2004年05月29日
[情報社会論] アムロ感覚とシンクロニシティ
■アムロ観を体験する
シンクロニシティという言葉を聞いたことがあるだろうか。
定義はこうなっているがもっと簡単に「え、何で?」が偶然に起こること、として話を進めたい。最近起こったシンクロ現象をいくつか紹介したい。
2週間前の日曜日。
しんのすけ亭でダッヂオーブンパーティが開かれることになった。
集合時間は午前11時。
いつもならば大江戸線を使うのだが何故か月島から乗って永田町で乗り換えることにした。永田町について有楽町線から半蔵門線ホームへ向かう。構内にシュークリームの店がある。買っていこうかなと思ったが時間が押していたのとヒロタのシュークリームはいまいちという印象があったでやめることにした。以前、TVチャンピオンでシュークリーム・プリン決戦の審査員をやったし、あながち外れてはいないと思う。
この時点で予想不可能性が二つ介入している。
・有楽町線
・シュークリームを買わなかったこと。(ヒロタでなかったら時間が押していてもそこでおみやげを買っていたと思う)
ホームについて電車を待つ。
水を飲みたいなと思ったので中央付近にある水飲み場までいく。
ゴクゴクゴクと水を飲む。
冷えてはいるが東京の水の味である。
そんなことを考えながら周りを見渡す。
日曜なので人は少ない。
外国人の男性(欧米系)がエッサエッサという感じで歩いていく。
つられたわけではないが30mほど渋谷寄りに移動した。
「まもなく電車が来ます」というアナウンスが流れた。
何も考えていなかったのだが更に15mほど移動した。
こちらに向かってくる電車の窓を観ていた。
スーっと流れていく車内の風景。
段々とスローになり、目の前で止まりそうになる。
ボーっとしていたら、見慣れた黒Tシャツの男の姿が見えたような気がした。
ガンダムでアムロが敵を関知するときに画面が斜めに分断され頭の左斜めの方で「ムムッ」と感じるシーンがある。
黒Tの男を認識する直前、アムロのあれに似た感覚にとらわれた。
「なんなんだコレは?!」
不可思議とも悦びともとれる感覚で車内に乗り込み、
「先生、どういうことこれ?!」
と声をかける。
皆さんご存じのやまけんがそこにはいた。
■気づくまではそこに現象がない
二人とも全く打ち合わせ無しである。
同じ電車に乗ることを打ち合わせていたとして、乗る車両の打ち合わせをしておかなければ、乗車しようとしている車両に二人が乗り合わせる確率はかなり低くなる。
確率論の向こうとこちらで認識が勝手に不思議感覚をつくりだしているだけ、という言い方もできる。しかし、僕が言いたいのはそういう理屈ではない。あの感覚は単純に「面白い」のだ。
現象としてただの偶然だろうと何らかの関連性の結果だろうとそんなことはどうでもいい。自分にとって大切なのはそれが「面白い」か「面白くない」かである。僕がこうした感覚や現象に興味を持つのはそれが「面白い」からである。僕が何かを「面白い」と思う時そこには僕にとっては意味のある情報がある。
地下鉄でのシンクロニシティだが、仮に僕とやまけんはその車両に乗りあわせていて、そしてお互いそれに気がつかなかったとしたらどうだろう。現象としてはこちらも面白い。物理的な出来事としてはすぐそこにあるのに、僕かやまけんがお互いの存在に気がつかないかぎり、シンクロニシティという現象はそこには存在しないのである。
■リアルインターネット
以前、清田さんと話していた時に彼がこんなことを言っていた。
「オレさ、思うんだけれど。世界ってのは段々、リアルインターネットになっていくんじゃないかと思うんだよね。インターネットみたいに、あ、と思った時に会うべき人とあっちゃうみたいなコトが普通になっていく。だから待ち合わせとかいらないわけよもう。会っちゃうんだから。」
やまけんとの地下鉄での邂逅はここで清田さん言っている「リアルインターネット感覚」と同じだ。
もう少し解説を加えると「気がつく」かどうかがポイントなのだ。
気づかない限りそこに現象は生じない。見ること、気づくこと、自分の側に現象に意味を作り出すコンテクストがあること、そこで初めて現象がたちあらわれる。だからリアルインターネット感覚というのはある種の認知力であり、感覚の発展系だと思う。
世界のトップアスリート達は僕たちには感知できないくらい微妙な差を認識し行動にフィードバックする。音楽家も微細な音の違いを聞き分ける。レーサーは超高速で移動しながら風景がスローモーションに見えるという。こうした能力は感覚器が発達しているのではなく入ってきた情報を処理する過程の違いなのだと思う。
リアルインターネット感覚とはおそらくこの感覚と近い。
これは僕の印象でしかないが「偶然の一致」を認識した瞬間に生じる感覚は時間感覚のズレみたいなものでそれは「面白さ」の一つのカタチなのだと思う。
「オヤ?!」という感覚の面白さがあって出来事を一つだけみるとそれ自体はたいしたことじゃないんだけれどある特定のコンテクストに照らすと関係性が「オヤ!?」を引き起こす。このコンテクスト力というのがポイントなんじゃないかと僕は思うのだ。
■情報社会の未来
「行くべき人に行くべき情報が伝わる世界」
これが僕のテーマである。
ネットワークも技術もシステムも環境もここに向かって発展していくべきだと僕は考えている。
情報は情報自体に意味があるのではなく情報と自分との関係性、コンテクストによって意味を変容させる存在である。
「行くべき人に行くべき情報が伝わる世界」とはモノや人や情報なんかと自分との間にベストの関係性というものを見つけて、そして、歪みをなおしていくみたいなことの延長にあるんじゃないかなと思う。
■何故「カガヤン」?!
追加でもう一つ最近起こったシンクロ現象を。
先日のlivedoor社長Blogへの「食い倒れ」進出以降、エントリーへの堀江さんのコメントもチェックすることにした。すると
というコメントがあった。
知らないサイトなのでチェックすると地図情報をベースにしたマーケティングサイトであった。コピーは「世界中の写真が集まるサイト」となっている。面白いので、じゃあ、アジアでもみるか、とクリックした。
アジアの地図に切り替わったのでなんとなしにフィリピンをクリックする。
セブ島の下のあたりにリンクを示す赤いポイントがあったのでクリックして絶句した。
表示されたのは、
「カガヤン」
という地名であった。
あり得ないだろう、コレ。
何故オレの名前の地名が????
かなり首をかしげる。
地名や画面に特別な意味はない。
しかしこのタイミングでしかも自分にこういうカタチで情報がホイっと表示されるとこれが何故か意味もなく面白いのである。
他の人が僕と同じようにリンクを辿ったとしても僕が感じるような面白さを感じることはできない。カガヤという名前を持つ自分が上記のようにリンクを辿らないかぎりこの面白さはあり得ない。しかも、一番最初にアクセスした時というタイミングの特異性もある。
これはコンテンツのあるべき一つのカタチだと思うのだ。
それが最も効果を発揮する、面白さを最大化させる、コンテクストとタイミングというものが情報にはある。(よくあるたとえだけれど自分の子供が描いてくれた絵は親にとっては最高の絵だけれど、親以外の人にとってはどうでもいい落書きだったりする)
僕が興味を持つのはここなのである。
それが最も価値を最大化させるタイミングとコンテクスト。
これを作り出す、あるいは見つけ出す、ということが情報の一つのコアというかカタチであり、力だと思うのだ。情報を情報化する情報、といったらいいのかな。ここに僕は注目する。
恋愛も同じフレームでみることができるような気がしていて。
例えば自分が惚れている人は自分にとっては夜も眠れないくらいに重要な存在となりうるが、まちゆく人にとっては全く違う意味を持つ或いは何の意味も持たない。ここでも問題の根本は存在同士の関係性であり、固有の関係性によって人の価値や意味は変化する。
しかし、そうだとして、
「で、だからなんなの?どう役に立つの?」
という疑問もあるわけで、それついてはこれから少しづつ考察していきたい。
■関連資料

機動戦士ガンダム I 特別版 【劇場版】

機動戦士ガンダム II 哀・戦士編 / 特別版 【劇場版】

機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編 / 特別版 【劇場版】

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

機動戦士Zガンダム Part I ― メモリアルボックス版

機動戦士Zガンダム Part II ― メモリアルボックス版

機動戦士Zガンダム Part III ― メモリアルボックス版
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2004年05月25日
[情報社会論] Google社のBlog利用法にみる情報社会の未来
■Blogツール以前と以後
MovableTypeやココログ、はてなダイヤリーなどのASPの登場によって個人ホームページの運営の仕方は随分変わったように思う。Blogツール(CMS)が登場する前はHPを更新するにはDreamweaverやホームページビルダーなどのホームページエディタを用いるか直接HTMLを書いてFTPツールでファイルをアップロードしなければならなかった。
Blogツールの登場によってホームページの更新はかなり簡単になり、HTML作成の手間から解放されたことでよりコンテンツ作成へ注力することができるようになった。
僕もMT(MovableType)を使用しているがMTが登場するまではフリーのCGIを加工したBlogツールを使っていた。MTほど強力な機能は備わっていなかったがそれでも書いたテキストをページングしてHTML化することはできたので「テキストを書く」ということに注力することはできていたと思う。
そんなわけで以前から書くことに注力できるツールを使っていたのだがMTの導入によってインターフェイスが整備されシステムが強力になった分、それ以前に比べるとより簡単な作業でより綺麗なページが生成されるようになったし、更新の手間も減った。
しかしテキストの作成の仕方は随分変わってきたようにも感じている。
それにテキスト自体をつくる手間は増えているように感じる。
というのは以前は本当に「テキスト」を書くだけだったのが最近は書いているうちにそのテキストが他のテキストと何らかの関係性を持っている気がしてきて、
・他の記事
・他のBlog
・ネット上のなんらかの情報
などの他の情報とのつながり、関係性をリンクとして示しておかなければ、という気分になってしまうのだ。
MT以前にはそれらを表記したりリンクをまとめるという作業をすることはまれだったのにいまは自然と関連性のある情報を探してリンクしてしまう。
これはBlogというメディアの持つ特性の為なのだろうか。
■Blogはパブリッシングツールではない
昨年、マスダさんにお会いした時にGoogle社でのナレッジマネジメントについてのお話を伺った。マスダさんによるとGoogle社では社員全員がBlogサイトを持ち、独自のRSSリーダによって情報を共有しているのだそうだ。
個人の情報とパブリックな情報がBlogツールをつかって発信されRSSリーダによってそれらがフィルタリングされリアルタイムに情報共有がなされる。その話をきいたとき電子メールとHPが融合され発展したような印象を受けた。
その頃、僕はWikiというCMSツールに情報パッドとしての未来をみていたのだが同時に情報エディタとして考えた時にWikiには決定的にかけるものがある、ということをおぼろげに感じた。
Wikiはその自由度ゆえにコンテンツをひねり出す強制力がかけている。
情報をはりつけるメモパッド、あるいは雑記帳としての秀逸さが逆に情報を「引き出す」機能を低下させてしまっているのである。
情報を引き出すにはある種の拘束条件が必要である。
書籍は紙面という物理的な拘束を持つ。
それ故に一冊の本に何らかのテーマを固定せざる得ない。
しかし固定されたテーマは全体の拘束条件として働くため情報を効率的に集約し発信することが可能となる。
情報を引き出すとは無制限に情報を取り入れることではない。
逆説的だが情報とつきあう基本は余分な情報を捨てることである。
MTなどのBlogツールはこうした拘束性をつくりやすい。
それは何故か?
僕はBlogの持つアーカイブ性がその理由だと考える。
Blogという文脈ではアーカイブされた過去のエントリーが拘束条件として働きそのBlogにテーマを与えている。ここがBlogの面白さであり、最大のネックでもある。いまのBlogツールでは一つのBlogサイトで二つ以上のトーンをつくりだそうとするとツール側、つまりアーカイブの構造がパラレルな価値観を許容するつくりになっていないため利用者側に過大な負荷が生じざるえない。これがBlogをつかったコンテンツづくりが難しい所以である。
※僕はここにパブリッシングツールとしてのBlogの限界点を感じる。
■Google社でのBlogの使われ方にみる情報社会の未来
話をGoogle社の事例に戻そう。
Google社ではBlogとRSSリーダを用いてBlogツールをナレッジマネジメントに活用している。これはBlogツールの理想的な利用のカタチの一例ではないかと僕は思う。
閉じた情報空間での情報発信はパブリックな場での情報発信とは異なる利点が幾つかある。
ひとつは共通したコード(この場合は会社というコンテクストでだけ機能する事柄や事例)の存在。もう一つは情報空間が限定されることによって発生する情報発信の圧倒的自由性である。
本来は全ての情報空間で情報発信の自由性が成立すればいいのだがいまの社会では情報については法の規制が存在し閉じた情報空間ほどの自由は保証許されていない。
情報発信の自由性については2chを考えるとわかりやすい。
2chでは人々は自由勝手に言いたいことを言いたいようにいう。
中にはひどい発言もあるし、何をいっているのかわからない発言も多い。
こうした発言の自由度の高さが成立しているのは匿名性によって自分というパーソナリティと発信した情報の連鎖が断ち切られることが理由である。
誰が発言しているおかがわからないから誰もが勝手に物を言うし、何を言うのも自由なのだ。
これの裏返しが閉じられた情報空間である。
発言の自由はここでも実現される。
例えば自分と数人のグループしかアクセスできない掲示板があるとしたらそこでの会話はグループの一員でしか理解できない言葉でやりとりされるかもしれないし、他では言えない事柄や話題についても活発に議論されるだろう。ここでは2chの場合とは逆に誰が観ているのか誰が情報を発信しているのかが特定されていることで信頼と安心が提供される。
このように情報の匿名性と明示性は表裏一体の関係にある。
そして企業内でのBlog・RSSによるナレッジマネジメントはこれら二つの特性を融合させたものという印象を受ける。
■Blog+RSSは電子メールとHPの中間的な存在
先週のCEOサミットでの基調講演でビル・ゲイツはBlogとRSSの利用について下記のようにのべている。
個人メールなどのように完全に閉じた関係での情報のやりとりではなく組織や社会などある程度の幅をもった情報空間で情報発信がなされた場合の理想的な情報の伝播はより価値の高い情報はより早いスピードでより広く広まり、ある特定された人にとってだけ価値を持つ情報(例えばプロジェクトの打ち上げの提案など)については特定の情報空間でだけ共有されるというカタチが最も効率が良い。
つまり「行くべき場所に行くべき情報が行き着く」状態である。
完璧ではないかもしれないが閉じた情報空間でのBlog+RSSによるナレッジマネジメントはこれに近い情報環境を実現しているのではないだろうか。
一般にBlogはパブリッシングツールという捉えられ方をしている。
CMSとしてのBlogツールという側面をみればそれは正しい。
しかし、RSS(別にRSSでなくてもよい。発信された情報の伝播形式という意味)という情報生成とは別の機能に注目した場合、Blogのもう一つの特性が明らかになる。
情報のおだやかな接続性とでもいうべきだろうか。
電子メールとHPの中間存在としての情報ツール像が浮かび上がる。
ただしこの特性が機能するには閉じられた空間でBlog+RSSが用いられる必要がある。ここをどう乗り越え、個の自立と相互依存のバランスポイントという情報社会の到達点(とされている)をどうやって達成していくのか。それが今後のWebサイトや情報社会を考える上での一つのポイントなのではないだろうか。
■関連図書

1日5分の口コミプロモーションブログ
長野 弘子 増田 真樹
投稿者 TKM : 08:45 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月19日
[個人的情報論] 最も価値のある情報のつくり方
天才達の思考法
大切なのは「問い」を考えることだ。
思索の際、あるテーマについて思考を巡らすというアプローチをとってきたがその方法には限界点がある。情報が内部循環してしまい思索の場で外部にある情報を取り入れることができない。
そこで僕はアインシュタインの方法を参考にしたい。
「もし自分が殺されそうになって、助かる方法を考えるのに一時間だけ与えられたとしたら、最初の五十五分間は適切な問いを探すのに費やすだろう」
ポイント思考といったらいいだろうか。
間違って伝えられているエジソンの99%の努力と1%の閃きの話と似ている。
エジソンは1%の閃きが全ての核になっておりそれが自分の考える発明の本質だ、といっている。補足するとそれは彼が考えているのではなく彼の頭の中にいる「リトルマンインマイブレイン」がやっているのだそうだ。極度の集中によって忘我状態に入り、そこからインスピレーションを得ていたと思われる。
同じように忘我状態を利用して創造性を活性化させているのが作家のダニエル・キイスである。彼の創作法もユニークだ。早朝、四時頃に起きる。朝はやいため少し眠い。眠い目をこすりながら書斎にむかいゆったりとしたイスに座りまどろむ。まどろんでいると夢うつつになりながら様々なストーリー、ビジョンがあらわれる。それを核にして創作を進めていく。「アルジャーノンに花束を」もこうした創作法によって生み出された。
画家のサルバトール・ダリも眠りと覚醒の狭間の忘我状態を創作に利用したひとだった。彼の創作方法はこうだ。
まず眠る時にスプーンを手に持ったまま椅子に座る。眠りに入ると手の力が抜けていき、持っていたスプーンが床に落ちる。落ちたスプーンの音でハっと起き、それまで見ていたビジョンをもとに創作を行った。その成果がこれらのシュールリアリスムを代表する作品の数々である。

◆サルバトーレ・ダリ アートギャラリー
http://www.dali-gallery.com/
情報にはいきたい場所がある
思案する、悩む、考える、などある時間に人が思考できるエネルギー量は一定である。対して外の世界に存在する情報は個人が処理できる情報とは比べモノにならない。ほぼ無限といってもいい。問題はこうした無限ともいえる情報をどう使っていくかである。
情報とどう向き合うか。
それによってその人の人生や幸せのカタチも決まってしまう。
幸せな人とは情報と上手につきあっている人である、という言い方ができると思う。
不幸せな人は知らないでいい情報を知り、知るべき情報を知らない人である。
情報はそれぞれその行き先を持っている。
ある情報がこの人にとっては最高の価値を持つけれど、別な人にとってはノイズと化してしまう、ということが多々ある。
僕が注目するのはここなのだ。
その人にいくべき情報がその人にゆくならば世界はどう変わっていくのだろう。
それを考えるのである。
例えば人と人の関係もそうだ。
その人が最も求められていてなおかつその人が最も能力を発揮でき悦びを感じる場や相手と出会えばその人もその人を含む環境そのものも活性化し結果として悦びのスパイラルがつくられる。
人の世界の問題の本質は情報が行くべき場所にいっていないことである。
物理的に不可能なのではなくルールや拘束によって不可能たらしめられている物事のなんと多いことだろう。それらは情報の振る舞いをかえ、伝わるべきところに伝わるべき情報を伝えていくという極めてシンプルな方法によって解決できる問題である。
奇をてらったやり方は必要ないのである。
伝わるべき相手や場所に情報を伝えていく。
必要なのはそれだけなのだ。
そのためにはまず情報にカタチを与えなければならない。
そのはじまりは「問い」を創る作業なのだと僕は考える。
問わなければ情報はその姿を現すことはない。
ネットの世界でもYahooなどのポータルサービスからGoogleの検索サービスへとスタープレイヤーがかわってきている。これなども虚無に近い情報を検索という「問い」によってカタチにしていくその過程に価値があることを示している、と僕は思う。