2004年08月31日

Visual Playerの紹介

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Visual Playerは数年前に僕たちのチームで作成したインターネットで音楽を遊ぶためのアプリケーションである。と書いたあたりで意識がグタリと倒れた。睡眠不足らしく意識が途絶えるように朦朧としていく。少し仮眠をとって復帰。妙に爽快である。

気を取り直して上記のアプリケーションだがコンセプトとつくりがしっかりとしているのでいまだ古さを感じさせない。当時のマシンのパワーでは時々動作が不良だったけれど現在のマシンだとほとんどの環境で快適に稼働するはずである。

アプリケーションを起動させると下記のようなコンソールが立ち上がる。

player

ピアノとパーカッションの二つのバージョンがあるがどちらも操作は同じである。鍵盤で音の種類を選びマウスで絵を描くように音のピースをステージ(グリッド)においていく。操作はこれだけ。すぐに音が流れはじめる。作曲ではなく「音で遊ぶ」ことが目的なので思うままに音を並べて遊んでみて欲しい。予想外の音楽ができていくはずだ。

複数の人間でネットワークを介したセッションを楽しむこともできる。メニューから「multi」を選択するとドアのアイコンがあらわれる。現在入室しているユーザの人数が表示されていればOK。ドアの上にマウスを持っていくとドアが開く。恐れずに入室しよう。

あとはネットワークを通じて画面上の楽器が共有されるのでネットの向こうの相手とセッションのはじまりである。VisualPlayerチームはこうした「音で遊ぶ」アプリケーションの開発のプロなのだが残念ながら現在はバージョン2で開発が止まっている。スポンサーがいなくなってしまったのが原因だ。

他にも実際に物として触ることができる楽器の開発も手がけていきたいと思っている。定期的に「音を遊ぶ」と「ネットワーク」についての企画や思うことメンバーの話など紹介していきたいと思っている。

投稿者 TKM : 16:30 | コメント (0)

2004年07月11日

[コンテンツ] 新庄力爆発

野球はほとんどみない自分だが今日の新庄のプレーには魅了された。
あれなのだ。
自分が欲するエンターテイメントのカタチがあそこにある。
素晴らしかった。
新庄の持つエンターテイメント性は「新庄力」とでもいうべき爽快な風である。
素直に拍手を送りたい。

投稿者 TKM : 21:18 | コメント (1) | トラックバック

2004年07月03日

[コンテンツ] コンテンツの不在

月をみながらのうたたねの後ベッドに横になって目覚めると午前2時であった。シャワーを浴びて頭と身体を叩き起こしパラパラと本を読む。世の中には驚くほど多くのどうでもよい本があるものだとあらためて思った。

一日に出版される本の数は膨大である。
膨大ではあるがほとんどの本は売れることなく店頭から消えていく。
どうしても読みたい本だけを読んだとしても到底おいつけるものではない。

出版社は漫画の売り上げでどうにか運営されている、という話もよく聞く。
ならば漫画専業にしてしまえばいいのではないかと思うがそうもいかないのだろう。
ようは売れる、あるいは売らなければいけないからという理由で面白くない本が山ほど生産されてしまうことが問題なのだろう。

オピニオンや著名人という人々におう形で商品が成り立っているというのもどこかおかしなものだ。そうした華やかさ(自分も嫌いではないが)とコンテンツの出来不出来は本来無関係だ。売れるものをつくることがいいことだ、と言われるがそれは「お金」という指標でコンテンツを計っているだけで評価の中心に自分がいない。

お金という指標を外した場合はコンテンツの評価はどうやって決まるのだろう。

学術的に価値があるとか役に立つという言い分もあるが結局は面白いと思わなければそのコンテンツを見る、読む、体験しようという気にはならない。
今日が最後の一日だとしたらその本を読むだろうか。
それとも別なことをするだろうか。
そうした問いに耐えうるコンテンツはどのくらいあるのだろう。

ガチガチに考える必要はないのだろうし、無駄があってもいいのだろう、しかし、日々の生活の中で本当にそれがやりたいと思ってしていることはそう多くない気がする。
それこそがコンテンツ不在という問題の本質ではないかと僕は思うのである。

※追記
少し補足しておきたい。本当にやりたいことをやっているときに感じる面白さがランク的にトップだとしたらその他の時間もその感覚に近い悦びを得たいと思うようになる。人にはそういう悦びの絶対値があってコンテンツ、行動の選択はそれを基準として行われる。結果、自分にとって満足度が最大となる選択する。また悦びの絶対値が高ければ高いほど迷いはなくなる。どうでもいいコンテンツが増殖する理由は悦びの絶対値が低いからである。(食も似ていて美味しい物を食べた悦びを知らなければ食へ対する感心や感覚は段々と鈍化していく。音楽、本、人も同様である。ごく自然に本当にやりたいことをやるという選択をする訓練が圧倒的に欠落しているのだ)

子供をみているとそんな気がする。彼らは興味がないものには徹底的に興味がない。
意志決定の本質はあれでいいのではないかと思うのだ。
そうした意志決定の仕方を刹那的であるとか戦略的でないという言い方で否定する人もいるが実は個々人が個人の幸福の最大化に向かって行動することが全体としての幸福の最大化へつながっていく。制御ではなく非制御によるコントロールとはそういうものでありおそらく方法論としても正しい。無秩序へ向かうのではなく自然発生的に秩序化が起こりバランスはとれていく。いっけん非効率にみえることが効率的である場合も多いのだ。「幼年期の終わり」みたいな言い方になってしまったが僕はそう考える。

投稿者 TKM : 03:52 | コメント (2) | トラックバック

2004年06月10日

[特報] 久々に感じたネットの風

衝撃のサービスが開発されていたことをいまさっき知った。
ロリポップではこんなものを考えていたのか。
素晴らしい。

HTMLもいらない、タグも難しい知識も、マニュアルもいらない、そんなWebページ作成サービスが「ノータ」である。

こうしたサービスがどんどん出てきて欲しい。
ビジネスやマーケティングの話題ばかりで辟易していただけに心地よい風を感じる。
「ノータ」はサービス・ソフトウェアの名称であるがこれはサービスというよりもコンテンツそのものである。使ってみたいと思わせる力がある。そこから面白いものが産まれてくるかといえばおそらくスゴイモノは出てこないだろう。しかし、僕はこのアプリケーションに未来を感じた。とても楽しい気持ちになった。

そういうことでいいんじゃないだろうか。

小難しい議論や頭でっかちなプロジェクトは結局使われもしないつまらないサービスの量産しかしていない。

これは大きな流れなんだろうけど。非常に気持ちが良い。久しぶりである。

■関連URL
・ユミルリンク
http://www.ymir.co.jp/
・ロリポップ!NOTA
http://nota.lolipop.jp/

投稿者 TKM : 22:24 | コメント (3) | トラックバック

2004年04月01日

[コンテンツ] ポリフォニーとキュービタル

数年ぶりでR社につとめる友人と話をした。
徹夜明けだったせいか頭がぼーっとしていた。
アドレナリンのせいか気分はハイなのだが気分に脳がついていかない。


しばらく話して電話を切った。
写真が楽しみだ。

ぼーっとしていたがソニービルでリブリエの現物をチェックした。
リブリエの実機をみたいと係の女性に告げる。
丁度、準備しているところだったようだ。
少し手間取っている。

Σブックに比べると大分軽い。
しかし、つくりは華奢な印象をうける。
特にボタン周りの質感はいまいちで商品としての魅力を落としている。
期待の電子ペーパーの方は「まあまあ」といったところだ。
前評判では素晴らしい出来とのことだったがそれほどの感動はなかった。
むしろ、携帯電話の液晶の方が数段上に見えた。

マンガの画像を確認したかったのでお姉さんにデモ画面を出してもらう。
水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」の画面が表示された。
見られないというほどではないがマンガの良さが打ち消されているような印象を受けた。
不思議なことにあのスタイルだと既存のマンガが微妙にしっくりこないのだ。

ΣブックがいいというわけではないがΣブックを見直したのも確かである。
液晶の反応速度さえ速ければΣブックの方が僕は好きだ。
東芝のSD-Bookへの期待がふくらむ。

ソニービルを後にし、日比谷のドコモショップでFOAM900シリーズをみせてもらう。
驚いた。
あっというまにここまできたのか、というほどにインターフェイスがリッチになりCPUが高速化されている。日本においてはPDAよりも携帯電話の方が高性能なのだと再認識した。FOMAをみにいったのは友人のクリエイターから携帯用コンテンツについて相談をうけたからである。携帯のFlashでどのくらいまでできるのか。それを見定めるのが僕の役割である。FlashPlayerの出来をチェックすると予想以上に高速である。
これならば…とうなずく。
しかし現在FlashPlayerが搭載されているのはごく一部の機種でそれ以外の携帯ではJavaでくまれたプログラムによってコンテンツが開発されている。ここから先はコンテンツの問題ではなくプロデュースの問題になってくるのだがはたしてどのプラットフォームでどのメディアを対象にコンテンツ開発を仕掛けていくべきか。これが自分の専門である。

コンテンツの核となる部分に力があればメディアを問わない、という意見もある。
以前はそうだったと思う。
しかし現在のコンテンツ開発は変容している。
ワンソースマルチユースという考え方は既に廃れている。
最初からパラレルな形でコンテンツをプランニングしていくのが現在のコンテンツ開発の主流である。バフチン風にいうなら「ポリフォニー」。師匠の言葉を借りるならば「カーニバリスティック」(この言葉は師匠の造語である)なプランニングが要求される。

石井先生のいうキュービタルな感覚はこうした潮流を的確に捉えたものだと思う。
改めて先生の慧眼にさすがとの念を強める。

投稿者 TKM : 11:25 | コメント (5) | トラックバック

2004年03月15日

[エッセイ]コンテンツと時間の関係について考える

ICCでおこなわれた「マンガを読むときの視点移動」についての調査報告をきいた後でマンガ作家の金子とデジタルマンガについて話し込む。

金子が世界一周の旅にでていたとき、携帯していたPalmで夏目漱石の「こころ」を全部読んだことがある、といっていた。段組、フォントなどは苦にならなかったといっていた。逆にページをめくるのにも片手で読めるから快適であったそうだ。

Palmのインターフェイスで漱石を読むとどのようなことが起こるのか。
金子の言葉を借りると

「本てフォントが小さくてページの右上から左下までビシーっと字が並んでいるとウー、と陰鬱になるけれどPalmだと一ページに表示される量が少ないのでこれなら読めるやという意識になるんだよね」

この指摘はとても興味深い。自分も本を読むときに同じような精神的「重し」を感じることが多々ある。見開きの本でビッシリと字がつまっていると同じ文字数を読むのにかかる時間は同じでも主観的な時間感覚は随分違う。また、ストーリー性が時間感覚に与える影響も興味深い。

面白いことをしていると時間が過ぎていく。
興味のないこと、つまらないこと、つらいこと、をしている時間は長く感じられる。

コンテンツを考える時、面白いと感じるかどうかはほぼ主観にゆだねられるので評価を数値化することは難しい。この時間感覚にしても主観的な時間感覚であるからどうしたら指標として使うことができるのかはまだまだ研究しなければならない。しかし可能性は感じる。インプットだけでなくアウトプットも含めあらゆるコンテンツ体験は自分が体験しなければ面白さを感じることできない。そこで一つだけ共通しているのはコンテンツの体験においては全ての人が「時間」を使うということである。

時間によるコンテンツ評価方法。
その手法がありうると僕は考えるのだ。

++++++

ゲノタイプ(面白さの素)とフェノタイプ(表現形)という視点はデジタルコンテンツを含め様々なコンテンツについて考える手がかりになる。ゲノタイプとしてのコンテンツ性がまず最初にあり、その面白さを引き出す為にフェノタイプが生成あるいは選択されるのが本来あるべきコンテンツの姿である。

良質なコンテンツはメディアの違いとは関係なく、ゲノタイプとフェノタイプの関係性のバランスがとれている。

投稿者 TKM : 17:45 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月18日

面白いPCをみつけた

手のひらサイズのPCはVAIOあたりで体験していたはずだがあれよりももう一歩進むとこういう感じになるのか。たった数百グラム、数センチの差だけれどこの違いがイメージに与える影響は大きい。「使ってみたい」と思わせる魅力がある。

ちょっとまえに流行ったOQOと路線は同じだがflipstartpcの方が遙かに美しい。ドックを使って接続するoqoのデモは一昔前の印象を与える。表現のうまさなのだろうけれどケーブル一本でデスクトップPCに姿を変えるflipstartpcにぐっと惹かれる。こちらを見てしまうとoqoのマシンが野暮ったくてしょうがない。flipstartpcは「PC」だがoqoは「機械」である。

flipstartpcがかいま見せてくれた「新しいPCの使い方」は素直に「面白い」と感じた。
同時にかなり物欲が動いたのは僕だけだろうか。

投稿者 TKM : 08:28 | コメント (0) | トラックバック

水上を走る車

普通の車がいきなり川を走っている

あ、ありえん....。
なんだこの車は。

乗り物として面白すぎる。
存在自体がコンテンツ化している。

投稿者 TKM : 07:57 | コメント (4) | トラックバック

2004年02月13日

78人のテクノミュージシャンの証言からなる電子音楽のドキュメンタリー

78人のテクノミュージシャンの証言からなる電子音楽のドキュメンタリー」。

なんと若かりし頃のアタウさんが登場していた。
世界は狭いのか広いのか。

投稿者 TKM : 19:58 | コメント (0) | トラックバック

ATOKにみる人の脳の柔軟性

ようやくATOK16を導入。
アップグレードパッケージで辞書付きのバージョンにした。
この辞書が思ったよりも使える。
英語の音声ファイルが入っており検索した単語の発音を教えてくれる。
これは結構助かる。

数週間ことえりを使っていたのでキーバインドがことえりのモードになっているようでカタカナ変換の時についつい「Ctrl-K」を押してしまう。

ことえりを使い始めの頃はついつい「Ctrl-I」を押してしまいがちだったのだがたった数週間の「ことえり」使用で脳が完全に「ことえり」モードに入ってしまったようだ。いまも「モード」という文字を出すのに「Ctrl-K」を押してしまった。ことえりの場合変換を確定させるのに二回リターンキーを叩かなければならない。これも最初の頃はめんどくさくて「なんなんだこのキーの使い勝手の悪さは」と憤っていたのだがATOKに切り替えてみるとついつい一回多くリターンキーを叩いてしまうので直ぐに改行されて鬱陶しく感じる。

人間の脳は柔軟である。

投稿者 TKM : 19:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月03日

物語力~真夜中のデッドリミット/S・ハンターの場合(1)

真夜中のデッド・リミット〈...新潮文庫」(S・ハンター)を読み始めた。久しぶりに読むスティーブン・ハンターである。

今回の舞台は冷戦時代のアメリカ軍ミサイル発射基地。米国最強の頑強さを誇る核ミサイルサイロが占拠されるところから物語は始まる。最新の作品ではないので舞台設定が古めかしい印象を受けるが、何十年も前の話ではない。つい最近まで米国とソビエト連邦は冷戦と呼ばれる緊張状態にあったのだ。

雪山で暮らす溶接工の家庭の朝の風景。
ゆっくりとすすんでいくのかと思っていると物語は唐突にハンターワールドに突入する。
ものすごいドライブ感である。
かと思うと平行して落ちぶれたソ連のスパイの落ちぶれた今。
サイロ内の隊員達の今。
時間軸を同じくする複数の視点が同時進行的に少しづつリンクしていく。

こうしたスピード感を高める場面描写は米国のエンターテイメント小説によくみられる。
文章から想起される感覚は極めて映像的だ。
映画づくりのようにシステマティックな創作方法によってつくられているのではないだろうか。

映像的なテキストはつくる側に負荷がかかる。
テキストの抽象度が低くするためにイメージを一般化していく。
そこで語られるのは事象であり内面風景ではない。
作品が心の奥底まで踏み込んでくる、ということがないのはそのためである。

テキストの抽象度を上げれば言葉は読む人の参加なしにはイメージ化、認知されない。
しかし、抽象度を上げることは同時にテキストの制御を手放すことでもある。
言葉の抽象度が高まれば高まるほどテキストは作者の手を離れ不確実に振る舞う。
それがテキストの面白さでもあるけれど。

「美人」と書いた時にどんな人をイメージするか。
おそらく読む人によってイメージする美人の姿は異なる。
面白いのは異なるイメージであってもストーリーの面白さは人々の中で共有されることだ。
これを僕は物語のパワーと呼びたい。

投稿者 TKM : 13:27 | コメント (2) | トラックバック

2004年01月30日

その料理いけますか?

家に戻ってから録画しておいた「極人の休日」を観る。
立川談志の回である。

あるダイアログで爆笑してしまった。
思い出すといまも笑える。

談志の家に遊びにきた市川染五郎に談志がもてなしに何か料理をつくると言い出す。
二人して台所にいくのだがこの台所がまあ田舎の家の台所という感じで好感が持てる。
全然洒落ていないのだ。

食材ばかり山ほどあるのだがどれもこれも「古い」。
談志は物を捨てるのが嫌いでお腹を壊しても「古く」なったものを食べるのだそうだ。
なものだから家には冷蔵庫が4つもある。

肉を切りはじめた談志。
ところが材料がない。
うどん粉がない、卵がない。
「買ってこいこのやろう」
と弟子にひとっ走りさせる。

ニヤリと笑って宣言。
「じゃあね、まずはオードブルをつくる」
そういって何やらあちこち探し始める。
この台所、ホントに台所な風情で。
20年くらい前の新築するまえの父の実家を思い出した。
「あれがあるだろ。ワカメ!ああ、そうさ。うちのは古いぞ。ふるいったって10年くらいだ」
そういって水をはったボールにワカメを投入し、鼻歌まじりでいろいろ混ぜ始める。
マヨネーズと胡麻をあえてカットしたワカメと混ぜる。
そうそうこのワカメ、増えるワカメと違って長い。
50cm~1mくらいあるワカメである。
これをチョンチョンと切ってあえていく。
色はなぜか二日目のワカメのみそ汁みたいに緑というよりも土色に近い。
できあがったワカメの和え物を味見する。

「どうですか?いけますか?」

染五郎が談志に訪ねる。
談志は一拍おいて答えた。

「ん?いけないねぇー」

カワイイというのかな。この間が最高だった。毒舌の談志がこの瞬間、素に戻る。照れくさそうに口にした「いけないねー」という言葉は何も背負っていない。何も考えることなく自然とでてきた言葉である。これが良かった。60分枠だから正味40分。その時間の中でベストの場面である。
それから3回くらい談志のマネをして笑っていた。

「ん?いけないねぇー」

言えないよ、この言葉。
人は言葉で生きている、とはCSLの茂木さんの言葉だ。
より良く生きたいと願うなら人は自分の無意識を磨かなければならない。
無意識を磨くのは言葉である。
その人がどんな言葉を使うかでその人の生が決まる。
だから人は言葉を磨かなければならない。

一度だけ、生で談志の話をきいたことがある。
バンダナに釣りに行くときのダウンジャケットであらわれた談志はいきなり、

「健康の話しろったって、オレは来年死ぬ予定なんで」

と始まった。言葉の使い手である。2000人からの聴衆がいっきに引き込まれていた。
そういえば前に図書館で談志の落語のCDを借りてきて聴いたことがある。それまで落語家だという認識がなかった。

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GOという映画で主人公がウォークマンで落語を聴いていたのをみて落語をきいてみようと思ったのだ。綾小路きみまろみたいにポンポン話が進んでいく話術とは違ってゆったりとし、これといった盛り上がりもない。しかし、なぜか聞き入ってしまうのだった。

しかし、どの話よりもさっきみた

「いけないねぇー」

が僕にとってはベストだが。

投稿者 TKM : 03:54 | コメント (1) | トラックバック

2004年01月23日

トラック野郎

トラックで崖からダイブ
トヨタのCMもかなり終わってる。
よくこれを考えつく。

投稿者 TKM : 12:59 | コメント (2) | トラックバック

2004年01月13日

異化について

ウェイキングライフのDVDが発売になっていることに気づかなかった。昨年、どこかの番組でみたときに「こんなコンテンツをつくりたい」と思った。

面白さにはストーリーの面白さや美しさ感動、本能、欲望さまざまな方向の面白さがある。
しかし中でも僕が愛して止まないのは「異化」の面白さである。

ディストーションの感覚がたまらないのだ。
まるで別な次元が介入してくるような感覚。
視点が歪み世界が別な姿で自分に迫ってくる。
視覚的に歪むのではなく概念や意味が捻れ、自分の見ている世界がグラリと揺れてしまうのだ。
あの「開けた」感は他の表現では感じられない面白さである。

例えばパルプフィクションでユマ・サーマンが空中に指で四角を描くシーンがある。
車の座席にすわり「四角野郎(頭の固いヤツ)」を表現するために彼女は指を宙に走らせる。
すると指の奇跡が白い点線となって画面に現れる。
指でたどった後が白く空中に浮かび上がるなど現実世界ではありえない。
この瞬間に世界がグラリと揺れる。

交差せず並行に進んでいく二つの世界。それらは互いに別々の法則にもとづいて成立している。
ところが頭の中でイメージした白い点線が画面に現れることで別な現実がこちら側の現実に入り込んでしまう。

「あれ?オレはどっちの世界にいるんだ?」

はじめてみたとき、視点がぐにゃりとうねる感覚を覚えた。

「エッ?!そんなのありなの」

別々の法則によってなりたっていた世界が交差した瞬間だった。

同じ手法は最新作「キルビル」にもみられる。
殺人者に見つかるまいとベッドの下で声を押し殺す少女。
刀がつきささりしたたる血。
少女の口から音が漏れていく。
その声が殺人者に聞こえてしまえば少女の命も失われる。
彼女は口からでた音を両手で抱えあわてて口につれもどす。
そのシーンでは音がモノ化しているのだ。
音の世界の法則にモノの世界の法則が介入している。
ああいった表現がたまらない。

※異化・デファミリアライズとは例えるならば文楽などの黒子がでてくる劇でいきなり黒子が話しだすようなものだ。リアリティの軸のもつれである。

投稿者 TKM : 18:26 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月11日

物語について考える

うーむ、こんなソフトがでたのか。
winexpose
こうしたソフトの登場の仕方はとっても生命的なものを感じる。
足りないと補完するものがすぐにできあがってくる。

昨夜、泳ぐ夢をみた。
ビルの屋上にあるそのプールではコワイ監視員の女性が小学生を指導していた。
キンキンした声だったのですぐに別なプールに移動した。
夢の中だったのだが肩の骨をかばってあまり大きくは腕を動かさなかった。

同窓会の後、悪魔にとりつかれた男ことyoppaらと痛飲。サルのかぶり物をしながらyoppaがスペシャルアイテムをみせてくれた。ネーム入りのiPodだった。クリスマスのプレゼントだという。本当に嬉しそう。

僕はといえばここ最近は本を読んでいる。
読んでいるというよりも「言葉」とは何なのかということや本を読むということ、なぜ物語を読むということに人は面白さを感じるのか、というようなことを体感しながら考察している。クライトンの小説などエンターテイメント作品を読んでいる時の頭の働きは言葉を読むというよりも波みたいなものを取り込んでいるという感覚なのだ。

ストーリーがある程度のリズムをつくりはじめるとそこに意識が引き込まれていく。
本が面白いというよりもこの取り込まれるという感覚の方が物語の本質なのではないかと僕は思う。

投稿者 TKM : 12:05 | コメント (3) | トラックバック

2004年01月06日

コンテンツとパラレルリアリティ

先ほどのエントリーへの補足でメモ。
この間、石井先生との会合を通じて、端末の携帯はおそらくこうなるだろうなという未来をかいま見た。
既存のどの端末もシングルリアリティで考えられている。
しかし、未来はパラレルリアリティテクノロジーが台頭してくる。

それは何も難しい話ではない。
HMD(ヘッドマウンティドディスプレイ)である。シアター型のゲームなどで体験したことがある人も多いと思うがあのタイプのHMDではなく超小型タイプのHMDは利用者に「?!」な体験をさせてくれる。(ちなみにこのHMDだが10000台の生産台数が確保できれば一台あたり5000円でつくれるそうである。ガツンとやられた気分だ。)

目の前にある現実ともう一つの現実が同時に視覚に入ってくる。
単純な体験だが僕はそこから強力に未来像を感じた。

携帯電話、TV、ビューアー、PC、またそれらを対象にしたコンテンツ、それらはシングルのリアリティつまりメディアに閉じた形で考えられている。が、人の能力は二つの情報を並列処理できる。逆さメガネの実験の例と同じくパラレルアイの実験でも一週間程度の実装で脳は二つの画像世界を違和感なく処理しはじめる。

僕がぐっと惹かれるのはここなのである。
シングルリアリティでの価値とパラレルリアリティでの価値は異なる。
この思想は更に拡張される。
国の価値を計る。
企業の価値を計る。
既存の指標はシングルリアリティだ。
しかし、パラレルでみた場合はどうか?
全く別の基準が浮かび上がってくるのではないだろうか。

メモなので簡単にまとめておくと

・HMD的なデバイスの進化→視覚用のビューアの変移→携帯・ブックビューアなどは置き換わる。
・同時並列処理→二つのこと、さらに三つのことを同時にこなすようになる→人口で測れない数値と現実や生産性がもつれてくる
・コンテンツ→シングルリアリティ用のコンテンツからパラレルリアリティ用のコンテンツへ→テキストもパラレルに同時に存在するようになる→速読者は既にパラレルでテキストを処理できる

みたいなことが現実になってくる。使い方の方が製品を追い越し始めている。

補足エントリーあり

投稿者 TKM : 11:41 | コメント (0) | トラックバック

「高い城の男」~デジタルコンテンツについて

久しぶりに福島に戻った。
正月に二日から五日までの三日間、家においてある本を眺めて過ごす。
ディックの「高い城の男」を探すがみつからない。
本の山のどこかに埋もれたようだ。
実家には湘南においてあった本を全部送ったので2000冊くらいの本が段ボールに入っておいてある。両親が少し整理してくれたが大部分は未整理のままだ。

電子出版の可能性についての本を昨日読んだ。
コンテンツを「楽しむ」という視点で考えると「止まったテキスト」(既に書籍として出版されているようなテキスト群)をデジタル化しても楽しくはないだろう。それらは電子本として「読む」為のテキストではない。しかし、アーカイブとしての価値は素晴らしい。僕がやむなく実家に保管している自分の書籍の全てが数十ギガ程度のディスクに格納でき常に持ち運べるとしたら夢のようである。常に読みたいわけではないが持っていることを確認したくなるテキストや作品はある。

電子出版には二つの方向性があるのだろう。

アーカイブとしてのデジタルテキスト・コンテンツ。
そして流れていくテキスト・コンテンツ。

完成された作品は本という形で楽しんだ方が便利だし楽しい。
書籍を買うと、それにデジタルテキストもついてくる、というような形体がいい。そうすれば自分のライブラリーを常に携帯できる。この魅力は大きい。
それに長文を楽しむには「モノ」が持つ魅力と拘束力を利用しなければならない。だから「読む」時は書籍。しかし参照するときはデジタルというのがいい。

映像でも似ている例があって完全に消費、あるいは受けの姿勢でみられる作品はよいのだが「ミレニアム・マンボ」のように受け手の積極的な参加、つまり作品の時間・空間への同化を必要とする映画の場合は映画館でみるとジーンとしみいってくるものが家庭でDVDというコンテクストだと作品の持つ装置が有効に働かないのでかなりの苦痛を強いる。

帰ってきてRSSリーダをたちあげると山ほどのエントリー一覧が現れた。まずは友人のカテゴリーからまわっていく。これが僕のウェブログの閲覧スタイルで一度RSSリーダを使うともう普通にブラウザでサイトを巡回するということができなくなってくる。
まず野知さんのサイトをみてみる。年頭に今年はコンテンツパブリッシングでいく、との宣言がある。部類の本・情報好きの自分としても今後のデジタルパブリッシングの展開が楽しみだ。

コンテンツパブリッシングについては昨年末に金子と話し込んだ。いろいろなテーマについて話したのだが電子ブックリーダーについて金子の感想が面白かった。

クリエイターの立場からいうとΣブックのような見開き型の端末には大きな違和感を感じる、とのことだった。というのはΣブックにみられるような見開き型の形状は必然性から生まれているわけではなく「本」というメディアを模倣したもので、そこからは次の表現、新しい作品というものは生まれにくいのではないかというのだ。

金子によれば基本的に紙のマンガの吹き出しは縦書き表記されている。その為、視点の動きは右上から左下に向かって時系列で進んでいく。しかし、ほとんどのPC、ゲーム端末などは横書きが標準であり、金子自身も作品は横書きでつくっている。作品中の時系列の流れは既存の書籍のように右上から左下というものではなく左上、あるいは中央、など書籍とは異なるものになっている。その方が自然に感じるというのが理由だ。僕も金子の作品を観てみたが横書きの展開に対しては全く違和感を感じなかったし、金子の指摘するようにごく自然なものに思えた。

Σブックにみられるような「本」の形状の模倣は懐古的であり新しいコンテンツのプラットフォームとしては必ずしも適切である、とは言えない。既存の書籍を読む場合の視点の流れを電子ブックリーダーに移植するために二面パネルが採用されているということは理解できるが、そこでは新しいデジタルコンテンツの可能性が忘れられている。

金子と話していて思ったが「端末からの発想」では新しいコンテンツは生まれないのだろう。こうした議論はどこでも行われていることなのかもしれないがその多くは「クリエイターではない人」によって行われており、実際に絵を描きストーリーをつくることができ、それらをインタラクティブなコンテンツとして完成させる能力を持った人の意見や声はほとんど聞こえてこない。

++++++

ここからはメモ。
僕の意見だがことエンターテイメントに関して言えば面白ければ書籍だろうとPCの画面だろうと地上波の放送だろうと映画館だろうとDVDだろうと観る。クライトンの「タイムライン」の文中にあった一文が見事に表現していた。原本を実家においてきたのでうろ覚えだが「現代において人が最も恐れるものそれは暇である。人は退屈には耐えられない。」みたいなことが書いてあって、実にうまい言い回しだなあと思った。

投稿者 TKM : 11:13 | コメント (2) | トラックバック