2004年10月19日

激しく頭痛

凄まじく頭痛だ。
ストレスも相当にひどい。
しかしこれはゲームみたいなもの。

ストレスというのは自分を知る上で役に立つ。
弱さのポイントを起点に流れのどのポジションにいるのかを計測できる。

探検みたいなものでこれもなかなか面白い。

投稿者 TKM : 01:52 | コメント (0) | トラックバック

2004年10月14日

魔裟斗と山本“KID”徳郁

帰宅後、山本“KID”徳郁の試合を観る。
やってくれる。

ニュータイプである。

試合がどうこうとかそんなこととは関係なしに場の空気を変えてしまうその手腕、いや、パフォーマンスには拍手を送りたい。

言葉はいらないとはこのことだろう。品やコンテクストなどふっとんでしまう魅力がある。

が、最も印象的だったのは魔裟斗の笑みである。
惚れたね。
こういう笑みができる男でいたいなと思った。
俳優にもいい男はいるけれど方向性が違う。
山本から年末のダイナマイトでの挑戦をうけてニヤリとしながらも目はスワっと格闘家の目にかわり

「いいですよ。ルールさえあえば。K1ルールでは負けませんから」

といったあの姿は惚れるに値する。
いい男ってのはあああって欲しい。

比較はなりたたないが言論とか評論なんてこれほどどうでもよい世界はないなと思った。ひとりでもいい、負けても、死んでもいいからリングにあがってもいいよ、と思う人間がどのくらいいるのだろう。

特に言葉に関わる人々で。
言葉遊びに意味はない。
またその人々にも興味はない。
それだけ書いておきたい。

++++++

自分はいい友人に恵まれたなと思う。

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カルビ館

ICCでのイベントの後、ヤサカさん、タドと話す。
会場ではパヤがいろいろと展示について説明してくれた。
久しぶりに江渡くんにもあう。
イベント自体はこなれた感じだった。

久々に参宮橋のカルビ館に顔をだす。
おばちゃんがとても嬉しそうな顔であった。
以前は週に一度くらいのペースでいっていたのだが数ヶ月ぶりだろう。
カキキムチとプルコギのサンチュ&味噌・ニンニク包みが最高であった。

何を話すでもないのだがこの時間が楽しい。

タドの話が実感がこもっていてかなり説得力があり、あれは世の人々も聴くべき話だと思った。
どうでもいいことにうんたらかんたらいってる閑あったらタドの話をきくべし。

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2004年10月11日

ニュ−メディアの美学 / ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学@三田

明日は久しぶりに慶應大学@三田へ。
フランス大使館主催のシンポジウムがおこなわれる。
山食のカレーも久しぶりだ。

2004年10月12日(火) 慶應義塾大学 三田キャンパス 東館6F G-SECラボ 
ニュ−メディアの美学 / ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学  13:30 - 18:00 (同時通訳付)
 
ニュ−メディアの美学 (13:30 - 15:30)
パネリスト: ニコラ・ブリオ(パレ・ド・ト−キョ−現代創造センタ−館長)
アンヌ=マリ−・デュゲ(パリ第1大学教授、芸術・哲学)
ジャン=ピエ−ル・バルプ(パリ第8大学教授、デジタル文学)
ドゥ・ジェンジュン(ア−ティスト)
石田英敬(東京大学教授、哲学)
前田富士男(慶應義塾大学教授、アートセンター長)

ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学 (16:00 - 18:00)
パネリスト: ダニエル・アンドレ−ル(パリ高等師範学校教授、認知科学)
コルコズ(ア−ティスト)
茂木健一郎(ソニ−コンピュ−タサイエンス研究所、認知科学)
廣瀬通孝(東京大学教授、バ−チャル・リアリティ)
渡辺茂(慶應義塾大学教授、心理学)
岡田光弘(慶應義塾大学教授、哲学)
大森貴秀(慶応義塾大学助手、心理学)

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2004年10月05日

「暴走する世界・アンソニー ギデンズ」 ~箱根とヘミングウェイ~

DSCF0009.jpg

日曜からの雨はまだ降り続いている。
週末は箱根で過ごした。

平和な時間が流れていった。
夜、長い時間みんなで話をした。
それから温泉に入ってから布団にはいった。
明かりを消して眠ろうとすると金子が蚊の羽音を聞きつけ「退治する」と宣言しておきあがった。
四人で探したが蚊は見つからなかった。

朝早くに目覚めた。
外は雨だった。
左手の小指のつけねあたりを刺されたようで少しかゆかった。
もう一度眠った。

サヤカちゃん(2歳)がバタバタと走り回る音がとても遠くのほうで聞こえた。
耳栓をしてねたのですぐ隣の音が遠くに聞こえたようだ。
ふすまをあけると先生夫婦とリカさんがテーブルで談笑していた。

日曜の遅い朝。
みんなで食べる朝食は合宿のようでおいしかった。
合宿のようでではなく合宿なのだからあたりまえか。

一生合宿してたっていいと思う。
軍というものには憧れないけれどああした合宿生活は好きだ。
きっと自分がひとりで仕事をしているからそう感じるのだろう。

夫婦というものには憧れない。
家庭にも憧れない。
共同体の定義と仮想としてのイメージはすでに過去の伝統なのであろうと僕は思う。

数十年後の家庭はいまの家庭とは異なるだろう。

昨晩、アンソニー・ギデンズの「暴走する世界」を読んだ。
数ページ読んで面白い論考だと思ったので数ヶ月前に読み始めた。
100ページ程度の短い論考なのだが2章まで読んで途中にしてあった。
数ヶ月ぶりに残りの3章を昨晩、読んだ。

最終章で書かれていた民主主義についての論考が面白かった。
ただ情念の民主主義の具体的な形は提示されない。

「国家と市場、官と民といった二項対立的な社会観を払拭すべきである」

という言葉が印象的であった。

金子レナさんのレストランで相磯先生が「スタンダード」について話されていた。
なるほどSONYはすぐに独自フォーマットをつくりたがる。
野知さんの言葉じゃないけれど「世界のSONY」だったのが「世界はSONY」に変わってしまった印象を受ける。
eBookの画像派とデータ派の分裂はその一例であろう。

スタンダードの押しつけは迷惑でしかない。
だから反発を招く場合が多い。
例えばPS2や来るべきPS3を核としたネットワーク戦略をみていると自分がコマにされているようで気分が悪い。
PSPにしてもブルーレイディスクという独自のフォーマットやあたりまえのように提示される「動画版ウォークマン」な利用イメージには魅力を感じない。
追い立てられているようでなんだか疲れてしまう。

日本のITベンチャーが「テクノレバレッジ的」であることはどのような意味を持つのだろうかと少し考えた。

++++++

夜、ヘミングウェイの「日はまたのぼる」を半分くらいまで読んだ。
実は文学に疎い。
ヘミングウェイも「老人と海」と「キリマンジャロの雪」以外の作品は読んだことがなかった。
読み進めてすぐに思ったが日本語で読むと面白さが異なるようだ。
英語と日本語ではストーリーは同じでも印象は違う。
「グレートギャツビー」を読んだときもそう思った。

翻訳の問題はこれから更に重要度を増す。
翻訳論という意味ではなく、別なフェノタイプとして翻訳問題が顕在化するだろうという気がするのだ。情味の面だけでなく関連的な問題として。

意味とは関係によってあらわされる不可視な存在だと思うから。

日はまた昇る
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2004年09月07日

食い倒れDVDと徹夜でフライト

今朝は徹夜のままフライトである。
朝一番でやまけんと羽田で待ち合わせ。
昨日、準備でバタバタしていたが仕事もバタバタ立て込んでおり自己管理能力のゆるさを自覚する。

問題の一因はモバイル環境が無いことなのだろうな。
仕事柄モバイル環境が必須であることをあらためて実感した。
現地ではやまけんからシグマリオンを借りる予定なのでテキストワークやメールの処理は問題ない。一安心である。

メールに関しては読むだけならばケータイでOKなのだが返信の際にはどうしてもキーボードがないときつい。ブログの方もテキストならばアップできるだろう。PCが一台あれば家にいようと島にいようと大差ないのだから不思議なものである。

タドにDVカメラを借りたので今回は初の「食い倒れDVD」の撮影になる。
戻ってきたらGCFカネコに手伝ってもらって製作となる。
DVの編集は久しぶりだ。

超がつくほど特定されたユーザに向けてつくられるタイトルになるが面白い試みであることは間違いない。楽しみである。

あとは最近の読書・映画録。

村上春樹「アフターダーク」読了。

アフターダーク
村上 春樹


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ナレーションがラース・フォン・トリアーの「ヨーロッパ」を思わせる。その成果、ナラティブが変わるごとに映画のシーンがよぎる。久しぶりに「エレメント・オブ・クライム」を観たいと思った。

ヨーロッパ

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「ハリーポッター 不死鳥の騎士団 上・下」読了。

ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 ハリー・ポッターシリーズ第五巻
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ファンタジーの王道をいく構成。しかし…。長い。長すぎる。そしてハリーが「かわいくない」。この巻のハリーは自分とそっくりだ。自分の嫌なところを指摘されているようで耳が痛い。いや目が痛いというべきか。
とはいえキャラの設定。王道をいく憎まれキャラの描写など物語に引き込む構成力は素晴らしい。外伝でハリーのお父さんの物語ができたら、彼のストーリーは結構ハードボイルドでいいだろうな、と思った。

「誰も知らない」を観る@銀座シネカノン。

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一部ネタバレのレビューです
救いは多分ある
見る前から結末は分かっていたのに

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主演の少年がなぜああも絶賛されたのかようやく理解した。この映画は虚構の時間に現実の世界の時の流れを取り込んでいる。彼が魅力的なのは映画という限られた時間内で精神的に、生物的に、彼が成長していくからだ。撮影に一年という時を投じ、作品ではその実時間を圧縮しているのだから当たり前といえば当たり前なのだが。それでも見まごうばかりの変化。子供が少年あるいは青年へと変貌を遂げていく様は頭ではなく胸の奥で理解しているような、そう映像を自分の内部で生命力と時間に解体し再構成しているようだった。観ている自分が何歳なのかを全く忘れた。
家においていかれた時のあの気持ちは経験のないものにはわからないだろう。
前述のハリーと似ているが僕には少なからずそうした記憶があるのだろう。それは恐怖なのかもしれないな。と思うが克服すべき感傷でもある。(追伸:前にも話したが僕は映画をみながらその不条理(実在主義の用語の方ではなく)ともいうべきがんじがらめなキプールのような泥沼にずっと「信号」をみていた。この信号は今後数年で巨大化・複雑化し、不可視のうちに人を絡め取っていく。我々がみつけなければならないのは信号の攻略法なのだ)

「ヴァン・ヘルシング」を観る。

ヴァン・ヘルシング アニメーテッド

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リーグ・オブ・レジェンド?ドラキュラ紀元!

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脚本の参考にと思ってみた。思った以上にバランスとテンポが悪いがCGは強烈であった。強引すぎるみせかただ。正直いって見終わっても何も残らない。しかし…。じゃあつくってみろと言われたらあの脚本だってそう簡単には書けないだろう。よく映像化したものだ。惜しまれるのは会話とモンスターの心理描写がチープ過ぎる点である。ヘルシング自身もアニメ版とくらべるとコミカルに描かれすぎだ。もっとダークに「スリーピー・ホロウ」系の抜け方をすれば案外名作になったかもしれないのに。

う…待ち合わせの時間までもう2時間ちょっとだ。
で駅探で調べたら「6時15分 勝ちどき 発」であった。あと2時間もない…。

昨日、野知さんから「マチとものがたり」の相談を受けた。
宮島さんに相談してみることにした。

僕とGCFカネコでやっている「デジタルコンテンツ」とは全く違う方向の「コンテンツ」だがこうしたサステイナブルなコンテンツクリエーションも別な面白さがあるのだと思う。

昨夜も少し話をしたのだが僕の興味は基本的には「異化」を基本とする「創造の源」や人間の感覚・能力のドライブ感にある。そこには様々な問題を解くヒントの結晶がある。

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大きな期待は禁物
良くも悪くもスティーブン・ソマーズでした。
ある意味狂った映画

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さてここで曲はアンダーワールドの「Dinosaur Adventure 3D」に変わった。しかし、この状態で毎週大学で授業をやってるとはヤサカ御大、流石である。14日の未来館メンテナンスが楽しみだ。今度こそ我々のポートフォリオにくわえておかねば。と、丁度、作品の作曲者でもある坂本さんの「1919」に曲が変わった。

投稿者 TKM : 04:29 | コメント (3) | トラックバック

2004年09月05日

ムツゴロウの記憶

愛用している無印の無地のノートが切れたので買いにいこうとするが橋を渡ったところでDVDを返却しなければならなかったのを思い出して月島に戻る。

来た道をもどるのは芸がないので聖路加の前を通って帰る。
すると聖路加の前で防災訓練が行われていた。
巨大な緑色の塗装は自衛隊のトラックである。

小学生の頃、コロコロコミックに連載されていたムツゴロウさんの自伝を楽しみにしていた。覚えているのは3つのエピソード。一つはお父さんと鳩を撃ちにいって山ほどの獲物を収穫する話。当時ムツゴロウさんは満州にいた。お父さんは軍医だった。最初ムツゴロウさんは鳩撃ちなんてカッコよくない、もっと派手な狩りがしたいそう思った。でも初心者には鳩が最適なんだ、というアドバイスに従って猟にでることにする。
鳩猟は散弾を使って真下から樹を撃つ。鳩は枝にとまっているので撃ち逃すことがない。しかも一発でたくさんをしとめられる。大量の獲物を手に意気揚々として二人は帰宅する。食卓にはこれでもかというくらいにつくられた鳥料理が並び、ムツゴロウさんは猟の悦びを知るのだった。

あとはお父さんと二人でどこかに出かけて寒くて遭難しそうになったときに「ムツゴロウこれを食べろ」とお父さんは道ばたにあったホオズキをムツゴロウさんに手渡す。囓ってみるとシャーベット状になったホオズキは寒さを忘れさせてくれるおいしさだったそうだ。これをみてホオズキというのはどれほど美味しい果物なのだろうと思って家の周りを探してみた。みつけて囓ってみたらとても食べられたものではなかった。

そして本題。
自衛隊のトラックをみて思い出したのはこんな逸話だった。当時から軍用のトラックはかなりパワフルにできているらしく。ムツゴロウさんのマンガには「30cmくらいまでの水深は走ることができるんだ」のようなセリフがでてくるシーンがあって。トラックは巨大な水たまりに突っ込んでいく。それをみてこっちは「なんてスゴイ車があるんだ!」とえらく憧れた。男の子の特性なのかもしれないが水陸両用車のようなどうでもいい機能がついている車に萌える傾向がある。

さきほど聖路加の前でみた自衛隊のトラックをみていたらそんなことを思い出した。

あのトラックならば確かに30cmくらいの水深ならば楽に超えられそうだった。車幅も通常の車の1.5倍はあった。それとナンバープレートが数字数桁の一列になっていて緑色の車体とその記号からは日本ではないものが感じられた。

月島に帰ってきて買い物をしてから出直そうかと思ったら雨が降り出した。
バイチャンス理論にしたがって図書館に本を返して買い物をしてから家にもどった。図書館はあいかわらず養老院のようだったが最近は調べ物で子供の本のコーナーにいることが多い。こちらは向こうの世界とは別世界でセコセコな世界とは無縁であった。ふと本棚をみると「はだしのゲン」が全巻そろっていた。

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ムツゴロウとゆかいな仲間たち 動物王国大全集 Vol.1


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〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻

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2004年09月04日

土曜日の雨

夕刻。
出かけようとすると突然、雷鳴がとどろいた。
ベランダに出て空を見上げると街の上空を稲妻が駆けめぐっているのが見えた。自然は壮大であり巨大であり僕たちの社会とは違ったルールにそって動いている。そんなことを考えた。自転車を外におきっぱなしだったのでしたまで駐輪場に移動させるため降りていった。

するとそこには…。
時間というか世界というかこの世界にポッカリあいた不思議があった。
こんなこともあるのだ。
自分でも笑ってしまった。
長いこと留守にしていたあらゆる運が還ってきた。

それからしばらく雨を眺めていた。
いっこうにやむけはいがない。
ドシャ降りの雨。
向かいのビルの軒下で仕事を終えた男性が空をうかがっている。
やがて覚悟を決めたのだろう。
小さな傘を開いて一歩を踏み出した。
稲妻がひかりゴロゴロガシャーンと雷が落ちる。

雨はいよいよ激しさをましてきた。
彼の傘は大丈夫だろうか。
身をかがめるようにして小さな傘にすがりつきながら出て行ったさきほどの男性の背中はいまごろどのくらい濡れただろう。

女性が反対方向から女性が歩いてきた。25歳くらいだろうか。折りたたみの傘は彼女の全身を雨から守るには小さすぎるように見えた。女性はカツカツと靴音を響かせて歩き去った。

駐輪場に行く前に自転車で少しあたりを走ってみた。10mいって戻った。スゴイ雨だ。でもいずれやむだろう。世界は循環しているのだ。

投稿者 TKM : 18:56 | コメント (0) | トラックバック

2004年09月01日

近況メモ

近況。以下、メモ。夜に詳しく。

・体調良好
・睡眠不足
・移動、移動、移動
・使う脳の切換が頻繁
・New iMac発表
・岸崎さんにプレゼントを貰いごちそうになる。ありがとうございました!
・Tシャツ打ち合わせ
・沖縄詳細
・流れの円運動
・モバイル環境必須の理
・プロジェクト用のwiki設置(wikiはよくできたツールである)
・祖師谷へ
・月島のカッコいい家が岡村さんのデザインだと判明!(タケにもああいう家を建てて欲しいデザイナーは紹介するぞ)

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2004年08月31日

外はすごい風の音がする。幸せの秘訣について閃く。

仕事を仕上げた後、渋谷で打ち合わせに出かける。
やる気や感覚が戻ってきたようでグダーっとなることなく深夜までストーリー関係の作業を続ける。

メールがたくさんきていたが外でメールバックができないので帰宅後まとめてメールバック。10通くらい書いた。たった10通でこれなのだから一日に5000通のメールを処理するというライブドア掘江社長はいかなるメールの使い手なのだろう。

チームの二人ともラップトップを持っていないので外での作業はここまで。以後、脚本執筆からはPCが必須になる。

と、ここでずっと忘れていたMovieMagicをダウロードしてみる。
全く使い方がわからないが機能をみるかぎり解読すれば面白そうである。
Winplosionがバージョンアップしたのでアップグレードしてくださいとのメールがあったので早速アップグレードしてみるとさらにexposeに近くなっていた。しかしメモリもくうらしく描画でもたつくのでとりあえず止めた。

さすがにそろそろ眠ろうと思うがものすごい風の音である。
GCFカネコに連載デジタルマンガのオリジナルソフトをもらう。
さっそく遊んでみると第五話。
最終回はクリックによる参加性がリズムをつわえており、フラットになりがちなデジタルマンガに別な面白さをつけくわえていた。(このあたりで脳が眠りを求めてるので寝ます)

昨日は80%くらいまで体力をつかったのでとても気持ちが良い。
身体も意識もこうなっていると不平や不満など抱くわけがない。
「小人閑居して不善を為す」というがまさに言い得て妙である。
自分もご多分に漏れず暇だとろくなことをしていないし、ろくなことも考えないのである。閑にあっては不善を恐れなければならなく、常に自分の能力やパワーを使い切ることができる状態にたもっておくことが幸せの秘訣である。

そうそう。
夜の12時過ぎ、帰宅時に一階の駐車場にしっぽを切り離した灰色っぽいトカゲ(イモリっぽかった)をみつけて50cmくらい飛びのいた。中央区ではじめてみた野生のトカゲであった。
明日は7時に四谷だ。

投稿者 TKM : 03:26 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月30日

魂の円運動

早々に目覚める。
精神が高ぶっているせいで眠りが浅いのである。

今日はこれから仕事の仕上げとGCFKとコンテンツのミーティング。
打ち合わせの詰めである。

人の心を傷つけていいことなんかひとつもない。
忘れないように時々いってみる。

物事は円運動である。
人を傷つければそれは自分に返ってくる。
面倒でも理解を模索しなければならない。
遠回りなように見える。
しかしつけはかならず生じるし、育て創ることなしに得ることはない。

投稿者 TKM : 11:01 | コメント (0) | トラックバック

へつらうよりも100倍面白く

いつだったか忘れたけれどジョン・グレイのインタビューを聴いたことがあってやけに面白いタイトルだなと思った。

似た名前でジョン・グレンという人がいてこちらは史上最高齢の宇宙飛行士である。
一文字違いでこうも違うかというくらいに違う二人である。

ジョン・グレイの本を読んでいたら社会的ジレンマとの類似点を感じた。なるほどそれも人のパターンであり構造なのだろう。

そもそもはじまりが間違いなのだろう。自分の本質とあわないことばかりずっとやってきた。それは違うとはわかっていて渋々やってきたことはやまほどあって、ジレンマでもあり、精神の逆大リーグボール養成ギブスx2だ。

頼まれたり、頼られると断ることができない。
尽くしたいとか何かをしてあげたいという気持ちも押さえがきかないのでバカばかりやる。が、しかし。

それも自分の特性だ。
世界のどこかで誰かの役にはたつ。

問題なし。
ロストした年数は倍年圧縮でトントンになる。

さてこれからは何をしようか。
つぶやいてみると気分は愉しである。

浮かんだ言葉は二つ。

「へつらうよりは100倍面白く」「夢を追えば迷わない」である。

投稿者 TKM : 05:06 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月23日

高校生と過ごす週末

昨日の恐竜博以降、BlogWriteというツールをつかってエントリーを書いている。土日は太と過ごした。高校生と話をしていて気がついたのだが彼らは普通に素直である。勿論、粗もある。ここがダメというところはいくらでもみつかるし「オイ、お前何やってんだ!!」と一喝したくなる瞬間もある。

親であればそこで声か態度が出てしまうのだろう。しかし自分は保護者ではない。説教や矯正をするためにいるわけではない。友達だから一緒にいるわけだ。だから自分にも学ぶところがたくさんある。詰めの甘さや考えの甘さがあるから逸脱し新しいものをつくる力を発揮することができるわけで老成よりはマシなのだ。

さきほど次の宿泊先である太の親戚夫婦との待ち合わせ場所に送ってきたのだがヤツもよくやる。先方と連絡がとれたのは昨夜の深夜。それまで相手の住所も知らなかったそうだ。相手が月島にいるならもっとはやく言えよな、という心境ではあったがその甘さを否定しようとは思わない。変われといっても本人が変わろうとしない限り人は変わらないし、相手がどうあれ自分がそれに影響される必要もない。

湘南の友人にはリーダー的な役割を担う人が多かったように思う。そのせいか気の利かない人をみるとつい「何でそのくらいの気がまわらないのかな」と思いがちだがそこは二律背反していたりもするわけで気が回りすぎることで逃している何かもある。

無理矢理でも「笑顔」をつくれば気持ちも多少は笑顔になる。という話を二人でずっとしていた。ことの発端は銭湯にいたおじさん、若者が一様にムスっとした表情で彼らは何故風呂にまできてあんなにムスっとしているのだろうか?ということについてサウナで話をした。

どちらが最初かというのが問題なのだろう。面白いことがないからムスっとするのか。笑顔をつくらないから面白いことが起きないのか。これは自分の考えだがまず方向性がありきだと思う。心の笑顔をつくれれば自然と行動にもその気配が満ちていく。店にはいっても注文の時は「●●をお願いします」と自然に笑顔がでるかもしれない。そうすれば相手も笑顔をかえしやすくなる。

相手ではなく自分だと僕は思う。自分がどうするかは自分で選択できるわけで相手がムスっとしていたからこちらもムスっとする、では意味がない。相手がどうあれ自分の心は笑顔でいれたほうがいいはずだし、ムスっとしている人はどこか心が堅くなっているのだと思う。それに合わせる必要はない。とはいえその連鎖が段々と人を閉鎖的にしているような気がする時もある。

それでも自分が変えられるのは自分なわけで自分がそうならないように気をつけるとか、笑顔がでてないなと思ったら形だけでもいいので顔の筋肉を動かしてみる、などやってみれば何かは変わってくる。

小さいことだけれどそれが時間の流れの中で反復増幅されれば少しづつ自分の周囲が変わっていくのだろう。

++++++

本棚に積んであったノートをパラパラとめくって太が叫んだ。

「何だこの絵!絶対Tシャツをつくって欲しい。この絵でTシャツがあったら絶対に買うよ!」

と。なるほどあの絵は面白いのか。下手だなあという思いしかなかったのでよくわからなかったが自分のノートは面白いらしく、太はトイレにまで持ち込んで熟読していた。やはり高校生との対話は面白い。

投稿者 TKM : 18:22 | コメント (0)

2004年08月20日

恐竜博

今日はこれから取材を兼ねてGCF金子と恐竜博へ。
土日は高校生の友人が泊まりに来る。
というまたしてももろもろ盛りだくさんの週末である。
そんなおり、今朝は気が張っていたのか目覚ましが鳴る前に目覚める。
昨日のペルー料理のパワーはまだ持続中でお腹はすかない。
夢を覚えていた。

二人の女性がタイの公園で赤い花をめぐるすれ違いをする夢だった。
親友と二人で彼女たちのすれ違いをどうにか邂逅させようと奮闘するのだがなかなかうまくいかない。公園を亀が歩いていく。

「その亀をつかまえるのだ」

と老人に言われて亀を追う。道を間違えて外にでてしまう。川が流れており岸の向こうがわにきてしまった。橋を渡ろうとすると兵士が近道を教えてくれた。果たして二人をあわせることはできるのだろうか。

様々な思いが交錯するなか電話にメールが入った。

「あと30分で南部に移動します。いろいろありがとう。」

といっても二人の距離はそう遠くないはず。間に合うのだろうか。

投稿者 TKM : 09:39 | コメント (1) | トラックバック

2004年08月12日

体重

電話にでると外国人の男性だった。

「鍵をなくしてしまったのですがどうすればいいですか?」

少し話したのだがいい人であった。

以前からちょろちょろとは走っていたが今週に入ってからわりとハードに走り始めた。食にも気をつかうようになった。
月曜から数えて今日で4日目。
ベースラインで2キロくらい落ちている。
悪くない。

今月中にベスト体重までもっていくのが目標。
このペースをキープすればいけそうだ。
ベルトの穴が段々縮まっていきウエストが落ちていく感じは悪くない。
けっこう気持ちいい。
自分の場合、気力はまずは肉体からである。

10年前、2ヶ月かけて泳ぎまくり77キロ→67キロという肉体改造を行った。
体調を含め、外見がかなり別世界になったのが今回はどこまでいけるか。

といっても難しいことをやっているわけではない。

食事前に1時間の走り込み。
就寝前と起床後にストレッチとウェイトorサーキットトレーニング。
食事で脂質と糖質を極力避ける。
これを地味に続けていくとおよそ一月で肉体が別物になってくる。

で、可能であれば週に3回くらいジムで90分のウェイトトレーニングと同3回、一回90分のスウィムを加えると更に効果的である。更にこれをチームでやれるとベスト中のベストひとりよりもチームの方が楽しいし、能率もあがる。

たった一ヶ月やるだけで人生が別物になる。
コツは短期集中で身体に覚え込ませること。

投稿者 TKM : 15:33 | コメント (0) | トラックバック

恋愛力のもつスゴさ

タケのブログに長文のレポートが掲載されていた。
起きてすぐに熟読し、少し考えた。

メールを確認すると気持ちのよいメールが2通きていた。
それから昨夜の自分の仕事についてみなおしてみる。
さらに信号(赤・黄色・青のあれ)と信号理論について考察する。

と、いきなりひらめいた。
人類の最終兵器は「恋愛力」だ。

恋愛とはすごくおもしろい現象だと思うがそれがなんなのか実はあまりわかっていない。
恋愛の感覚と何をしたかとかそれがうまくいくとかいかないとは全く関係がない。

「心が変わると書いて恋と読む」みたいな話をどこかで読んだけれどまさに転じる瞬間というのが確かにあってそれは説明の不可能な感覚である。
脳が別な機能を覚醒させる感じとでもいえばいいだろうか。

それはいきなりわかるのだ。
恐れとか信頼とかゆがみとか人間性とか心とかそういう観念がクルっと転じる。

何があったからそうなるということでもない。
おそらく理由はない。
要素があまりに複合的でコレとかアレに限定することは不可能なのだ。

で、ここが肝心なのだが「常にそうあったらいいじゃないの」というのが僕の意見だ。
悲しい恋なんてものはこの世には存在しない。それは振り返っていってるだけのことで渦中にあってはそんなものはない。(いくつかモードがあるのとは思うけれど)

深いの浅いのとか言ってる場合ではなく常に脳は恋のモードに入っていた方がパフォーマンスがあがる。これは多分間違いない。誤解があるかもしれないので少し解説をしておくと「思い悩む」方のではない。僕が言っているのは転じた瞬間のあの感覚である。

これは愛情と背反するものではなくパラレルに存在する。
ここの認識がズレると人の内部には感覚のドライブをセーブする信号ができあがっていく。

人間の中身、心情というのは常に波うっている。
夜と朝では気持ちは変わる。
睡眠の前と後ろでも意識は違う。
ミラーニューロンの例が示すように脳は夢も仮想も同じように認識している。
リズムと同期のバランスがコミュニケーションには必要だ。
常にどのような人とでもベストのコミュニケーションがとれるわけではない。
コミュニケーションの波長はそのときそのときで変動している。

人間の能力と脳力のパフォーマンスを最大化するにはどうしたらいいか。
呼び名が誤解をまねきそうだが「恋愛力」はその一つの答えだ。

「なんだそれ。あまりにも簡単じゃないか?つーか発見でもなんでもないぞ?」

と思われるかもしれないけれど感覚が開く、あるいは転じる時のあの感覚の持つ力は絶大だ。実際に世界が転じる感覚を誰しも味わったことがあるはずだ。

男の人も女の人も相手が男性であれ女性であれその人と対峙しているその瞬間を恋な感覚で過ごせれば少なくともその時間とその日くらいは一日が幸せを感じる。これは「転じる」という感覚によって引き起こされる現象だと思うし、本来コミュニケーションとはそうあるべきだ。

そんなわけであれが何なのか、あの力とはどこからきて何をしているのか、それを考えることは実は小難しい理論や「心」のありようを分析するだけで具体的な方法がともなわない抽象論の集大成である成功哲学よりはるかに即効性がある。

成功哲学というものは恋愛力と類似しており、それを読んだ時に脳が転じる感覚があってそれを言葉で引き出すにはあの形がベストだったということなのではなかろうか。米国ではひとつの市場として成功哲学という分野(日本でも大きくなってきている)が成立しているけれどかなりの部分「恋愛力」とかぶっており、つきつめていけばそこに「快」があることが最大の理由だ。

また、恋愛力についてはありようや使い方がこれまで間違えられていたのではないだろうか。

「学生のくせに」とか「半人前のくせに」とか「子供のくせに」とかこういうバカげた言説によって本来の「恋愛力」のありようが歪んでしまっていて。実際には逆なのだと思う。「恋にうつつをぬかす」からダメになるのではなく感覚に外部からブレーキがかかることで生じるストレスがダメの基なのだ。

また幸せな人は総じて恋愛力が高い人であるように思う。
といっても「恋多き●●」というのとはちょっと違うのだが。
映画のような毎日とは映画のような出来事が日々おこることではなく、それを感じる力や波長の有無を指しているといえばいいだろうか。風景や世界は心のありようで意味や印象が全く別なものにかわっていくこともある。

++++++

と、いっきにはまとまらない話なので続きは少しづつ考えていこう。

投稿者 TKM : 12:47 | コメント (3) | トラックバック

セミの朝

午前4時50分。
はやくもセミが鳴いている。

このところ朝8時には目覚めていたのだが今朝はまだ寝付けない。
なので久しぶりに眠れない朝である。

何なのだろうと考えるが答えはない。
というのは嘘だ。
わかっているのだが方法が思いつかない。

どうすればいいのかわからない、あるいはどうかしたいのか。
イニシアティブのとれない問題は苦手だ。

10年前から繰り返しているが「安易な奇跡はない」ということだろう。
そう簡単には休ませてもらえないのだ。

自力でやらなければならないことが結構たくさんある。
なんだってやれないことはないのだが時間はかかる。
間際にならないとわからないだろうことなのだろうけれど、やれないことはない。
何十年か、あるいはもっと多くの時間を得ることになるかもしれない。いや時間からフリーになるのだろう。と、考えているのは頭蓋という小さな場所にある1000億のニューロンのつながりなわけだが、それらが関連しあい心情が生まれる。

意識とはシステムである。
要素ではない。

と書いて思った。
OSは言語で書かれている。
そしておそらくは意識も言語で書かれている。
なるほど10年前に師にいわれたことを思い出した。

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2004年08月11日

犯罪者と手錠 ~創造性のスイッチと地と図の関係~

「妙に気分がのっているな」と感じる時がある。

どんな時にそうなるのか?

ときかれてもはっきりとは言えないのだが何となくそれがそのスイッチがONになる時は予感めいたものがあって、それは肉体からきているような気がする。
こう、身体から躍動してくるものがある。

この意識の躍動スイッチが入ると意識が鮮明になり、物事の間の関係性がみえはじめる。「あれってこういうことではないのかな」とか「これはこうだな」というのが急にパラパラとつながっていくのである。この感覚はとても面白く、僕はこれを「感覚のドライブ感」と呼んでいる。

これら一連の創造性に関するドライブ感を僕は「クリエイティブスイッチ」と呼びたいがそれだとわかりにくいのでもっと簡単にある言葉で呼ぶことにした。
その言葉については別な企画としてたちあげるのでもうしばらく伏せておきたい。

こうした気持ちの躍動が実生活や行動に具体的にどのような影響を与えているかを考えたことがなかったのだけれど自分の身体や心のありようと成果について分析していくと両者の間には強い因果関係があることがわかってきた。

気持ちが滅入っている時は何をみても滅入った感じになるし、身体や気持ちが高揚している時は何をみてもヒントに見える。

銀座のブックファーストの今週のトップセラーをみたら「愛されてお金持ちになる魔法の言葉―あなたが変わる」という本が一位になっていた。

内容は昨日みた「悪い男」とは全く別世界である。
ありがちな幸せのフレームというものをベースにして語られているが内容は簡単にいってしまうと、

「ものごとは気持ち次第。どうせやらなければならないなら自己完結であろうとなんだろうと幸福であった方が世のためにも自分の為にもベター」

とでもなろうか。基本的な考え方は高校生の頃に読んだポップサイコロジーの本とかわらない。けれどある意味これは真理であろうと思う。前述の「妙に気分がのっている」状態が継続するなら環境や状況とは関係なく物事をクリアしていくことが妙に楽しく感じられる。周りが変わるというよりも環境からの影響を受けづらくなるというべきだろう。自分に都合のいいものにだけ目がいくようになる。これってとても大切なことだと思う。

子供が突飛なアイディアを考えついたり、「何だそれ?!」という企画はたいがい規制を外すところから生まれてくる。

この法則はプランニングに関しても全くその通りあてはまる。
プランナーというのはアイディアマンだと思われているがそんなことはない。
他者のプランを練るから規制を外し逸脱しやすくなりアイディアや企画が閃く。
けれど自分のこととなるとなかなかこれが難しい。プランナーとアーティストの決定的な違いはここにある。

プランナーは自分のことをプランすることができない。

逆にアーティストは他者のプランを練ることは苦手だが自分のプランを練ることは得意である。

思考を生業としていてもどの方向性でやったときに能力が最大化するかを考えることは実は大切だったりする。

「人には向き不向きがある」というのはよく言われる。
文章はうまいけれど歌は下手だとか、この分野には向いているけれどこれには向いていないといった話はよくきく。
しかしこうした評価は他者の判断であってそれほど重要ではない。

下手であってもそれをやっている時に感覚がドライブすると感じるならばそのままやり続ければ途中でスイッチがONになる。
上手くできることとスイッチは関係がない。

要はやり方はなんでもよくていかに簡単により強いドライブ感が得られるか。
それがポイントである。

このスイッチが入っている人は何となくわかる。
惑わないし迷わなくなる。
かといっていい人になるということでもないのだがとりあえず変な空気がではじめる。これに周りが引き込み現象で引き込まれていく。なんだそれ?という感じがするかもしれないけれど妙なオーラを出してる人々の近くにいると引き込まれる。

それが時代にあえば周りは幸せになるし、ズレればズレたでやはり騒動や動乱に転じ、激しい流れを生じさせる。

++++++

もう15年くらい前になるけれど受験で東京に向かう電車で護送中の犯罪者二人と刑事二人と隣あわせたことがある。約2時間。彼らと一緒だった。TVでみるように二人の手首には手錠がかけられており、刑事は手錠につけられた紐を握っていたように記憶している。
しかし、僕にとっての衝撃的だったのはその光景ではない。
手錠をかけられた二人の目に宿る暗い光である。

そんなものありえないと言われればそれまでだが僕は明らかに常人とは異なる目の輝きをそこにみた。獣の目といえばいいのだろうか。まわりの人々とは発する雰囲気が違うのである。人間としての生命的な機能は大差ないはずだ。しかし彼らは全く周囲にとけこむことなく異形であった。外見の異形は目にあらわれ、雰囲気の異形は彼らを取り囲む周囲数メートル四方に沈黙を強いていた。

それは強いマイナスの引き込み現象であった。

世界はマイナスとプラスががせめぎあってできている。
どの時点でどちらに転じてもおかしくない。
二者は地と図の関係にある。

創造性について考える場合、まずはここに注目しなければならない。
記号はそれが単独で存在するかぎり無と同意である。
唯一、他との関係性が成立する時、相対的に記号化し、意味が生じる。
分節とは関係性のはじまりなのだ。

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2004年08月06日

仕事のポイントとできない人の共通点

赤坂で打ち合わせの後、久しぶりにMr.バイチャンス・タケザワと落ち合う。だいぶ遅い時間だったがどうにか到着。

一日を通して電車の乗り継ぎや打ち合わせやらもろもろのタイミングが微妙にあわなかったのだが一日の終わりにいい時間を持てた。終わりよければすべてよしとはこういうことなのだろう。

タケの同僚の方々をみていて「こういう人たちを雇いたい」と思った。なるほど成長している企業には人材が集まる。自律している女性は優秀だ。加えて人を心地よくさせるムードがある。幸せになるべき人々である。なんとなくではあるが共通した雰囲気があり、企業にはDNAがあるのだとも感じた。

++++++

話はかわるが昨日はこんなことを考えていた。
仕事のできない人は人の使い方を知らない。仕事を人に依頼する場合、頼む側と頼まれる側の関係は決して「受注・発注」という主従関係ではない。他者への依頼はサービスの交換である。特に知的労働に関していうと自分ができないことを他の人に「お願い」するのであって立場はイーブン、対等である。

この部分を理解していない人が驚くほど多い。
彼らは多大な損をしているのだがそのことに気づかないのが不思議でならない。
ある仕事を頼む場合、重要なのは相手のモチベーションをあげていくことである。繰り返しになるがここを理解してない人があまりにも多い。彼らはバカではなかろうか。

費用が同じでも自分のモチベーションがあがっている状態であれば10倍も20倍もの力で仕事にのぞむことができる。だからモチベーションをあげるのが上手な人がトップをやっている企業はそのことだけですでに強力なアドバンテージを有していることになる。
同じコストで人の働きが何十倍も違ってくるのだから他社とは比較にならない。
この能力を定量化することは難しいが視覚化できたらな天と地ほどの差がある。

人の気持ちを萎えさせる人がトップをやっている企業は消滅への道を前進している。
そうやって考えてみると伸びる企業は伸びるべくして伸びているのだとも思う。

人の心を読むことからはじまり、市場の成長カーブを読むこと、動きのポイントを読むこと、物事の道理を知れば何をすべきかはおのずと明かなのに駄目な企業はこれらを徹底的に逆に推し進める。やるべきことをやればいいのにやらなくてよいことにだけ興味を持つ。ネガティブスパイラルを自ら引き込んでいる。

ジョナサンや茂木さん同様に自分も「スカスカ」したものに対して反抗的である。
デコレーションが先導するスカスカしたモノやコトは見た目の派手さと裏腹に「すり減っている」感じが強い。全体的な流れとして大多数に受け入れられるという状態は終わりのはじまりであるように思う。
(成長カーブに忠実といえばそうだけれど)

いつも思うがダイニング系の店や洒落たカフェっぽい店にはメッセージや思想を感じない。
雑誌が広告用の媒体と化していったのと同様、物事がモードに偏重するあまり根本的な問題意識が忘れさられている。それは店ではなくユーザの選択なのだ。

TV同様、人がみたいと思うものを提示しなければビジネスはなりたたない。けれどその方向性に豊饒はない。美しくない。みてくれは美しさと似ているが本質は否である。変化して継承されることはなく消えていくのみ。長期的にみて人から可能性を奪いはしても感覚をドライブさせることはない。確実にすり減っていく。

しかしそれほど悲観はしてはいない。
少しの企てでガラリと様相はかわる。
要はポイントなのである。

投稿者 TKM : 09:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月03日

36歳の女性起業家達

深夜、TBSのドキュメント番組「ドキュメントD・D」をみる。

数年前に同じ番組で放送された3人の女性起業家たちのその後をおったドキュメントである。
現在、彼女たちはみな同じく36歳。
パワフルさの反面なかなかに疲れた表情をしているのが印象的だ。

3人の女性が登場するのだがその中の一人でマネーの虎などにも出演されていた方がいる。今年に入ってから事業をたたみ数ヶ月間、自らリセット期間と宣言しビジネスを離れていたのだが暇に耐えられず腰越で海の家をプロデュースしビジネスに復帰したそうである。

で、登場した人々にてついて僕が思ったのは「なんかすっきりしないな」という曖昧な感想である。
具体的に何がどうというのではない。

これまでいろいろな人にあったし、いろいろな人と話してきたから、という自分の個人的なものさしなので絶対とはいえない。しかしその人が使う言葉や音に注目すれば何となくその人の持つ空気というものはわかる、と僕は思っている。

気になったので調べてみたら彼女のプロデュースした店舗とは「Livedoor Cafe@江ノ島」であった。

投稿者 TKM : 03:30 | コメント (2) | トラックバック

2004年07月27日

スネ夫をデリート

自分も時々やらかすのだが関係性をひけらかすような文章に強い嫌悪を感じる。
それをスノッブと呼ぶならそうなのかもしれないが誰と何をどうやったというような「コト」をひけらかされているようでどうにもいけすかない、という場合が多い。そうでないこともあるのだが大抵はどこかしら顕示欲のようなものが文章に漂っている。

こうした文章を目にすると筆者の歪んだ甘え或いは卑屈さが瞬時に伝わってくる。
目を通じて腐臭が入り込み少しづつ内面が腐っていく。
だから、「ンッ」、と思ったら決してそれ以上を読み進めてはいけない。
全くこれっぽっちの後悔を抱く必要もなくデリートである。
それらの気配を漂わすスカなテキスト、陳腐、軽薄なる文章に意識を向ける必要はない。

見分けるポイントは

・これみよがしな数値や額の話が多い
・これみよがしな名前の提示が多い
・メディアによる価値の担保や伝聞の価値担保を多用する
・そのくせに知ったかぶり
・自慢あるいは、まわりくどい
・自己憐憫のにおいがプンプンする

簡単にいうと

・ネガティブサイドだけのスネ夫

ということだ。

投稿者 TKM : 23:13 | コメント (0) | トラックバック

馬との対峙

一週間ぶりにキーボードに触る。
夏祭りで福島に戻っている間は世事とはかけ離れた戦国な世界であった。周りはみな馬だし、人は甲冑を着ているし、「ハイ、ちょっと持ってて」といって手渡されたのは本物の日本刀やら兜やら。

馬にもなれて「引き手」と呼ばれる馬用の道具(犬でいうところの首輪と紐のようなもの)で馬を捕り回すことも出来るようになった。暴れさせなければ馬は美しい動物だ。ただし犬や猫とは違った肉体の美しさである。祭りに参加する馬の多くはもとは競技用か競走馬である。彼らの身体は驚くほどにしなやかな筋肉でできている。

馬力という言葉があるがあの筋肉に触れるとそれが人の持つ腕力では遠く及ばないものだとわかる。

祭りは壮観であった。
しかし自分にとっては馬と対峙していたあの時間や彼らのまなざしの方が強く記憶に残っている。

投稿者 TKM : 22:45 | コメント (2) | トラックバック

2004年07月21日

スカの大群とライブ力、変通性

今日の茂木さんの日記。
自分が言いたいことを代弁してくれている。

「あらゆる意味でフマジメにしか世界と 向き合っていない日本のトホホな現状が、 アマゾンのチャラドクたちのコメントから 見えてくる。」

いま売れている本の9割9分は来年はブックオフで100円だし、10年後には再生紙だ。それをよしとするメディアの論調はどこか歪んでいる。

売れれば何でもいいのか、という議論は売れるものが作れないマヌケの遠吠えだ、という意見もある。おそらく微妙なのだ。良いものが売れるわけではない。かといって売れないものがいいものであるというわけでもない。

要は「スカ」が大手を振って「どうだ」といってる裸の王様なんだけれど都合が悪くなるとコンテンツの出来不出来に商業的な基準を持ち込むからおかしくなる。何がスカで何がそうでないかは受け手の状況によるとはいえどうしようもないくらいにスカなコンテンツがベストセラーになるのはもう出版やらTVやらが終わってることの証明に思える。かといってネットのコンテンツがいいのかといったらそんなこともなく、さらにスカってるのがほとんどなのだが。アクセスの多いサイトでスカってないものはみたことがない。どれもおちゃらけかウケねらいでせいぜい「蟻」が「羽蟻」になったようなものだ。形はあっても本音はない。Voyagerの萩野さんなら「まがいもの」と一喝するだろう。

社会的なジレンマが拡大浸透している感じだ。
食も場も何もかもがそう。
中には万に一つくらいマシなものもあるとはいえそのほとんどがスカである。
たいしたことのないものだ。
それをありがたがって悦に入るのはメディアの影響なのだろうか。
本当に心底、それをいいと思ってるのか?とオレは問いたいのだが。
などといってる暇があるなら自分がベストのコンテンツを楽しめばいいのだから、楽しむ方法を考えろ、という意見もある。が、とここでことわっておきたいのはダメなものはダメっていった方がいい場合もある。自分さえ関係なければなんでもいいというわけではあるまい。
「学問のすすめ」ってほとんどがそういう話なんだけれどだとしたらあの本はたわごとまみれのあってはいけない失敗作なのだろうか。少なくともあの本はいまだに面白いし、DVDに焼き込まれた最新のソフトよりもファミコンミニの方がコンテンツ面白いのは何故だ?
コンテンツの本質はそういう部分にあると思う。

関係ないが先日いったライブもよかった。ライブという場はまだ死んでいない。
盛り上がるライブはスカではない。
ライブの場にあっては人は感覚によってスカとそうでないものを判断する。
しかも的確に。

スカなライブはそれがどんなものであっても。メディアがどんなに力を入れても。意味がどんなにあっても。パフォーマンスが悪ければ盛り上がることはない。
ここに可能性を感じるのである。
ライブ力。
今力と変通性。
そういえば教育もライブである。

投稿者 TKM : 02:09 | コメント (1) | トラックバック

二人との対話と時代に益なすベストな形

久しぶりに親友の太と話した。
明日の終業式が終わると彼の夏休みが始まる。
自分と太は17歳と31歳というコンビだが二人のチームワークはバツグンである。
もう15年のつき合いになるので当たり前といえばあたりまえだが年齢にかかわらず15年もの間、親交を保ち続けている友人はそれほど多くはない。歳が上だからとか下だからというのは関係ない。相手に見習うべきところがあるなら学ぶべきだし、教えをこうべきだ。人生全体でみたら10年や20年の差などたいしたものではない。

今年の夏もこのチームで活躍することになりそうである。
彼は乗馬の名手である。
1000年の歴史を持つ野馬追いという地元の祭事での彼と彼の父であり我が親友でもある三品真一軍者の勇姿は壮観である。今年は彼の妹と父が出陣する。

※なんとこのお祭に参加する人は参加とはいわない。いまだに戦国時代同様「出陣」なのである。ちなみに祝ののしは「祝御出陣」である。

このイベントについては写真や動画でもそのイメージを伝えるのが難しい。馬600騎による軍事演習というのがイベントのクライマックスなのだがこのイベントの本質はそのスペクタクル感ではなく、祭りの行われる3日間の間、変容する街の空気にある。朝靄の中を甲冑を着た武者と軍馬がゆっくりと出陣の儀式に向かう様のファンタジー度は映画「戦国自衛隊」の比ではない。(ちなみに、戦国自衛隊の冒頭の戦闘シーンは僕の地元で撮影された。またあのシーンに登場する戦国武士も野馬追いの参加者達である。毎年、実戦をやっている人々だから迫力があるのも当然である)

昨夜はもう一人の親友と話をした。
僕がいうのも何だが彼女は才媛である。
来月からは研究でスイスにいかれるとのことで夢に向かってひたむきに進んでいることを知って嬉しかった。いつも思うが優秀な人はみな謙虚である。石井先生もそうだし、彼女もそうだ。言葉が奥ゆかしいというかガチャガチャしていない。相手を引き出すような言葉の使い方なのである。話していると自分もこういう風に言葉を使えるようになりたいと思うのだがなかなかうまくいかない。

彼女の専門は開発教育である。
教育関連ということでこの間、参加したしんのすけの授業について簡単に説明した。
二人とも何かしらえるところがあるに違いないと思うので彼女がスイスから戻られたら二人を引き合わせたい。勘だけれどいいコラボレーションにつながるはずだ。しんのすけのプログラムが世界に広がっていくきっかけになるだろう。

あとは私事だが来月から就職活動をはじめることにした。
詳細はいずれ。

福沢諭吉の「蟻の人生」という一文を読んでから思索するうちに長年感じていた違和感の理由がわかった。茂木さんの「スカスカする日本」という論考も深く心に響いた。

楽しいという言葉や面白いという言葉でごまかされているがたいていのことはスカスカなのだ。

福沢諭吉は「学問のすすめ」で繰り返し「コンテクスト」の重要性を訴えている。
「変通」という言葉を使っているが同じ事象が時や状況などのコンテクストによって全く価値を変えてしまうことについて様々な事例を用いて論じている。

「ヒロイズムの価値は認めるけれどもどうせだったらそのヒロイズムが時代にベストな形でフィットして益なしている、っていうほうがよくないかい、それが道理じゃないかな、違うかい?」

そういわれているように僕は思った。

学問のすすめ
学問のすすめ/福沢諭吉

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2004年07月19日

クオリア日記

このところかかさず「茂木健一郎 クオリア日記」を読んでいる。
脳科学の研究者である茂木さんの日記なのだが日常の情景に対する茂木さんの考察にはどこか哀しみの余韻のようなものがあってそれが全体のトーンを変え作家特有の「ひき」の感覚をあらわしているのが好きだ。

金曜の講座にでるつもりだったのだが諸処の事情でかなわなかった。
自分の意志決定の未熟さが原因である。
この件に関しては改めて深く考察していきたい。



スルメを見てイカがわかるか!
養老 孟司 , 茂木 健一郎

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2004年07月15日

[雑記] 女子高生達と授業に参加

しんのすけの授業を観戦。
授業なので観戦とは言わないか。

完成度の高い授業に驚く。
生徒サイドのモチベーションも影響しているだろうけれど校長先生もいっていたように授業の構成の完成度は素晴らしかった。良質な参加型プレゼンテーションの基本形という感じがした。参加者の満足度を高め、相手の思考と発見、クリエイティビティを引き出していく。こうした講座はプレゼンテーションやセミナーの教科書としてアーカイブしておき、型を指導する際にかなり有効だと感じた。

講座、セミナー、授業というものは映像コンテンツとしてかなり魅力的である。コンテンツというとどうしてもアニメや映画などのエンターテイメント作品に目がいきがちだがそれは素人考えである。授業やセミナーは対人用のキラーコンテンツである。コンテンツ業界(そんなものは実はないのだが)ではここががら空きなのだ。

ゲストの金子の講義もよかった。
何がよかったかって、さすがデジタル漫画作家。
フラッシュで作成されたプレゼンシートのサービス精神とバランスはパワーポイント等の「機械」っぽさとは全く別ものであった。さらにトークも台本を読むという種類のものではなく状況をフィードバックしながらの「ライブ」感を取り込んでいて心地よかった。

両巨頭の講座(自分はプレゼンという視点でみていたのだが)をききながら企業の商品説明や記者発表などの担当者(たいてい長がつく)のプレゼンは相手への「愛情」に欠けているのだなあと思った。

商品がどれだけよくてもその良さは全く伝わっていない。先日の日立のボクサーの記者発表など特にそれを感じた。キーノートで作成されたプレゼンシートはわかったのだがそれを用いて何を伝えたいのかが全く不明瞭であった。というのも発表者から「愛情」が感じられないのだ。別な言葉でいうとライブを楽しんでいる、という感覚が伝わってこなかった。逆にゲストで登場したシックスアパートの平田さんはライブを楽しんでいるかのようにプレゼンを行っており、その楽しみ度合いがこちらも伝わってくるのであった。

さて、昨日はそんな二人の講座を堪能した後、校長先生らといろいろお話をした。その中で印象的だったのが学年によってカラーがあるという話である。東京女学館は一学年300人くらいでその中にはいろいろなタイプの生徒がいる。なのに学年毎に周期的にカラーが出るというのはどういうことなのだろう。

話をきいていると生徒達が優秀であることが必ずしもいいわけではなく、勿論、いいに決まっているのだが教師としては苦労させられたことの方が印象強く、つながりも深まるそうなのだ。勝手な推測だがその学年に存在を印象づける生徒が数人いる場合、その生徒のモードが伝播し、全体にエントレイメント(引き込み現象)が生じ、それによって系、この場合は学年という集団に空気が伝播しモードが浸透していくのだと思う。状況によって個人の人格や振る舞いもかわるのである。

こういうことは我々の生活の中にもよくあってその人といるときの自分と別な人といるときの自分では人格が異なる、という経験があると思う。親といるときの自分と恋人といるときの自分など同じ人間でも振る舞いは変化するだろう。同じように学校での自分、会社での自分、友達といるときの自分、などなど。人は環境と状況によって振る舞い、性格を変化させる。

授業を終えてからしんのすけ、金子の二人とカフェで話をした。
生徒達のモチベーションの高さに驚いたこと、みんないろいろなことを考えているんだな、ということなどなど。授業中に僕がメモした内容についても簡単に議論してみた。しんのすけの課題は「20xx年後の○○がどうなっているかを調べてくること。またあなたはそれをどうしたいと思うか。その希望も考えてくること」であった。

ある生徒が葬儀の50年後を調べてきた。
彼女の調査によると50年後に我々のお墓というものはなくなって、納骨堂のようなビルにみんなが入るそうだ。これはこれでかなり面白く、なるほどなー、と感心したのだが彼女が面白かったのはその後だ。

「私はお墓がなくなるのは嫌です。何故かというとお墓がなくなったらキモダメシができなくなります。」

何故、キモダメシ!?
正直いってヤラレタと思った。このセンスなのだ。これがあるから女の子は侮れない。ナイーブ(安易という意味でのそれであって決して感受性という意ではない)さは確かに否めないけれど感性というのはこういうことをいうのだ。

プランニングの基本もこれだ。
彼女のこの言葉こそプランニングの肝なのだ。
それをわかっていない人があまりにも多いので世の企画やコンテンツには「媚び」が蔓延するがそんなものはどうでもいいのだ。

肝試し結構。
彼女の言葉は墓というモノの本質をついた言葉だと僕は思う。

彼女の発言には墓というものに対する彼女の「コンセプト」が明確に現れている。
彼女にとって墓は「楽しい」や「遊び」の一部なのである。
これは重要で、墓まいりに何故いかなくなるか、といえばそれが「楽しさ」「面白さ」とリンクしていないからである。何もエンターテイメントである必要はない荘厳さや厳粛さでもいいのだ。ようするにそこにコンテンツとしての魅力があれば人はその場に集う。現に自分の家の墓にはいかなくても世界中の墓の前には日本人が長蛇している。

ピラミッドもなりはでかいがもとをただせば墓だし、有名どころの遺跡の多くもなんのことはない「墓」だ。(そういう意味ではピラミッドをつくった王様はエライ。何千年も過ぎてるのにいまだにエジプトの民に益を与えている)

墓というものを考え直すきっかけと未来を感じさせるコンセプトが彼女の言葉にはあった。あの瞬間、僕には未来の墓のイメージがみえた。彼女は明確なビジョンをプレゼンしたわけではない。きっかけにすぎないのだけれどその「きっかけ」が最も大切なのである。
で、3人の結論だがこの授業がとてもうまく機能している理由の一つはモチベーションの高い生徒達にあるが、それは「女子校」という特異な場による彼女達のオープン性によるのではないかということである。

男子校だったらうまくいくだろうか。
また、共学であったらならばどうだろうか。

とイメージしてみるとやはりあの「オープン性」を作り出すのは難しいのではないかと思う。また中高一貫という部分も重要な要素に見えた。学校内であったどの生徒も「退き」の感覚ではなく、オープンに僕たちに接していた。
それぞれが自分の足場をもっているような、そんな印象である。

女子校の授業ははじめてであったし、学校によって事情は全く異なるのだろう。しかし、あのオープン性は発想をドライブさせる鍵になるのではないかと思った。あのオープン性を企業や組織に取り込んだならば企業はどう変質するのだろう。まだまだ面白いことはたくさんできそうだ。

++++++

やまけんに電話すると「メロンがある」というので金子と二人でごちそうになりにいった。頭痛がひどいらしくいつもの「ヤマケン力」が全くなかった。それがもう一つのおっとりしたインパクトの薄いヤマケンを作り出しており味わい深くもあった。

お好み焼き屋につれていってくれたのだが。
やまけんはほとんど食べていなかった。
メロンは昨年同様おいしかった。

丁度、そのメロンをつくった人から電話がきたので金子と二人で感想をお伝えした。
月島についたらお祭の後の浴衣すがたの人々でにぎわっていた。
祭りだったのをすっかり忘れていた。

投稿者 TKM : 08:44 | コメント (6) | トラックバック

2004年07月14日

[雑記] 信号に縛られる人々

昨日は印象的な出来事が二つあった。
具体的に明記するのはやめておくが言いたいことをまとめると次のようになる。

・信号理論がそこかしこに浸透している
・器量の超縮小化とルールへの過度の依存が進行している

目の前で交通事故が起こったとする。
事故の衝撃で車のドアが大破し開かない。
中には小さな女の子が乗っている。
血も流れている。
事故が起こった場所はある店の前だった。
その店には工具がおいてある。

「すみません、工具を貸してもらえますか。ドアが開かないんです。」
「いやー、うちは工具の貸し出しはしてないんですよ。他で借りてきてください」

彼はルールに従っただけだという。
「工具は貸さない」というルールがあり、それに従ったまでだ、と。

一人一人は悪い人だとは思わない。
知らず知らずのうちに「それをやるとしかられる」という信号に制限されるうちに道理としてすべきこともルールや規約にないから「できません」になっていく。「攻め」と「守り」でいうと圧倒的に守りの姿勢なのだ。

現実への批判や否定は何もうまない。
それを言葉にするくらいならば自分で行動すべし、という人もいる。

「こうした方がいい」ということが自明のことであってもルールや規約で「できない」と思っていることが山ほどある。発想が逆になってしまっている。ルールや規約はそれによって社会生活が良くなる場合に限って維持し尊重されるべきであり、環境の変化に応じてチューニングされなければならない。そもそもルールは人の生活をよりよくするために設けられたものでそれが合わなくなってきているならば速やかに調整されなければならない。

様々な場所で目的と手段がいれかわってしまっている。

警察は自転車の盗難や二人乗り駐車禁止の取り締まりには熱心だが凶悪犯罪の捜査には全く不熱心なのは何故なのか。
大きな病院にいくとどんな重病人でも何時間も待たされるのは何故なのか。

どの政党が勝とうとどの政治家が当選しようと現行のシステムでは上記の問題を解決できない。
それが問題の本質だ。

リニアモーターカーによる中央新幹線が実現されない理由を知っているだろうか?
これらの根は全て同じなのだ。

企業ならば競争によって最適化が進むという考え方もある。
結果、コンビニ化に向かっているわけで必ずしもそれが良いとは言えないが必要性にあわあせて変化していった結果がそれなのだ、と考えることもできる。

それでもより「合うもの」にしていかないと消滅の危機にさらされる、という点でマーケットエコノミーの方が政治システムより機動性がある。

政治の問題は結局のところ個人が政治家を選んでいるわけだから個人の責任だ、と言われる。しかし好んで政治家になろうとする人は少ない。何故か?割にあわないからだ。

まともなことをやろうとする人がまともにやれないのが政治なのだ。
そもそもここがズレている。
政治が扱うべき問題と経済が扱うべき問題が一緒にされているのがそもそも問題なのだ。
概して既得権周辺の事業は実ユーザが不在だ。
よって評価もされないから競争も生じない。
カタチを変化させるという意志がない。
循環は失われていく。

うまくいえないのだが政治が扱うべき問題は別にあるはずだ。
方向性とか。
この人とあの人で利害が一致するかしないという問題は永遠にあってそれを政治の場に持ち込むのは違うだろう。なんかそれとは別な部分で大きな合意みたいなものはあるわけで、例えば「犯罪はないほうがいい」とか「町中にゴミを捨てる人はいない方がいい」とか「キンキンしないほうがいい」とか誰も反対しないけれど良くなったら気持ちいいことはたくさんある。

もっとベースの部分を扱わないとだめなのだ。
各論、詳細、細かいことはそれぞれもっと現場レベルでやればよくて、もっと大本の部分を攻める場があってそれらがおこなわれないと効果的ではない。かといって中央集権がどうとか分権がどうとかそういうことではなく、かなりシンプルなシステムの導入でエントレイメントが起こるみたいな。

国家100年の計とかアホなことはどうでもいいし、そんなことを言う人間がいたら信用してはいけない。そんなものはあるわけがない。無限に変動しつづける環境下でその相互作用を予見しコントロールすることはできない。
江戸時代の人も月の夢はみたと思う。
そういう100年はわかる。
しかしOSやそのインターフェイスを夢をみることができたとはおもわない。

と相変わらず散漫なのだが。
優秀な人は政治に向かわずビジネスに向かうように見える。
男女問わず。

いまビジネスの世界の第一線で活躍している人を全員政治に投入して組織からシステムからつくりかえて好きなようにやっていいから。その代わりこれとこれとこれという目標だけは達成して欲しい、と依頼したらガーっとやって全然違うマインドの社会にかわるんではないだろうか。しかもあっという間に。

そういうのがダイナミズムだと思うんだな。

あと、いろんなところで言われはじめた「既得権益に固執する老害な人々」だけれどこれだって、一部の話で中にはクリエイティブな老人もいるし、イノベーティブな人もいる。全部を一緒にし単純化するからうまくいかないのだ。「老害」はマインドの問題であって年代は関係ない。

若年であっても老人であっても賢人は賢人だし、愚は愚だ。それを高齢者は敬いましょう、というインチキくさい言葉でひとくくりにするからおかしくなる。ようは人間力の問題で。魅力ある人は魅力ある人は大切にされるし、魅力がない人はそれなりにしか扱われない。年齢など持ち出さずより魅力ある人間になるように自分を磨いていったらいいだけだ。また政治の問題も経済もおよそ人間が原因の問題はそのほとんどがコミュニケーションの問題で(「24」を観ていてもそう思った)大概はすれ違いとか互いの思惑のズレが反復増幅された結果、問題化、結晶化(秩序化)に至っている。

学問のすすめを読んだらここらに関しても福沢節が爆裂しており「殺される人と殺す人を一カ所に数日入れて腹割トークで話をさせたら何かしら通じる点はみつかる、故にその人ではなくその人の持つ怨望が問題の根なのだ」みたいな話がつづく。「学問のすすめ」は当時の超ベストセラーで300万部以上売れたらしい。で、人の持つ怨望のような目に見えないもの、「気力」(本ではスピリット)に目を向けよ、との説が様々に事例をあげて論じられている。そういえば福沢諭吉といえば戊辰戦争の時に外では刀を振り回し大砲がドカンドカンやってるという状況下で凛として経済書の講義をやっていたそうである。その時、使っていた経済書がウェイランドの「モラルサイエンス」だったのではないかと言われている。つまりいまのCRSの原点だ。

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今日はしんのすけの手伝いで授業の撮影である。
金子の授業も楽しみだ。

投稿者 TKM : 11:39 | コメント (0) | トラックバック

2004年07月13日

[雑記] 前進と後退

福沢諭吉の文章だがなかなか読み終わらない。当時の日本語の文語に慣れていない。ちょうど英語を読んでるのと同じスピードである。

で、諭吉っぽくてなんだが、

 「世に前進と後退あり、然るに前進に向かうは人の道理にて世にそれを妨げる理なし」(加賀谷)

と強く思うこといと多けり。

投稿者 TKM : 12:42 | コメント (0) | トラックバック

2004年07月12日

[雑記] 面白い人、つまらない人

濃い薄いという言い方が正しいと