2004年05月13日
[雑感] 仕事なにやってるですか?
という質問があきれるほど多い。
何ってなあ。
オレの仕事は「頭の整理屋と引き出し屋」です。
投稿者 TKM : 06:58 | コメント (0) | トラックバック
2004年02月22日
「いい飲み」とハーブティーの朝、こんな朝の日曜にやまけんと河原で茶を飲んだっけ
恵比寿で仕事を終え、たっぷりとごちそうになり、楽しい時間を過ごし、更に新宿で矢坂さんと合流しグビリと語らい月島に帰る。しかしである。今朝は全く気分が良い。気候がいいせいもあるのだろうか。
一昨日はたいした量を飲んだわけでもないのに銀座からの帰り道にグラついた。昨年、かちどき橋にぶつかって肩の骨を折ってから注意していたのだが。そして、翌、金曜日はかなり使い物にならなかった。
昨夜は恵比寿、代官山、新宿と久しぶりに「いい飲み」をやった。
「いい飲み」は基本的にいい人との時間によってつくられる。
「飲み」においては「何を」よりも誰とが重要である。
そういう意味でも内容も「いい飲み」であった。
「いい飲み」。
それは幸せのひとつのカタチである。
それにしてもずいぶんとごちそうになってしまった。
明け方の新宿と銀座では人々がそれぞれ「家」に向かって帰っていく。
僕も家に向かって帰るのだが、まてよ、と少し考えた。
人は家に帰るわけだが何故人はそうまでして「家」にかえることに情熱を燃やすのだろうか。
「家」とはなんなのだろう。
家とは巣みたいなもので自分を守る場所なのだろうか。
どんな人も無意識のうちに住み慣れた場所に帰ろうという本能がある。
ホテルでも2~3日もいると愛着がわいてくる。
安心して寝れる場所。
寝る場所。
無防備になってもいい場所。
ということは人は無防備になりたい、ということだろうか。
そうだとしたら何故、家以外では無防備になれないのだろう。
怒りとか憤りは何かを守ろうとする意識のあらわれである。
カーっとなるとき、何かが破られるから頭にくる。
何故その何かを守ろうとするのだろう。
それは自分にとって何なのだろう。
それこそが自分の核なる何かにつながっている、という気もする。
ハーブティーを飲んで今日は寝よう。
投稿者 TKM : 06:44 | コメント (0) | トラックバック
2004年02月19日
わからないけどわかること
昨年から時々、横尾先生の日記を読んでいる。
読んでいるのは面白いからだと思うが何故面白いのかわからない。
よしもとばななの日記も以前は時々みていたのだが最近は全く読まなくなった。何故だか全く面白くない。しかし何故面白くないのかはわからない。
いろんなことがわからない。
わからないけれどそれが面白いか面白くないかはわかる。
どうしてなのかはわからない。
投稿者 TKM : 05:28 | コメント (2) | トラックバック
2004年02月14日
「メシをくうため」と言うけどメシの値段はいくらよ?
いつも読んでるメルマガに「人はメシをくうために仕事をしていてそれに人生の大部分を費やすのだからそれが好きであろうが嫌いであろうが懸命になれない人は不幸だ」というエッセイがあった。
僕はこの「メシをくう」という言葉に違和感を感じる。
「私はこれでメシをくってます」とか「メシをくうため」という言い方をする人がいるが彼らがメシのためといってやっているのは円を稼ぐことであって僕らはカネゴン(ウルトラQに出てきたお金を食べる怪獣)のようにお金を食べて生きているわけじゃない。食べているのは食物で食物を得るための媒体としてのマネーが存在し、マネーを得るために働く人もいれば働かなくてもいい人がいるというのが実際である。
「メシをくう」っていったい僕らはどのくらいメシを食っているのかその人たちがいうところの「メシ」の値段はいくらくらいなのか計算してみた。
数寄屋橋次郎以外ならだいたい5000円もあればかなり上等な食事ができるだろうから一食あたり5000円と換算して(実際にこの値段の食事をやっていたら3年くらいで人の身体はボロボロになるだろう)
年間:5470000円
100歳くらいまで生きるとして20歳くらいまでは家で食事をするという感じだと実質は80年分くらいだろうからこれを80倍すると
80年分:4億3800万円
これがかなり割高く計算した「メシの値段」である。
ちなみに日本のメシの値段であってこれがタイや中国などのアジアの国々の場合だと
一食あたりMaxでも1000円くらいだから(日本でもこのくらいあれば普通のご飯は食べられるだろう)
年間:1095000円
100歳まで生きるとして
80年分:8760万円
上記の二つともかなり割高な計算なので更に現実的にいくと日本でもデフレがもうちょっと進めばおそらく一食あたり500円くらいにはなるだろう。となると
一食:500円
年間:547500円
80年:4380万円
アジアの場合だと一食あたり実質は200~300円でいけるから
一食:300円
年間:328500円
80年:2628万円
となる。かなりおおざっぱではあるが具体的に数値化してみた「メシをくうために」のメシの値段である。
ところで全ての人が「メシをくうため」には働いているわけではない。
不労所得の人もいるし、ある程度ドーンと稼いだ人は少なくとも「メシ」の為には働かなくなる。
世界が発展していってある程度の目処がたったら人々は「メシ」の為に働かなくてよくなる、というのがベストだと思う。とりあえずはその程度の簡単そうなことを世界中が目指していったらいまよりは世界はハッピーになると思う。
その上で農業をやりたい人、食物をつくりたい人はそれがやりたいからやっているという方が楽しいだろうし、全ての人が俳優や映画監督になりたいわけでもない。人によって「これやってるときが一番楽しい」という何かがあってそれらが相互依存状態になっていれば一人一人はやりたいことをやっているだけなのに全体が豊かになるという好循環が生じる。
が、そこがズレて「メシのため」を語り出すと歪みが生じる。
何もやりたくない人はやりたくなるまでは何もやらないだろうし、やりたい人はやる。
それでもいいはずだ。
その方が全体がハッピーになると僕は思う。
「そんなうまい話があるか?」と言われそうだが物事は考えているよりもずっとシンプルだ。
ごちゃごちゃしているのは人の思惑であって、うまくいった方が楽しくなるならうまくいかせる知恵を出す方が面白いと僕は思う。
投稿者 TKM : 03:51 | コメント (2) | トラックバック
モスバーガーで聞いたおばさん声と回路理論
昨夜から酷い体調不良だった。
全身の関節が痛み、熱っぽかった。
風邪薬を飲んで眠った。
夢の中でたくさんの人に出会った。
朝目が覚めると目眩がした。
昨日の昼に思い立ってブログをもう一つつくった。
その日に起こった「いいこと」をメモしていくサイトである。
毎日いいこともたくさん起こっていると思う。
気づかないだけで書けば感覚がだんだんと調子を取り戻していくような気がしたのでやってみることにした。
テンプレートも既存のものとは変えてみた。
Macでみるとヒラギノフォントで表示されるので通常のHPとは大分感じが違う。
さてそんなわけで一日を振り返ってみて気づいたことがある。
自分の場合、体調がいいといろんなことにハッピーを感じるようだ。
・ご飯がおいしい。
・身体のキレがいい。
・頭の冴えがいい。
これらがベースにあると自分の外の世界を豊かに感じることができるように思う。逆にいえばこれらがうまく機能していないとどんなハッピーがそこにあっても気づかずに通り過ぎることになる。
さっきモスバーガーにいった。
席で待っていると30代の女性二人が二つ隣のテーブルで話していた。
僕からみて斜め左前に座っている女性はおばさんの声で話す。
おばさんの声というのは僕が勝手にいってるだけなのだが
・キンキンしている
・ダミっている
・品がない
という声である。
この声で話されると同じ言葉でも全く別なものに聞こえてくる。
「それは違うわよ」
その一言が全く別物として認識され騒音以上の不愉快さを感じてしまう。
この感覚は僕の個人的なものなのだろうか。
音は重要だ、と僕は常々思っている。
おばさん声の不快さと似たような不快さを感じるのは「クッチャリング」の不快さである。
「クッチャリング」とは僕の造語で物を食べる時に「クチャクチャ」と音を立てながら食べる人がいると気になってしかたがないがそれをなんと呼んでいいのかわからなかったので「クッチャリング」と銘々した。
そして僕はこの「クッチャリング」の音がとても気になる。
「クッチャリング」に対する僕の不快感は個人的なものなのだろうか。
・映画館で上映中に話をしている人。
・電車の中で携帯電話で話している人。
の場合、話をしている人の言葉が気になるのではなく音が気になっている。
選挙演説がうるさくて仕方ないのはあれが言葉ではなく「音」として認識されているからだ。
人を不愉快にする「音」は存在する。
ならば同じように人を愉快にする「音」も存在するはずだ。
話の楽しい人がいる。
その人の話はいつも面白いが
その人の言葉が楽しいだろうか?
実はその人がつくる音が楽しいのではないだろうか。
言葉が音と完璧にリンクすると言葉が意味以上の動きをしはじめる。
先日、あるエコノミストの講演を聞きに行った。
滑り出しは「なんて話のつまらない講演だろう」と思っていたのだが15分くらい聞いていると段々と話のリズムをつかめるようになってきて気づくとたくさんメモをとっていた。30分後には「うーん、こんな風に経済を解説するのか」と感心していた。
ある一定時間、その人の話世界に浸っていたことで自分の中にその人の言語ルールが構築されていった感じである。例えばアクションゲームなんかで最初は操作がうまくいかず頭の中で「えーと右ボタンは剣で...」と考えてやっているのだが一時間もやっていると指が操作を覚えてしまって何も考えなくとも条件反射で勝手に動くようになる。
本や映画でも似たような経験がある。
この間みた「キングダム」も一巻を観ている時は「くー、なんて遅い展開。なんなのこれ」と思っていたのが2巻を半分くらいまでみたあたりからは引き込まれ「エ、もう4巻?まだずっとみていたいな」という気持ちになった。
500ページくらいあるミステリー小説も最初の10ページくらい読んでも全く面白くないが半分くらいまで読み進むと物語世界が頭の中でできあがってきて、どのシーンでも登場人物がパッと浮かび上がりその人がどんな人なのかということをいちいち考えなくてもサクサクと読み進めることができるようになる。
勉強でも一緒だ。
数学も最初にやるときはルールをたたき込むのに四苦八苦するが一度ルールができあがるとあとはサクサクと問題を解いていくことができる。
面倒で仕方がない確定申告の書類作成も最初の2時間を乗り切ると後はスムーズに進んでいき終わる頃には「おー、オレはこれを本業にしてもいいな」というくらい頭が確定申告モードに切り替わる。
物事は全てこうなのではないかと思うのだ。
回路をつくる時、心理的な重さゆえに「ウェー」という気分になるが一度、回路ができはじめると後はサクサク進んでいく。ビジネスでも一度成功した人は後はどんな事業をやっても大体成功する、と聞いた。これも一度、ビジネス成功回路ができると次の回もその回路がバーっと動いてサクサクと次に何をやればいいのかがわかるようになるのだと思う。
こうした動きはゲームのボタン操作と同じで言語化されないから「運がよかった」とか「本能的に」という言葉で暗黙知として扱われる。けれど本当は回路理論のなせる技だと僕は思うのである。
おそらく料理にも音楽にも絵画にも身体運動にも同じ理論が働いている。
才能とは回路の開き具合と進度と深度の別名で開きさえすれば(開きやすい開きにくいという差はあるだろうけれど)後はどの方向にいっても同じように「才能が発揮」されるのだと僕は思う。
投稿者 TKM : 02:09 | コメント (0) | トラックバック
2004年02月12日
六本木ヒルズで体験した集いの場
日経の竹内宏さんの記事にあった「有名講師が日々違うテーマで話をしてその後議論する居酒屋」。年末のPRIDEにいく直前、やまけんと門仲のフレッシュネスでお茶を飲みながら「こういうのいいよね」といってた「場」と似ている。勉強会ってのは段々と拡散していきがちだけれど、新しい知に触れる機会が欲しいと思っている人は多いのではないだろうか。
昨年、六本木ヒルズに毎月1~2回集まって2期生で会合をしていたのだが異分野の人々と話をするのは自分にとってこの上ないエンターテイメントであるなあと思った。最近読んだ「成功脳?人生を決める~感情力」によれば人間の脳にとって一番いいのは「知らない人と話すこと」だそうである。
いわれてみればその通りだが実際のデータをもとに語られると説得力がある。
脳は何度も同じことを繰り返すと覚えてしまって新しい結合をつくらなくなってしまう。そういえば馴染みと飲む酒はうまいけれど一番楽しいのは旅先などで初めての店にびくびくしながらひとりで入り、段々と店の人やそこにいる人と打ち解けていくまでのサバイバルな昂揚感ではないだろうか。失敗やハズレもあるが成功した時の楽しさは行きつけの店で味わうひとときとは異なる達成感がある。
こうなってくると「飲み」も一つの「道」である。
あらゆるものがそうなのだろうけど。
話を冒頭の「新しい世界に触れる場」に戻すと僕とやまけんで話していてこういうのいいよね、とかいろんな企画は幾らでもわいてくる。それなりにネットワークはあるので人も呼べるだろう。PRではないので著名人を使う必要はない。それで思うのは「場」である。
決定的に足りないなあと思うのは「場」なのだ。
大学や会社など組織の一番の楽しさは「場」があることだと思う。
そこにいくと誰かがいる。
「場」の魅力。
学校と会社はよく似ている。
投稿者 TKM : 09:36 | コメント (0) | トラックバック
2004年01月26日
僕の持つ奇跡
最初の頃は楽しかったが現在はメタブログ論を読むと頭が疲れてくるので最近は流し読みである。が、そんなものはどうでもいいよ、とは思わない。メタブログ論も面白い。だけど狂牛病みたいで疲れてくる。再帰的なのだ。ブログでブログを論じるとテキストは狂牛病になる。中身は空っぽだ。
時々会いたくなる人がいる。
その人とは10年以上会っていない。
かなりの偶然か運命のいたずらがないかぎり会うことはないのだがいまでも惑い迷う時はその人を想う。
ただ一人、天才と認めるその人を想う時、心が軽くなる。
そうだよな、という気持ちになる。
間違いもただしさも考えることなく、少しでもその人のようになりたいと思う。
永遠の子供ような人である。
その人はハートと愛情に溢れた人である。
あんな人が実在することはある意味、奇跡かな、とさえ思う。
その人の周りは幸せに包まれる。
あの温かさと豊かさ、素直さとおおらかさはどこからくるのだろう。
この世でただ一人、天才と認めるその人のためにできることを思う。
投稿者 TKM : 01:44 | コメント (2) | トラックバック
2004年01月11日
あの日は空を飛んでいた
3年前の12月。
僕と村島さんは空を飛んでいた。
4000メートルの上空から虚空へと一歩を踏み出す時の昂揚と動悸を生々しく覚えている。
夕方朝日コムのニュースを見た。
体験ダイブをしていた人が墜落死したと報じられていた。
実体験があるだけに人ごととは思えなくて。
僕と村島さんがいないいまもあったわけで、生きてることはそれだけで幸運なんだと思った。
久しぶりにCDを借りてきた。
タドに教えてもらった小沢健二の「刹那」。
平井堅の「Ken's Bar」。
Aikoの「暁のラブレター」
その3枚が並んでいたので手に取った。
平井堅以外は本人のステージをみたことがある。
平井堅のCDを聴いてるいまを昨日の今頃は想像できなかった。
1時間前。
築地のヴェローチェでお茶を飲んだ。
ペンもノートも持たずにいったのでお茶を飲みながら目を閉じて諸問題について考察した。
人と話すのも好きだがひとり思考するのも好きだ。
ふと石光君のことを思い出した。
久しぶりに会いたいな、と思った。
石光君は独特の話術、間合い、トーンで話す。
マユちゃんの結婚式の時に彼が挨拶した。
「朝起きたら天気がよくてー」で始まるその挨拶は話自体は爆笑するような話ではないのだがモノマネすると何故かとても面白くて、以来、石光君の挨拶のモノマネばかりしていた。
だんだんモノマネの方が本物みたいになってきて本当はどんな話し方だったか定かではない。
投稿者 TKM : 20:08 | コメント (3) | トラックバック
2003年12月29日
書くこと自由と音楽と洗濯
12月29日。
カーテンに水面に映った太陽が揺れている。
洗濯をして朝食をつくる。
冷蔵庫にあったタマネギとシーチキンで一品。
炒めて醤油で味付ける。
味は悪くない。
時間について考える。
マイケル・クライトンの「タイムライン」を昨日から読み始めた。クライトンの小説の面白さは現実と非現実のバランスの妙にある。最先端の科学トピックスと少しだけ未来。ありそうだ、とイメージができる程度に飛躍した未来をかいま見せてくれる。ストーリーの味付けが加えられ独自のサイエンスエンターテイメントの世界が広がっていく。
クライトンの小説は映像的である。
言葉の美しさ。
例えば「ソラリス」のような読後感はないがグイグイ引き込まれる。ストーリーの力恐るべし。ストーリーに引き込まれるのはわかりやすいキャラの設定にあるのだろう。その人物の顔も声も知らないが読んでいるうちにだいたいこんな人なんだろうな、というイメージが浮かんでくる。
小沢健二のEclecticというアルバムを聴きながらこのエントリーを書いている。
音楽を聴いているうちに意識にさざ波がはしり静に音に同調していく。
音楽を聴きながら書くことは自分にとって最大の楽しみの一つだ。
何故書くのか?
書くのが好きなのだ。言葉を綴るという感覚ではない。楽器を弾くのに近い。
考えないからトピックスが固定されない。
何らかの答えを出したいとも思わない。
だからエッセイでもないし論考でもない。
ふらふらとした言葉である。
なんらかの感情があってそれを伝えたいがために表現しているのではない。
テーマがふらふらするから「何を言いたいの?」と言われるかもしれない。
しかし、そんなものはないのだ。
何かが言いたいから「書く」、必要はない。
このライティングスペースはそのくらい自由だ。
不自由は自分がつくる。
それは現実世界でも同じである。
不自由は外にあるのではない。
内側にある。
人と話すと自分がよくわかる。
人と話さなければ自分はわからない。
書くことは自分との対話である。
音楽や空のようになれたらいいのにと思う。