2004年09月21日

愛情の本質と違和感

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夜の街を帰りながら時折感じる違和感について考えることがたびたびあった。

なんでもそうだが不自然に派手さが前にでていると心が薄く感じられる。
表面的なものほど見かけのパフォーマンスに終始する。
そういう行動や行為には違和感が伴うので誰でもわかる。
本当に何かに感じ入ったときは穏やかな気持ちになるものだ。
信頼とは激情ではなくそうした穏やかさの奥にある感情だ。

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人の気持ちを傷つけていいことなんてひとつもない。
けれど自分の感情をごまかしてもいいことなんてひとつもない。

コミュニケーションとは「殺るか殺られるか」という種類の闘争ではないと思う。
自分に正直でありながら人をきづかうこともできるはずだ。
「傷つきたくない」という意思は理解できるが傷つかなければわからないこともある。
踏み込んでいかなかったら自分や相手を理解することはできない。
でなかったら人の世界は殺伐としていくばかりだ。
本音で対峙することは喧嘩ごしでいけということではない。
なにも戦闘的なモードになる必要はない。
角は丸くあればいい。

自己中心的な考えはいけない、とされているが本質は逆なのではないかと思う。
傷つきたくないという気持ちが強すぎて自分以外に中心がいってしまう。
すると自分を中心に捉えることができないから他者に振り回される。
そして他者を気づかうゆとりは消え、刺々しくなってしまう。

自然から離れるとコミュニケーション下手になっていくのではないだろうか。

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夕刻や金曜の夜に隅田川沿いのテラスを散歩するとベンチに座っているカップルをみかける。

僕がカッコいいなと思うのは少し年齢のいったカップルがそれとなくスキンシップをとりあいながら談笑している姿だ。そういう二人の姿には違和感がない。対して蠢くように身体を寄せ合うカップルの姿はどこか不自然だ。※注1

不思議なもので気持ちのいいカップルは空気が自然だ。
無理がないといったらいいのだろうか。
そこには調和がある。
そういう人たちにあうとこちらも気分がよくなる。
話ていても穏やかな気持ちになる。

二人は最初からそうあったわけではないのだろう。
少しづつそうした間合いを育んでいったのだと思う。

信頼や信用、愛情というものは目に見えないものである。
目に見えるような表現は本質にかすりさえしていない。
見えないところに愛情の本質は現れる。
僕はそう思う。

※注1:例えるならばWWEのエンターテイメント性とハッスルのエンターテイメント性の違いとなるだろう。WWEは突き抜けたプロ意識で統一されている。やっていることはつくりもので格闘技の持つリアルさとは無縁だ。しかし彼らは意図的に不自然さを演じておりそれが目的化しているためリングは極めて自然である。
一方、ハッスルの場合は小川・橋本・川田というレスラーたちに必要以上の「照れ」がある為、みているこちらが恥ずかしさを感じてしまう。その不自然さには違和感を覚える。この感覚とテラスのカップル達をみた時に感じる感覚がは似ている。(全員がそうではないけれど)

投稿者 TKM : 12:03 | コメント (2) | トラックバック

2004年09月19日

良い飲みの条件とテキストの後ろのテキスト

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僕は友人達と語らい過ごす時間が好きだ。
何を話すわけでもないのだが一緒にいると穏やかな気持ちになる。
いや話はしているのだが『語りあう』のとは少し違うように思う。
具体的に何かの問題を取り上げ議論するというような話し方はしない。

何となく伝わってくるし、あうんというのだろうかフィーリングでわかるのだ。
『場』の力というか言葉のトーンや発せられた言葉の意味とは異なるところから伝わってくる。

この感覚を誰とでも持てるわけではない。
僕は『心が開く』あるいは『心が解ける』という言葉を使うのだが自分の心の塗り壁や結び目がほどけ、どわどわと外界が流れ込んでくる一瞬がある。

ああ、別にいいんだ。地でいってオーケーなんだということが言葉ではなく感覚でワーっときたりフワリときたり、じわりと伝わってくるのだ。

『よい飲み』とはそういう状態を指すのだと思っている。
単にお酒を飲んで話しました、楽しかったです。
というのが楽しい時期もある。
けれどそれだと安定して『よい飲み』を実践することは難しい。
安定して『よい飲み』をつくりだすには飲みが自分ひとりではなくメンツとの相互依存によってなりたっていることを知らなければならない。

感情をぶちまけて喧嘩して笑いあってという飲み方はエキサイティングで醍醐味あふれる飲みのようにも見える。しかし大半は酔ってとりとめのないことをくどくどと言っているだけに過ぎない。

「よい飲み」の基本は開きながら相手を想うことだ。
素直になるというと自分の思ったことをダイレクトに伝えればいいだけだと思いがちだがそれは一方的な感情の発信でしかない。

恋愛だって「お前が好きだ好きだ好きだ」と押し寄せてこられたら誰だって退くだろう。感情をぶつけることが「想い」だと考えがちだがそれは相手への想いではなく自分の想いに過ぎない。

自分の想いだけを押し通そうとする人が多いから様々なシーンでディスコミュニケーションが生じるのだ。

人は自分が傷つきたくないから「閉じる」。
世界の中心を自分に固定し、強固な城壁を築き自然と対峙する。
思想といってしまえばそれまでだがツライ生き方だと思う。

地球に暮らしていると太陽が地球の周りを回っているようにみえる。
けれど実際には地球が太陽の周りをまわっている。
人と人の関係もそういうものだと思うのだ。

自分という中心があって、他の人は自分を中心にぐるぐると動いているように見えるけれどそんなことはない。彼らの物語の中では自分が周りを回っている。そういうことを同時に感じること自分と相手の視点を同時に体感するようなそういう感覚。

それを僕は「解ける」と呼んでいてそれは言葉の意味の外にあるフィーリングだ。
コミュニケーションの本質とはこちらにあるのではないだろうか。

何時間もかけて語り合い、心を分かちあったような感覚になることもある。
けれどそこで「満足」や「通じた」や「伝わった」「わかりあえた」といってるものの正体は言葉の意味を交換することで得られた理解ではなく言葉の外にあるフィーリングやトーンが場に浮かび上がることなのではないかと思う。

それは共感や共鳴とも違う感覚である。
通じる、伝わる、わかりあう、とも異なる「言葉の外」がそこにはある。

物語を読んでいるとテキストの後ろにもう一つのテキストが浮かび上がってくる時がある。この感覚ととてもよく似ているのだがそれをなんと説明すればいいのだろうか。
似ているものを探してこんな感じ、ということしかできない。

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どんな面白い本でも映画でも1度目に読んだり観たりする時と二度目の時では面白さが違う。何度読んでも、何度観ても面白いコンテンツというものはありえるのだろうか、と学生時代に思索していた。

空の表情は絶えず変化する。
雲は流れていく。

沖縄の海でみた雲は壮大で水平線の向こうにある巨大な山脈をみているようだった。
自然と向かいあっているんだ、と思った。
あの時僕が感じていた自然とは何者なのだろう。
雲だろうか。
海だろうか。
自分を囲む環境全体なのだろうか。

あそこで僕がみていたものは自分なのではないかと思う。
水平線の彼方にみえる広大さの本質はそこにある雲や空ではない。
それは外的であり同時に内的なものだ。
言葉としての「円運動」ではなく運動そのもの。
あそこに雲や空や海があってそれを観ている自分がここにいて。
感覚がワーっと押し寄せクラリとするのだがそれは不快なものではない。

あの感覚は言葉の意味的用法では表現できない。
意味の裏を使って対象とは別なもので表現する他に方法はない。

村上春樹の小説などはこの手法を用いているように思う。
気配や情報感覚をテキストとして定位するにはそれ以外に方法はないのではないだろうか。さらに適当なことを言わせてもらうと晩年のソシュールがアナグラムの研究に没頭したのもテキストの後ろのテキストの存在と関連していると思う。

投稿者 TKM : 09:43 | コメント (0) | トラックバック