2004年09月03日

渋谷アンダーグラウンド

NONFIX「渋谷アンダーグラウド」を視聴。36歳前後の「渋谷の元若者」が数人登場して現在の街を歩きながら過去を追想するという番組。思いの外やさぐれていて面白い。登場したのはヒップホップの「DJ DUB Shine」、元チーマーで現在、中国系デジタル放送会社日本支社社長(何故、中国系が日本でやってるのかはよくわからない。逆ならわかるんだが)、入れ墨の彫り師、彫り師に彫られたバンドの人たち、元パー券屋(現国際交流NPO副理事)といった人々であった。

一様に雰囲気が若干の強面である。ひとくせありそうだし、バリっとしていないのが魅力的でもある。印象的だったのは元パー券屋の人が最初は選ぶように言葉を話していたのが取材場所が飲み屋だったせいか段々と酔っぱらいになっていくシーン。

酔って話すと本人は説得力があるつもりでも素面でみると醒める。
あとは入れ墨師の人が店で話していた時はかなり深い顔つきと声でグっと引き込まれた。ある種宗教家っぽかった。ところが仕事を終えて着替えてバーに入った瞬間に人格が豹変。先ほどまでの哲学者っぽい雰囲気が消え失せ、いきなり陽気なおじさんに変わっていた。もう少しいうと妹がいた新橋の飲み屋でよく見かけたデザイナーのおじさんそっくりだった。うまく言えないが寂しさを覚えた。

あとはその人に入れ墨を入れてもらった中年バンドの人たち。この人たちがなかなか面白く。マネージャーという人がいてよく三池崇史の映画にでてくる(なにわ遊侠伝だったかの主演の二人の目つきが鋭い方)人に似ている。

この人の話し方に強い違和感を感じた。パワーではなくいらだちのようだった。音楽の世界でもビジネスの世界でも文学の世界でもコンテンツでも政治でもなんでもそうだけれど「人柄」と「賢さ」というものが流れを決める、そう思った。

みんなCharなんかと雰囲気は似ているし、外見はカッコいい。が何かしら違和感を感じる部分もあって。おそらくそれは彼らの持つなにがしかの弱さに対してなのだ。その弱さの元は「人柄」や「賢さ」の質の違いなのだろう。それを更に突き詰めていけば「孤立」の回避にその端があって、入れ墨師の人と墨つながりのバンドの人たち、そしてNPOの人、その人たちには共通した弱さを感じた。

彼らはとても強そうに見える。
またどちらかといえば恐い。
それでも自分の目には時折、見え隠れする「弱さ」の残像がちらつくのである。

番組を見終えてどうしてもそこだけが気になるのであった。

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■NONFIX
「渋谷アンダーグラウンド」
http://www.fujitv.co.jp/nonfix/index2.html

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2004年06月09日

[読むテレビ] NHKトップランナー 石田衣良~エンターテイメントの鬼になる

■石田衣良の面白さとその先

石田衣良の小説を初めて読んだのは随分前である。
デビュー作でもある「池袋ウエストゲートパーク」を読んだのだがまだTV化もされていなかった。著者についても何も知らなかったし作者プロフィールの写真も現在の石田とは違う人物のように見える。

池袋という自分にとっては馴染みの薄い街を題材にした小説ということで興味を持ち手に取った。表紙が洒落ていたのも理由の一つではある。

昔から文学作品は嫌いなのであまり読まない。それ以上にゆるくてぬるい作品は嫌悪するけれど。だからあまり小説は読まない。読むにしても途中で放り出すことが多い。

池袋ウエストゲートパーク」はどちらとも言えない小説であった。
読みやすい。しかし響いてはこない。けれどつまらなくもない。

「ハ?!それって面白いの面白くないの?」

ときかれれば

「面白い、かもしれない」

としか答えられない。池袋の街を舞台にした話なのだが予想以上にサラリとしているのだ。その理由は青春小説というカタチにあったのだと思う。主人公は基本的に悪意を持たない。まっすぐな人間として描かれている。いくつかの事件を通して彼が成長していく過程を物語は追っているのだがこの成長という言葉がくせ者で段々といい男、いい人間、完成へと近づいていくRPGの王道な構造なのである。

僕は人間としては善人だが思想はまっさらではない。
だからまっすぐに進んでいく物語を読むと「つまらなくはないが響いてはこない」というような言い方になってしまう。

池袋ウエストゲートパーク」の場合はマスに対して受け入れられるコンテンツの宿命なのだろうどうしても「不確実性」が弱いと感じてしまうのだ。

ラーメンに例えると洒落た店舗の純正統派「醤油ラーメン」。
しかし僕が好みのラーメンは「深川こうかいぼう」のような味だ。
毎日食べられる爽やかさなのに深みとパンチがある。
それでいてしつこくない。

ま、ラーメンを持ち出すと話がそれるのでこの辺にして話を石田衣良に戻そう。
池袋ウエストゲートパーク」」を読んで以降は石田作品を読むことはなかったのだが今年になってから「波のうえの魔術師」を読んだ。この作品は金融をテーマにした小説なのだがそれでも少年小説な雰囲気は共通している。簡単にいってしまうとある少年の挫折と冒険と成長の物語である。(こう書くとキャンベルの話になってしまいそうだが)

「で、面白いの?」

こちらは面白い。明らかに筆力が上がっているのを感じた。ストーリーの規模は思ったほど大きくない。仕手戦にしては動く額が小さすぎるしスピードも遅い。またオプション取引が登場しないあたりはストーリーを単純化する為には仕方がなかったのかもしれない。とはいえほぼ同じようなテーマと展開で書かれた「マネーロンダリング」(株とシステムという違いはあるが)と比べると小説としての面白さは数段に上である。

現象説明のバランス、構成は絶妙で読み進めるうちに自然に架空の主人公が自分の中でできあがりストーリーに引き込まれていくのを感じた。
経済評論家もこういう手法で己の評論を表現したらいいのだ。

とはいえどうしても青春小説な感じがしてしまい読んでいるうちは面白いのだが読み終えると時間をつぶしたという感覚が強まってしまう。これはおそらく抽象度の問題で、自分が積極的に脳を使わないと読み進むことができないというタイプの小説にはなっていないためで、ここが今後の石田衣良作品の分岐点となるのではないかと思う。

読み手からの介入がより必要とされる作品になれば読者は難解と感じるがその分、読むことによって読者も成長する、そのため物語を読み進めただけでは得られない域の悦びを感じることができる、可能性がある。

※「マネーロンダリング」は経済システム小説としては面白いので経済系のどうでもいい単行本や新書を読むなら絶対にこちらをオススメする。

■エンターテイメントへの信頼が力の源

肝心の番組だが石田衣良のトークは予想外に「良かった」。
言葉には全く力が入っておらず「ですよね」が口癖だ。

ところが端々にいいワードが出てくるのである。
いくつか書き出してみると、

「小説というのはその世界の出来事ですから、それは振り切った方がいいんです」

「読んだ資料は一度忘れて鮮明に覚えている部分だけを使います」

「音楽みたいなものなんですよ。バリバリに構成をきっちりやってという部分とアドリブの部分とのバランスが大切で。」

作品のスピード感はどこから来ているのかという質問に対してのこの答えがふるっていた。

「作品の中の自分と、本当の自分を入ったり来たりして、というのを何回も繰り返す。書いていて悲しいシーンになると自分も泣きながら書いていたりするんですけれど、あ、おれいい歳して何ないてんだろう、と客観的な自分もこっちにいてとかね。」

イチロー選手も同じことを言っていたが「集中状態の自分とそこにいる自分を客観視しているもう一人の自分」という表現がここでもでてきた。自分ともう一人の自分を感じるキュービタルアイの存在。これはアスリートに限らず何らかのカタチでクリエイティブに関わる人々には顕著にみられる感覚なのだろうか。非常に興味深い。

話をきいていて思ったのだがこの人は「小説・物語ラブ」な人だと感じた。本人も次のように語っている。

「いろんなジャンルの小説を書いてみたい。といのは小説が持っている面白さの核があればどんなジャンルでも書けると思う。」

なるほど。確かにそうなのだ。面白さにはいくつかの核、パターンが存在する。そのパターンを内包していればテーマや分野に関係なく面白さはつくりだせる。「ヒカルの碁」がいい例だと思う。子供達は囲碁が面白くて読んでいるわけではない。しかし囲碁でも面白さは作り出せる。「ヒカルの碁」の場合は囲碁がつくりだす「対戦」という構造をベースにストーリーが成立しているのだがその根幹にあるのは競技を媒体とした人間の物語である。同じ構造はあらゆるスポーツ、試合もので成立している。これは一つのパターンで物語が描いているのは関係性の変化に起因する人の心の変化であり、舞台やテーマはそのための手段・媒体なのだ。そしてこう続ける、

「自分はエンターテイメントを信じています。難しくて立派なものよりも面白おかしいもの程、人に影響するんです。面白くていつも近くにいてくれるものの方が強いので。だからエンターテイメントの鬼になる、みたいな方がカッコいいと思っています。」

これなのだ。エンターテイメントへの信頼。それが一連の作品に通底する石田衣良っぽさの源流であり僕が「爽やかすぎる」と感じる何かの正体なのだろう。僕が信じるエンターテイメントのカタチと彼が信じるエンターテイメントのカタチは同一ではない。
だからこそ僕はいまの石田衣良の作品のその先が見たいのだ。

テキストから流れてくる言葉の旋律をただなぞるだけではなく読み手の介入によって変化する可能性を持つテキスト。それが僕が信じるエンターテイメントのカタチである。だからこそどの作品にもそれを期待してしまう。

それは自分にとって「オヤ!?」という感覚であり「フー」というため息であり、「やったよ、やりつくしたよ」という満足感を感じるにはどうしても必要な過程なのだ。

■小説家の力をみた、最後にもらったいい言葉

石田衣良の作品はエンターテイメントとして面白さの核を持つ小説である。人の感情をドライブさせる構造を内包していないかぎり作品が多くの人に受け入れられることはない。
収録が終わった楽屋で彼がコメントするシーンがある。番組では最後の言葉なのだがこれがなかなか響いてくる上手な言葉だったので紹介しておきたい。

「カメラっていいですよね。(石田の趣味はカメラ。カメラを構えて話ている)こんな小さなガラス玉を通して世界を全部写すことができるんですよね。不思議ですよね。でも、人間の心もこういうガラス玉みたいなものだと思いますよ。小さいけれど、世界を全部写すことができるんですよ。そしてなるべく曇りがない方がいい。うん、こというね~。」

いやはや、さらりといい言葉を使うものだなと感心しきりであった。
小説家、恐るべし。
言葉の使い手こそ現代の魔術師に違いない。

■参考図書
池袋ウエストゲートパーク
池袋ウエストゲートパーク
石田 衣良
波のうえの魔術師
波のうえの魔術師
石田 衣良
4TEEN
4TEEN
石田 衣良
1ポンドの悲しみ
1ポンドの悲しみ
石田 衣良

投稿者 TKM : 22:16 | コメント (3) | トラックバック

2004年05月27日

[読むテレビ] イチローx北野武・キャッチボール~9人のイチローと泳ぎが上手な魚の話

■9人のイチロー

「オイラ、よく考えるのはさ。野球で9人、同じ選手だったら一番誰が強いだろうって。」

昨日観たBS-iの番組の冒頭の一言である。
北野武さんはさらりといっていたが僕は随分とショックを受けた。
野球という競技を上記のような仮定で考えたことはこれまでなかった。

人はひとりひとりが個性を持っている。
野球もそれぞれの個性を活かしたチームが強いという前提で観ていた。。
しかし、全員が同じ人間で野球チームをつくりプレイしたら…。

「長嶋さんさんは強いけど3位くらいだと思うんだよな。オレの中ではイチローさんが一番強い。」

「ボクはピッチャーもできますからね。」

二人の対話はこんな風に進んでいくのだが僕は上記の言葉をきいてからしばらく9人のイチローがプレーするチームと9人の長嶋さんがプレーするチームの対戦のイメージが頭から抜けなかった。

笑うというよりもどうなるのかがイメージできないのだ。
長嶋さんの方は全員が全員、思いっきり走っていってファインプレーするか大ポカしているんだろうし、イチロー側は全員がそつなく振る舞っている。どちらが面白いかといったら観ている分には長嶋チームの方が面白そうだが、その面白さは長嶋チームだけで成り立っているのではなく、イチローチームと対戦しているというコンテクストによって成立している面白さである。

■面白さの秘密

面白さは単独では存在しているわけではなく何らかの関係性の上に成り立っている。

上手な物まねはお腹が痛くなるくらいにおかしい。
それならば本物が登場したらさぞかし面白いはずだ。
ところがいざ本物が登場しても少しも面白くない。

物まねの面白さとは本物から特徴的な一部分を取り出すことで成り立つ面白さである。
そこで重要なのはどこを取り出すかという部分でそれはその人を最も特徴づけているポイントでもある。
ここに表現の本質があると僕は考える。
つまり表現とは削ることなのである。

世界は言葉によって分節されることでその姿をあらわす。
言語以前の世界に切れ目は存在しない。
虚無の無ではないがのっぺらぼうの無である。

それを分節すること。
無を有に変えること。
それが表現の根本にはある。
地と図の関係関係である。

■マイナスのないプラスは存在しない

削ることは必ずしもマイナスではない。
削ることによって明らかになる形があり。
形がそこに形として存在するには形を取り囲む無の存在がなければならない。

人の生成も同様のプロセスを経る。
人の指は塊から生えてくるのではない。
塊から細胞が消滅することで指の形状ができあがっていく。
これは興味深い現象である。

同じように人が個性を発揮するのは個性が伸びていくのではなく別な部分が後退することである部分が突出しているように見える、というのが正しい。

イチロー選手の場合も非常に器用な選手という印象が強いが逆を返せばエンターテイメント性には欠ける。激しい感情表現があるわけではない。(本人の弁によれば内面は違うそうである)。逆に長嶋選手の場合はエンターテイメント性が突出しているように見えるがその行動指針を言語化、理論化するという面ではイチロー選手には及ばない。

だから二人のチームが対戦した場合はそれぞれの特性がより強く印象づけられることになる。

■原因があるから治せる

「大リーグでは自分の形を持っていないとつぶれますね。」

イチロー選手は大リーグでプレーするまでに徹底的に自分の形をつくることを目標にしたそうである。

自分の形があれば何かがうまくいかないとき、それが何故うまくいっていないのかその原因を形を手がかりに探すことができる。しかし、自分の形がないと何が原因なのかを知ることはできない。

原因がわからないとどんな名医でも病気を治せないのと同様である。だからまず自分の形、自分の野球の理論というもののつくりこみを行ったのだそうだ。

これは野球に限らずビジネスや学問、何をやる上でもあてはまる方法論ではないだろうか。いったい今、自分はどこにいるのか。何をやっていてどこに向かっているのか。それがわかれば方法は自ずと明らかになる。

ロールプレイングゲームをやったことがある人ならわかると思うがダンジョンに迷い込むとそこから出るまでにかなりの時間を必要とする。その最大の理由は現在位置を知ることができないから当てずっぽうで迷路を進むことしかできないからである。

ところが自分の位置を示すコンパスというアイテムを入手するとそれまで四苦八苦していたダンジョンの攻略が驚くほど簡単になる。

これと同じで実際の生活でも自分の立ち位置がわかれば次に何をすればいいのかを知ることはそう難しくない。何をやっていいのかわからず、結局何もせずにいてしまうのは自分の立ち位置がわからないからであり、それが迷いの最大の原因なのである。

■一つの瞬間に二つの脳で考える

「イチローさんなんかの場合はさ、一つの瞬間に二つの脳で考えてるんじゃないかと思うんだ。打ってる自分とそれを向こうから見てる自分と。オレなんか漫才やってる頃さ、ガーっと受けるとそれはそれでウケターっていう自分があるんだけど。頭のこっちの方ではあ、いまウケタな。じゃ、ここでこのギャグかましてやればガっとはまるな。とかさ。同時に二つの自分がいるんだよね。」

同時に二つの自分で考える。
まさかキュービタルの概念が登場するとは思っていなかっただけに驚いた。或いはこの世界の構成がそもそもキュービタル的なのだから当然と言えば当然ともいえるのだが。キュービタルとは「量子的」という意味の造語である。名付けたのは石井威望先生である。
世界とはここからはじまって向こうに進んでいくという唯一一本の矢、シングルリアリティではなく、何本もの矢が平行に並んでおり、それらは確かにそこにあるのだけれど、見ようとするまではその姿が見えないパラレルなリアリティによって構成されている、という考え方である。

上記の例で言えば打席で打っているイチロー選手はそこにいて自らもそこから見ている。しかし、同時に同じ姿をスタンドから見た場合は全く違う自分の姿があり、その視点は確かにそこに存在している。仮にスタンドからの視点・映像をダイレクトに投影できる眼鏡サイズのメッドマウンディドディスプレイを装着して打席に立った場合、立っている自分の視点とそれを遠くから見ている自分の視点が共存する。その場合、パラレルに存在する二つの視点を同時に体験していることになり、主観と客観が混在するため情報のもつれが生じる。


トップアスリートやトッププレイヤー達はこのもつれを意識的につくりだす能力を有していて、その感覚がフィードバックされることで極限のプレーが可能となるのではないだろうか。

作家が作品を書く時にも同じような意識的にパラレルリアリティを顕在化させフィードバック作業を行ってるように思う。

書くという行為の時点で書かれた部分より先のテキストはまだ完成していない。
しかし、テキストを書く時、書いているテキストの先にあるまだ存在しないテキストの存在がいま書いているテキストへ影響を与えている、という感じがするのである。

まだ理論化されていないがこの感覚の理論化が進めば、今後様々な分野で応用され、個人のパフォーマンスを最大化する一つの方法として確立されるのではないかと思う。

これは僕の個人的な推測だがコンピュータやネットワークというインフラもそこに向かって発展しているような気がする。Blogもいってみれば一つの事象に対する複数の視点の共有をプリミティブなレベルで実現している事例ではないだろうか。

※陽明学でいう「知行合一」もキュービタル感覚と似ている。考えている自分と考えていない自分がパラレルに存在している。

■泳ぎが上手な魚はいない

「天才って言われ方をよくするんですけれど僕は自分が野球の天才だと思ったことは一度もないんですよ。」

「それはあれだね、誰も魚に泳ぎが上手だねっては言わないじゃない。それを人間がやってるからさ上手だとか下手があるわけで。だからその商売の魚にならなきゃダメだよね。」

なるほどうまいことを言うなあと思った。
やまけんの「食い倒れ」にしても僕らが見るから「あれだけ食ってよくまだ食えるよな。しかも毎日だもんな。すごい。」となるけれど食べている当人はいたって普通である。いつも食べるのが楽しくて仕方がない様子だ。僕だったらあそこまでいったら仕事になるけれどやまけんにとってはあれが当然なのだ。つまりやまけんは「食い倒れの魚」になっているわけだ。

それを考えると自分は何の魚になっているのだろうか。
つい最近までは「自分はこれがやりたい」という目標もなかった。
最近というよりもここ10年くらい具体的にやりたいことなど何もなかった。

自分は何が好きなのか。
上手い下手にかかわらず何をしたいのか。
全くわからずにいたけれど実はずっと以前からわかっていたようにも思う。

■自分は何の魚だろうか

僕がやりたいことはつきつめていくと一つだけである。
僕は「考察」したいのである。
もっと大きくいうと「知りたい」という想いが行動の根本にある。

感じることも大切だし、実際にやってみることも大切だ。
人と話すことも大切だし、楽しく生きることも大切だ。

しかし、何の為にそれをするかといったら僕の場合は「考察」するために他の全てがある。いいか悪いかはわからない。わからないけれど、僕にとってあらゆるものは「考察」の対象なのだ。何かに集中うしていて、それ以外のことは全て頭から消しとんでいる時でも同時にその状態が考察の対象なのである。あらゆる物事のあらゆる瞬間が考察の対象として存在し、それを言葉にしていく時間がすきなのである。

考察者という職業はまだないけれどスキルとしての考察力は生きる上で有効だと想う。
例えば感情の暴走というのがあって、感情が高まるとその感情によって行動してしまうことがある。感情が行動のトリガーとなるのである。時として感情を原動力とした行動は思いもよらないパワーを生み出す。しかし多くの場合、感情による行動は感情が強ければ強いほどその反動も強い。

だから感情の高まりによる行動を上手に活用するには「一つの瞬間に二つの脳で考える」必要がある。そうしないと反動によって行動が平均化されてしまうのである。
そしてその為のツールが「考察力」だと僕は考える。

考察は脱構築のプロセスである。
ある行動や現象、感情をそれらの渦中にいながら同時に別な視点で捉える技術である。
これができるようになると偏見がなくなり、自分の位置がより正確に把握できるようになる。そして自分は何者なのか、どんな人間なのか、が少しづつわかってくる。それがわかってくるから、自分はこれからどうしたいのか、どこに行きたいのか、何をしたいのか、も明確になっていく。と同時に、自分を取り巻く大きな流れの存在にも気づく。

次は自分が流れのどこにいるのかを考察していく。
考察の伴わない行動から自分の位置をわりだすことは出来ない。
それは永遠に迷い続けることを意味する。

人生が永遠ならば偶然を待つこともできるが人生の時間は有限である。
その時間の中で自分が何者なのかを知らずに生きることは方位磁石や航海法を持たずに海を旅することに等しい。

確かに生まれそして死んでいくという道の最初と最後は決まっている。
何もしなくても何をやっても最初と最後は誰しも同じである。

映画も小説も旅もはじまりがあって終わりがある。
どんな映画を観るか、あるいは出るかは個人の自由だがどうせならば僕は面白い映画を観たいし出たい、と思う。

そのためには自分がどこにいるのかまずはそれを知ることからはじめよう、というのが僕の考えである。

「イチローx北野武」の対談から随分話題が膨らんでしまったが二人の対談にはそのくらいインスパイアされる要素が詰まっていたし、話を聞いていたら元気が出た。

最後に気がついたことだがイチロー選手はとても綺麗な言葉を使う人だった。
イチロー選手に限らずトップアスリートはみんな使っている言葉が違うように感じる。
言葉が人をつくるのか人が言葉をつくるのか。
興味深いポイントだと思った。

◆参考図書・DVD
イチロー×北野武 キャッチボール
イチロー×北野武 キャッチボール(DVD)

イチロー×北野武キャッチボール
イチロー×北野武キャッチボール(書籍)

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2004年05月21日

[読むテレビ] 日本最高の鮨職人 ~「すきやばし次郎の365日」を観て

■世界最高の鮨を握る店

「次郎ほど清潔な店を知らない。魚のにおいのしない唯一の鮨屋だ。」

フランス料理界の重鎮ジョエル・ロブションはすきやばし次郎を訪れた際にそう言って感嘆したそうである。店主の小野二郎さんは「日本で一番うまい鮨をにぎる」と言われている。

すきやばし次郎の外観に派手さはない。
店は雑居ビルの地下にある。
カウンターとテーブルが少しの小さな店構えである。
しかし全てが徹底している。

徹底した仕込みをみせられると最低20000円からという値段もそうズレたものではないと思えてくる。彼が握る鮨と僕たちが書いたりつくったりする企画や原稿を比較してみるとページあたりの原稿料と彼の握る鮨の値段はそう変わらない。

他の食の値段と比較するから相対的に高いと思ってしまうがある種の知的労働の成果としてみた場合、20000円の握りが必ずしもべらぼうに高額な商品というわけではないのかもしれない。

それほどのノウハウと手間が握りのひとつひとつに込められている、と僕は感じた。

■回転鮨も美味しいですよ

「回転鮨。そうね、あの値段であれだけのものを提供できるってのは美味しいですよ。いいじゃないですか。グルグル回って、自分の好きなものを食べられて。あんないいものはない。私も食べるもん。美味しいですよ。」

二郎さんはそういって笑った。

「回転鮨屋さんにお酒飲みにいく人はいないでしょ。みんな鮨を食べにきてる。うちとおんなじですよ。」

すきやばし次郎は鮨屋である。
飲み屋ではない。
より「うまい鮨」を握ることへのあくなき探求心。
それが次郎さんの原点である。

すきやばし次郎の店内は驚くほど静かだ。
客はある種の緊張感の中で鮨を味わうことに専念する。

「どうやったらもっとおいしいものをお客さんにだせるか。それだけですよ。高いのはしょうがない。値段を下げるつもりもないです。だってネタを下げるわけにはいかないんだから。」

■すきやばし次郎の秘密

僕はそれほど多くの鮨屋にいったことがあるわけではない。
それでも「これはうまい!」と思う店もあればそうでない店もある。
その違いはどこにあるのだろう。

味なのかネタなのか姿勢なのか雰囲気なのか。
様々な要素の組み合わせなのか。

味の違いもあるだろう。
しかしそれだけだろうか。

おそらくすきやばし次郎には他の鮨屋とくらべて絶対的に違う部分があるに違いない。
それは何なのか。

「おやじさんの存在感。それが一番の違いなんだ。おやじが握るかどうか。つまりそれなんだな。違いは。」

次郎会とよばれる全国で「次郎」を名乗る弟子達の会であるお弟子さんがいった言葉である。

すきやばし次郎が次郎たる所以。
それは「二郎さん」が握るかどうか。
違いはただその一点に集約される。

そこに僕は世界の秘密を見た気がした。

優れた技術を持つ画家ならばピカソの作品と寸分違わぬ絵を描くことができるかもしれない。しかしそれは贋作であってピカソの絵ではない。そして贋作と真作の違いは誰が描いたのかというただその一点に集約される。

それと同じことがすきやばし次郎の鮨にもあてはまるのではないだろうか。
二郎さんが握るからすきやばし次郎の鮨は日本最高の鮨なのであり、全く同じ味を再現することができてもそれは二郎さんの鮨ではない。味は全く同じであってもである。
おそらく職人とはそういうものなのである。
その人しかつくることができないから職人は職人たるのではなくその人がつくるから職人は職人たる。
僕はそう思うのだ。

上か下かではない。
その人が介在することで全てが決定づけられる。
これは量子力学において観察者の「観る」という行為が現象そのものに影響を与えるのと似ているのではないだろうか。

おそらく人が介在する事象のほとんどは関連性の網の目によって互いに関連しあうためある事象がそれだけで単独で存在することはできない。つまらいあらゆる事象は何者かと無関係ではいられない。特に意味や意志、感覚といった現象と非現象の狭間にある概念においてはその傾向が顕著だと思う。

最終的にある現象に最も影響力をおよぼすものは現象や事象そのものではなく現象の向こう側にあるひとつの要素なのだ。

日本最高の鮨の秘密は技術ではなく「次郎さん」という職人の介在によってはじめてつくりだされる。それは現象の向こうがわにある関係性によってつくりだされる価値であり情報である。

※うちの党首のやまけんも以前おなじようなことを言っていたのを思いだした。「これはこういうものなんだと知っていること。それではじめて感じることができるうまさもある。オレがつくりたいのはそれなんだ。」と。つまり党首が求める「うまさ」「食い倒れ」とはおいしい食や料理をみつけることではなく、それらを「感じる」ことができる食のコンテクストを自分の中に構築していくことなのだ。

■あたり前のことをやる

昨年の春にオープンしたすきやばし次郎六本木店の一周年目の日。
次郎さんは店を訪れた。
店は銀座の店と同じ寸法でつくられている。

「ここでいいということはないんですよ。このレベルまでいったでもそれをキープするではだめなんです。そうじゃない。いまここにいたら来年はもっと先へ。次はもっと先へ。それを重ねていく。そうやってのぼっていく。それだけなんです。」

あたりまえのことをあたりまえにやる。
ただ「よりおいしい鮨」をつくることを求め続けてきた。
それだけのことだと次郎さんはいう。

小野二郎さん78歳。
日本最高の鮨職人は今日も己が求める最高の味を求め握りつづける。

◆参考URL
NONFIX 日本一の鮨を握る男~すきやばし次郎の365日

すきやばし次郎―生涯一鮨職人
すきやばし次郎―生涯一鮨職人
すきやばし次郎 旬を握る
すきやばし次郎 旬を握る
里見 真三
至福のすし―「すきやばし次郎」の職人芸術
至福のすし―「すきやばし次郎」の職人芸術
山本 益博

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2004年05月20日

[読むテレビ] デューク更家と魔性の女

■魔性系?

「女性には癒し系、パワー系、そして魔性系の人がいるんですよ」
デューク更家はそういって隣に座る女性に視線をうつした。
女性は少しはにかみながら。
しかししっかりとデュークを見つめる。
意志を感じさせる目である。

女性の名前は更家由美子。
デューク更家の奥さんである。

情熱大陸やグレートマザー物語などいくつかのドキュメンタリー番組でデューク更家が取り上げらた際、奥さんが登場する場面もあった。しかし、あくまで主役はデュークであり奥さんがどのような人であるかにはほとんど触れられていなかった。

ちらっと見ただけだったがカッコよさそうな人だなとは思っていた。
今日の番組をみて「なるほど」と思った。
デューク更家の奥さんは「女っぷり」の人であった。

■デュークのプロポーズ

デュークと知り合った頃、由美子さんはデュークの知人の会社の社長秘書をしていた。
その当時デュークは大阪でも有名な遊び人だったそうである。朝まで遊び歩く毎日が続いていた。そんなデュークを由美子さんは警戒して3~4年観察していた。そうするうちに由美子さんの中にある思いがわき上がってきた。どうしてもデュークに一言いっておきたい、いや言わなければならないそう思うようになった。そしてある夜バーにいくとデュークがひとりで飲んでいた。由美子さんもひとりだった。
言うならいましかない。
そう思った由美子さんはデュークにこう切り出した。

「時間とってもらえますか。話したいことがあります。」

デュークは

「いいよ。じゃあ、夕飯でも食べにいきましょうか?」
「いえ、ご飯はいりません。」
「じゃあ、飲みに行きますか。」
「いえ、お酒もいりません。」
「は?じゃあなに?」

それから日をあらためホテルのロビーで二人は再び会った。
食事もお酒もなしである。
ホテルのロビーで由美子さんは延々とデュークに彼女の思うところをプレゼンしたそうである。

「この人は優しい人でその優しさはなにも女の人に対してだけというわけじゃなくて。男性にも年配の人にも子供にも優しくて。そういう気遣いのできるところがあなたの良さなのに何故あなたは朝まで遊んでるだけなの?パワーを使う場所って他にあるんじゃないの?それだけしかできないの?って延々プレゼンしたんです。」

由美子さんのプレゼンをじっと聞いたデュークはふっと由美子さんの方へ向き直りこういった。

「結婚してくれませんか」

それがデュークのプロポーズだった。

■ウォーキングドクター誕生

ウォーキングドクターとして全国を飛び回るデュークだがそこまでの道のりは決して楽ではなかった。そもそもデュークがウォーキングの指導を始めたのは彼の母の死が原因である。病床にあったデュークの母は近くの砂浜を歩いて体力をつけようとした。ところがこのウォーキングが原因で膝を痛め車いすの生活を余儀なくされまもなく他界した。

最愛の母を失ったデュークはやる気もパワーも失った。
生活が出来る程度に、時々、仕事をする以外は子育ての日々を送った。
そんな日々が2年続いた。

そんなある日、由美子さんから「女性のウォーキングを指導して欲しい」という相談を受けた。ファッションショーのプロデューサーをしていたのでモデルの女性を育てる経験はあった。しかし華やかなファッションショーの舞台をやってきた自分が素人の女性を指導することには抵抗があった。しかし奥さんの熱意にまけて渋々レッスンを始めたデュークだったがいざはじめてみると思いのほかそれが自分にあっていることに気づいた。

「これでやってみるか。お母ちゃんが死んだのももともとは歩き方が間違って膝を悪くしたせいだし。もし、もっといい歩き方を知ってたらお母ちゃん死なずに済んだかもな。」
こうしてウォーキングドクター更家がスタートした。

■魔性ではなく「引き出し力」

「でもね彼女はすごくポイントを押さえるが上手なんですよ。オレがこういう性格なんでどこをついたら一番効くかってのがわかってるですね。はっぱをかけるのが上手というか。一番、きついところをずばずばついてくるんですよ。でも責めてるっていうんじゃないんだけど。ずどーんと落としてぐーっと押してと。」

笑いながらデュークは語る。もともとが遊び人のデュークである。おとなしく結婚生活を送っていたわけではない。遊びもした。しかし由美子さんは一度もそのことでデュークを責めたことはないそうだ。

「この人はいつか化ける。そう信じていたんです。これだけで終わる人じゃない。絶対やるはずだ。」

そう話す由美子さんの目には「深さ」と「強さ」があった。
信頼とも依存とも違う。
しっかりとした芯の強さである。
しかしそれはしなやかな強さである。
女性だけが持つ強さといったらいいのだろうか。
時々、夜の街ではこうした強さを持つ女性に会うことがあるがその種の強さである。

女の人の魅力とはデュークのいうように「癒し系」であったり「パワー系」のようにいくつかのタイプに分類される。あるいは幾つかのタイプが組み合わさっている。どのタイプの女性とどのタイプの男性が相性がいいという相性も確かにある。

これもタイプなのだが女性には男性の持つ力を引き出す側でその力と魅力を最大化するタイプの人もいる。特に夜の街にはこういうタイプの女性が多い。

僕は男性なので男性の側からという書き方しかできないがおよそ世の人々が銀座に集うのはこの種の魅力、自己重要感を高められることへの渇望と無縁ではない。男性にとって「力を引き出される」ことは心地よさを超えて心に響いてくる。

人がおいしさを感じるとき料理そのものが味に与えている影響は3割だそうである。
残りの7割は個人の気持ちに依存しており、どんなに美味しい料理でも最悪の気分で食べるならば決しておいしいとは感じられないのだそうだ。

気持ちがいいと日常の風景も悦びに満ちたものに思える時がある。いいことがあった後は空を見上げただけでもこの上ない嬉しさを感じることもある。環境は変わらないのに自分が変わると世界が変わって見えてくるのである。

これを作り出せる力。
それがデュークのいう「魔性」であり言い換えるならば相手の潜在能力を最大化し一つ上のスパイラルへとステップアップさせる「引き出し力」である。

「私は彼がいつかやるとは信じていましたがまさかここまでウォーキングをつきつめるまでになるとは思いませんでした。結局は彼に勝てないんですけれどね。それがわかってるからできることもあります。」

最後にそう語る由美子さんの目はやはり「深く」「強く」その隣で笑うデュークは本当に嬉しそうだった。

◆参考URL
NHK今夜は恋人気分・とっておき夫婦物語HP
デューク更家公式HP

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投稿者 TKM : 01:28 | コメント (4) | トラックバック