは構わないがこうした技術的な問題については社内で解決できるような体制をつくることが急務であろう。こうした問題をその場しのぎで解決してしまうからいざというときに思うように行動できずブレーキがかかってしまっている組織や会社が多い。
その電話で集中力の糸が分断されたので「そういう質問はせめてメールにして欲しい」と少しムカっときた。いやムカついたのは質問の内容が理由ではない。質問の仕方が原因だ。好きな人とか友人からの質問ならばそれがどんなものでも誠意をもって答える。というのは相手もこちらに対する誠意を持っているし、それが伝わってくる。コミュニケーションが心地よいのだ。だから親身になって答えもする。
が、そうでない場合もあり、多くの場合、信号理論の奴隷な人々によってなされる質問は人の気分を刺々しくする。自分を保全したいという気持ちが先にたっていると相手に対する思いやりや優しさ温かさといったコミュニケーションにおける基本的な姿勢が欠落してしまう。そして面白いことに思いやりにくらべ思いやりのなさは見事なくらいの正確さで相手に伝わるものである。
故江藤先生には学術的なことは何もならわなかったが違うことはいろいろ教わった。授業に望む際の心得としてこんなことを言っていた。
「加賀谷君。あのね、学生というのはそれが優秀な学生であってもそうでない学生であっても。そう授業になんてほとんど出たことがないような学生であっても教員がその授業にどれだけの熱意とやる気をもって臨んでいるか本気で授業に取り組んでいるかどうかということについては本当に敏感にわかるものなんだよ。だから教員はどんな授業でも気を抜いてはいけないんだ。授業をきかない学生がいるといって嘆く教員がいるけれどそれは教員の側の姿勢が見抜かれてしまっているんだな。」
この言葉も時々思い返す。上手、下手とは関係なく、相手が本気で自分に向き合ってくれているのか誠意や思いやり、温かさを持っているかどうか、は確かにダイレクトに言葉抜きで伝わってくる。言葉数が少なくとも優しさ、温かさのある人というのは何故か気になるもので自然とその人の琴線にふれていたいと思う。それは知的な会話ができるとかそういうこととは無縁だ。アーティストと呼ばれる人々はこうした感覚を直球で放ってくる。そこが面白いし、触れると気持ちが優しくなれ。
男でも女でも自分が素直になれる相手と一緒にいれば間違いない。違和感を感じることがない人と時を過ごすことは心を育てていく。そうした経験がないと人に対して温かく接することができなくなっていく。感度が鈍るのである。
物事はバイチャンスである。(この場合のバイチャンスはバイチャンスタケザワ理論の意)
その人のパフォーマンスが最大化するような行動や質問をしてこそコンテクストがダイナミズムを帯び活性化してくる。細部こそ手を抜いてはいけない。あらゆる言動、行動、思考において特に些細な場面でどう振る舞うかが他の全ての状況下でのその人のあり様を決めていく。
ふと気づけば金曜日。
街の空気が微妙に違う。
空気が活性化している。
こうこう雰囲気の日は落ち着かないのだがこれこそチャンスだ。
すぐそこに変化の渦がある。
何も考えず素直に感覚に集中すればいい。
要は頭を使わないことだ。
とここで父から電話。
先ほどの電話とは別世界なフィーリングが伝わってくる。
人とのコミュニケーションにおいて最も大切なのは相手へのいつくしみなのだ。
それは昨日今日にできる技ではない。
その人の振る舞いのあらゆる部分が影響しているのだ。